ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

見覚えのないもの

2011-07-08 | 雑記
今日は久しぶりに、といってもそれほど間隔は空いていない気もするが「和」に行ってきた。

ただ、前回までと比べてさらに気持ちが重くなりつつあった。ここでだけは肉やらなんやら気にせず食べようと思ったのだが、それすらも辞めてしまおうかと。

魚は許可しようとは思っている。ただ、家では食べないことにしている。では何を食べるのかというと、野菜と穀物メインである。果物があったほうがいいのだろうが、単純に苦手な果物が多いだけで、食べようとしない。


酒も体には良くないのだろうといわれそうだが、先月始めたタバコ同様、体そのものよりも心の健康によいのかもしれないと思う。タバコ始めた理由を「健康にいいから」というのは半分は嘘に近い。

ただし、ここにも以前引用したとおり、一般の紙巻タバコは毒物の塊といえるので、JTが販売する中ではおそらく無添加の刻みタバコをキセルで吸っている。タバコなら何でも良い、というわけではない。


余談は措くとして、いつもどおり、泡盛一杯と島ラッキョウ(鰹節が添えられている)とスクガラスできっちり飲み終えるくらいにして、さてどうしようかと考える。肉はどうしたものか。

ええい、悩むなとソーメンチャンプルーを頼んでみた。案の定、豚肉が入っていた。本当に茨の道を突き進み始めたようだった。


合気道の創始者、植芝盛平は徹底した菜食主義者で、食卓に肉が登ると気分が悪くなって数日寝込むほどだったという。食べたからなのか見るだけでもなのかは某辞典の記述ではわからない。

合気道が神道などと合わさり、一種の宗教的な側面がどうこうと書いてあったような気がする。肉を食べるのを体が拒否するのと同時に、宗教的とも言える信念がが食肉を拒んでいるのかもしれない。


自分はそこまで徹底できなかったのだが、今回は食べながら考えた。肉が体に悪いとTVやマスコミは言わないが、悪くもあり、やはり、倫理的にも食べたくもなくなったようだ。




食べ終えて会計を済まし、毒を食らわばじゃないが、サーターアンダギーも、と思ったが、今日はなかった。

代わりに、外のコンビニでマカロンみたいなお菓子を買って、大量の茶と共に食べつつネットを暫しやってから横になった。



本編が短くなると思ったので、経緯を書いたら長くなったが、要するに、夢を見た。


目に映るのは恐らく自宅のパソコンの前に座っているのだろう、画面に何か映っている。

どうやら自分のブログなのだが、ここにあるブログではない。何度かログイン画面を出たり入ったりしていたが、どうやらここと同じブログのようだった。

見たこともないブログレイアウトで、タイトルが「人形のある風景」だった気がする。捻りも何もないのは、どうやら夢の中にもこのブログがある上でわざと作ったらしい。

記事は三件ほど投稿してあったように思う。最後の記事にあったコメントで、返信でない他人のコメントの日付が去年の五月一日だったように記憶している。

記事の内容はよくわからない。が、ここも大概だがおよそ一般には受け入れられない内容である。世の中の真実を暴露して公表する、というようなものだと思えばいい。

最初のコメントの一言が「人形のお話はどうなったのかな」だった。以下は何行かに渡って、驚いた、なかなか受け入れがたくて困惑している、というようなコメントだったように覚えている。

他人が書いたコメントはなんとなく覚えている(夢の中だから自分かもしれないが)のだが、自分の返信コメントについては、夢の中で見たのかもしれないが、分からない。

タイトルがここのモジリで、そこにもこのブログがあった上で書いたであろう、というのは、最後の誰かのコメントの内容の概要が「今までグラフィックボードの話やらで多少有名になったのに、なんでこんなものを書いているのだ」というような内容があったからである。そうか、夢の中では有名だったのか。

そのコメントの日付を見て、もう一年ちょっと経つのか、どうしようかと考えつつ、最後のコメントに対してその当時した、自分の返信コメントを確認していたあたりで夢が終わったようだ。


夢というのは、実は他人との記憶の共有をしているんじゃないか、などという話がある。でないと、見たこともない風景を見ている理由がでてこない。

もしかしたら、本当にそんなブログを書いていて、すっかり忘れているだけなのではないか、とちょっと思ってしまったほどだった。


しかし、「人形のある風景」か。モジリで作っただけにしては何か異様なものを感じる。


ちょっと前に掲載した罵倒、というか批判だが多分罵倒記事のタイトルが「人の形」だった。


人の形、というもので面白いものがある。沖縄の伝承で、真似形(マネカタ、マニカタとも)というのがある。

細かい話は知らないが、然る悪魔召喚RPGで登場したこともある存在で、名前はそこで知ったのが初。

彼らは人の形をしてはいるのだが、時折痙攣したような動きをする。物の考え方や発言の仕方もいわゆる普通の人とは違い、動き同様、ぎこちない。上記のゲームの中の表現ではあるが、どこかで読んだのもそういう風であった。

それらは、人から生まれたものではなく、泥だか何かから生まれた、人の形をしたもの、形を真似たもの、というわけである。

実際は、沖縄の風土病のような精神疾患の症状のことを指すのではないか、という話だった気がするが、読んだものもマネカタを掘り下げるためのものではなかった。


さて、「人形のある風景」はどこを指しているのだろうか。


ブログ主の部屋にある人形を指しているのだろうか。それともブログ主が「人形」なのか。もしくは、「日常」と思しきものが「人形」のある風景でしかない、というアイロニーなのか。

夢一つでゾッとする日が来るとは思わなかった。


別の意味でゾッとする夢といえば、ゲイの某インディーズ系プロレスラーと屋上のステージでギャラリーに囲まれつつ、相撲を取ったという夢を見た。何故か自分の前のやつの試合はボクシングか何かで、殴り合いをしていたのだが。

ゲイのレスラー相手に相撲というのが狙っているとしか思えなかった。そして笑える事に、かわづがけで勝ったような気がする。

その屋上も見たことがないし、周りの人間もあったことがない。レスラー自体も写真とコラムは見たが、試合も見たことはない。

わけがわからないが、わけがわからないので構わない。気合と金があれば、やつの試合を遠巻きに見守りに行ってみたいものである。


さて、最後に。

お前は節電しろ!と前にいわれたことがあるので、夜は蛍光灯をつけずに過ごしている。まあ、パソコンと扇風機(ほぼPC冷却)や、炊飯などの電気は使っている。

しかし、PCのモニターの明かりでは無駄にまぶしいし、さらに蛍光灯はもっとまぶしい。モニター消せば何もとはいわないが、見えない。

ふと思い立って買ってきた。




もう一枚。


何年ぶりだろうか。この淡い光を見たのは。

地震の直後はTVで「ろうそくを使うな」という話を盛んに言っていた。爺さん婆さんが消し損ねて火事になる云々と。

そりゃ普段扱わないものを、しかも電気をつけるかのようにやっていたのならいつだって火事を起こせる。

パニックになってそのうえTVがいうものだから、皆、電池やら懐中電灯を買いに(買い占めたり)した。普段の備蓄ならまだしも、買占めは論外だろう。だが、明かりが欲しくなるのは仕方ない。

非常におかしな話だが、巨大な災害でインフラが壊れたときに、「充電式」のランタンなどになんの意味があるのだろうか。

想像してみよう。近所の電線が全部ぶっ倒れていて、それでいてもあなたはコンセントに刺しこんで充電を試みようというのだろうか。

普段充電していたのなら、しばらくは持つだろう。飽くまでしばらくである。再起不能なほどの災害(地震だけでなく)で現代のインフラなんて存在しない状態になっても、あなたは充電式ランタンを抱えているのだろうか。


夏だけでなく、これからは夜はこれで過ごす事にする。一本つけていれば、キセルの点火にマッチが要らなくなる。それに、蛍光灯の明かりは嫌な感じがする。


お前の言い草はまるで真似形だ、とお笑いになるのはご自由に。それならばこう言い返すだけである。「あなたは速やかに「命令」をこなす「人形」ですね」と。では、また。