ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

超人歓呼して不全を為す

2019-09-06 | 雑記
最近、というよりいつものことだが、何かにつけて飲んでしまうため、何か思いついても書くのを忘れる始末。

その割には以前よりもプレビューは増えていたりと、少し不思議ではある。


先日は知り合いにふと思いついて、二時間くらいかけてケータイのメールで認めて送ったところ、後日に返信があった。

あったのだが、知り合いは大変な状況だったため、ご自身の状況を述べるに留まった。

何があったのかを書くのは失礼なので割愛する。


というわけで、何を思いついたのかを、掘り起こしてみたいと思うが、書けるかどうかは怪しい。途中で怪しくなってきたら、酒でも飲んで正体不明になる所存である。

姿かたちを変えるのか?というとちょっと違うが、似たようなものだろう。



最早この話しかしていないが、某陰謀論者とつるんでいたことがあった、と書いてきた。

翻訳出版までしていたプロでもある、というと、以前の経緯をご存知の方はピンとくるだろうが、それが誰かは特に関係ない。


さて。その翻訳出版していた本の中で、この地球を牛耳っている存在、というのも、究極に言えば、我々と同じような仕組みで生きていると認識できる人間と呼ばれる存在ではないからなのだが、それらの狙いだとかやって来たことだかを書いている箇所にこうある。「アメリカの工業を破壊」といった具合に。

それからどのように論が展開されたかは忘れたが、つまりは「脱工業化を促進し、アメリカを弱体化させることによって支配を完成させる」ということである。

人間が力を持っていると、支配に都合が悪いからである。その存在(分かり易くいえば宇宙人)は、その原著者の言によれば、「科学技術に偏執している」という。

そんな力を持たず、後ろ盾もない存在(人間)を支配するのは簡単である。

古い言い草だが、未開民族に現代の物品、身近な例でいえばスマホだとかを使うさまを見せればいい。魔法だ!などと言い出すだろう。

これが理解している現代人なら、画面の操作が覚束なくても(拙は持っていないが出来ることは出来る)、超常現象だなどとは思わないだろう。

とはいえ、どうしてこういうものが出来て動いているのかについては、やはり判らないが、それは余談である。


某翻訳者の方の主張は、人間は森に住んでいた生活が正しい!で、果物とか野菜などの植物が一番いいのだ!と言っていたというのも、何度も書いてきた。

そして、こう言いだしたことも書いた。「自然に沿ったものだから、自然に育った肉を食うのは正しい」と。

グラスフェドとか横文字で言う、牛の本来の食性である草で肥育した牛を食肉加工したものを食べていた。

森で果物を食べる生活を志した時に言っていたものだが、「本来の力を発揮できるので、超人になって宇宙人の支配を脱却できる」と言う具合の事を言っていたものであるが、ならば、かつての超人たちはどこに行ったのか?上記の原著者のいう宇宙人は、人間が森で難を逃れる生活を始める以前からいて、ちょっかいをかけて来ていたそうで、超人に戻ったぐらいではどうやら足りないらしい、などというのも言ったものである。

その張任(チョウジン)、じゃなくて超人気、でもなく超人氏は、とにもかくにも目に見える自然と呼びならわす風景こそが地球の本来の姿だと言いたいのだといえる。

そこで問いたい。地球の歴史はよく知られているレベルで結構だが、どれほどあろうか?

何かで聞いた話では、四十六億年という。

そして、その地球が出来た時から森があったかというと、そのよく知られている話からでは、森なんぞ存在しなかった。

いわゆる自然なんてなかったのである。だが、何かの拍子か介入かは分からねど、生命が発生し、現代に至った。

失われた記録と呼ばれるようなものがいくつもあるため(オカルト的ではなく学術的に)、学校で習ったような話でここまで来たのかは知らない。


地球は四十六億年と書いた。実際は知らんが、ともかく長い。少なくとも拙の年齢よりは古い。これでは理屈にもならんが。

では、その地球が浮かんでいるところはいつからあるのだろうか?同時に出来たのだろうか?

この世はホログラムで、3Dゲームの表現のように画面内の操作キャラが認識できる範囲を逐次作っているという説明を物理学がしているが、それはそれとして、同時に地球やら他の惑星やら空間を作り上げたのかどうか。

地球が出来る前からあるとしておいて、そうして地球が出来上がっていって、今に至ったと。

影も形もないところから、材料をかき集めて地球になったというのである。

我々が今立っているということは、そうして今を生きているというのは、地球が四十六億年というのを正当としていうならば、そんな年数より遥か以前から存在していたからである。

それのうちの何割か程度のものを見て、それが全てだと言うのは、地球にも己にも失礼であろう。


人の生まれることについて当てはめれば、もう少し理解できるかもしれない。


今、あなたがここにいるのは、父親と母親がいたからだ。孤児だったとしても、その繋がりがあったからである。

そういう不幸な生まれの方もいるが、それだとしても、その父と母にもさらに父と母がいた。延々と遡れる。姿かたちは分からないだろうが、それらの存在がなければ、今ここに立っていることはなかったのである。

話がそれたので、人一人が生まれることに準えれば、胎内に宿るまでは影も形もなかった。あなたの父と母が結びつくことにより、命が宿り、形をなし、そして生を受けた。

あなたは以前、現代人の言葉でいえば、何もなかった、存在しなかったのである。だが、いた。いたからこそ、今ここにいる。


我々は動植物が繁栄しているその循環を自然と呼びならわすが、拙は、地球を作り上げたように、また何もなかったところから人を作り上げたように、それらを働かせている諸力を「自然」と呼ぶ。


自然は「自然」の影である。我々の狭い認識範囲では、それを影だと認識出来ないので、全てなのだと誤認しているのである。


自然は有限だが、「自然」は無限である。

宇宙人に勝ちたいのなら、宇宙レベルで物を考えるべきだろう。


それが出来ないから、自然という価値観の押し付けを他人にしたがる。

今もそうしているかは分からないが、そういう「超人」は星の数ほどいる。自然の例だけでなく。

影に一喜一憂するのは、自然の存在たる我々人間の性なのである。


では、よき終末を。


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