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やましさは命令する

2015-07-20 | 雑記
昨日のブログは、ちと寝不足な上に夜中から早朝にかけて、うんうん唸りながら書いた。

だからなんというか、らりったような文章である。ではあるが、別に思ってもいないことを書いたわけではない。

挙句の果てに「ニーチェ曰く」とかやりだすのは、恒例行事だと思っていただければよい。


一晩経って、ああいう風に書くだけでは意味がないなと感じ、それについてもう少し書こうかと思っている。


ゲームで知り合いに向かって「何をやったらいいかわからない」などと、意味のないことをのたまう奴がいた、というのが昨日の内容である。

では、「これをやればいいですよ」といえば、そいつらはやるのか?と思うが、恐らくやらない。

何をやったらいいのかわからない、というのはそもそも言い訳である。とは以前書いた。

ついでにいえば、やってるこっちも「何をやったらいいのか」わかっててやっているわけではないのである!

この問いかけ「何をやったらいいのか」という言葉は、そもそも自分を放棄したいがゆえ、と見なせる。

これをやったらいけません!といっても人はやるが、それは自分の意志でやるからである。意志なのか天邪鬼なのかはしらん。

これをやったらいいよ!といわれないとやらない奴は、そもそも自分の意思と意志を放棄している、ということである。

砕いて言えば、甘ったれ、であるが、そのあたりを考えていこうというわけである。

単純に、甘ったれているだけかどうかは定かではないが、世間一般的な意味での甘ったれとは若干ことなる可能性があることをお断りしておく。


厳しく「甘ったれ」なんぞと書いたが、そもそも意志薄弱は人のことは言えないものであるので、心苦しい振りをしつつ書いていく。

ああ、胸が痛い。これはきっと故意だ!



昨日の記事では、ゲームの内容を分解して、なおかつ双六に準えて書いた。

要するに、「同じことの繰り返しをしている」というわけである。

もちろん、双六で想像していただければいいが、行きつ戻りつし、上がりに着いたり着かなかったりするわけだ。

改めて言い直せば、そのゲームのメインであり基礎的な遊びは、双六で例えるならサイを振る行為と同じである、というわけである。

ゲームをいくつもクリアしていくなら数多の双六を上がっていくことといえるが、上がりのないこの手のゲームの場合は、サイを振ることを延々とやるわけである。とはいえ、敵の攻撃を避けたり食らったり食らわせたりと、色々行動をしていくわけで、本当にサイを振っているわけではない。最小単位に分解したらそうなるというだけの話である。


では、何ゆえサイを振らぬのか?という話にする。双六で言えばサイを振るだけと言えるが、確かにサイを振るよりは面倒ではある。

まあ、面倒だと思えばサイすら振りたくなくなるものである。


当人の自白を聞いたことはないので判らないが、「サイを振りに行く」ことを誘っても返事をしなかったのを見ると(チャットログが流れたなども考えられるので言い切れないが)、サイを振りたくないのである。

何を当たり前のことを・・・となるが、事実確認は必要である。


では、振りたくない理由は?となる。


それは、動機がないから、である。もっと正確に言えば、動機を導き出すきっかけを見出していないから、である。


他人の分析ばかりしていてもわかりにくいので、自分がどう感じてやってきたかを書くと一つの答えとなるものが出てくるかもしれない。


さて、昨日の文章を読んだ人が何人いるかしらんが、わしはこう感じていると書いた。

「サイを振るのが目的なので、それ以外は余興だ」と。約めて言えばこう書いた。

それはあたかも、川原で子供が石を投げて水面を跳ねさせる遊びに興じるかのように、サイを振ること自体に興じているというわけである。


それは些細なことである。トレジャーハンティングでお宝を手に入れたから?違う。それは副産物である。


よく、他のメンバーがいない時間にプレイしているときは、一人で黙々と、または怒ったりしながらやっていたものである。

あまりに度が過ぎたので、怒られたりしたものだが、今は怒ってない。上手くなったか、RPGなのでキャラのレベルや装備が整ったり、ゲームの難易度が調整されたりなどもあろうが、ま、怒る理由がなくなったからである。間抜けな話ではある。

そこはいいとして。


一人で戦いに出かけて敵と戦いながら、ふと、「もう少しダメージ上げたいな」などと思うのである。

2300くらいのダメージが出ているので、何か工夫したら2500になるかな?と。それで新しい武器を探しに行ったり、または金を集めて買ったり、キャラ自身の能力の調整や、武具の強化(どれもゲーム内のシステムである)をしたりという具合である。
または、既にデータが出揃っていたりするので、ネットで情報を収集したりする。

そして、やりおおせてはさらに「サイを振る」ことに興じていくのであった。



ところで、余談気味になるのだが。

このゲームでは本来はおまけというか、やりこみ要素と位置づけられているのが、武具の強化である。今ではおまけというより必須となっているところだが。

このシステムが難解だというので、ゲーム内でしっかり教えるようにすべきだ、という声が上がっており、例えば、序盤のチュートリアルで丁寧に教えるようにしたらいい、という要望などが出ているそーだ。

「武具」の攻撃力や防御力を上げるシステムは難しくはない。ひどくイライラさせられるだけである。その我慢大会みたいなのを乗り越える人だけしか出来ない仕様である。
失敗があり、強化を行った時点で成功するものではない上に、失敗した場合、強化が退行することもある。
最大までやろうとしたら、何度も失敗するのが前提という仕様である。

これは、退屈なのと失敗が多くてうんざりさせられるので嫌われている。他のゲームでは、アイテム自体が消えてなくなる仕様もあるので、そこよりはマシ、などともいうが、嫌がられているのは事実。
ペナルティの多い双六といえるかな。

もう一つは、武具固有のステータスとは別に能力を追加するというシステム。

これが難解で、しかもしっかりやれば文字通り桁違いに変わったりするのだが、ゲーム内でこれを教えてくれる存在はない。
後日、運営がその強化の仕方をレクチャーする動画を作るとの発表があったが、基本的には自分でゲーム内で失敗しつつ覚えるか、ゲーム外で情報収集するしかない。もしくはゲーム内の知り合いに聞いたり、もう出来上がったものを買い取ったり、まったくしない、という人もいる。


長くなったが、やり方を教えたからと言って、それをやるのかというと、それはない。

何も教えないよりはよいが、それで皆がこぞってやりだすかというと、違う。


わしがこう感じた、と書いたところを思い出して欲しい。

このダメージをもう少し上げることが出来るのではないか?で、「武具の強化をしたり」といった。


川原で石を投げている子供を思い出してもらおう。

誰に言われたでもないのに、「この石でこう投げたら、もっと跳ねるのではないか?」と工夫しては石投げに興じている。

最近の川原はそんな光景は見られないし、何やら禁止がうるさいので子供がいないことが多かろうが、とりあえず。


「こうやれば強くなれますよ」でやろうとしないのは、ゲームに興じてなどないからである。

強くなるのが「目的」ならば、自分でそんな面倒なことをせずに、出来上がったものを買う(高級品は取引できなかったりはあるが、買えるうちで)だけである。


これは、ゲームに興じる振りをしながら、「川原の子供のように興じるのは馬鹿馬鹿しいことだ」、とどこかで感じているのだといえる。


これは、大人ぶった分別で自身をごまかしているだけなのである。


それを感じた発言を思い出したのもあって、おさらいしつつ、ここまで書いた。


このゲームには、現金で運営側と取引できるアイテムがある。わかりやすく言えば、スマホゲーなどでいう「有料ガチャ」である。
ただ、このゲームのガチャに出てくるアイテムは、強い武器が出るというものではなく、服だったり、退屈でうんざりさせられる武具強化のお助けアイテムだったり、キャラの能力以外の強化(時間制限あり)だったりで、ゲームの補助的な側面のものだけになっている。
定額のガチャとは別の値段がばらばらの商品もあるが、こちらは補助アイテムのみとなる。

いくらかかければ注目のアイテムが必ず出る、という代物ではない。ショッピングセンターだとかのガチャガチャやら、チョコボールのエンゼルと同じで、運である。


さて、これらはゲーム内で他のプレイヤーと取引が可能となっている(有料ガチャの方だけ)。注目のアイテムは高額になることが多い。

新しい商品が来るたびにいくらかつぎ込んでいる人は、全部、もしくは自分必要なものだけ残して売り飛ばしたり、商売らしく「塩漬け」して、後日売る、と言った具合で稼いでいたりする。

別にやましいところなど本来はないのだが、どこかでやましさを感じるのであろう。

こういう風に言っていた。

「あまりガチャのアイテム売り飛ばして金にするってのはしたくない」と。


別のやつの発言だが「別に運営が禁止していることではないからね」というのもあった。



さーここで問題。


このゲームの「サイを振る」という行為は、長くて一時間だとかになる。短くて10分以内だったりする。二つ続きで系一時間、という感じのもある(その場合インターバルが多い)。


この中で受付時間が決まっていて、毎日あるわけでもないというものがある。その中で高級品が出てくる可能性がある、というわけだ。

必ずしもそういうのだけではなかったが、客寄せのためにそれに偏っているのが現状。

そこは余談である。

さて、一週間いける限りその高級品を探しても出ない人もいれば、初日にいきなり手に入れる人もいる。

初日に手に入れた人は、それを(取引が制限されていないものなら)売り飛ばして大金を手に入れたりするわけだ。

これと有料ガチャの注目のアイテムを売り飛ばすことの違いはどこにあるのだろうか?これもめぐり合わせがないとそもそも手に入らないのである。

ない。勝手にやましさを感じているだけである。


ゲームのプレイで金やアイテムをゲーム内のデータに増やしていくことと、同じく「有料ガチャ」というゲームのプログラム内からアイテムのデータを増やしていくことにはまったく相違がない。

ないのにあるというのはどういう了見か。

了見などそもそもないのである。了見などないから、やましさからものを言っただけである。


そのやましさの理由は、さっきも言ったが、「大人ぶった分別」というつまらん固定観念である。大人だけではないが。


その「大人ぶった分別」は、川原の子供が石投げに興じるようにゲームに興じるのは馬鹿馬鹿しいことだと常々命令している。

そもそも、ゲームに興じること自体馬鹿馬鹿しいといわれているのにゲームをやっているのだから、やましさしか出てこない。

だから、「何をやったらいいのかわからない」と言い出すのである。

そして、何をやったら「いいのか」と問う時点でおかしいのである。

あなたに命令を課しているものは、「ゲームをするな」と言っているわけだから。

それなら、ゲームをしないほうがいいだろう。

それでもやりたいというのなら、無我夢中で「サイを振れ」。

川原の子供の石投げのように夢中でな。

「やましさ」なんぞかなぐり捨てて興じてしまえ。

「川原の子供」が死に絶えてなければ、やましさなんぞ消えてなくなる。



さて、ここで注意喚起。


別に、ゲームやるなら大金をつぎ込め!とか、ぶっ倒れるほどプレイしろ!とかそういう話ではないことを述べておく。


また余談染みてくるが。


この「やましさ」と表記したもの。

これがいわゆるカルト宗教の手口だったりするともいえる。この「やましさ」を刺激するのである。不安を煽る、といったほうがいいか。

「やましさ」がひっくり返れば、まるで神様にでもなったかのように振舞うだろう。誰とはわざわざ書かないが。
そのままなら、進んで奴隷になる。マゾヒストという奴である。宗教的恍惚を得ようとしていくのである。


しかし、これは別にイカレ野郎だけではない。


やましさ、つまりは不安を煽って何かに誘導するというのは、現代のいたるところで行われているのである。

宣伝広告は勿論のこと、「病気になりますよ」とか「負け組みになりますよ」だとか脅かしたり、言ってしまえばこの記事を例の発言者が読んだら怒るか泣き出すか呆れるか、まあ何がしかの感情を揺さぶることになるだろう。

そこで、これ読んだらどう思うかな?などとわしがやましさを感じても詮無きこと。

むしろ読んだとしたら、己の軽率さと不甲斐なさと甘ったれ加減と意志のなさと思慮の浅さを思い知るべきである。

ああ!わしのことじゃないか!と、不安になってきたので、ここで終わることにする。

では、よき終末を。


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