ウヰスキーのある風景

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活きカエル

2011-07-18 | 雑記
前回の怒り狂ったような記事でなけりゃ、これを載せる予定だった。相変わらず長く書きすぎで、脱落者というか見ていない人が続出か、見ても反応に困っている事と思う。





というわけで、やっぱり皮パッチでした。合成なのか本物なのか。それは分からなかったが、恐らく本物の皮に違いない。牛さんのカルマとやらを背負ってこれからもっと慎ましく生きていきます。


着いてたタグに全て日本人製(赤いアンダーラインで)です、と書かれていたのが、返って不安を煽る!と思ったが気にしても仕方ない。破れるまで穿くことにする。実にしっかりした生地で、こだわりらしいところも随所に見られる。ああしかし、これもゴイm・・・いやなんでもない。



話は戻る。前回のは言いすぎ思い違い、なんでもござれ状態だが、少なくともパチ屋に金払う事になる以上は、やるわけにはいかない。

また思い出話的になるが、某メーカーがどっかで「クソゲーメーカー」と評されていた(実際、自分も感じるところがあった)話をしたら、「一廉の人物」が突っかかってきたことがあったものだ。

「何某シリーズはクソゲーじゃない」と。正直、あれこそもっともクソゲーだと思っていたのだが、言わなかった。

しかし、今となってはこう言うしかない。「ゲームという存在自体がクソゲーだ」と。


別にやってて楽しくないわけではないのだが、この楽しいという状況はなんなのか考えるにつけ、ここ最近、聞いたり感じたり考えたりしたことを踏まえると、実際は楽しくもないことを楽しいと思い込まされているのではないか、そういう答えに行き当たってしまったわけだ。


「ゲームをプレイして楽しい」という感情を「幸せ」だ、と感じるわけだが、それはそれで間違いはない。何やってもそうだろう。ただし、幸せ、という言葉になっているこの「幸」という字には恐ろしい意味がある。

どっかのブログで見たのと、実際そこで取り上げていたTV番組をたまたま見かけたことがあったのでよく覚えている。細かい内容は忘れた。ブログのURLはあるのだが、記事の日付がわからない。


漢字は言うまでもなく、古代シナで発生し、仏典やら論語などで日本に伝わってきた、などという話はさておき、そのTV番組でなんとか川ショーコが説明していた話の概略。


「幸」という字は、手枷を嵌められた(足枷もかは忘れた)状態の人の姿から来ている。


字源のもっと突っ込んだ解釈は言っていたか忘れたが、そんな状態だが生きているぞ、というわけだ。

改めて同じ意味のことを言うと、「幸」という字は奴隷の状態の人間を指す、というわけだ。


TV番組の話はその先があったか忘れたが、それを取り上げていたブログの記事ではもう少し気になる事を言っていた。


海の幸や山の幸、というのだが、この「さち」とはなんぞや、という。

恵み、というにもちと違和感がある。恵の字についても何やら書いていた気がするが、いい意味ではなかったように思う。


さて、手枷を嵌められた奴隷というのは何なのか。奴隷というのはつまり、贈り物だったり、貢物だったり、戦利品だったりするわけだ。

手枷嵌められたまま脱走している奴隷を見て「幸」が出来たとは考えにくいだろう。見た目は奴隷、心は野獣。あんまり格好良くなかった。

どこかに連れて行かれる姿であるわけだ。もしくは、もう保管されたか。皇帝や王族の居城、有力者の邸宅などへ連れて行かれると。

こうすると、奴隷とは支配者たちの「獲物」といえる。朝貢の品や戦利品だというなら、つまり「幸(さち)」とは獲物だ、といえる。


昨今のメディアでも宗教でも「幸せ」がどうこうと説く。不幸になりたくないだろう!?と脅かしつつ、幸せを目指せ!とこっちでも脅迫してくる。


具体的な話をしようか。パチ屋がどうこうと言ったし。

パチンコ自体は、長い目で見たら店が儲かるようにしか出来ていない。やり始めた人に大当たりをさせて、また次も大当たりを出ると思わせ、足しげく通わせては金を巻き上げるわけだ。

遠隔操作でそういうカモのいる台に大当たりを出させる、などという話があったりするようだ。読んではないが、探せばすぐ見つかる話だろう。

つまり、パチンコで大当たりに「出くわして」しまって、「幸せ」を感じてしまい、足しげく通う「奴隷」になってしまう。パチンコ屋の「幸(さち)」になるわけだ。


さらに「幸せ」を感じてしまう前提としては、「金」が全てという感覚、というより「信仰」がある。

昔、TV局を買い取ろうとしたデブが「金で買えないものはない」といったが、普通の人はああいう言葉に眉をひそめつつも、似たり寄ったりなのである。


双子の百歳おばあちゃんで、CMで有名になった「金さん銀さん」という方々がいた。あちこちTVの取材やらでギャラをもらったらしいのだが、「ギャラはどうするのか」というある取材にこう答えた。

「老後のために貯金します」と。


死んだ人を槍玉にあげたいわけではないのだが、根本的にはその上のデブと金さん銀さんも我々も似たり寄ったりなのである。


金がないと生活できないじゃないか!という。そりゃそういう仕組みになっているし、ないと思い込んでいるからだが、普段から「金がないと不幸になるぞ」と脅しを食らって生きてきて、パチ屋でフィーバーして「幸せ」を感じたと思ったら実は手枷を嵌められて「幸(さち)」になったというわけである。さっきの双子のばあちゃんやせっせと働く普通の人なら「お金一杯ためて幸せになろう!」というわけだ。

別にパチンコ屋や、お金だけではございません。政治、経済、医療、食品、娯楽、インフラ、ありとあらゆるものにそういう仕組みが着いて回っておるのです。

一日三十品目を目指して食餌をしましょう、肉も乳製品もバランスよくとりましょう、と医者はいう。実際は栄養過多が癌などの生活習慣病の原因になっているといわれている。肉食や動物性脂肪の摂取の上昇に比例しているという。そして、癌になったら(「早期癌検診」なんていうのもございますな)入院して、大して効きもしないくせに副作用たくさんの抗癌剤を投与しまくって、搾り取るだけ搾り取る。そういう腐れた現状を見てきたがために、看護婦を辞めたという人もいる。

ちなみに「癌」という字、品を山ほど摂ると病になる、と見える。こいつは先日どこかで読んで得心したのだが、日本の現状にぴったり当てはまっている。(前々からの原子炉からのや核実験の放射性物質の組み合わせもあるかも?などという話もあるが)

医療業界の「幸(さち)」になってしまっている、といえる。

食べ物をそれだけ食わせれば、食品業界が儲かる。あの手この手で、なにやら調子が悪いならこれも食べましょうあれも食べましょう、とやり込めて、ついつい我々も乗せられる。食べ過ぎて眠くなって何やるにも億劫になる。考える気力も失せるが、食べれば健康になると思って、食べられるだけ食べ続けてしまう。

これは、食品業界の「幸(さち)」になっている、といえるわけだ。

医療と食品だけ二つ切り取って見てみたら、なんとなく相互に補い合っているように見えないだろうか。なんとなく、は語弊があるので、グルだとしかいえないな、と言っておこう。うん、違いない。


全部が全部、結託して悪巧みをしている、とはいわんが、大きなところが大きく宣伝するものは大抵、どっか裏で繋がっていると考えて差し支えない。上の二つなら「幸せ」を「健康」に置き換えて脅かしてきているだけなのだから。

彼らの言う「健康」が実際に健康になるのなら、一切問題はない。それで健康になるという話は実際、数十年前に提唱していたアメリカが否定してしまったのだから、聞く耳持つだけ無駄ではある。


我々は「不幸」になりましょう。完全に「不幸」になったら(お金を完全に否定する状態へ現状のまま突入したら)生きてはいけないので、ほんの少し今より「不幸」になりましょう。


今日もどこかで「幸せになりましょう」と言ってくるだろうが、「不幸で結構」とお断りするのである。私はあなた方の「幸(さち)」ではありません、と。


パチ屋に金をやらない、菜食主義の少食(で本当の健康らしいものになるとして、藪医者に金がいかない)というのは、実際に自分自身のためにもなる上に、世の中を正すための抗議運動でもあったのです!と大げさな事を言ってみる。


本当は自分が目指すのは「霞を食って暮らす」ことなのだが、現時点でも「和」の兄さんには「仙人」の評価を戴いている。

その安生仙人の体重と体脂肪率を昨夜、仕事場の体重計で量ってみたら、こんな数字になった。端数は忘れた。

     体重:48~49kgの間

   体脂肪率:9.6% 


ちなみに身長は変動してなければ(朝と夜で伸び縮みは少しするらしいが)163cmである。

仙人になる前に昇天じゃないかと思うだろうが、いたって元気である。


四、五年前には断食をしてみた覚えがある。といっても、夜にちょっとスープを飲んでいたが、内容もひどいものだった。市販の鶏がらスープに具が溶き卵と木耳のスーラータンもどき。

あの時は、体重とともに筋肉も激減していたようで、「末期だ」といわれたものである。食べたいのをやせ我慢していただけなのだった。

今も末期だと言われているが、床で寝てても体が痛くなくなったり(「和」の兄さんいわく「修行の成果だ」)、夜勤明けで一駅前から歩く日課の後に、寝ないでちょっとしたら散歩に出かけたりと、自分でもおかしくなったんじゃあないかと思うような状態である。空腹もやせ我慢ではなく、体が動かないわけじゃないのに食べる必要はないのだろうと思ったら、そちらの方が自然だと感じただけである。

昼間、部屋にいても暑いとは思うが、クーラーがないと耐えられないという気がしなくなったので、窓を開けるだけで過ごしている。扇風機はPCの電源が入っているときにのみ、そっちに向けている。

それと、部屋の電気を消してPCの画面に向かっているのだが、目が疲れた感じが全く出てこない。長々と書いていたら明るくなってしまったが。ちなみに、節電なんかじゃなく、蛍光灯の明かりがいやになったので、なるべく使わず(台所と風呂は白熱球)、ロウソクで暮らしている。

変な薬でもやっているんだろうと思われるので、正直にタバコを始めたことを告白しよう、ってこれは前に書いた。結構前なので埋もれているが、きっとタバコのせいに違いない。


というわけで、僕はとても「不幸」です。ミンナフコウニナッテシマエバイインダー。では、また。