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かつても今も

2017-04-05 | 雑記
今は恐らく一時期かもしれないが消えた、しつこいコメント氏は人類の姿にとらわれている、よくある一般人だが、それは宇宙人に操られているか、宇宙人でしかない、そのようなことを書いた。
そんな内容だったか?というとかなり掻い摘んだのでこうなっただけだが、宇宙人と会話しているような、まったくの噛み合わなさだったことだけはわかるかと思う。

さて、そんな宇宙人のことだが、わしも覚えがある。かみ合わない上に、相手を怒らせるだけの意味不明な言葉遣いで、という意味においてである。


若かりしころ、といっても十数年前の二十歳前後のことだった。


ある日、大学の同期とメールをしていたのだが、なんのやり取りだったかは覚えてない。

何かで面倒くさくなったのか、そのしばらく前に読み終わっていたオルテガの『大衆の反逆』の一説からか、そこから書いた西部邁から取ったような話をついメールに認めた。

確か、大衆と貴族の違いがどうこうで、貴族ってのは色々と背負っていかにゃならんので、大衆脱却には色々と背負わねばならんのだろう、といった具合だったと思う。

そうすると、「あんた、わたしをバカにしてんのか?」と返ってきたものである。

何か知った気になってつまらんことを言うのは、誰にでもよくあることだ、という具合である。

それが高じると、宇宙人になるというわけだ。人類は宇宙人に操られているというのは、冗談ではないのだが、上記の如くの冗談みたいなレベルから操られているといえよう。何を言っているのか判らないという人は、とりあえず、デーヴィッド・アイクの著作を読むべし。


何か究極のことを知った気になって、まわりを見下したり、または憐れみの情を装ったりするのは、どちらも同質のこと。

それはしばらく前に、人体の脳みその分類を引用して語ったとおり、脳の上っ面しか使ってないということである。

利他的な脳みそ(人間らしさを司る進化した部分)か、最低限の生存のための脳みそ(R複合体と呼ばれる原始的な部分)にある思考回路に沿った動きでしかないと。

そして、それらは表現が違うが流れが同じなので、どちらも吸血鬼、または近年の西洋側の研究名でエナジー・ヴァンパイアなのだと書いたものである。

最初に書いたのは、文字通り吸血されたらしもべか同質の存在になる、だったが、人の姿をしている以上は、皆なりうるし、上記に思い至ったので、どちらも同じだとした。

冒頭にも書いたコメント氏は、「仲間に引き入れるために、正しい知識を授けたかった」といっていたが、それはまさに吸血行為である。それは仲間ではなく、しもべを作りたかったといっていることに気づかない。

正しい知識とやらのしもべであり、そのしもべと化したものの仲間というわけだ。

人の姿を原因として考えると、こうなっていくのだろうといえる。結果と原因を取り違える話は、度々やったが、前回にも書いた。


ブッダは「己の見解を真理と見なしているに過ぎない」といった。だから、これがあれが真理だといって争いあっているのだと。

では、真理とは何か?となる。ブッダのいう事は単純で、「今を生きろ」であり、五感やそれに付随する感情に惑わされるな、である。

つまり、全ては幻なのだといっているのである。別に、物理学者が最初に言い出したわけではない。

アイクの言のほうが判りやすいだろう。人類は、人類という体験をしているのだと。

それは、映画を見ているのと同じなのだというわけである。これもアイクが言っていた例えである。


日本語訳で「五感を超えて」なんぞと銘打ったHPをやっていた割には、飯を食うときは舌鼓を打つというよりも、無上の喜びの中で貪り食っているような御仁がいたものだが、アイクが何を言っているのかは、翻訳しておいても理解する気がなかったようである。

ブッダの言うとおり、「己の見解を真理と見なしているに過ぎない」のである。


そんな彼らは、文明とそれに溺れる人類を見下し、「滅んでしまえ」と呪っていたという話は、何度も書いた。


しかし、森での生活というのは、現代で一般に流布されている知識だけでも遡りうる限りの、最古の文明ではないのか?

いかに現代の文明が唆されたものとはいえ、我々人類が作り上げた文明である。ついでに言えば、唆す以外に出来ないから、唆して作らせたというのだが、そこは措く。
唆したのは宇宙人である。アイク等を参考にどうぞ。しつこい宣伝だなぁ、これ。

現代文明を呪うということは、「文明を作り上げる人類という体験」自体を呪っているのであり、それは言うまでもなく、己自身を呪っているのである。

己自身を呪うというのはつまり、アイクの言うところの「精神と肉体の牢獄」に自らを繋ぎとめ続ける行為なのである。

森に入って現代社会のマトリックスを抜けたと思いたがるのは結構だが、それはかつてのマトリックスにはまり込んでいるのである。

上記の如く、自らを牢獄に繋ぎとめていることを理解しないからである。


例のHPの御仁は「アイクが言っている事は昔から言われてきたことに過ぎない」と語っていた。

現代に至っても、昔から言われていたことがそのまま当てはまるのが、我々現代人に過ぎないと、自らを語っていたのである。

己の見解を、つまり己の人類という体験を絶対視し、そこから物を決め付けるという、結果を原因と見なす愚を繰り返しているのだから。


アイクが引用していた物理学者の見解を改めて書く。

それは、物質というのは我々が思っているような確たる形のあるものではなく、靄だとか波のような状態で、これは人の意識で動きうる、と言っていたそうだ。

物質、つまり、全てだが、これは我々が作ったものなのである。唆されて作り上げたというのもあるが、どちらにしても作ったものである。

そういうことを言っているのに、「森に入るのが正しい」と、いくらでも作り変えられるし作り変えられてきたものにすがりつくというのは、「今を生きて」はいない。森に入った御仁たちは実際に「今を生きていると」語ってもいた。

己でもない過去にすがりつき、他人を見下す姿勢は、動物未満である。人類を唆しているという宇宙人の姿そのものである。

「正しい知識」、とやらについても同義である。己ではないものにすがりついて、他人を見下しているに過ぎない。

「今を生きている」などというのならば、その今は何かを自覚すべきである。それは、目の前にある対象でも己だと信じているだけに過ぎない肉体や精神ではない。

アイクが言う、「人類という体験をしていること」が今である。これ以外のものは幻だと自覚する以外にないのである。

だから、アイクの言っている事は昔から語られてきたことには違いない。違いないが、通じないのも同じだというわけである。

昔よりは通じているのかもしれない、とは感じているが、それはわからない。


世にあること起こっていることは、これを理解するためにあるのだと思えば、何をやっているからだとか、何を知っているからだとかの無意味さがわかろう物という訳である。


かつても今も「己の見解を真理と見なす」お遊びを、人類は続けているのである。


では、よき終末を。


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