ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

「何も」しなくていい

2015-07-22 | 雑記
何回も連続で同じ内容のことを、新たに導き出した話などを加えつつ書いた。

日をおかずに書いた二回目で「じゃあ、具体的にどうしたらいいのか」というのを書くつもりが、結局よく判らなくなったので、三度目の正直というやつをしようと思う。

ではおさらい。

「何をしたらいいのかわからない」という問いかけを受け、わしはあるときは怒り、ある日は「これも被害者か」と憐れみを感じたりと、中々に忙しかった。起きる暇も惜しんで寝るほどである。

双六に例えたら、サイを振る以外にはやることはないのである。あるといえばあるが、それは本筋ではない。

なのに、振ろうとしない。何ゆえか?という話であった。


約めていえば、ゲームに興じる気がないのに、その振りをしているからと考えた。

そこには恐らく、「やましさ」があるからだ、という結論であった。


無我夢中でサイを振ればよかろう、とは一応付け加えて終っている。


さて、これは飽くまでゲームの話だろうと思われるが、それで終るわけはないのである。


「やましさ」がゲームをするときにだけ出るものであろうか?そういう場合もあるだろう。


というわけで、「そんなしょうもないことを言う奴には少しものを考えてもらおう」という意図でもう少し書いていく。


余談だが、なじりたくてなじってるのではない。

「やましさ」から物をいうのは、相手をなじっているのである。それが「お悩み」を装っていようがだ。

だからわしはいやな気分になるのである。


さて、話を戻して。


あなたは朝起きた。昼でも夜でもいい。起きようとして起きた。

腹が減っている。昨日の残りものがあるのでこれを食べる。

なかったとしたら、何か代わりのものを探すか、水でも飲むだろう。


さて、お訊ねするが。

起きてきたら、いきなり「何をしたらいいのかわからない」などと言い出す奴がいたら、どう思うかね?

大体、そういうのは心神喪失状態だとか、錯乱してると思われてもおかしくないかね?

生まれて初めてその状態になった、ファンタジーな例えだが、いきなり20代の若者の姿になって目覚めた、とかいう状態ならいざしらず、今まで暮らしてきた上でそう言い出したのなら、統合失調症でなければふざけているだけである。

また余談だが、統合失調症というのは、そのファンタジーな状態のようなものになるといえるので、もしそうなら医者に慰藉を請うべきである。


まあ、そういう風に常に悩んでいるとして、「何をしたらいいのかわからない」と言いながら飯を食いだしたり、顔を洗い出したりしたら、やっぱりふざけてるとしか思われない。

本人は真剣に悩んでるとしても、見えないものは見えないのである。

言うまでもないだろう。「何をしたらいいのかわからない」などと人にしゃべりかけることを、そういう疑問を持っていても出来るのは、本当に「わからない」のか?と。


ついでに言っておくが、統合失調症の場合だと、そんな「日常的」な言葉すら出せなくなる。本当の意味で「何をしたらいいのか」わからなくなるのである。


何をしたらいいのかわかっておきながら「わからない」というのはやましさのせいだ、と断定して話をしていくが、そのやましさは常々命令をするものだと、前回書いた。

前回通りに言うのなら、「川原で水切りに熱中している子供のようにゲームに興じるのは馬鹿馬鹿しいことだ」と。

「川原の水切り」に興じるところで、それを馬鹿にしているのだから、「何をしたらいいのかわからない」などと言い出すのは、ただ他人を馬鹿にしているだけである。

これはしかし、冒頭の「おさらい」で被害者という言葉を述べたのを思い出していただければいいが、やましさが課す命令に苦しめられているともいえる。

とはいえ、己に命令するのは己だけでよい。やましさ、という他人の声に耳を傾けるのが常道だというのならば、「何も」しなくてよい。そもそも己からは「何も」してこなかったのだから。

そのような輩に、「これをしましょう」と提案してやったところで、また別の「他人」の声に乗るに決まっている。




ここまで書いたら腹立てるか泣き出すか、それともワケがわからんので無視するか、前者としたらゲームをやめるだろうか。

どちらでもよい。何をしているのかを理解しなくては、何も出来ない。それで辞めるにしても、「川原の水切り」に興じるのも己次第である。

理解したうえで辞めるにしろ興じるにしろ、それでようやく「何をしたらいいのか」わかったことになる。


まずはやましさの命令による行動に対して「何もしない」ことである。


でないと、また人を馬鹿にするだけになる。努々気をつけなさることだ。






さて、物騒な話だが、然る知り合いは、「両親及び祖父母を抹殺せねばならぬ」と言っておった。

これだけ書くと、気が狂ったか、ニュースになるような親殺しの話か?と思われるが、違う。


アリス・ミラーの話をよく書いてきたから、何人いるかしらんが、読んでる人は思い出せるかもしれない。もしくは他所で読んで知ってたら。

親というものは、子を躾けようとする。「躾け」と括弧でくくっていうが、この「躾け」というのは、つまりはその親がされたものをそのまま受け渡そうとする。

アリス・ミラーが書いた、「闇教育」という話である。

社会や家庭などが後押しする、躾けの名を借りた虐待である。

これが、流行の言葉で言えばトラウマというものになり、対人関係がギクシャクしたり、また、例えば飲んだくれの親を見て育って、嫌悪感を抱いていたのに、いざ自分が親になったら同じ事をしたりするというのである。


ミラーが書いたように、親というものを我々は神聖視する。というのも、種々の「力づく」で教え込むのである。

その、肉親に対する神聖視を、己の内側でしばりつけるその鎖を断ち切る、という意味で、「抹殺」というわけである。

ミラーは「抹殺すべし!」という風に書いてなかったろうが、神のように見えた親を神でなくするというのは、ある意味抹殺である。


そこはいいだろう。その知り合いについては、よい進展である。


さて、親や、親になっていくであろう子供達が、そういう「闇教育」に手を染めていくというのは、何も親や社会のせいだけではない。

自然環境による暴力。これも要因になる。現代の自然破壊というのは、これが原因というのも有り得るだろう。


では、地球を神聖視して、地球という親の言うことを何から何まで聞くのはどういうものだろうか?


これはまるで「躾け(闇教育)」によって魂を捻じ曲げられ、傍目には良い子だが魂の冷え切った子供ではないのか?


そしてそのような子供が長じてどうなるか?


「母なる地球を傷つける人類は全て死ね」という、ファシストになるのである。



親が子を「躾け」るのもまた、やましさなのであろう。ひどい親に育てられて嫌悪していたはずなのに、実際に親になると同じ事をするのも、「親は神聖なるもの」というものに対するやましさからだといえる。


やましさの声を聞くな。やましさによる行動をするな。

人は「何も」しなくてよいのである。それがやましさから出ているものであるならば。


では、よき終末を。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿