たまにはテレビの話でもしようかと思う。
ところで、そんなにテレビの話って流行ってるのか?
いやまあ、ここは流行の話はないか。流言飛語ならあるかもしれん。
それはさておき。
かつて、NHK教育テレビで、『ピタゴラ・スイッチ』という、五分程度の番組があった。今もあるかは知らない。
ミニコーナーのオムニバスで出来上がっている番組で、始まりにドミノ倒しというか、最初の起動をするとドミノやらボールが転がったりして色々な仕掛けが動いていって、最後に番組のタイトルを開く仕掛けで終る、というのをやる。終りにもやっていたかどっちかだけだったかは忘れた。
そのコーナーの中で、「おとうさんスイッチ」というのがあった。「おじいちゃんスイッチ」の時もあったが、おかあさんとかおばあちゃんは見たことがない。
おとーさんすいっちのぉつくりかたぁ~ってな歌で始まり、幼稚園児の工作を紹介する。その、某スイッチを作る。
箱に文字を三つほど貼り付けて、アンテナ(のようなもの)をくっつけて出来上がり。
父子、もしくは祖父と孫の一般人コンビが出演しているそれは、続けてスイッチの駆動とお父さん(もしくはおじいちゃん)が反応するという演技になり、それで終る。
子供が「おとうさんすいっち あ!」とかいいながら押す所作をすると、おとうさんがその頭文字に対応した動作をする。
今のように「あ」なら、「あくびをする」といった具合である。同時に、テロップとナレーションが入る。
で、居るらしいと聞くイルミネイションだとかというのが、そっち側の人間だと散々言われている、デービッド某(ドゥカヴニーではない)がいうには、組織じゃなくて、赤い盾の人たちが操っているネットワークである、とのこと。これはよく書いた話である。
ああ、これはまるで「おとうさんスイッチ」だなぁと思ったものである。
いるみなすいっちのぉつくりかたぁ~
箱に文字貼ってアンテナ。同上である。
イルミナ・スイッチ ご!
ごうまんになる
イルミナ・スイッチ い!
いきどおる
イルミナ・スイッチ む!
むさぼる
以上、イルミナ・スイッチである。終わり
冗談はさておき(冗談ではないが)、我々はダンボール箱に書かれた文字で操られているようなものである。それは違いないのだろうと感じている。
何ゆえか。
またデービッド某の述べていたことに戻るが、それらのやり口というのは人の不安を刺激して誘導するのが常套手段である、という。
人が何ゆえ不安に陥るのかというと、ひどく噛み砕いていえば、普段から幻に惑わされているから、となるのである。
別に、アイク(某と書くのが面倒になった)がいっていたように、全部が周波数で幻なのだ、とかいう判り難い話ではない。
そういう側面もあるが、全部が周波数で幻なんです、などと理屈を言った所で意味はない。
不安、というものに戻る。
不安とは何かというと、これは欲望である。先々のことが判らないから知ろうとして、でも判らない。そうすると不安になる。
欲望どおりになったらなったで、上の例で言えば、先のことが判ったら喜んだりする。一般的に言えば、これは不安の払拭となる。
さて、この事柄から言えることは、不安と喜びはコインの裏表であり、同じものだということになる。根っこは同じだと。
コイントスで使ったコインは、当たっても外れてもそれでコインの価値が増減したりするのだろうか?
まったくしていない。
でも、コイントスをしている最中は、賭けた面に最大の価値があるかのように振舞うであろう。
だが、コインはコインである。
欲望という名のコインでトスをする。イルミナ・スイッチは不安の方を何度も何度も見せてくる。
我々は喜びの方に賭けるが、コイントスは見せ掛けで、スイッチオン!とやっているのだから。
そしてそもそも、我々が喜びだと思っている方も実際は不安である。なにせ、根っこは同じだから。
このコイントスを、自身が賭けているものではなく、通りすがりで見かけたものだったら、あなたは何とするだろうか。
まるで自分が賭けたかのように固唾を呑んで見守るだろうか?しないだろう。
あ、また裏が出た、と思うくらいで、気にしないはず。
今時、道でコイントスやってるやつを見たことはないが、例え話だと断る必要はあるまいな。
さて、アイクは「人が皆共通して持っている爬虫類脳と呼ばれる、生存を司る脳を刺激して不安を煽る」と言っていた。
さっき書いたことをもう少しアイクが言っていたことに近づけただけである。
我々は、自身の肉体や精神、経験や記憶などを、自分自身だと思う。
思うからこそ、不安という自分自身だと思っているだけのものにひどく苛まれるのである。
爬虫類脳とやらは、生きる上では欠かせないが、だからといってそれが己の全てであるわけはない。
言ってしまえば、脳みそなんぞも自身そのものではないのである。
不安は欲望の一側面というわけで、自分自身でもない欲望を自分自身だと勘違いして、馬鹿なことをやっては耽溺したり、逆耽溺として落ち込んだりするのである。
己の中の欲望を、ダンボールに文字を貼り付けただけの「イルミナ・スイッチ」を自分自身だと勘違いし、イカサマコイントスを自分自身が参加しているものだと思い込む。
そんなものはダンボールの箱である。
そんなものは道端のコイントスである。
生存の不安という欲望に苛まれ続ければ、ソープ通いで有名になったり、「馬鹿な人類は滅んでしまえ」などといいながら、その「馬鹿な人類」と何一つ変わらない、「イルミナ・スイッチ」そのものになるのである。
ついでに、スイッチ動かしてるトカゲな人達というのが、アイクが言うには、これらも生存の不安でイッパイイッパイになっているのだという。
ダンボールの箱を捨てよ。道端のコイントスを無視せよ。
それらはゴミでしかない。王のものは王の下へ。神のものは神の下へ。ゴミ箱はゴミ箱へ。ん?
では、よき終末を。
ところで、そんなにテレビの話って流行ってるのか?
いやまあ、ここは流行の話はないか。流言飛語ならあるかもしれん。
それはさておき。
かつて、NHK教育テレビで、『ピタゴラ・スイッチ』という、五分程度の番組があった。今もあるかは知らない。
ミニコーナーのオムニバスで出来上がっている番組で、始まりにドミノ倒しというか、最初の起動をするとドミノやらボールが転がったりして色々な仕掛けが動いていって、最後に番組のタイトルを開く仕掛けで終る、というのをやる。終りにもやっていたかどっちかだけだったかは忘れた。
そのコーナーの中で、「おとうさんスイッチ」というのがあった。「おじいちゃんスイッチ」の時もあったが、おかあさんとかおばあちゃんは見たことがない。
おとーさんすいっちのぉつくりかたぁ~ってな歌で始まり、幼稚園児の工作を紹介する。その、某スイッチを作る。
箱に文字を三つほど貼り付けて、アンテナ(のようなもの)をくっつけて出来上がり。
父子、もしくは祖父と孫の一般人コンビが出演しているそれは、続けてスイッチの駆動とお父さん(もしくはおじいちゃん)が反応するという演技になり、それで終る。
子供が「おとうさんすいっち あ!」とかいいながら押す所作をすると、おとうさんがその頭文字に対応した動作をする。
今のように「あ」なら、「あくびをする」といった具合である。同時に、テロップとナレーションが入る。
で、居るらしいと聞くイルミネイションだとかというのが、そっち側の人間だと散々言われている、デービッド某(ドゥカヴニーではない)がいうには、組織じゃなくて、赤い盾の人たちが操っているネットワークである、とのこと。これはよく書いた話である。
ああ、これはまるで「おとうさんスイッチ」だなぁと思ったものである。
いるみなすいっちのぉつくりかたぁ~
箱に文字貼ってアンテナ。同上である。
イルミナ・スイッチ ご!
ごうまんになる
イルミナ・スイッチ い!
いきどおる
イルミナ・スイッチ む!
むさぼる
以上、イルミナ・スイッチである。終わり
冗談はさておき(冗談ではないが)、我々はダンボール箱に書かれた文字で操られているようなものである。それは違いないのだろうと感じている。
何ゆえか。
またデービッド某の述べていたことに戻るが、それらのやり口というのは人の不安を刺激して誘導するのが常套手段である、という。
人が何ゆえ不安に陥るのかというと、ひどく噛み砕いていえば、普段から幻に惑わされているから、となるのである。
別に、アイク(某と書くのが面倒になった)がいっていたように、全部が周波数で幻なのだ、とかいう判り難い話ではない。
そういう側面もあるが、全部が周波数で幻なんです、などと理屈を言った所で意味はない。
不安、というものに戻る。
不安とは何かというと、これは欲望である。先々のことが判らないから知ろうとして、でも判らない。そうすると不安になる。
欲望どおりになったらなったで、上の例で言えば、先のことが判ったら喜んだりする。一般的に言えば、これは不安の払拭となる。
さて、この事柄から言えることは、不安と喜びはコインの裏表であり、同じものだということになる。根っこは同じだと。
コイントスで使ったコインは、当たっても外れてもそれでコインの価値が増減したりするのだろうか?
まったくしていない。
でも、コイントスをしている最中は、賭けた面に最大の価値があるかのように振舞うであろう。
だが、コインはコインである。
欲望という名のコインでトスをする。イルミナ・スイッチは不安の方を何度も何度も見せてくる。
我々は喜びの方に賭けるが、コイントスは見せ掛けで、スイッチオン!とやっているのだから。
そしてそもそも、我々が喜びだと思っている方も実際は不安である。なにせ、根っこは同じだから。
このコイントスを、自身が賭けているものではなく、通りすがりで見かけたものだったら、あなたは何とするだろうか。
まるで自分が賭けたかのように固唾を呑んで見守るだろうか?しないだろう。
あ、また裏が出た、と思うくらいで、気にしないはず。
今時、道でコイントスやってるやつを見たことはないが、例え話だと断る必要はあるまいな。
さて、アイクは「人が皆共通して持っている爬虫類脳と呼ばれる、生存を司る脳を刺激して不安を煽る」と言っていた。
さっき書いたことをもう少しアイクが言っていたことに近づけただけである。
我々は、自身の肉体や精神、経験や記憶などを、自分自身だと思う。
思うからこそ、不安という自分自身だと思っているだけのものにひどく苛まれるのである。
爬虫類脳とやらは、生きる上では欠かせないが、だからといってそれが己の全てであるわけはない。
言ってしまえば、脳みそなんぞも自身そのものではないのである。
不安は欲望の一側面というわけで、自分自身でもない欲望を自分自身だと勘違いして、馬鹿なことをやっては耽溺したり、逆耽溺として落ち込んだりするのである。
己の中の欲望を、ダンボールに文字を貼り付けただけの「イルミナ・スイッチ」を自分自身だと勘違いし、イカサマコイントスを自分自身が参加しているものだと思い込む。
そんなものはダンボールの箱である。
そんなものは道端のコイントスである。
生存の不安という欲望に苛まれ続ければ、ソープ通いで有名になったり、「馬鹿な人類は滅んでしまえ」などといいながら、その「馬鹿な人類」と何一つ変わらない、「イルミナ・スイッチ」そのものになるのである。
ついでに、スイッチ動かしてるトカゲな人達というのが、アイクが言うには、これらも生存の不安でイッパイイッパイになっているのだという。
ダンボールの箱を捨てよ。道端のコイントスを無視せよ。
それらはゴミでしかない。王のものは王の下へ。神のものは神の下へ。ゴミ箱はゴミ箱へ。ん?
では、よき終末を。
安生節のキレがよくって良いと思います。
ものごとの表現というものは、表出した時点では、決して捨て鉢ではないのけれど、受け取る側の感情によっては、捨て鉢な表現だとか投げやりだとか、ゲームばっかりやってちゃイカンとか、そんなふうに受け取られることもあるのだろうなとやっと気づいた今日この頃です。
がまん大会というのは、王様ゲームに従ってるだけのことかもしれませんね。
だったらゲームと割り切れば良いだけの話しかと。
割り切れないでいるのはそれこそ源泉はアリス・ミラーの世界にある、恐ろしくて覗き込みたくもない、おびえた子どもの自分の姿だったりして。
なんだかまとまりがないコメントですみませんが、こんな感じです。(どんな感じやねん)
これが安生節なのかどうかはよくわかりませんが、最近読んだ、スッタニパータの影響かなと思います。
荒々しい言葉を使わず、よく考えてしゃべりなさい、というやつです。さして変わってないですが(笑)
罵倒を並べて文を書いても本質は突けないものだ、そう思ったのかなと。
怒ってしゃべっても、宗教だか薬だかでラリッて書いても、それは表面が違うだけで同じなので、どっちでもないようにしていかなければならない、というわけです。
つまり、マケヒコ上人がいわく、「苦しんで滅びろ」と同じにものをいうのは、こちらも馬鹿げたものに煽られているに過ぎないなと。
王様ゲームに従っているだけなんだから、割り切れということですが、森にいることや、「正しい食事」をしていることによって己を「正しい存在だ」と認識するような方々は、ゲームを抜けたと思い込みたいのですが、そもそも、人間が生きていること自体がゲームだということをすっかり忘れて舞い上がっているのです。
アリス・ミラーのいうように、見ないようにしていることに違いはないでしょう。
子供だった自分自身、というのもそうですが、釈迦流にいえば、「汚らしい」生体というやつです。
「コイントス」と同じです。ありのままに見たら、ただコインが宙を舞ってるだけのことを、「素晴らしい」といったり、片や「いけないことだ」などと、どちらにしても愚かしいことをやっているのです。
長くなりましたが、つまりはコインを磨いてもコインの価値はあがらないのです。
磨いたコインをまるで宝のように思うのは、馬鹿馬鹿しいです。
さげずむのも同じく馬鹿馬鹿しい、というのは、もういうまでもないでしょうか。
磨いたコインでトスをやって、「素晴らしい!」とゲームにどはまりするのが、僕を含めたほとんどの人間には違いない、というわけで、笑いたくもないですが、笑いたくなります。