今日はさっさと寝ようと思っていたのだが、寝る前にいつものゲームにログインしたら、いつもの仲間の一人が先にいた。
なんとはなしに、今のそのゲームの現状で、身近に感じてる問題などを話していた。
それで、つい思い立って書き始めた次第である。
別に以前書いたような、そいつの態度が悪いだとかいう話ではなく、話というか批評というかの締めに持ってくる命題である。
それは、「目的と手段の取り違え」というやつである。
ゲーム、所謂TVゲームだけでなく、ゲームというのは、売り手の文句どおりなら、電源つけてやるたんびに新しい話やら舞台やらが出てきて、ワクワクするものだ、と、どんなゲームでも似たり寄ったりの謳い文句で売りつけてくる。
形は違うが、そういうものである。
で、摺れた人々は、「見え透いたことばっかり」とうんざりしているわけである。また、どこか希望を見出せるところを感じると、「これはいいかも」と期待を胸に、当日はがっかりする、ということを繰り返している。
期待通りだったりすることもあるので、年中がっかりではなかったりもする。
ゲームとは言わなくても、他でも似たり寄ったりではある。政治にしろ、漫画にしろ、枚挙が面倒なので、世の中の流れにこういうのがある、と大雑把に理解していただければ結構。
そこは措く。本筋ではないが、近いところの話でもある。
ゲームの売り手の文句、と書いたところを思い出していただく。
約めていえば「新しい世界が開けますよ!」的な物言いである。
新世界・・・そうか!いや、そこじゃない。
ジャーナリストのウィリアム・イングドールは、「ニューワールドオーダーだとかいっているが、あれは新しくもなんともない。ただ一つの世界政府が昔のやりかたの規模を変えただけの支配をするので、ワンワールドオーダーが正確である」という風なことを言っていたが、つまりはアンシャン・レジームである。
横文字だらけで馬鹿馬鹿しくなってきたので、言ってしまえば旧態依然のけったくそ悪いやり方を名前だけ変えただけ、というわけである。
横道はそこまでにしておいて、つまりは、「新しいことなんて本当はない」という訳である。
それとゲームと何が?となるだろうが、もう少し続ける。
生まれて初めて双六をした人は、サイを振るのも珍しく感じるだろうし、ふざけたペナルティばかりの盤でも面白おかしくやるかもしれない。もしくは歯軋りしながらやるかもしれないが、ともかく。
じゃあ、新しく書き直した双六をしたら、その時も同じように感じるか?といったらそうなる人は稀であろう。
TVゲームとしてのゲームの方に話を近づけよう。
これも双六と同じだといえる。ペナルティの具合だとか踏む数が違うだとか、前はボール紙に書いたものだったが、今度は高級和紙で作りました!とかいう具合である。
最初は見た目が前より豪華になって、ものめずらしいなぁと思っていたが、結局派手になっただけの、以前やった双六と同じだった、と気づくに至るというわけである。
双六よりは多少複雑ではあるし、もっと単純かもしれんが、同じである。
ああ、勘違いしないように。ゲームは無意味だからヤメマショウ、という話ではない。
もっと言えば、人生なんぞ無意味だからヤメマショウ、というわけでもない。なにをいってる・・・?
さて、双六を前にして、有る人物は語る。
「何をしたらいいのかわからない」と。
ゲームの話で「何をしたらいいのかわからない」のネタは以前やったが、気にしないように。
双六は何をするのだったか。思い出してみよう・・・。そうだ!!
サイを振って、出た目の数だけ自分のコマを進める、だったな!
で、上がりを目指すというわけである。
たったそれだけのことである。
さて、双六を延々と、楽しそうに、もしくは黙々とやっている人がいる。
上がったら上がったで、またやり直す。もしくは振り出しに戻されて、最初からまたやる。
何ゆえあなたは双六をやるのか?そこに双六があるからさ!とかいう、どっかの山登りの人のもじりは却下。
例え話に例え話を重ねると訳がわからんだろうが、ここを踏まえて聞いてもらおう。
ゲームも双六も変わらん、と書いた。どのようなゲームも当てはまるかどうかはしらんが、ま、一つ。
プレイヤーが集まる街で同志を募って、もしくは一人で敵のいる場所にいって戦って帰ってくる、というのがその(わしがプレイしている)ゲームのメインである。というか、これしかないといえる。
キャラを着飾らせたり、収集したり転売したりしてお金を稼いだり、人とおしゃべりしたりというのもあるが、そのゲームの根幹は「出かけて戦って帰ってくるの繰り返し」である。
双六に準えると、サイを振って出た目の数だけ進める、というのが「出かけて戦って帰ってくる」なのである。
場合によっては少し戻されたり、振り出しに戻ったりするわけである。倒して帰ってくるか、倒されて帰ってくるか、と単純にいえばなる。
さて、時折よいマスにたどり着くことがある。ニマス進むだとかに到着したりするわけだ。
よいマスにたどり着くというのに準えると、倒した敵がたまに落とす、珍しいアイテムを手に入れたこと、ということになる。
さて訊ねるが。
双六の目的はなんだろうか。「二マス進む」に行き当たることだろうか?上がることだろうか?確かに、上がることは目的とはいえる。
実は、サイを振ることが目的ではないか?
猫にボールを投げ与えてみよう。猫にもよるが、なんだか熱心にボールをこねくり回したりする。挙句の果てには戦いのようになる。
子供が川原で小石を投げて、水面を跳ねさせる遊びをしている。
最初は跳ねることを珍しがっていたが、一人だろうと複数だろうと、そのうち「何回多く跳ねるか」になっていったりする。
猫はなんだか書いてて意味がない気がしたが、つまり、当初の目的がいつの間にか手段になったというわけである。
双六は上がりが目的ではあろう、といった。
では、「二マス進む」に行き当たるのは目的か?違うだろう。上がりに近づく手段でしかないのである。
手段を目的化し、それでもって煽り、煽られる。
そうしてその煽りの奔流に溺れてこういうのである。
「何をしたらいいのかわからない」と。
小説は最後まで読み上げるのが目的か?目的ではあるが、読んで楽しんだりつまらないと思ったりするのが目的であって、読み上げること自体は結果である。
双六は上がるのが目的なら、始まったらそこにコマを置けば終る。それは反則だ!となるので無視されるが、目的ならそうなる。
では、「出かけて戦って帰ってくる」のが根幹のゲームで、何が目的なのか?
「ニマス進む」に幸運にも出くわすことか?ニマス進んだらもう双六は終わりか?
それは、報酬である。目的ではない。結果としての賃金ではなく、評価としての報酬である。
ニーチェは、「労働者は己の仕事に矜持を抱くべきである。そして賃金ではなく報酬を貰うべきである」という風に書いていた。
別にゲームに矜持を抱け、なんぞとは言わんが、「出かけて戦って帰ってくる」という労働について、常々賃金を期待しているから、わからなくなるのである。
矜持、なんぞといったが、川原の子供の話に戻ってもらう。
あの水切り、というのか、あの遊びは面白いだろうか。ある程度歳食ったら、そんなものは見向きもしなくなるだろうが、子供は熱心に遊ぶものである。
何回跳ねたからといって「ニマス進む」わけでもない。が、それでも飽きるまで無心にやる。もしくは、止められるまでやったりする。
それは、己の遊びに己の評価という報酬を与えているからである。
サイを振ってマスを進む。最終のマスにつけば、「賃金」として、上がりが貰える。
すぐ上で「ニマス進むは報酬だ」と書いたので、「報酬は上がりじゃないのか?」と突っ込まれる気がしないでもない。
が、結果としての賃金というのも書いたのでひとまず納得してもらう。
「出かけて戦って帰ってくる」という双六のうちで言えばサイを振る営み。
ゲームという双六は、正月に集まってする双六(今時やるかしらんが)のようにはいかず、延々とやるものである。すぐ終わるのもあるといえばあるが、とりあえず。
「労働者は己の仕事に矜持を」と、引用して言った。
そして、「賃金ではなく報酬を」と続いている。
その「労働」に矜持を持っていないから、「賃金」の具合を気にするだけになり、目的を忘却する。
己の「労働」に対する矜持というのはつまり、「川原で無心に石を投げて遊んでいる子供」の如きものである。
これ以上の矜持があろうか。その矜持に「賃金」でもって報いるべきであろうか。評価でもって報いるべきである。
まずは己の「労働」を評価すべきであろう、と思うのである。
などと意味不明な供述をしており以下略。
ここまで書き上げて、もう少しわかりやすく出来ないものだろうか?と思ったが、このままにする。
自分で書いたことに解説するというのは、ひどく間抜けな気がしてくるが、やってみよう。
以下、これだけ書けばよかったレベルの解説である。
シューティングゲームなら、的を撃つのが目的である。スコアはその手練の評価である。
敵と戦うというのも、本義は変わらないわけである。スコアの変わりに、成長の概念のあるもの(RPGというやつなど)ならレベルアップだとか、トレジャーハンティングの要素だとかである。
で、上でいってる、わしがやってるゲームというのが、「出かけて戦ってトレジャーハンティングをして帰ってくる」というのが正確なところである。
これは、売り手の謳い文句であるので、トレジャーハンティングなんぞ無意味!として省いた。
なぜなら、売り手が言うにはトレジャーハンティングは手段であって、トレジャーハンティングの成果が目的だといっているからだ。
これは嘘である、というのが大まかな論旨であった・・・はず。
目的が手段になったり、またその逆になることは多い。というかほとんどだといえる。上記の肩肘張ったような文中にも例を盛り込んでおいたので、わかるかと思われる。
そして、それがわからなくなっているので、例えば、双六の上がりマスにコマをいきなり置いて上がりだと言い出す奴や、サイを振るだけなのに、「何をしたらいいのかわからない」と言い出すのである。
別にその発言をした人物をなじろうと思っているわけではない。あいや、以前のはなじったが、とりあえず。
※ちなみに、別人の発言である。
熱心にボールを蹴ったり、川原で石を投げたりしている姿は、特に熱心になればなるほど、楽しいものとは思えない様相を示したりする。
売り手は「トレジャーハンティングでレアを拾うと楽しいですよ」と言い募る。
さっきも言ったが、嘘である。商売のために言っているのは仕方がないが、嘘だと見なくてはいけない。
これだから楽しいだとか、あれだから楽しくないだとかで、子供がずっとボールを無心に蹴ったり、川原で工夫しながら石を投げ続けるか?違う。
最早楽しいだとか関係ないところにいるのである。そして時折、何かの拍子に我に戻されたりして、その時に反動で楽しいだとか苦しいだとか思い出すだけである。
川原の石投げを、その経験を過ぎた大人は、基本的に楽しいものだとは思わない。
「子供は馬鹿げたことに熱中するものだ」というやつである。
件の「トレジャーハンティング(戦いに行って帰ってくること)」は馬鹿げたことである。馬鹿げたことを熱中してやるから面白いのである。ただし、所謂楽しいとは別次元になる。
「トレジャーハンティング」でお宝を得るのも得ないのも、等しく馬鹿げたことである。
なら、「トレジャーハンティング」という馬鹿げたことを馬鹿馬鹿しく熱中してやるだけのことである。
川原の子供や、ボールと格闘する猫のように。
と、いつのころからか思い至ったので、先ほど、久しぶりに姿を見せていた人物の「何をしたらいいのかわからない」という、当の本人は既にログアウトしていたが、その発言を聞いてきた仲間にいったのである。
「敵と戦えばいい。それ以外ないんだから」と。
その後に、とれじゃーはんちんぐの結果としてのお宝についての認識をしゃべったりしたものだが、自分でもイマイチ納得しかねたのでここに書くことにしたら、もっと納得できない上記の文が出来上がったのである。
読み直したら、「新しいことは何もない」という話を振ってあったことを思い出した。
簡単に書くが、例えば「敵と戦ってお宝を手に入れる」ゲームは、お宝の具合が違うとか、戦い方が違うとかいうだけで、「新しくはない」のである。
川原の石投げが今世紀初の発見でもないのと同じである。だが、馬鹿馬鹿しく熱中してやるものである。
賽は投げられた。もう一回拾って馬鹿馬鹿しく投げるべし。
では、よき終末を。
なんとはなしに、今のそのゲームの現状で、身近に感じてる問題などを話していた。
それで、つい思い立って書き始めた次第である。
別に以前書いたような、そいつの態度が悪いだとかいう話ではなく、話というか批評というかの締めに持ってくる命題である。
それは、「目的と手段の取り違え」というやつである。
ゲーム、所謂TVゲームだけでなく、ゲームというのは、売り手の文句どおりなら、電源つけてやるたんびに新しい話やら舞台やらが出てきて、ワクワクするものだ、と、どんなゲームでも似たり寄ったりの謳い文句で売りつけてくる。
形は違うが、そういうものである。
で、摺れた人々は、「見え透いたことばっかり」とうんざりしているわけである。また、どこか希望を見出せるところを感じると、「これはいいかも」と期待を胸に、当日はがっかりする、ということを繰り返している。
期待通りだったりすることもあるので、年中がっかりではなかったりもする。
ゲームとは言わなくても、他でも似たり寄ったりではある。政治にしろ、漫画にしろ、枚挙が面倒なので、世の中の流れにこういうのがある、と大雑把に理解していただければ結構。
そこは措く。本筋ではないが、近いところの話でもある。
ゲームの売り手の文句、と書いたところを思い出していただく。
約めていえば「新しい世界が開けますよ!」的な物言いである。
新世界・・・そうか!いや、そこじゃない。
ジャーナリストのウィリアム・イングドールは、「ニューワールドオーダーだとかいっているが、あれは新しくもなんともない。ただ一つの世界政府が昔のやりかたの規模を変えただけの支配をするので、ワンワールドオーダーが正確である」という風なことを言っていたが、つまりはアンシャン・レジームである。
横文字だらけで馬鹿馬鹿しくなってきたので、言ってしまえば旧態依然のけったくそ悪いやり方を名前だけ変えただけ、というわけである。
横道はそこまでにしておいて、つまりは、「新しいことなんて本当はない」という訳である。
それとゲームと何が?となるだろうが、もう少し続ける。
生まれて初めて双六をした人は、サイを振るのも珍しく感じるだろうし、ふざけたペナルティばかりの盤でも面白おかしくやるかもしれない。もしくは歯軋りしながらやるかもしれないが、ともかく。
じゃあ、新しく書き直した双六をしたら、その時も同じように感じるか?といったらそうなる人は稀であろう。
TVゲームとしてのゲームの方に話を近づけよう。
これも双六と同じだといえる。ペナルティの具合だとか踏む数が違うだとか、前はボール紙に書いたものだったが、今度は高級和紙で作りました!とかいう具合である。
最初は見た目が前より豪華になって、ものめずらしいなぁと思っていたが、結局派手になっただけの、以前やった双六と同じだった、と気づくに至るというわけである。
双六よりは多少複雑ではあるし、もっと単純かもしれんが、同じである。
ああ、勘違いしないように。ゲームは無意味だからヤメマショウ、という話ではない。
もっと言えば、人生なんぞ無意味だからヤメマショウ、というわけでもない。なにをいってる・・・?
さて、双六を前にして、有る人物は語る。
「何をしたらいいのかわからない」と。
ゲームの話で「何をしたらいいのかわからない」のネタは以前やったが、気にしないように。
双六は何をするのだったか。思い出してみよう・・・。そうだ!!
サイを振って、出た目の数だけ自分のコマを進める、だったな!
で、上がりを目指すというわけである。
たったそれだけのことである。
さて、双六を延々と、楽しそうに、もしくは黙々とやっている人がいる。
上がったら上がったで、またやり直す。もしくは振り出しに戻されて、最初からまたやる。
何ゆえあなたは双六をやるのか?そこに双六があるからさ!とかいう、どっかの山登りの人のもじりは却下。
例え話に例え話を重ねると訳がわからんだろうが、ここを踏まえて聞いてもらおう。
ゲームも双六も変わらん、と書いた。どのようなゲームも当てはまるかどうかはしらんが、ま、一つ。
プレイヤーが集まる街で同志を募って、もしくは一人で敵のいる場所にいって戦って帰ってくる、というのがその(わしがプレイしている)ゲームのメインである。というか、これしかないといえる。
キャラを着飾らせたり、収集したり転売したりしてお金を稼いだり、人とおしゃべりしたりというのもあるが、そのゲームの根幹は「出かけて戦って帰ってくるの繰り返し」である。
双六に準えると、サイを振って出た目の数だけ進める、というのが「出かけて戦って帰ってくる」なのである。
場合によっては少し戻されたり、振り出しに戻ったりするわけである。倒して帰ってくるか、倒されて帰ってくるか、と単純にいえばなる。
さて、時折よいマスにたどり着くことがある。ニマス進むだとかに到着したりするわけだ。
よいマスにたどり着くというのに準えると、倒した敵がたまに落とす、珍しいアイテムを手に入れたこと、ということになる。
さて訊ねるが。
双六の目的はなんだろうか。「二マス進む」に行き当たることだろうか?上がることだろうか?確かに、上がることは目的とはいえる。
実は、サイを振ることが目的ではないか?
猫にボールを投げ与えてみよう。猫にもよるが、なんだか熱心にボールをこねくり回したりする。挙句の果てには戦いのようになる。
子供が川原で小石を投げて、水面を跳ねさせる遊びをしている。
最初は跳ねることを珍しがっていたが、一人だろうと複数だろうと、そのうち「何回多く跳ねるか」になっていったりする。
猫はなんだか書いてて意味がない気がしたが、つまり、当初の目的がいつの間にか手段になったというわけである。
双六は上がりが目的ではあろう、といった。
では、「二マス進む」に行き当たるのは目的か?違うだろう。上がりに近づく手段でしかないのである。
手段を目的化し、それでもって煽り、煽られる。
そうしてその煽りの奔流に溺れてこういうのである。
「何をしたらいいのかわからない」と。
小説は最後まで読み上げるのが目的か?目的ではあるが、読んで楽しんだりつまらないと思ったりするのが目的であって、読み上げること自体は結果である。
双六は上がるのが目的なら、始まったらそこにコマを置けば終る。それは反則だ!となるので無視されるが、目的ならそうなる。
では、「出かけて戦って帰ってくる」のが根幹のゲームで、何が目的なのか?
「ニマス進む」に幸運にも出くわすことか?ニマス進んだらもう双六は終わりか?
それは、報酬である。目的ではない。結果としての賃金ではなく、評価としての報酬である。
ニーチェは、「労働者は己の仕事に矜持を抱くべきである。そして賃金ではなく報酬を貰うべきである」という風に書いていた。
別にゲームに矜持を抱け、なんぞとは言わんが、「出かけて戦って帰ってくる」という労働について、常々賃金を期待しているから、わからなくなるのである。
矜持、なんぞといったが、川原の子供の話に戻ってもらう。
あの水切り、というのか、あの遊びは面白いだろうか。ある程度歳食ったら、そんなものは見向きもしなくなるだろうが、子供は熱心に遊ぶものである。
何回跳ねたからといって「ニマス進む」わけでもない。が、それでも飽きるまで無心にやる。もしくは、止められるまでやったりする。
それは、己の遊びに己の評価という報酬を与えているからである。
サイを振ってマスを進む。最終のマスにつけば、「賃金」として、上がりが貰える。
すぐ上で「ニマス進むは報酬だ」と書いたので、「報酬は上がりじゃないのか?」と突っ込まれる気がしないでもない。
が、結果としての賃金というのも書いたのでひとまず納得してもらう。
「出かけて戦って帰ってくる」という双六のうちで言えばサイを振る営み。
ゲームという双六は、正月に集まってする双六(今時やるかしらんが)のようにはいかず、延々とやるものである。すぐ終わるのもあるといえばあるが、とりあえず。
「労働者は己の仕事に矜持を」と、引用して言った。
そして、「賃金ではなく報酬を」と続いている。
その「労働」に矜持を持っていないから、「賃金」の具合を気にするだけになり、目的を忘却する。
己の「労働」に対する矜持というのはつまり、「川原で無心に石を投げて遊んでいる子供」の如きものである。
これ以上の矜持があろうか。その矜持に「賃金」でもって報いるべきであろうか。評価でもって報いるべきである。
まずは己の「労働」を評価すべきであろう、と思うのである。
などと意味不明な供述をしており以下略。
ここまで書き上げて、もう少しわかりやすく出来ないものだろうか?と思ったが、このままにする。
自分で書いたことに解説するというのは、ひどく間抜けな気がしてくるが、やってみよう。
以下、これだけ書けばよかったレベルの解説である。
シューティングゲームなら、的を撃つのが目的である。スコアはその手練の評価である。
敵と戦うというのも、本義は変わらないわけである。スコアの変わりに、成長の概念のあるもの(RPGというやつなど)ならレベルアップだとか、トレジャーハンティングの要素だとかである。
で、上でいってる、わしがやってるゲームというのが、「出かけて戦ってトレジャーハンティングをして帰ってくる」というのが正確なところである。
これは、売り手の謳い文句であるので、トレジャーハンティングなんぞ無意味!として省いた。
なぜなら、売り手が言うにはトレジャーハンティングは手段であって、トレジャーハンティングの成果が目的だといっているからだ。
これは嘘である、というのが大まかな論旨であった・・・はず。
目的が手段になったり、またその逆になることは多い。というかほとんどだといえる。上記の肩肘張ったような文中にも例を盛り込んでおいたので、わかるかと思われる。
そして、それがわからなくなっているので、例えば、双六の上がりマスにコマをいきなり置いて上がりだと言い出す奴や、サイを振るだけなのに、「何をしたらいいのかわからない」と言い出すのである。
別にその発言をした人物をなじろうと思っているわけではない。あいや、以前のはなじったが、とりあえず。
※ちなみに、別人の発言である。
熱心にボールを蹴ったり、川原で石を投げたりしている姿は、特に熱心になればなるほど、楽しいものとは思えない様相を示したりする。
売り手は「トレジャーハンティングでレアを拾うと楽しいですよ」と言い募る。
さっきも言ったが、嘘である。商売のために言っているのは仕方がないが、嘘だと見なくてはいけない。
これだから楽しいだとか、あれだから楽しくないだとかで、子供がずっとボールを無心に蹴ったり、川原で工夫しながら石を投げ続けるか?違う。
最早楽しいだとか関係ないところにいるのである。そして時折、何かの拍子に我に戻されたりして、その時に反動で楽しいだとか苦しいだとか思い出すだけである。
川原の石投げを、その経験を過ぎた大人は、基本的に楽しいものだとは思わない。
「子供は馬鹿げたことに熱中するものだ」というやつである。
件の「トレジャーハンティング(戦いに行って帰ってくること)」は馬鹿げたことである。馬鹿げたことを熱中してやるから面白いのである。ただし、所謂楽しいとは別次元になる。
「トレジャーハンティング」でお宝を得るのも得ないのも、等しく馬鹿げたことである。
なら、「トレジャーハンティング」という馬鹿げたことを馬鹿馬鹿しく熱中してやるだけのことである。
川原の子供や、ボールと格闘する猫のように。
と、いつのころからか思い至ったので、先ほど、久しぶりに姿を見せていた人物の「何をしたらいいのかわからない」という、当の本人は既にログアウトしていたが、その発言を聞いてきた仲間にいったのである。
「敵と戦えばいい。それ以外ないんだから」と。
その後に、とれじゃーはんちんぐの結果としてのお宝についての認識をしゃべったりしたものだが、自分でもイマイチ納得しかねたのでここに書くことにしたら、もっと納得できない上記の文が出来上がったのである。
読み直したら、「新しいことは何もない」という話を振ってあったことを思い出した。
簡単に書くが、例えば「敵と戦ってお宝を手に入れる」ゲームは、お宝の具合が違うとか、戦い方が違うとかいうだけで、「新しくはない」のである。
川原の石投げが今世紀初の発見でもないのと同じである。だが、馬鹿馬鹿しく熱中してやるものである。
賽は投げられた。もう一回拾って馬鹿馬鹿しく投げるべし。
では、よき終末を。
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