ウヰスキーのある風景

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人の形

2011-07-02 | 雑記
ここで書いても訴えるべき相手に届かない、というか見たとしても凡そ理解も出来ないかしようともしない、といいたくもないがそんな気もするのだが、モヤモヤするのでつい早朝に目が覚めてしまった。

とりあえず、具体的な話は後にしよう。


いまどき、「TV、アニメ、漫画、ゲーム」と言ったものに一切触れたことがない、という人はかなり珍しいといえる。じいさんばあさんだってBGM代わりにTVをつけている、というのはあるだろう。


どこかで読んだのだが、一昔前に、こういう証言を聞いたという話がある。

学校の同じクラスだかの、銀行だか役所だかの、所謂「高級」な部類に入る家庭の子供が曰く「うちでは、ゲームもアニメも漫画もTVも禁止なんだよ」と。


それを聞き書きした人間の発言は、ちと荒唐無稽に聞こえるだろうが、こうだ。「支配者に近い人間たちは、これらが洗脳に使われるのを知っているから、子供に与えなかった」と。


ついでに新聞も加えても構わないかもしれないが、問題はそこではない。


マクドナルドはどこで食べてもまず同じ味になる。といっても食べ比べたことはないが、あの店のマクドナルドはうまい、などとは聞くはずもない。

要約すれば味覚の平板化、画一化、というわけだ。いつでも、どこでも、同じ味を、うまいと思わせる。


さて、「高級」な家庭が禁止した物は、換言すれば、「情報及び感情の平板化、画一化」といえる。いつでも、どこでも、同じ情報を、つまりはそれを元にして動く感情を、自身の感情だと思わせる。



話は戻る。


TVを見ない、漫画、アニメも見ない、という人物がいる。ネットのニュースすら見ない、検索サイトのトップページに出るようなニュースはTVと同じだからいいとしよう。そういう人物がいる。

一廉の人物だ、と皮肉も込めずに思いそうになるが、そうではない。趣味も生活もゲームなのだとかいう。


趣味も生活もゲームだが、思慮深く、物事を根本的な側面から判断しようとするような、いわば「知性」のあるような人間ならこれも問題ない。知識や情報がないだけなら、話は通じるからだ。だがそれもない。


昨夜になる。某ゲームのチャットで、日本にはびこっているとある国の話をしていた。きっかけはちょっとしたことで、話のついでというやつだ。

ステージの間、こういうことがある、とまあ、こっちもずっとしゃべっていたわけだ。悪口、と単純な思考の人は思うか知らんが、例えば、この時期に「半島からの食品の衛生検査を簡略化する法案」を日本政府がグルになって通そうとしている、というのを聞いて、単純に悪口と思えるだろうか。だが、単純だった。

ステージが終わり、普段ならもう少し続けていたであろう時間だったが、「今日はもう終わります」と切り出してくる。そして「疲れました」とも。わざわざ「疲れた」などというあたり、しょうもない。


その入れ替わりでやってきたメンバーに、これまた聞くともなしに聞いたのが「一廉の人物と一面では思えそうな生活」だった。


以前も、その「一廉の人物」は、特定アジアの話しになると「差別している」と、破綻した論理で怒り出したものだった。

そのうちの理由の一つが、「中国の文化とか好きだし」だったのだが、その時はあまり気に留めることもなかった。


しかし、先ほど聞いたとおりの状況なら納得できる。


人間の観念というのは、現実の認識というもの自体だが、有態に言ってしまえば妄想なのである。3DCGの空間に立体的に見える絵を描いたり、最近は、3DS付属のカードをそのカメラから映像を映すと、立体的な絵が浮かび上がって、擬似的に触れるというのが出ていたりするのだが、こういうのを「仮想現実」だとかいう。飛び出すカードはまた別の言葉があったが、忘れた。

いわゆる現実は、あたかも3DSのカメラで付属のカードを覗き込むかのように、人間の観念というカメラで覗き込んで出来上がっているわけだ。しかし、規格品じゃないから、人によって見え方や感じ方もまちまちであるが。


つまり、妄想の上に妄想を作り上げるような行動を普段行っている(人間一般がそうだといえるのだが)うえに、さらにその妄想を純化する生活(ゲームだけやってる)から導き出されるのは、好き、嫌いの感情自体も妄想以上の幻覚だというわけだ。

コカの葉は、自生している地域の人々にとっては、疲れたときに齧ったりして、日々の生活にある、健全なものとして共に過ごしている。多量に齧る鉱山労働者は、注意散漫になって事故の原因になっているかも、というのはあるが。

さて、コカの成分を精製して純化するとどうなるか。おなじみの「コカイン」になる。多量にコカの葉を齧るのと同等か、それ以上になるというのは想像がつくだろう。


取り敢えず、理論は一度措くとする。



また具体的な話に戻るとして、その「一廉の人物」は、特定アジアが、日本と日本人に多大な害悪を与えているという具体的な話をしても「差別だ」という。しかし、実に単純で、そして奇妙で、本人も決して気づかないのだろう。


「差別だ、といって特アをかばうあなたは、日本を差別しているのだ」と。


これが差別でなければ何を差別というのだろうか。そして、「弱者をかばう」という麗しい偽善でしかないという事にも気づけない。人間だと思っていないから、憐憫の情でしか見ないのである。



一時期、「ゲーム脳の恐怖」という本が出版されて、どこが盛り上がったのかよく知らんが、盛り上がったものである。TV関係のメディアはゲーム叩きに使っていただろう。

読んではいないのだが、著者のプロフィールを見ると、ちょっと奇妙である。大学は文学部を出て、院は物理だとか生物学になったという。よく勉強した人なのか、と思うが、文系と理数系の隔たりは勉強で乗り越えられるものなのかどうか。

不備が、というより思い込みで書かれたところが多く、学術的におかしい話も目立つので、マスメディアは結構持ち上げたが、一般読者レビューはぼろくそだった。


別にこの本をけなすためではない。むしろ褒めたくなったからだ。


ずっと上の「高級」な部類の家庭がアニメやゲームを禁じた理由を「下級な人間を洗脳するためのものだから」ということから考えれば、いわゆる科学的なデータがちゃんと出てこないのは、「出せるような設備がちょっとした研究所には配備されていなかった」からなのかもしれない。そこはまあ、妄想としてくれていいが、そんなデータよりも分かりやすい具体例にお目にかかれたではないか。


「日本人を差別している」ということに思い至れない思考停止を、別にゲームだけに換言する気はない。もっと言えば我々が「当たり前」だと考えているもの全部だ、というところなのだ。


「一廉の人物」の経歴を調べたわけでもないし、探偵でもないからやらんが、一般的なものと仮定して語るならこうだ。

日本の然る地域で生まれ、一般的な家庭に育ち、一般的な教育をある程度受ける。そして一般的な職場である程度の労働をしている。このうちのいずれかの時期にゲームと出会い、現在はゲームばかりをする。


さて、何が問題か?日本が問題だ!といえばある意味正解としておく。この先は考えてもらいたい。答えが決まっている人は「一廉の人物」になってしまうのだから。


こんな話を書いておいてなんだが、最後にこちらも「一廉の人物」たらんとして、ゲームの動画を貼り付けておくことにする。


第十七夜



今朝、目覚めて上記の話を思い出すにつけ、「ゲームなんぞやるもんじゃない。やめようか」などと考え出す始末。ただ、あんな知性も想像力のかけらもない「一廉の人物」になるくらいなら、やらないほうが健全である。では、また。