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在りし日は今も

2019-07-08 | 雑記
過日、仕事場で拙がヴィーガン的な生活を志していた、という話になった。

というものの、こちらは夜勤明けで、聞き手は仕事開始という状態。ただ、忙しくなる前ではあった。

ある人物たちとの関りと、どうして辞めたかについてを語ったものである。

ヴィーガンとは何ぞや、とは、昨今では改めて書くまでもないだろうが、簡単に言うと、ベジタリアンの一種と思えばよろしい。


ある人物たちとの関りについても、ずっと書いてきたものである。


ヴィーガンの上位種として、フルータリアンを設定し、それを基にした農耕生活を志そうとしない一般人は馬鹿で救いようがないから死んで結構だと、公共の場でこそは言わなかったが、当時の拙を含めた仲間内では実際に口にしていたという、ある人物の話である。

所謂宗教でいう、神だとかを措定し、そこから物事を決めるやり方に似ているので、拙は「ただの宗教」と断じたものである。似ているというより、そのものである。

宗教、という言葉についても、これは価値相対化を狙った言葉であるらしい、という話も書いたものだが、ひどくかみ砕いていえば、上にあるものを引きずり下ろすために流布されたといえる。

真理という言葉は発すればたちまち発散する、と誰かが言ったそうなので、余り言いたくないが、宗教自体は真理ではない。真理から遠ざけるためにあるともいえる。

本当の事でないことを本当だと言われたまま疑うことを知らぬのならば、それはただの信者であり、奴隷でしかないのである。


上記の彼ら、-次にこの下に示すときは「彼ら」と書くが-の神は自然環境豊な状態での地球である。そうでない地球は「馬鹿な人類」が壊してきているので、違うのだろうと思われる。

その「彼ら」が実際にWebサイトに載せていた話でもあるが、地球を人体になぞらえて考えるべし、というものがある。

ある学者が提唱しており、ガイア理論及び仮説と呼ばれるものがあるが、その説に則ると、地球はご老体であるそうな。

日本でも天皇が生前退位を特例で行われたが、理由の一つが高齢だからである。もう疲れたから、というと怒られそうだが、このまま天皇としての責務を全うするのは難しいから、というわけである。


高齢の上皇、上皇后両陛下は、それほど前でもない日に入院して手術をなさったりしていたというのはニュースなどで覚えがある方もおられようが、確実に寄る年波を自他共に感じている状態といえる。


昨今の自然災害の頻発を、地球の高齢化と結びつける必要はない、とは断言しないが、人間で例えれば、「老人は怪我や病気の平癒までに時間がかかる」のである。

原爆の実験だとかで地軸がずれたという話も実際にいわれている。しかし、戻ったという話もない上に、そのまま地球は回っている。

人体になぞらえれば、歯が折れたりしてかみ合わせがずれたのと同じといえなくもない。

虫歯の治療ということで、銀歯を詰めたりして前のかみ合わせに近い状態にしたりすると、体の具合が一時的におかしくなったりするのだが、体はその状態に合わせて調整しようとする機能があるためで、銀歯を抜いたら戻ったりすることもある。逆に、かみ合わせを虫歯前に近い状態に戻した方がよかったりもあるので、時と場合によるが、何にせよ、状態に慣れることが出来るのが、人体の柔軟性という奴である。


自然豊かな地球は尊いと宣うのはお好きなように、ではあるが、かつての地球がどうこうと老人が若者に対してよくやる説教の如きは、実に無意味である。

学説通りなら、地球は最初は火の玉であったろう。それも地球なのだが、その話は無視する。

その次は水に覆われていたそうだが、その話も無視する。

「彼ら」が翻訳して一時は絶賛していた、イギリス人の某活動家が言う通りなら、月がやって来たせいで、水の天蓋で覆われていた地球は安定した気候だったが、月の引力のせいでそれらが落っこちて水浸しになったという。そして日光が直接突き刺さる、過酷な環境に変わってしまった、というのである。

そしてまた、月が離れてしまったとしたら、地球も壊れてしまう状態ではある、ともいう。これは学説でもあったと思われる。

自然というものが豊な状態が地球の本来の姿、というのは、時代を通してみれば一部でしかないことを持ち上げているに過ぎないのだといえる。

水の天蓋の時代が事実だとして、その時の気候で生えていた植物と今現在の植物は同じだろうか?違うだろう。

恐竜が跋扈していた時代の植物は、シダの仲間ばかりだったとか読んだが、現在はシダしか生えていないのだろうか?違うだろう。

人類は野菜と果物を食うように出来ていると「彼ら」も「彼ら」の参考にした存在がいうが、子供は母乳を飲んで育つのだから、死ぬまで母乳を飲むのがよかろう、とは誰も言わない。

地球が母親ならば、いずれ母の元を去る日がくるのは必然である。子供だった存在がいつまでも母の乳房をしゃぶり続けることはないように。


さて、ここまで書いておいて思い出したが、その「彼ら」は、実はヴィーガンではなくなっている。

この話もしたが、グラスフェドつまりは草を食べて飼育された牛肉を買って食べているそうだ。自然に暮らす牛を食うのは自然なことだというのと、「体が喜んでいるから」という。

自分に正直なのは大変よろしいが、かつてはその感覚について、「刷り込まれた常識に過ぎない」と断罪していたものである。

文明生活のひどさを指摘するのは結構であるが、その「自然だ」と礼賛する、グラスフェドの牛肉とやらを食べられているのは、実はその文明生活があるからに他ならない。


上記のイギリス人活動家の著作に、「あなたはバスの運転手になるために生まれてきたのか?違うだろう」という風な問いかけがあった。バスの運転手云々は一例であって、そのことだけを取り上げているわけではない。

人は何かを食べるために生まれてきたのか?その何かが食べられなくなったら、死ぬのか?死なないだろう。

かつて「彼ら」は、「あなたの目的は何だ」と問いかけ、他者の回答を全てけなしたうえで、自信たっぷりに「フルータリアンになるのが目的だ」などと言っていたものである。

ちなみに拙は「仙人になること」であった。

余談になるが、フルータリアンと仙人では、次元が違う。フルータリアンは環境に左右されることを前提にしているが、仙人は状況に左右されないことを志すものである。

環境に何とかしてもらおうという甘ったれた思考から一歩も抜け出さないので、グラスフェドがどうだとか自然環境がどうだとか、何も変わっていないのである。

人は何かに跪いて慈悲にすがるために生まれてきたのか?地球に慈悲を乞うためなのか?違う。


人は人であることが何なのかを理解し、かつそれを乗り越えていく存在なのである。この理屈は拙独自のものではないことをお断りしておく。


もう消えてしまったHPにあった話をかつて引用して書いたものだが、要約してまた書いておく。


宗教というのは、生活パターンの謂であり、その権威付けとして神を措定したのだという。そうすることによって、共有感覚が生まれ、生活しやすくなるのである。

そして、我々はそれを乗り越えていく始まりなのだと。

宗教、つまりは生活のために生きているのではないということである。

ついでに書いておくが、生活を投げ捨てろという話でもないことをお断りしておく。


あなたがバスの運転手かは知らぬが、それになるために生まれてはないだろう。父親や母親だったりもするだろうが、そのために生きてきたわけではないだろう。

生まれて食って死んで土に返るのが目的だというのなら、真理だと宣うのなら、それは奴隷の教義である。人であることを放棄している。


答を神に設定して、そこから物事が出ていると考えることと、神が何を考えているのかを知ろうとするのは、正反対の理屈であるという。

前者は思考停止である。後者はというと、神の心を知ろうというのは、神になろうというのと同義だという。


前者の理屈で神を地球に変えてみるとよい。「彼ら」の言動そのものになる。

同じくヴィクトリア朝時代の科学者の言にするとよい。「彼ら」と理屈の流れは同じになる。

いきなりヴィクトリア朝時代の科学者なんぞといったが、その言はというと、「物質があるだけで、神などいない」という具合である。

改めて書くならば、神を物質に変えてみるとよい、となる。その理屈はまさに現代社会そのものである。


「神」の元に跪かせようという奴隷の教義に反抗して立ち上がってこそ、本当の人間として生きられるのである。

人は跪くために生まれて来たのではないのだから。


では、よき終末を。


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