ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

幽玄にして有限

2017-04-16 | 雑記
子供のころ、週刊少年ジャンプで連載していた、『新・ジャングルの王者ターちゃん』というのがあった。

ターちゃん、というのはターザンのパロディな存在で、元々アフリカにいた存在ではないのだが、子供のころに置き去りにされた野生児というわけである。

ストーリーが進むにつれて、実は某の血筋だとかなんだか出てきたりする。「新」がつく前のギャグ漫画状態の時、実はどこかの王族の子供だったとか書いていた気がするのだが、そこは忘れよう。

その中で、中国拳法の使い手が登場する。最初は戦って、後に仲間になる、という流れだったと思われる。細かいことは忘れた。

拳法、というわけで、気功を使う。体内で練った気を攻防に使用するという、色々なところで見られるものであった。

その弟弟子だかも同じく気功を使うが、こちらはターちゃんの奥さんの怪我だかを治したりと、扱い方の違うキャラだった。


さて、そのとあるストーリーで、実はターちゃんはどこその吸血鬼の血筋じゃなかろうか?という展開があり、その家系の人物達に付けねらわれたり助けられたりするというのがある。

創作でよくある吸血鬼というやつで、血を吸われると吸血鬼になるのだが、あろうことかターちゃんの弟子と、仲間の拳法家がなってしまう。

夜は吸血鬼の人間離れした能力で、普段では扱えない能力が開花する、というシーンがあった。

件の拳法家は、普段は体内で自力で練った気を使う。これを「内気功」という。

吸血鬼状態の時は、普段使えない外気功が使い放題だ、などといいながら敵をなぎ倒していた。

その「外気功」というのは、『ターちゃん』の描写からすると、自分の身体の外、つまり、大気だとか地面からの気を集めてそのまま使う、というものだった。

拙が子供のころに読んだときは、「へー、すごいなぁ」と思って読み流していたものである。気功があるとかないとかは考えずに。

後年、少年サンデーで連載されていた拳法漫画、『拳児』というのを読んだところ、「内気功」については呼吸法等で体内に練り上げる、というのは同じだったのだが、「外気功」が違った。

ジャッキー・チェンのカンフー映画などで見たことがあるかもしれないが、砂に拳を突っ込むだとか、ああいう身体を硬くするための修練を「外気功」というのだとか。

『拳児』のキャラが簡単に例えていたが、筋トレが「外気功」になるのかな?というと、師範が「その通り」と答えていたものである。


いきなり話が飛ぶが、以前、「カルシウムを取って、骨粗しょう症を予防しましょう」といわれたおばあさんが、せっせと取っていたら、見事骨粗しょう症になった、という話を書いた。

記憶違いでなければ、これは野口整体関係のHPで見た覚えがある。でなければ、『整体入門』だったかもしれない。もしくは・・・?まあいいか。

つまり、外気功もカルシウム不足だと信じ込んで取っていたおばあさんも、同じく気が身体をそのように作り上げているのだといえる。

つまりと言われてもよくわからんと思うが、古来より日本でいうように、「病も気から」である。健康も気から、となる。

『ターちゃん』の描写は間違えているのではなく、端的に判りやすく描いていたのだろうなと、今になって思ったわけである。


なーんでそんな話を思い出したのかというと、最近は余り飯を食べていない、という風に書いてきた。

食えないわけでもないし、食べると結構食べるのだが、間隔がおかしかったり、食べているものがおかしかったりする。

栄養学でいうところのバランスなんぞ崩壊しているわけである。それでいて、やはりおかしい。

上半身を鏡に映して見ていた所、しばらく前のかなりやつれたころより筋肉が膨らんできている。

筋トレをしているわけではないので、歴然の差があるわけではないが、腹に力を込めると、腹筋の形がしっかり出ていて、前より膨らんでいる。

この体型は若いころからさして変わってないのだが、歳食って、その上食事がデタラメになったというのに、若返っているというような状態になっているのである。

知ってか知らずか気を練るとかいうことをやっていたら、外気功にもなっていたというわけである。

日に日に人間離れしていくような気がしないでもないが、やはり、夜勤明けで酒呑んで帰ると、数時間はぐっすり眠れるらしい。まだまだ人間は捨ててないようだ。

何もないと、いつまで経っても眠れなくて、外で鳥がさえずっても寝た覚えがほとんどない、というのがザラだというのは変わりなしだが。


さて、冗談はさておき。上の内容が冗談だというわけではないが。


毎日のように眠れない日々を悶々と過ごしてみたりしていたある日。三月だったと思う。

休みの日で、日没から無理矢理寝てみたら少し眠れたのはいいものの、日付が変わる前に目が覚めていた。

とはいうものの、起きて何かしようという気もなかったので、お茶飲んで寝なおしたか。すぐに眠れないのは仕方ないとはいえ、目を瞑ったりまた開けたりを繰り返していた。

日付が変わったくらいだったか。目を瞑るとよく、Windowsのメディアプレイヤーとかで、「視覚エフェクト」とかいう項目なんかをつけて音楽を再生すると、サイケデリックとでもいうのか、妙な波形を映したりするのがあるが、ああいうのが見れる。
眠れないときは子供のころからそれを眺めて過ごしていたものである。しかし、その時は違った。

普段は平面状に見えたものが、やたら立体的に、しかも規則的に動いている。

具体的に書くと、仰向けで寝ていた状態で、天井の蛍光灯辺りのところに、天空の城ラピュタの黒い石みたいなのに刻まれたような模様の四角形が光っていて、そこから白い羽のようなものがヒラヒラ落ちてくる。

「これはおかしい」と直感的に思い、かっと目を開くと、その光景が目を閉じていた状態と同じに続いているのである。

なんだこれは?と思い、しばらく眺めていると、一際大きな羽が落ちてくる。白色ではなく、茶色っぽい感じのものが、同じところに落ちてくる。

先と思しきほうは白く、後は狐みたいな色をしていた。顔に落ちたと思ったら、また上から降ってくる、というのを何度も繰り返していた。

しばらく見ていると、上から降ってくるのではなく、顔の横で振り上げては降ろし、とやっていたらしい。

そのころには、羽というより尻尾のようにも見えた。鳥の尾羽とでもいうところか。

仰向け状態の右の方から、何かがその尻尾らしきものを、拙の顔に当てている。犬が近くで寝ていて、尻尾だけ振って人に何かアピールしているような感じだといえばよかろうか。

「そこに・・・何かいるのか・・・?」と感じ、ひどく怖いような気分になったのと同時に、「これが先日読んだり見たりした、魔術でいう精霊とかいうやつか?なら、本当にいると思えば・・・?」などと考えたら、顔に当てていた尻尾が、幻覚どころじゃなく、本当に当たっているように感じる。
まあ、それだから幻覚なのかもしれないが、とはいえ、いったいそこには何がいるのか?と、恐る恐るそちらを窺がおうとしたが、見えない。

その時受けた感覚の流れを書いたが、当時の時系列ままかは定かではない。そこに何かいる?と感じたくらいか、尻尾の先を見ようとしたくらいだったか。

何か身体を貫かれるような感覚が走った。貫かれた瞬間は、何が起こったか判らなかったが、なんとなく気持ちよかったように思う。

バタイユ著『エロティシズム』という著作で、とある修道女の神秘体験の引用がある。なんたらのエロティシズム、という三部目辺りかにあった話で、修道女はその体験で、心臓を天使だか神に貫かれ、恍惚を覚えたとかいう風に書いていたとかいう。

ああ、これが名前忘れたけど、バタイユの言っていたなんたらのエロティシズムなんだなぁと、後になって思ったものである。

尻尾で叩いても反応ないので諦めたのか、尻尾の持ち主は消えた。上から降ってきた羽根も消えたのだが、しばらくしてからもう一度目を瞑ると、白い羽がまた出てきた。

今度は昇っていくのが見えた。目を開いても続くところも同じ。「出てきたらちゃんと帰っていくなんて、律儀な奴らだナァ」などと、暢気なことを思いつつ、見送ったものである。

さて、試しに視線を横にしてみたら、やはり目に映ったものらしく、見ている先の状態で上に昇っていく。

そう書いたが、やっぱりちょっと自信がなくなってきた。何にせよ、昇っていったのは見えた。


それから一ヶ月以上経つが、同じような体験は起こっていない。あの時と同じような状態で過ごしてはないせいだろうと思われる。


さて、もう一つ。上記のよりはまだぼんやりしている内容で、短いが、白昼に、といっても時刻は夜だが、体験したものである。


夜中上がりの仕事の終了時刻となり、着替えて事務所内の椅子に座っていた。

泊まりのメンバーは丁度カウンターにいて接客しており、拙はぼんやり無人の事務所内を眺めていた。

先日来、書いたり喋ったり(聞いている人は少ないが、前回のラヂヲでも)しているとおり、オーラだとか言われるものが見えるようになった。

どうも、昔から見えていたらしい。空間を凝視すると、細かい粒が集まっているのが見える、というのが多々あったものである。

それはともかく、事務所のデスクあたりをぼんやり(オーラを見る感覚で、である)眺めていたら、デスクの辺りから青い煙状のものが見えた。
立ち昇ったそれは、すぐ上に書いたように、細かい粒が集まった状態だった。下の方は銀だか金のような色をしていたように思う。

すると、その青い煙状のものが、こちらに向かってゆっくり飛んでくる。ギョッとしたところ、傍らにあった空気清浄機が、座っていた時は何も反応しなかったのに、ホコリだかを検知した時の動作を始めた。

ぶつかる直前くらいで一人が事務所内に戻ってきたので、凝視状態を解除したのだが、見えてないだけで、こちらに飛び込んできたのは違いないだろう。

こちらも、その後なんどか同じようにしてみたが、同じ事は起こっていない。

気とかいうものならば、あれは拙が引き込んだというわけだろうか?その辺りは判らないが、色彩がハッキリしていて尚且つよく見える動きをしたというのは、初めてだった。


やはり、人間離れしているのだろうか?それとも頭がおかしくなったのか?

某漫画の爆弾魔なんぞは、明らかに尋常じゃない精神を持っているのに高級軍属で、それでよく精神鑑定を通ったな?と言われたところ、平然と答える。

「あんな形式的ものは、自分が異端だと理解していれば、常人の振りをしてパスできる」と。


拙が自身を異端であると認識しているのだ、というわけではない。

ああいう体験は、誰にでも起こりうるのだろうと思っているだけである。

誰にでも起こることを、さも神に選ばれただとか、正しい知識を得ただのとか、一般化というより押し付けがましくしている方がどうかしているのである。

そういう物言い自体が、上記の指摘の状態が一般的だとするならば、異端ではあろうが。

とはいえ、我が身に降りかかったという意味では、実に不思議で面白い体験だったとは感じている。


奇跡というのは起こるのではなく、そもそもが奇跡の上に成り立っているのが世の中だといえる。

自他に潜む奇跡を、お見逃しなく。人類としての時間は幽玄でいて、そして有限なのだから。


では、よき終末を。