ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

零距離の目的

2019-07-17 | 雑記
これの前の記事を書いていると、以前から書こうと思っていたことをふと思い出したので、続けて書くことにする。

申し訳ないが、また「彼ら」の話に纏わることである。

「彼ら」などと書いていると、統合失調症の妄言のようにも聞こえるが、それはそれで面白いと思うことにする。


「彼ら」との関りがあった人物のうちで、拙も面識のあった人物がいた。その人物はなんやかんや言われるのが嫌になったので途中で離れていった。以前にも書いたことがある、今もやり取りのある人物とは別人である。

記憶違いでなければ去年、もしくは一昨年だったか。その人物のHPを見た。一応、一般人よりは影響力のある立場の人物ではあるのと、その職業のためのHPを開設していたからである。

気功がどうたらこうたらというのを書いていた。どうやら気功のセミナーに通っているようだった。

ちなみに、「彼ら」とも縁のあった人物が評して「セミナージプシー」とのことである。

拙は呑気なもので、「色々出かけて勉強してるんだなぁ」ぐらいにしか会った時は思っていなかったものである。どうでもいい言葉を覚えてしまって、とても後悔していると公開する。

目的は、「彼ら」との関りがまだ直接あったころにも述べていたが、「不食」だとのことで、そういうコツを伝えているセミナーだったらしい。

らしい、というのは、既にそのHPは消えている。消える前に見たHPの最新記事は、そのセミナーに行ってくるというところで止まっていた。

実に分かり易いが、要するに何の成果も得られなかったということだろう。それでHPごと消したと勘繰られてもおかしくはないし、実際そのようで、消去後も続いていたブログの方にも何もなかった。


不食というものがどういうものなのかを書くと長くなるだろうが、全く食べないことを指すのなら、実際にそうとしか言えない人たちはいるという。ブリサリアンと呼ばれる人たちが歴史上にもまた、現代にも存在する。
明治時代にも、不思議な能力があり、それで治療してたら裁判になったが、裁判官が事実だと認めて勝訴したという女性も日本にいた。

現代日本で流布されている栄養学の基準では、三食バランスよく栄養を摂るべし、となっている。脅し文句として、そうしないと体を壊すぞ!というのもセットになっている。

肉体労働者と小説家も同じだけ食えということになるとしたら、肉体労働者には足りなくて、小説家には食べ過ぎになる結末が見えるのだが、そういうことはおいておく。

三食摂っているのを前提としたら、それより少ない量で問題なく過ごしているのは、不食とは言わなくても、栄養学の基準を逸脱している、異常事態といわざるを得ない。

戦後の食糧供給に纏わる陰謀については、ここで書くまでもないので多くを語らないが、基準などというものは、全世界の人間を調べ上げて導き出したものではないので、当てはまらないことが多くてもおかしくはないのである。

栄養学に沿ってないと病気になって死ぬのなら、ヴィクトル・フランクルは収容所で死んでいたのだろうが、死なずに出てきた。他の収容者は餓死したというのにである。

反対に、動物のナマケモノは、満腹でも餓死するという、アクロバティックな死に方をすることがあるという。

日照不足で腸内の細菌の働きが鈍いと、食べても栄養が摂りきれなくて餓死するのだとか。餓死とは一体・・・。



余計な話が続いた。まったく関係がないわけではないのだが、本筋から何筋も離れている。


実際に不食だとか飢餓状態としか思えない状態で生きている、もしくは死ななかった人がいるのに、どうして件の人物は不食セミナーに通っても出来なかったか?この話をしたかったのである。


答えは・・・才能がなかったから、ではない。


少なくとも、ヴィクトル・フランクルがヨガやら気功をマスターしていたとかいう話は聞いていない。あったら失礼。

彼はただの精神科医である。この知性の高さが功を奏したとはいえるのだが、それはさておき。


フランクルは飢餓状態を乗り越えるために収容所にいたわけではない。ナチスの強制収容所に、ユダヤ人だからと放り込まれたのである。

彼は当時、収容所で出された食事の量を見て、「これは死ぬ」と考えたぐらいである。

だが死ななかった。他は皆倒れていったというのに。

もったいぶっても仕方ないので話を進める。

彼が収容所で気づいたことは、人間はどうしようもなく孤独で、だからこそ自由なのだということだった。

それから彼は孤独なゲームを一人でやって遊んでいた。寝るときは天井の木目を数えるだとか、収容所から連れ出されるときには右足から必ず出るだとかいった、看守にも見破られないゲームを。

挙句の果てに餓死しなかったどころか、入る前にはひどい歯槽膿漏だったのが、出た時には治っていたという。

歯槽膿漏を治すためにやっていたわけでもなく、そうやると餓死しなくなるというつもりでやっていたわけでもない。

ただ、人間は自由に生きるだけなのだと思ったら、こうなったというわけである。

歯槽膿漏だとか極限の飢餓などというちっぽけな話なんぞ考えてなかったのである。


さて、件の人物の話に戻る。

その人物は、「不食という究極の目標に到達するのだ」と思ってやっていた。だから到達しなかった。

何事にも個人差や段階があるとして語るなら、それ以前の段階には到達していたかもしれないのだろうが、それは知りようもない。

この不食については、実はブリサリアンの証言があって、指導者というのか何なのかは知らないが、「不食を目指してブリサリアンになろうとすると、なれないことが多い」とその人物は語っている。

この記述については、その人物も拙も関わっていた(上記で「彼ら」と表記している)人物がかつて開設していたHPにもURLが貼られていたのだが、ご存じなかったようである。

かみ砕いて言うと、「不食なんぞというちっぽけな話をさもとてつもないことのように思いなすから、その程度すら出来ないのだ」ということである。

件の人物とフランクルの違いは、志の違いであるといえよう。

フランクルの話とその不食を目指していた人物については、思い起こせば前にも書いた。

復習ついでに、ブリサリアンによるその定義を改めて書き記しておく。

それはつまり、一般の食べ物から栄養を摂っていない状態なのだという。

だから、食べているブリサリアンもいる。普通に食事しているのなら、違いが普通には判らない気もするが、そういうことらしい。


引き寄せの法則とやらから語ったかもしれないが、その方面から言うならば、不食を志すというのはつまり、食べるということに意識が向いているので、食べることから離れていなかったということである。


この前の記事に、船井幸雄の言葉をうろ覚えで書いたが、何を食うかなどというのはつまらないことである。何かを食うのを目的にして、生きるということ自体は下になっているからである。そして、食わないから尊いわけでもない。食わないことを目的にしているのならばなおさらである。生き物にとって、生きる以上の目的はないのだろう。


生を見つめたものだけが、生のなんたるかを知り、もしかしたらそれを乗り越える何かを見出すのかもしれないというのならば、森で物を食って自然だなどとのたまうのが人の生の目的であろうはずはない。

不食を目指すだの森で自然に暮らすだのというのは、生きているのではなく、生きるための手段に拘泥しているにすぎないのである。

生きるための手段。人それを生活という。生きることと生活を混同していては、目的にたどり着くことはない。

生きること、というより命は手段であるという言葉もある。

それは大きな目的であり、なおかつ唯一の手段なのだという両義的なものだということをご理解いただきたいものである。


では、よき終末を。


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