船井幸雄という人がいた。もう故人である。
その方面では有名な方だが、実はまったく知らなかった。
その方面、などと書いたが、何の方面だっけ?という具合なほど知らない。
認識したのは、先日も書いた「彼ら」との関りで耳にしたからである。
そういうわけで、知ったのは何年も前になるが、今も経歴などはほとんど知らない。
「彼ら」の首魁が翻訳していた著作の原著者であるイギリス人活動家が、船井幸雄との対談本を出していたことがあって、それで聞くまでは、恐らく聞いた覚えがなかった。
さて、また聞きのような状態だが、故船井は、多くの対談本を出している。その際、あるスタンスを持って対談に臨んでいたという。対談だけというよりは、そういう風な思考的態度を取っていたという。
対談相手が例えば科学者なら、スピリチュアルだかの話を吹っ掛ける。
その反対に、上記のイギリス人活動家の如きならば、科学的な話を吹っ掛けていたのだと思われる。
少し覚えがある、という程ではないが、前述の対談本についての評価を何かで聞いたものである。
誰から聞いたか、どこで読んだのかまでは忘れたが、船井は彼に付いていけてないようだった、という具合だった。
実際に読んだわけではないので、拙には判断しかねるが、上記の話の振り方をしたが、空振りになっていたのかもしれない。
某イギリス人活動家は、スピリチュアルな話をする、というよりそれを目標に活動をしているのだが、その根拠に科学の話を持ってくる。
船井の両建ての理屈と似たようなところがあったのではなかろうか。
対談の際に、お互いが同じ程度の理解と認識しかないのなら、ただ話が盛り上がった風になっても、目ぼしいところがないために、広がりに欠けるものではなかろうかと思われる。
それ故、船井が付いていけていないというような具合に対談が落ち着いたのかもしれない。
別に対談本の話をしようというわけではなく、その船井の考え方は、「ダブルコンピューター理論」という名前がついているのだよ、という程度の話ではある。
その話を紹介していたのは船井ではなく、聞いたのも今年から去年にかけてであった。
とはいえ、この考え方はやっているようでいて、やっていないものである。
一つ例を挙げておく。
またもや「彼ら」の言だが、地球環境の破壊が進めば人間が生きていけなくなる!だから自然に沿った生活をすべきなのだ!理解しない奴らは云々というのは散々書いたものである。
理解しない奴ら云々は措くとして、これだけならよくある理屈である。テレビやらで環境汚染の話やらを垂れ流す時にも出てくるような決まり文句である。
しかし、そういう生活で地球が満たされれば、まるで未来永劫地球が回り続けていられる、というような言い草には納得できるだろうか?
地球を人体、つまりは生命体として考えろというのならば、物質的な形を持った生命体は、いずれかはその姿を変えるだろう。これを日常的には「死」と呼ぶ。
地球は死なないのだろうか?人間や動物、大木に育つような植物からしても、遥かに長いとはいえ、死ぬ時が来るのではなかろうか?
ネガティヴな波動が地球をどんどんおかしくして、このままでは地球が壊れる!という、スピリチュアルというかなんというかの言も同じである。
地球に生命体が湧いて、争い合わなかった時間の方が遥かに短い。人間だけではないというと論が外れそうだが、ご理解いただく。
昔、日本がハイジャック犯の要求を飲んだ時の言葉が「人の命は地球より重い」である。
重いのだから、原始時代の少ない人口だろうが四捨五入して百億だろうが、地球はネガティヴ満載であったのだから、もう既に壊れていてもおかしくない。
原始時代はユートピアだった、のような話はあるが、ユートピア時代の蚊は血も吸わずに生きていたのだろうか?
命が等しく重いのならば、蚊の恨みつらみで地球上の生物は相争うようになったのだろう。その時蚊を叩き潰していた奴が悪い。(蚊の話は、寝てたら噛まれたせいである)
仮に、太古の蚊がユートピアな生活をしていたのだというのならば(琥珀に埋まった蚊から当時の動物だか恐竜のDNAが採取されているのだが)、どうして血を吸うような生活を始めたのかを明かさなくてはならないだろう。蚊に限った話ではないが。
釈迦が言っていたそうだが、「劣悪な存在の方が遥かに多い」という。
釈迦の時代とその周囲が素晴らしい人たちしかいないから釈迦が悟りを得られたのだ、などというのは馬鹿げた言い草であろう。
でなければ、釈迦が諸国遊説の旅に出る必要などなかったことになる。ついでに、頼まれたから始めたという。
これは『スッタニパータ』にも書かれている。帝釈天に頼まれたというのは、作り話臭いところに思われるが、帝釈天は「どうかその素晴らしい内容を広めて頂きたい」とお願いしたとのことである。
よくある神がかりになった人というのは、神の命令だとか、わたしが神なのだとか、頼まれてもいないのに説教を始めたりするものである。頼まれてもいないのに説教などは、自分の胃が痛くなるところであるが、釈迦は頼まれなければ広める気は微塵もなかったのだという。
話が逸れた。ダブルなんたらの話になっていたかも怪しいが、逸れたついでにたとえ話をしておく。
アリという虫がいる。働きアリというのは働き者の例えになったりもする。南米だったかには、群がって動物を骨まで食い荒らす獰猛な種類もアリじゃなくてあるというが、その話は関係ない。
何年も前にバカ売れしたとある動物についての著作にあったが、働きアリの巣を見てみると、何もしていないアリが必ずいるという。
これをつまみ出せば皆働くのかというと、そうではなく、やはり同じ割合のアリがさぼっているという。
実際のところ、サボっているわけではない、というのは後年聞いたものであるが、高度な社会性を持っていると評判だったアリの評価が下がったというアリがちな話である。
さて、何が言いたいのかというと、我々人類だけかは知らないが、劣悪なものの方が多いのである。サボっているように見えたアリは、サボっているわけではないので別である。
釈迦の時代などと比べても遥かに人口が増えたのだが、割合通りに推移しているとするならば、やはり多いままなのである。
『蜘蛛の糸』ではないが、今日の悪人が明日の善人になっていたりもする(かもしれない)ので、個人個人のうちにすらその割合が適用できるのかもしれない。
統計的に示すことは出来ないが、つまりは、地球というのはそもそもそういう場所だというだけの話である。
ではどうするのか?それは自分で考える以外にはない。
考えた結果が森で自給自足でも問題はない。だが、皆が皆やらなくてはいけないと言い出すのはおかしいというのは散々言った。その理論も根拠もおかしいというのも上記を含めて以前から指摘したとおりである。
その件に絡んだ、船井が生前述べていたという言葉をうろ覚えで引用して皮肉としておく。
「最近の人は何を食べるかとかそういうつまらないことばかりを求める。もっと優先すべきものがあるだろう」
といった具合のことを述べていたそうだ。
人は物を食って糞便を垂れ流すことが目的だというのなら、映画『マトリックス』で主人公が繋がれていた培養カプセルの如きものの中にいるのとなんら変わりない。
それは、見ている夢が違うだけで、夢を見ていることにはまるで変わりない。
つまり、この世という「マトリックス」からは微塵も抜け出していないということなのである。
では、よき終末を。
その方面では有名な方だが、実はまったく知らなかった。
その方面、などと書いたが、何の方面だっけ?という具合なほど知らない。
認識したのは、先日も書いた「彼ら」との関りで耳にしたからである。
そういうわけで、知ったのは何年も前になるが、今も経歴などはほとんど知らない。
「彼ら」の首魁が翻訳していた著作の原著者であるイギリス人活動家が、船井幸雄との対談本を出していたことがあって、それで聞くまでは、恐らく聞いた覚えがなかった。
さて、また聞きのような状態だが、故船井は、多くの対談本を出している。その際、あるスタンスを持って対談に臨んでいたという。対談だけというよりは、そういう風な思考的態度を取っていたという。
対談相手が例えば科学者なら、スピリチュアルだかの話を吹っ掛ける。
その反対に、上記のイギリス人活動家の如きならば、科学的な話を吹っ掛けていたのだと思われる。
少し覚えがある、という程ではないが、前述の対談本についての評価を何かで聞いたものである。
誰から聞いたか、どこで読んだのかまでは忘れたが、船井は彼に付いていけてないようだった、という具合だった。
実際に読んだわけではないので、拙には判断しかねるが、上記の話の振り方をしたが、空振りになっていたのかもしれない。
某イギリス人活動家は、スピリチュアルな話をする、というよりそれを目標に活動をしているのだが、その根拠に科学の話を持ってくる。
船井の両建ての理屈と似たようなところがあったのではなかろうか。
対談の際に、お互いが同じ程度の理解と認識しかないのなら、ただ話が盛り上がった風になっても、目ぼしいところがないために、広がりに欠けるものではなかろうかと思われる。
それ故、船井が付いていけていないというような具合に対談が落ち着いたのかもしれない。
別に対談本の話をしようというわけではなく、その船井の考え方は、「ダブルコンピューター理論」という名前がついているのだよ、という程度の話ではある。
その話を紹介していたのは船井ではなく、聞いたのも今年から去年にかけてであった。
とはいえ、この考え方はやっているようでいて、やっていないものである。
一つ例を挙げておく。
またもや「彼ら」の言だが、地球環境の破壊が進めば人間が生きていけなくなる!だから自然に沿った生活をすべきなのだ!理解しない奴らは云々というのは散々書いたものである。
理解しない奴ら云々は措くとして、これだけならよくある理屈である。テレビやらで環境汚染の話やらを垂れ流す時にも出てくるような決まり文句である。
しかし、そういう生活で地球が満たされれば、まるで未来永劫地球が回り続けていられる、というような言い草には納得できるだろうか?
地球を人体、つまりは生命体として考えろというのならば、物質的な形を持った生命体は、いずれかはその姿を変えるだろう。これを日常的には「死」と呼ぶ。
地球は死なないのだろうか?人間や動物、大木に育つような植物からしても、遥かに長いとはいえ、死ぬ時が来るのではなかろうか?
ネガティヴな波動が地球をどんどんおかしくして、このままでは地球が壊れる!という、スピリチュアルというかなんというかの言も同じである。
地球に生命体が湧いて、争い合わなかった時間の方が遥かに短い。人間だけではないというと論が外れそうだが、ご理解いただく。
昔、日本がハイジャック犯の要求を飲んだ時の言葉が「人の命は地球より重い」である。
重いのだから、原始時代の少ない人口だろうが四捨五入して百億だろうが、地球はネガティヴ満載であったのだから、もう既に壊れていてもおかしくない。
原始時代はユートピアだった、のような話はあるが、ユートピア時代の蚊は血も吸わずに生きていたのだろうか?
命が等しく重いのならば、蚊の恨みつらみで地球上の生物は相争うようになったのだろう。その時蚊を叩き潰していた奴が悪い。(蚊の話は、寝てたら噛まれたせいである)
仮に、太古の蚊がユートピアな生活をしていたのだというのならば(琥珀に埋まった蚊から当時の動物だか恐竜のDNAが採取されているのだが)、どうして血を吸うような生活を始めたのかを明かさなくてはならないだろう。蚊に限った話ではないが。
釈迦が言っていたそうだが、「劣悪な存在の方が遥かに多い」という。
釈迦の時代とその周囲が素晴らしい人たちしかいないから釈迦が悟りを得られたのだ、などというのは馬鹿げた言い草であろう。
でなければ、釈迦が諸国遊説の旅に出る必要などなかったことになる。ついでに、頼まれたから始めたという。
これは『スッタニパータ』にも書かれている。帝釈天に頼まれたというのは、作り話臭いところに思われるが、帝釈天は「どうかその素晴らしい内容を広めて頂きたい」とお願いしたとのことである。
よくある神がかりになった人というのは、神の命令だとか、わたしが神なのだとか、頼まれてもいないのに説教を始めたりするものである。頼まれてもいないのに説教などは、自分の胃が痛くなるところであるが、釈迦は頼まれなければ広める気は微塵もなかったのだという。
話が逸れた。ダブルなんたらの話になっていたかも怪しいが、逸れたついでにたとえ話をしておく。
アリという虫がいる。働きアリというのは働き者の例えになったりもする。南米だったかには、群がって動物を骨まで食い荒らす獰猛な種類もアリじゃなくてあるというが、その話は関係ない。
何年も前にバカ売れしたとある動物についての著作にあったが、働きアリの巣を見てみると、何もしていないアリが必ずいるという。
これをつまみ出せば皆働くのかというと、そうではなく、やはり同じ割合のアリがさぼっているという。
実際のところ、サボっているわけではない、というのは後年聞いたものであるが、高度な社会性を持っていると評判だったアリの評価が下がったというアリがちな話である。
さて、何が言いたいのかというと、我々人類だけかは知らないが、劣悪なものの方が多いのである。サボっているように見えたアリは、サボっているわけではないので別である。
釈迦の時代などと比べても遥かに人口が増えたのだが、割合通りに推移しているとするならば、やはり多いままなのである。
『蜘蛛の糸』ではないが、今日の悪人が明日の善人になっていたりもする(かもしれない)ので、個人個人のうちにすらその割合が適用できるのかもしれない。
統計的に示すことは出来ないが、つまりは、地球というのはそもそもそういう場所だというだけの話である。
ではどうするのか?それは自分で考える以外にはない。
考えた結果が森で自給自足でも問題はない。だが、皆が皆やらなくてはいけないと言い出すのはおかしいというのは散々言った。その理論も根拠もおかしいというのも上記を含めて以前から指摘したとおりである。
その件に絡んだ、船井が生前述べていたという言葉をうろ覚えで引用して皮肉としておく。
「最近の人は何を食べるかとかそういうつまらないことばかりを求める。もっと優先すべきものがあるだろう」
といった具合のことを述べていたそうだ。
人は物を食って糞便を垂れ流すことが目的だというのなら、映画『マトリックス』で主人公が繋がれていた培養カプセルの如きものの中にいるのとなんら変わりない。
それは、見ている夢が違うだけで、夢を見ていることにはまるで変わりない。
つまり、この世という「マトリックス」からは微塵も抜け出していないということなのである。
では、よき終末を。
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