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ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

計画通り

2017-06-07 | 雑記
先日、馴染みのお店で問われた。

「結婚しないのか?」と。

そういえばこの話はしていないと思い、実家が創価学会で云々とはじめ、拙自身は所属していることに嫌気がさしている点、もし仮に結婚することになれば、一般人なら入会を勧めるというより半ば脅迫されるであろうから、そうなると相手が可愛そうだと伝えた。

「色々つらかったろうね」と少し同情されたものである。親については、今はそうでもないと、答えておいた。

さらに、「そういうのを乗り越えられる人がいたら?」とも聞かれた。

「いたら、考えるかもしれません」としておいた。

つまり、そういう人はいない、というつもりである。

拙は結婚できない理由として、上記のことをいつも取り上げる。

後は金がないとか、生活態度がメチャクチャだとか、いわば言い訳ではある。


それでふと考えた。


人というのは、しようと思ったことしか出来ないのである。当人はそう感じてないだけで、そう動いているのだという。

本当に彼女が欲しいなら、それに沿った行動をするものである。だが、まったくしない。以前やりかけたが、梨の礫である。

家庭の理由でしづらいのは飽くまで想像(だけではないが)であり、するだけなら出来るだろう。まあ、実家には顔を見せるだけで、縁を切るかもしれんが。

しつこくて申し訳ないが、件のおっさんとその愛人。

結婚しようとしないのは、本能に反する的な言い草で、拙に説教してきたものである。

「幸せになりたくないのか?」というのである。

記憶は多少曖昧だが、その時も冒頭の話をしたものである。


さて、話は昔に戻る。

中学の英語の授業だったか。将来の夢というか流れというかを、それまで習った英語で書くというのがあった。

その時の一行と、それを見た教師との遣り取りを今でも覚えている。

I will not marriage.

英語教師は目の前で添削しながらこれを読み、「しないの?気になるなぁ」と言っていた。


拙は当時から思っていた。己のようなものは結婚すると、必ず相手を苦境に立たせるだろうと。

そういう風に考えていたのだが、我が親の結婚生活とその家族の様子を見ていて、「こうなるからやりたくない」と思っていたのだろう。

拙の中学時代の夢は既に叶っていたのである。結婚しないというのが。


ついでに、拙に恋人ができたり、もしくは結婚したらどうやり取りしかねないか、想像してみよう。

女「ディズニーランド行きたい」

拙「ミッキーより多摩のモグラがいい」


女「犬飼いたい」

拙「でかい猫がいい」


女「どこか行きたい」

拙「どこでもいいな?」

そして数時間街中を散策。しかも相手は興味のないようなところばかり行く。
仮にお互い興味のある場所でも、歩いていける距離(拙基準)なら歩いていく始末。


恐らくこんな感じになるだろう。もしくはこうする予定である。これでは相手も疲れる。


テレビや一般的なネットの話題もなしで延々喋ったりと、人によっては受けるかもしれないが、静かなのが嫌な人にはBGM代わりにいいかもしれない。

しかし、そういうつもりで掛かっていくと、貝のように口を閉ざすかもしれない。ううむ。侮り難し。


これを言ったら人のそしりは免れないが、ついでに書いておく。

女「子供欲しい」

拙「ちゃんと餌やるんだぞ」

ここで、「いらぬ」と言っていないのがポイントか?



昔読んだ漫画で見た遣り取りを。

主人公(に変装した別人)が、女をはべらせている。そのうちの一人が抱きつきつつ問う。

女「ねぇ。○○(主人公の名)さん。彼女いるの?」

男「いらん」

女は「何言ってんだこいつ?」みたいな顔をして、もう一度問う。

女「だから、彼女いるの?」

男「だから、いらんっつってんの」


というわけで、結婚しないという子供のころの計画通りに進めておる。
だから、「彼女いるの?」と問われれば「いらん」と答えることにする。

まあ、滅多に聞かれないので、よく忘れる。


では、よき終末を。


碧い話

2017-06-06 | 雑記
先月だったかその前か。煙草を切らしてしまったので、仕方なくコンビニで、アメリカン・スピリットのターコイズというのを買った。

これが実に美味く、シガレット自体もご無沙汰(敢えて書かないが、煙管で葉っぱだけ使うから)だったのもあり、解すことなく、終えたものであった。

愛称アメスピのオーガニック銘柄は、今のターコイズとゴールドの二種類となっている。青い箱が気に入ったので、そちらにした。

それで先日、手巻き煙草用の方を買って来て、先ほどようやく開封したのだが、不思議だった。

ビニールで密封されているのだが、それを開くと、煙草とは思えない、いい香りがした。

そして、中身を開いて煙草自体の香りを確認すると、これまた煙草とは思えないような、いい香りがする。

他の有名銘柄だと、マニトウのオーガニックというのがあるが、それとは違う、爽やかな香りであった。

マニトウの方は畳みたいな青臭い香りだが、多分、青臭い分類だとは思える。


さて、煙草の話はいいとして、思い出した話をする。


去る日、仕事場で、なぜか宗教の話をしていた。いきさつはあまり思い出せないが、そうなったのである。

とはいえ、別に特定宗教がいいとか悪いとかの話しではない。ある意味、悪いという意味ではあった。

話し相手は、例えば釈迦自身が「再び人として生まれることはない」と語り、悟りを開くとそうなると言っているのに、何故だかイタコの如くやって、釈迦の生まれ変わりだとかほざくのに騙される人が多い。しかも、高学歴に限って、と憤り気味に語る。

そして続けた。

「釈迦が言ってたことは、正しい生活やって解脱して二度と人に生まれ変わらないってことなのに、そんなのに騙される。特定宗教に肩入れする必要はないが、宗教の基礎知識を学校で教えていかないと、詐欺に騙される奴らばかりになる」と。

拙もその通りだと思い、「確かに。中村元の翻訳一つ読むだけで、バレバレですからね」というと、「実は子供向けの解説書も、あの人は書いているんですよ」と語っていた。
「なら、小学校で授業にするべきですな」と笑いあったものである。

中世の日本仏教史を勉強したのか調べたのか、色々と詳しく、拙が創価学会だというと、「うちも天魔の禅なんですよ」などと笑いながらいっていたものである。

禅の何が天魔かというと、日蓮が時の幕府に送った『立正安国論』にある、他宗派非難のキャッチコピーである。他は余り覚えていないが、真言亡国とか書いてたはず。

こういう風に物を見ている人は、意外と近くにいるものだなと、感心したものである。というより、これが普通なのかもしれない。

それはともかく。何ゆえ、世の中そういう風にならないのかということを、私見を交えて語ろうと思う。


ここで何度か書いてきたが、釈迦だとかイエスだとか、インドの聖典といわれているアシュタバクラ・ギーターだとか、ほとんど同じ境地を示している。

デーヴィッド・アイクの言う、全ては意識で、この世は意識が見せている幻なのだということである。
表現が違うだけで、同じ事を示しているのである。


子供心にそんなことを吹き込むとどうなるだろうか。すくなくとも、先ほどの話し相手の言の通り、頭の腐った宗教に肩入れして、身上を滅ぼす輩は減る。

さて、一つ問題がある。特定宗教に肩入れすることがなくなる、もしくは減るという点。

何故かというと、釈迦の言の通りに生きるなら、この社会を肯定することを是とする立場から言うならば、反社会的にならざるを得ないのである。

別に、皆托鉢坊主になって、乞食だらけになる、というわけでもないが、全ての権威、伝統、習慣を否定するからである。よって、宗教と名の着いていない宗教も否定する。

反社会的行動をとるようになるから危険だ、というわけではない。寧ろ粛々と従う。言ってしまえば、マハトマ・ガンジーの非暴力運動状態となる。
非暴力?それじゃダメだろうと思われるだろうが、これにはトリックがある。

確かにガンジーの運動は、暴力に訴えなかった。暴力ではないもので抵抗していたからである。

それは、不服従。

どこかの陰謀論ブログだかで見たのだが、例えば、ガンジーの非暴力は教えても、不服従は教えるな、とやっているという。

釈迦にしろイエスにしろ、本質的な意味での宗教、言い換えれば精神的、スピリチュアルといえるものは、世の中のことは幻なので、例えば五感の刺激に惑わされるなとか、不変の物はこの世にはないので、対象にすがるのはよせと言う。

単純にあの世とも言わない。『スッタニパータ』にもあったが、「この世とあの世を共に捨てる」と言っている。

されはさておき。

一般的な観念としての釈迦や仏教の言説から考えてみても、己の不安定な心を制御して、節制して生きろというものになる。

しかし。国家や社会というのはどういう代物か?考えてみても欲しい。国家や社会が教えたがらない理由を、箇条書きにする。

・国家や社会が必要とする人というのは、権威に逆らわず、自分で考えない、伝統や習慣を盲信し、不安を煽ればすがり、けしかければすぐに消費に走る存在であること。

・この世が幻であるのを前提とされると、家族や地域のしがらみを抜け、子供を作らなくなるので、戦争も出来ないし、消費活動のための労働もそこそこにしかしなくなるので、国家運営がしづらくなる。

・不安定な心を本質的な意味で制御されてしまうと、不安を煽っても誰も乗ってこないので、例えば北にミサイルを撃たせても意味がなくなる。

・陰謀論の理論に従って言うと、国家にとっての一番の不安は、国家運営者がそれぞれの国家に対してのものではなく、そもそもがそれらの上司達へのご機嫌伺いから来ているからである。

・根本的に国家や社会というのは、物質への偏愛から生まれたものにしか過ぎず、それらを否定するような思想は反逆でしかないので、触れたくないか、触れても本質は絶対に教えない。

もっとあると思うし、上手い表現があると思うが、とりあえずここまで。

かつて、アメリカがイラクだかに派兵するとき、なんといったか。

「自由と民主主義のために」だったか。そういう煽り文句を叫びまくって戦争に行ったものである。

アメリカに、自由も民主主義もないのは、よく知れ渡っている。それでもあると信じている人々にはあるし、ないと思っている人には当然となっている。陰謀論の話だけではなく、内外で色々と語り草になっている。

それで、上記の如く、悟りかねない状態の人々ばかりだとどうなるか?

「そもそも、この国にもこの世にもあなたがたにも、あなたがたが語るような理想は存在しない」となる。

かくして、ブッシュは藪の中へ。今は切り札らしいが、とんだババを引くかもしれない。


さてもう一つ。

国家社会や政治を変えても、上記に示した如く、それ自体が執着であり迷妄の産物なのである。

かつて、ビートたけしが例えたと聞いたが、「うんこにバケツ一杯のシャネルぶっかけても、うんこはうんこ」なのである。

国家や社会という物にまったくの恩恵がないとは言わないが、我々はうんこにシャネルをふりかけては、喜んだり怒ったりしているのである。

シャネルは解脱に必要ではないが、香水は自分に振り掛けるべし。


国家や社会があるから、ロスチャイルドやらの大富豪や宇宙人がいるから、我々が脅かされているのではない。

己の不安定な心をそのままにして、感情に振り回されているのが問題なのである。


地球に広がる世界というものは、そもそもそういうものである。

勧めはしないが、変えたいと思うのならば、せめて香水は自分に振り掛けるべきであろう。


では、よき終末を。



Grateful illuminati

2017-06-03 | 雑記
世の中、感謝しても仕切れないことがたくさんある。死ぬまで感謝するしかないのかもしれない。

例えば、拙の両親について。

実家のことは何度か書いてきた。祖父の代からの創価学会の家で、子供のころは仏壇の前に座ることを強要されたものである。

そんな時は、父親の隣で唱題をしている際、長くなってきたら、軽く肩でぶつかって、こちらから終了を促すという、今になって考えてみると、子供のころからメチャクチャだった気がする。

さて。多感なころになると、他の創価学会の家の子供達もあったりなかったりだが、「変じゃないか?」と考えたり、表立って反発したり、飛び出して悩んでは結局、創価学会は素晴らしい!となったりならなかったりする。名詞を交換すれば、どこでもある話である。

創価の家であることが、実に腹立たしかったものである。とはいえ、別に普段参らないのに元旦だけ参って初詣、とかいうのもふざけていると考えてはいた。そういう指摘をする父親の言は、確かにその通りだと、子供心に感じていたからだ。

なんやかんやあって、現在に至る。兄貴に胸ぐら掴まれたこともある。

この時の兄貴の言は、これもかつて書いたが、「創価学会は宗教団体じゃない」だった。

そこはひとまず。


長くなったが、要してみよう。

創価学会の家に生まれたお陰で、宗教とはなんぞや?世の中とは何ぞや?といった疑問を持ち続けることになったものである。
言うまでもないが、日蓮宗系の宗教団体なので仏教となるのだが、釈迦は一体何を言っていたのか?という疑問も同時にくすぶり続けることとなる。
今、拙があるのは、あの家に生まれたからである。感動を覚えるのである。

などと書くと、冗談染みているのだが、そこは良いとする。


そして、結局どういう結論に到ったのかを書いておく。


妙法蓮華経も唱題もおかしいものではなく、いい物と言える。

ただし、創価学会に所属していないと意味がない、というのは頭のおかしな理屈である。

明治の初版と現時点で書店で買える夏目漱石の小説を比較して、初版以外は読む意味がない、と言っているのと同じである。

貴重であるかないか、なら判るが、読む意味がないなら、どちらにしても意味のないものだと言ってやろう。

それなので、創価学会は、宗教の名を語った会社である。実際に宗教団体として登録しているので、詐欺集団である。

先日も書いたが、釈迦もイエスも、同じようなことを述べている。見出したものは同じなのだと。釈迦の言にならうなら、「真理はそれ以外にない」のだといえる。

宗教を否定しているアイクも、現実が幻であるという話や、愛がどうたらという。釈迦やらイエスと実際には変わらないものの見方になっているといえる。

「昔から言われていることと変わりないから」とけなしていた人がいたが、宗教を否定しているものが本質的な宗教的認識に到ることに思いをはせることが出来ないのである。

こういう物の見方をよく勉強出来たので、感謝するのである。


拙も思うこと仕切りなので人のことは言えないが、ネガティブになると思うだろう。

「こんな腐った世の中なんざ、消えてしまえ」と。

また、陰謀論だと、「明治に天皇入れ替わってから世の中おかしくなった、戦後でさらに加速して継続中だ。ひどいひどい」とやっている。

ちなみに、徳川家康の家康はイエスから来ているのでは?という話があって、西洋の秘密結社やらの影響は、ずっと昔からあったと言えるのかもしれない。
イエス=秘密結社になるかどうかはしらんが、詳しい人は知っているだろう。戦国時代にやってきた宣教師は云々と。

まあ、言ってしまえば、世の中は腐っているのが常であると思ってしまえばいい。


そして、考えなければなるまい。

その腐った世の中があったればこそ、こうして生きているのだと。そういう生きがい?みたいな物を得て、他人を貶したりして、頑張れたりしている。

とはいえ、他人を貶して暮らすのはよしたまえ。そこで、「馬鹿な日本人は滅びて当然だ」とおっしゃった日本人のことを思い出してあげよう。

本当に馬鹿なのかはしらないが、馬鹿と見なせる日本人が暮らす世の中があればこそ、そうやってふんぞり返ることが出来たのだと。

馬鹿(も多いだろうが)な日本人が暮らす腐った(上記の通りなら、世の中とは腐っているのが常だが)世の中を作り上げたのが、然る秘密結社だというのなら、斯様な者たちは感謝しても仕切れまい。

イルミナティに感謝を!最大限の謝辞を!

いや、別に感謝の言葉を送る必要は多分ないが、人の世とは面白いものだと、感謝せざるを得ないのである。


では、よき終末を。


趣味の優劣について

2017-05-31 | 雑記
先日、後輩とある話をしていた。長くない話だが、その何日か前にも同じテーマを話していた気がする。

それは、「ゲームは趣味といえるかどうか」であった。

この場合のゲームは、件の後輩は、スマホやらアイホンでやる、モバイルゲームというのか、あれをやりながら聞いてきたもので、広義に言えば、テレビゲームともいえようか。

かなり前にもそのテーマで話をした覚えがあったのだが、その時も同じように言ったものである。

その内容はというと、ずっと昔に、何かで読んだ趣味のことについてのエッセイだったと思われる。それに則って、見解を述べたのである。

「趣味というのが高じれば、創作に向かっていくものだ。ゲームなら作るようになったりしていく」と。

後輩がそれに対して言う。

「ならば、ゲームをプレイするのは趣味にはならないのか」と。

書いた発言はそのものを記したものではないことをお断りしておく。

趣味にならないわけではないが、例えばコレクションの趣味なら、ゲームのキャラの装備やらレベルを上げていくのもコレクションの趣味とはいえようが、何にせよ、無いところから作り上げていくのが究極なのだろうと、そういう風に伝えたものである。

それに続いて、後輩の知り合いだとか、モバイルゲームで伝え聞く話で、例えば何かを手に入れるのに20万円ほど使ったとかいう話があった。

今ではそのアイテムは使い物にならないのだとかいうが、課金に文句言う奴に限って、ビタ一文払わなかったりするのは、拙が以前やっていたゲームでもよく聞いたもので、どこも同じなのだなと、感想を述べたものである。

実は以前に、その後輩には、アイクが語っていた「意識」(普通の意味での意識と区別するために、とりあえずカッコをつける)と物質の話を軽くして、その引き合いに、マケヒコのおっさんの話をしておいたので、課金についての所見を、こう述べておいた。

「そもそも全部幻なんだから、何につぎ込もうが、好きでやっているんだから、それでいいんだ」と。

大体、手に入れいるのに20万円かかっただけで、一回目で引き当てたり、2000円分で引き当てる人もいる。

当たらなかったものの僻みか、金を一円も入れないが故にそもそも手に入れることが叶わないものの遠吠えといえようか。


さて、別に課金の話をしたいわけではない。運営も慈善事業ではないので、払いたくなったら、自分が払える分で払えばよろしい。

余談だが、税金が義務なのは日本ぐらい、という話を何かで聞いた。アメリカの憲法だかの規定でも、「気持ちで払うもの」と書かれているのだとか。まあ、消費税はあるが。
神社の賽銭も税金も、果ては基本無料ゲームの課金も、同じ意味になってしまうとは、驚きである。

余談は措くとして、話を進める。


後輩に、趣味についての見解を述べたが、そもそもがとあるコラムの話が気に入っていたからである。

今でもそうなのだろうと思うが、かといって、創作にあらずんば趣味にあらず、とは思っていない。


また例の「意識」の話に戻すが、人間とその精神及びそれらを取り囲んでいる物質や現象は、一つたる「意識」から立ち現れているのだという。

歪曲するくらい噛み砕いて言えば、人間をやっているということ自体が、「意識」とやらの趣味なのだといえる。

そして、それは実に悪趣味だという見解を述べているのが、例えば仏陀だったり、イエスだったり、名前しか聞いてないのでよく知らないが、クリシュナだったりする。


一つの「意識」があれやこれやと見ているのか見せかけているのかは判らないが、こういう話を聞いたことはないだろうか。

人は、ある対象を好きなのはもしくは嫌いなのは、こういう理由だと述べるが、実際は好悪の理由は本人も判らない、言語以前のものだったりするのだと。


以前に書いた例え話で、上手く書けなかったが、改めて下手なまま書く。

ある漫画だとかアニメのキャラがいて、ひどく気に入ったとする。

それを描いたのは、ある漫画家だとかアニメーターになるわけだが、時代の流行だとかで、その作家が思いついて描いたというのは間違いはない。

しかし。一つの「意識」から本来は出来上がっているのがこの世だというのなら、実際は作家が単独で思いついたのではなく、それを気に入ったあなたが作り上げたのだと言えるだろう、とこう書いた。前はこの様に、重々しくは書かなかったが。


人間は「意識」の悪趣味という話に戻る。

蓼食う虫も好き好きという。悪趣味なつくりの人間というものに、ひどく愛着を持つのが我々である。

例えばダイエットして、綺麗になったからと、悪趣味なのが本質の人間という己を、素晴らしいものかのように信じ込む。

例えば瞑想だとか精神修養をして、本質は悪趣味でしかないのに、高邁な存在になったとうぬぼれる。

例えばベジタリアンになって、肉を食う人は頭がおかしいと、本質の悪趣味な自身のことは顧みず、他者を非難しては悦に入る。

そういう人が例えば、テレビゲームやったりだとか、服買ったりだとか、所謂一般的な生活の趣味を非難する。

己の悪趣味を棚に上げて。


もう一ついえば、一般的な趣味も、人間という悪趣味からは逸脱してはいないことを弁えておいて貰いたい。

それなので、人間が悪趣味だという事を理解しないでは、どのような生活をしていようが、悪趣味の域を超えることはないのである。

「このような生活をしているから、我々は悪趣味ではない」と信じたがるのが、そもそも悪趣味なのである。


一つの「意識」からの、言ってしまえばオンライゲームの運営が配信しているゲーム内の複数のイベントのうちの一つに現を抜かしているに過ぎないのに、「わたしの趣味のほうが高邁だ、見習え」と、やっているのである。
笑って欲しいのかも知れないが、笑えるところがない。

いかに己が高邁か、を人に見せようとやっきになる姿は、人間という悪趣味を如実に現し、そして当人はそれを素晴らしいと勘違いする。

それならば、そんな固定観念を無視して好きなことをやっているほうが、余ほど高邁なのである。

ビンのふた集めであろうと、筋トレであろうと、はたまたテレビゲームであろうと。


少し話がずれたが、もう少し。

趣味は創作になっていくのが流れ、と書いた。

しかし、先ほど書いた例えに則れば、実はすでに創作していることになる。

というわけで、趣味が創作になろうがゲームのプレイになろうが、何の違いもないといえる。

繰言になるが、高邁ぶって悪趣味をひけらかすよりは、好きなことに没頭しているほうが余ほど高邁である。

どちらにしろ、一つの「意識」が作った悪趣味な人間の、手慰みである。
やたらと恥じ入る必要はそも、ないが、だからといって、偉大な物だと勘違いするのもまた、どうかしている。


趣味が高じて創作へといたるというのならば、人間を「意識」へと創作するのが究極の趣味だと、仏陀だとかイエスだとが言っているわけである。

噛み砕きすぎな話なので、余り当てにしないように。


では、よき終末を。


愛は面妖

2017-05-28 | 雑記
聞いたところによると、二十世紀の物理学が物質の本来の姿はなんなのかというのを見出したという。

二十世紀といっても間は百年あるが、その辺りはよろしい。前からずっと書いている話のことである。

波動といって、英語で書くとwave。波動で検索すると、科学用語としての波動と、オカルトとしての波動の二種類の説明が、Wikipediaに書かれていたりする。

その波動の動き方しだいで、肉になったり野菜になったり、犬になったり猫になったり、男になったり女になったり、昼になったり夜になったりしているわけである。
男がいきなり女になったり、その逆になったりというのは見たことがないので(性転換手術だとかそういう話でなく)、一応、現れたものは覆しきれないのだろうという約束の下で、世の中は動いているのだといえる。

これをどう説明するのか。三年くらい悩んでいた、というのは冗談だが、もっと詳しい人は判りやすく説明してようものだが、自分なりに噛み砕いてみようと。

その一端が、以前書いた、部屋のフィギュア眺めてたら口パクしてたり、腕やら身体が息をしているかのように上下しているという話である。

目がおかしくなった、薬でトリップした、と言うのならそれでも構わないが、精神に多大な影響を与える薬なんぞもってない。

目がおかしいというなら、ここで文章をまともに打てはしないと思う。

読みづらくて訳がわらかない、という評価なら、それはそれで仕方ないのだが、読める日本語の文章を書き込んでいるはず。


さて、しばらく前に、家の本棚にあった漫画を読んでいた。

なんという漫画か、というのは別に問題ではなく、そこにあった、よくある表現のことである。

敵の魔法使いだとかが、幻術で実体のない化け物を呼び出して襲わせるというものが、よくあるだろう。

それで、その化け物に噛み千切られたり、爪で切り裂かれたりと、襲われた人やら物がそうなる。

しかし、主人公だとか仲間だとかが幻覚だと見破って、「気をしっかり持て!」だとかやって、見事打ち払う、という展開は、見慣れたものかもしれない。

無論、切り裂かれてもないし、血も出ず、物も壊れていないのである。それで死んだと思い込んでいる脇役は、本当に死んでいたりするわけだが、見た目は壊されていないのである。


言ってしまうと、我々の日常もこれと同じ状態なのだと、物理学者の研究で発見されたというわけである。

嘘だ、指切ったら痛いだろうに。お前の先輩も心筋梗塞で死んだろうに、と言われるだろう。

無論、拙も指切ったら血が出て痛みを覚えるし、心筋梗塞になったら墓場に拘束されることになるだろう。

でも、これら全てが、幻覚の化け物なのだと。


波動というものの話に戻るが、以前、コメントで「記憶や感情も物質と変わらん」とやったものである。

野口晴哉もいうとおり、生物無生物問わず、気を発している。

気は物質以前の存在といっていたが、感情といったものですら、波動なのだというわけである。その波動の余波か何かかは知らねども、人間としての感覚で見聞きできる形として現れているのが、気だとかプラーナだとかいうわけなのだろう。


仏陀は、この世の有り様の根本は苦しみだと言っていた。

人が人たるというのは、苦しみの波動で作り上げられた悲劇の人形といえる。

苦しみでしかないものにすがりつくのが、そもそも間違いなのだという訳である。

いや、それはおかしい。世の中、人を喜ばせたりするものが色々あるではないかと、普通は思うだろう。

その喜ばしい物事自体が、苦しみの原因なのだと。愛するものをもつな、と言っていた。

愛するもの自体が、苦しみで出来ているのだと。その感情自体も、となる。


生の苦しみを抜けた先はつまり、人間を卒業するということになる。再び母の胎に入り込んで生まれることはない、と仏陀は述べていた。


以前に、「人間マイスター」とかいう妙なタイトルの記事を載せた。

なんたらマイスターは、昔放送していたガンダムのシリーズの用語から取った。パイロットの別称である。

つまり、我々は人間という名のモビルスーツに乗っているだけで、腕が千切れようが足がもげようが、関係ない。

もっと言えば、ラジコンなので、木っ端微塵になっても問題ないとなる。


しかし、我々は木っ端微塵になったラジコンが本体だと思って、またラジコンを買ってくる。

書いていて意味が不明になったが、デカルトの命題をもじっていうと、こうなる。

「我動かす、ゆえに我あり」と。本来はラジコンを操作しているほうが本体なのに、勘違いを起こしていると。


拙もいきなり、腕を切り落とされたら、生きた心地がしない。場合によっては死ぬ。

こういう話は、俄かには信じられない。書いている拙としても、実証できるとかそういうレベルにはない。

では、すぐに人はそう考えがちであるということを、卑近なレベルで例える。


この世界はヒミツケッシャの陰謀で云々、というのはここで書いてきた。陰謀論、と十把一絡げに言われている奴である。

実際に陰謀の結社がいるかどうかは、本来は関係がないのである。いないと言っている訳でもない。

人の不安を煽る存在が名を変え品を変えて示されているだけだからだ。

国は税金集めることばかり考えてるとか、企業は目先の利益に囚われて人の暮らす環境を破壊しているとか、別に結社である必要はない。

今の例えだけでも、「そんなわけないよ」という人は普通にいる。

とある方は、そういう一般的な、言ってしまえば怠惰な思考回路の大衆に腹を立てていた。

ついでに言うと、自給自足の生活に舵を取ろうとしなかった拙にも腹を立てて、怒鳴り散らしてきたものである。

などと書くと、特定してしまうことになるが、我慢していただく。


さて、とある方は、物質世界の本質は幻で、幻の約束事のうちで人を操っているのがこの世の中だと言っている活動家の本を翻訳しておいて、なんといったか。

「そんなわけないよ」であった。そう言った訳ではないが、覆しようがないので(と決め付けて)、森の中での自給自足の生活が正しい、と述べた。

他人の怠惰な思考に腹を立てる前に、己が怠惰を見直さなくてはならなかったのである。

何にせよ、他人ばかり見て、自身の姿を顧みなかったといえる。


人の姿とその思考と感情に愛執を抱くと、こうなる。


我々も、とある方を笑うことなど出来ないほど、怠惰なのである。

愛ゆえに、人は苦しまねばならぬ、と、昔の人気漫画の台詞にあった。

苦しんでいるのに苦しんでいると判らぬのが、幻覚の幻覚たる所以であり、それを仏陀は言っていたのである。


では、よき終末を。


虫の報せ

2017-05-26 | 雑記
日曜日のことだそうだが、大学時代の一つ上の先輩が亡くなられたという。

死因は心筋梗塞だとか。大学時代に茶の湯をやっていて、その先輩後輩としての付き合いがあっただけ、といえばそうなる。その方が卒業されてからは連絡を取ったことはないのだが、顔や声の感じはこうだったなぁ、と思い出せるくらいは覚えている相手であった。

年齢はこちらの一つ上。享年三十五か六であった。

笑い話になってしまうが、後輩が訃報を知り、メーリングリストで報せていたところ、旧姓と同じ(亡くなられた方は女性である)名字の、着付けの先生だと思ったらしく、慌てて報せていたらしい。その着付けの先生も高齢で、そうなってもおかしくないとはいえ、慌てすぎである。後ほど訂正を付け加えたものを再度流していたと、拙に直接報せてきた後輩が言っていた。

さて。その訃報を受け取ったのは、実は火曜日だった。

去る日曜日は夜勤。日曜の夜勤は静かであるが、その日は少し体調がよくなかった。窓開けて寝てるのがいけないのか、呑みすぎた覚えはないのだが、呑んだのがいけなかったのか、などと思いながら勤務していた。

勤務時間中、二度ほど、頭が痛いような重くなるような、気が遠のくような、少し怖い感覚を抱いた。

「ああ、こりゃ死ぬかもしれんなぁ」などと、その時に考えたが、特に倒れることもなく、平然と過ごしていたものである。

仕事が終わり、帰宅の途中、近所の神社に立ち寄った。前述の通り、訃報はまったく知らない。

すぐ上に「平然と過ごした」と書いたが、やはりなんだか妙な感じがする。日課のお参りをして帰ろうと思い、賽銭箱に十円玉を投げ込んだ。

賽銭箱は、全部がそうかはしらないが、真ん中の溝に向かって斜面が作られている。逆三角形になっているわけだ。

ここしばらく、賽銭は溝の中に落ちないことはなかったのだが、その日だけはなぜか、手前の斜面で止まってしまった。

やはり何かおかしいと感じ、お参りを済ませて帰宅した。

さっさと寝ようと思ったのだが、しばらく動物の動画を寝転がって見てから、眠りに付いた。

ひどく疲れていたらしく、何度か目が覚めることはあったが、すぐに眠り直す。寝すぎが惰眠を呼ぶのか、火曜の夕方まで寝ていた。

そして、いい加減起き上がろうと思い、ケータイを確認すると、着信とメールがあった。同一人物からの電話とメールで、その訃報の話だったというわけである。

亡くなられたのが日曜。時間帯等は知らないが、日曜の勤務中に二度ほどあった頭痛。それと賽銭のこと。話の種として後日、馴染みの店で話を振ってみたら、やはりこういわれた。

「安生さんは、何か引き寄せるたちなんじゃないですか」と。

「何か引き寄せるなら、こっちも死ぬところだったんじゃないかね」と、笑っておいた。


さて、もう少し。

日曜の勤務は暇だと書いた。暇なので、読書をしていた。

といっても、ページ数は少ない。何せ、仏典だったから。

膨大な仏典もあろうが、短いのがある。仏教学者の中村元が、仏典の日本語訳を出している。

最古の、とついた場合の話は以前した。向こうの言葉をカタカナで書いて、『スッタニパータ』という。

岩波文庫で『ブッダのことば』というタイトルで出版されている。

それに近いぐらいの、仏陀自身の言葉で書かれているらしい仏典があるそうで、『ダンマパダ』という。

「真理のことば」で検索すると、すぐに出てくる。もしくはすぐ上のカタカナの名前でもよいと思われる。

仏陀が語ったとされる詩の名詩撰だとのこと。

中村元の翻訳そのままを載せたのかはしらないが、あるサイトに乗っていた、それほど長くない『ダンマパダ』の翻訳を読んでいたのである。

もしくは何かの拍子に『感興のことば』のほうを読みかけ、気づいて読み直したりしたので、実はそこの話だったかもしれないが、ともかく。

どの章か見出せなかったので、うろ覚えで書くが、仏陀はおっしゃったものである。

「あるものは母の胎で死に、あるものは生まれると同時に死に、あるものは歩き回っていくうちに死ぬ。老いも若きも、どんどん死んでいく」という風に語った箇所があったと記憶している。

また、『スッタニパータ』で語っていたが、人間は生きて八十年ほどという。


話が急に変わるが、六年前の大地震で原発が吹っ飛び、大きな原発のあった福島辺りでは、若い者ばかり急に死んでいって、周りは老人だらけになっていると、涙ながらに訴えている動画があった。

ツイッターやらブログの証言でも、急に周りで死ぬ人が増えた、これは放射能と陰謀(食い物やらに混入の化学物質)のせいだろうという風に語られていたものである。


原発もない、自然豊かといえば聞こえのいい時代で、生きて四十年と語るのならまだしも、日本の平均寿命くらいは仏陀の時代でもありきたりだったといえる。

そういう社会だったのに、仏陀は、老いも若きもどんどん死んでいくのだと語る。

つまり。人の世は、今も昔も同じなのである。ほんの何十年か、誤差程度に偏っていて見えなくなっていた現実を垣間見ているに過ぎないのである。

我々はそのうたかたの夢を繕うのに夢中になっていたのである。夢を繕うなどとは、夢を見るのも大概にしなくてはなるまい。


などと、詩人だか哲学者だかになったような話では、拙の気が治まらない。人でなしの発言に聞こえる、ある人物の言動を紹介して、筆を擱くことにする。

ここでも何度か取り上げてきたが、その人物とは、漫画家の故、水木しげるである。

第二次世界大戦の折、彼は動員されて、東南アジアの激戦区に送られ、そこで片腕を落っことして引き上げてきた。

同僚のほとんどは死に絶えたという激戦で生き残った彼は、後年、何度かその地に足を運んでいたという。

彼はそこに行くと、笑いがこみ上げてくるのだという。

他のやつらがくたばって清々した?そういうわけではない。

「ああ、俺は生きているんだなぁ」と感じて、笑いがこみ上げてくるのだという。

他者の死を悼むとかいうのではなく、純粋に自分が今生きていることの実感と喜びとでもいうものだろうか、そういうことを、周りで何人も死んで、なお且つ自身の片腕も落としてきたかつての戦地で、そう思うのだとか。

彼は妖怪だとかよく言われるものだが、ある意味、悟りを開いていたのかもしれないと、歳の近い、拙のかつての知り合いの訃報を聞いた際に、そう考えたものである。

そういうお前は、妖怪漫画家みたいに笑いがこみ上げたのか?と尋ねられたら、こう答えておく。

「勤務中の頭痛で死ぬかと思ったが、拙は生きてるのだなぁ」と。


では、よき終末を。


天皇陵のお土産

2017-05-21 | 雑記
しばらく更新を怠っていた。ほかの事にかまけていたのと、拙が何か言わなければならない理由が見当たらなくなったからである。

拙、ってなんぞと突っ込まれる前に言うと、わたし、とか僕、とかと同じく、自称である。この記事内だけの話なので、不断の努力で普段からやっているわけではないことをお断りしておく。

さて、先日。都内某所にある、天皇陵に墓参してきた。

多摩御陵と武蔵野御陵が併設、というとなんだか墓っぽくないが、そういうところである。

埋葬されているのは、大正天皇と昭和天皇、その両皇后であられる。

かなり前にも一度参ったことがあった。そしてその後、某陰謀論者とつるんで、昭和天皇はイルミナティの飼い犬だのとやったものである。今ではいい思い出である。

するとまた転んで、天皇万歳だとかいう気持ちになったのかというと、そういうわけでもない。説明は後でするかもしれないので、忘れてたら後日突っ込みをくれると、はぐらかすつもりなので、期待するように、などとコメントの催促をする。誘いに乗ってはいけない!

実は、二度行ってきた。しかし、一度目は時間切れ。家を出るのが遅かった上に、歩いていける距離(一時間ほど)だったので、歩いていったら見事最終入園時間をぶっちぎっていた。

しかたない。また日を改めようと、入り口から左の細道を通り、駅の方面に向かった。

御陵にそった脇の道を通っていると、御陵の上空に日が差し始めた。

「ははぁ、天皇の名は伊達ではないのだなぁ」などと、暢気なことを思いながら、大通りに出て、家のほうに向かって歩き始めた。

しばらく歩いていると、なんだか妙なのである。並木参道だとか名がついていて、まっすぐな道になっているのだが、何十メートルか先は翳っているのに、拙が歩いているところは日が照っている。

歩いていく先々が晴れていくといった具合になっていた。おかしいと思い、背後上空のお天道様を見上げると、曇り勝ちの空で、その時もお天道様の回りはほとんど雲。しかし、その時だけは丸々姿を覗かせ、照らしているのである。少しでも雲が動けば覆い隠そうというほどの状態であるにもかかわらずに。

「こりゃ一体・・・」と思いながらもそのまま歩き続け、御陵のある地区から外れたころだろうか。ようやく、雲に隠れた。

「入れなかったから、お土産でもくれたのかな」などと心の中で笑いながら、馴染みの店に入って今の話をしたものである。

晴れ男だのあんた何者か、たまに仙人とか言われる、みたいなノリで話をしていたような気がするが、忘れた。


そして日を改めて、間に合うように到着し、ようやく墓参してきた。なんだかずっと照らされるとかいう、あからさまな現象は味わうことはなかったが、御陵というのは不思議な空間である。

昔、初めて行った時は感じてなかったのか、それとも目が悪くなったのか(別の意味でよくなったが)、視界が少し湾曲するというか、膨張しているような、妙な感覚を覚えたものである。

もう少し詳しく言うと、遠近感がおかしくなったかのようである。御陵の作りがそうなのか、それとも日常の感覚で理解しうる物理法則とは別のものがあったのか(気だとかなんとか)、そのあたりは判らないが、興味があっていける方は、一度たずねてみるのもよいだろう。


さて。この前の記事だかに、神社にお参りしてきた話を書いている。パワースポット巡りがどうと書いた。

元来、宗教というのは、我々が認識しうる全てを作り上げた超越的な存在、神だとか真理だとか、そういうものへ到ろうとするものなのだという。
そのための教義であり、戒律なのだが、教義を覚えて戒律を守ることに宗旨、じゃなくて終始しているのが常となっている。
宗教のための教義ではなく、教義のための宗教組織の維持が認識を阻んでおり、害悪となっているというわけである。
そこを極端に悪用したのが、カルト宗教というわけであろうか。

そこを超えれれば、大体の宗教は全て同じところに到るというのである。二十世紀の物理学者が見出したように、全ては一つ、というのも本来はおかしいのだが、一つの意識から現れていることを知ることなのだと。

だから、実家で療養中の弟が、毎日だか三時間仏壇に向かって題目を唱えていることに、「無駄だから辞めろ」なんぞとは言わなかった。

「三時間やったからすごいとか、そういうのはない。何か違うなと感じられるものがあったなら、三唱で充分になる。それで三時間続けたなら、仙人にでもなれよう」などと、遠まわしには伝えておいた。
弟の感想は「さすが仙人のいう事は違うなぁ」と、褒めているのかなんだか、よく判らん感じであった。

実家のカルト宗教の戒律で、神社にお参りなんぞバチが当たると散々言われているのに、拙は平然と神社にお参りして、弟にそんなことを伝えたりするわけである。

日本最大の宗教団体の教義に浸っているから正しいなどというのはまったくない。そして、神社に賽銭を投げ込んで拍手を打っているから正しいというのもまったくない。

その先とでもいうべきものを見出せるかどうか。本質に行き当たるかどうかなのである。

本質を見出そうとしないものは、表面を変えた、自分で変えたと思い込んでいるだけの、中身は変わらないこと、つまり、本当の意味での幻に溺れ続け、この先も長いときを彷徨うのである。

言い方を変える。我々にとっての現実とは、我々の日常の感覚からしたら幻としか表現できないものが現実であり、それ以外のものは全て見せかけなのだということである。

誰のこととは言わないが、論語読みの論語知らずとは、けだし、明言である。

さあ。あなたも騙されたと思って、たまには神社にお参りして、賽銭は一円でいいから投げ込んで、なんでもいい(死ねとかそんなの以外)のでお祈りでもしてくるべし。

余談だが、上記の天皇陵直近の駅のすぐ近くに、小さな神社がある。そこの樹は、何の樹か忘れたが、二種類の樹が根っこからくっつきあって伸びている。

縁結びの樹だとのことで、小石に自分の名前と意中の相手の名前を書いて根元に置くと結ばれる、との謂れがあるとか。

まあ、観光案内程度の話である。気が向いたら覗いてみるのもよろしいかと存じる。


では、よき終末を。


続口熊野霊異記

2017-05-09 | 雑記
しばらく更新を怠けていた。これはいけないと思い、重い腰を上げて、今日は昼から夕方まで散歩していた。

いや、更新じゃないのか?と突っ込んではいけない。だからこそ、こうして書いているのである。多分。

市内にある神社でも訪ねようと、歩き回っていたのである。

今日は曇りで日差しが強くない分少し涼しく、歩きやすかったが、午後一時前に出て行って、家で風呂はいったら七時だったとかいう。

歩き詰めだったのではないが、途中で久しぶりに立ち寄ったそば屋で一時間ちょっと飲んでいたくらいで、家の近くまで戻ってくるのにそこから二時間ほどかかり、近所のネパール料理屋でチャイを飲んでようやく帰ったという有様であった。

市内で歩いたところがないというまで、そのうち歩こうか、などと思ったが、気が遠くなるので忘れよう。

さて、特にその中で何があったという話しはないが、やはりああいう場所は不思議である。

一つ目に参った神社の本殿の脇に、小さなお社があった。その前に立つと、本殿より何か感じるものがあった。

境内は大きな木もあり、涼しいのだが、そこだけ暑い。もしかしたら、熱いのかもしれない。

不快感はなかったが、不思議であった。

というわけで、パワースポットめぐりの話は終る。


実家に帰省した時に気づいた話をついでに。

ここのところ、アパートのどこかの部屋でエアコンがなっているのか、「クワァー」といった感じに響く音がする。

こんな音してたかな?などと無視していたのだが、なんと。実家で寝ていても同じ音がする。

ボイラーか何かの音かと思えなくもないのだが、生憎、二階の天井から聞こえてくる。そして、そこには何もない。

これも何かの聞き間違いかと思ったが、帰省から戻ってすぐの仕事の時、早めにチェックアウトした部屋で寝ていた。

するとどうだろうか。やはり同じ音がする。偶然が三つも続くとは考え難い。

「ああ。これが耳鳴りなんだな」と、暢気に考えるのであった。これが何しおう、クチサケール病とかなんとか。メニエールであろう。

頭の上のほうから聞こえてくるような、そうでないような。ハチマキ巻いた上半身裸の投げキャラみたいな名前のに、ソクラテスも従っていたとかいう。大門じゃなくてダイモンである。

「そこでコマンド投げ!」とか言われたら、大門決定ということにしておく。判り難いネタで申し訳ない。


さて過日。ふと気になっていたことがあり、軽く検索をかけてみた。

「タバコ スピリチュアル」といった具合である。

グーグルの検索結果一ページ目を見たところ、「タバコは悪い」か「タバコはまあいいところもあるけど悪いほう」といった具合であった。

一つ目のがそうではなく、その上、判りやすい内容で書いていた。肺が真っ黒の写真だとかは嘘っぱちで、悪くするために証拠をでっち上げている。こういう話は、以前ここでもよくやった。

煙が嫌いだからタバコは悪い、という風に大体の人は落ち着いて落ち着いてないのだが、事実に感情を紛れ込ませて真実を見なくしているのであると。
その理由がピューリタニズムで、事実かどうかではなく、作り上げたドグマで物事を壟断しているだけなのだといっていた。
世の中の法律だとか常識というのは、そういう風に作り上げられてきているのだよ、と書いておった。

なんでそうなるかというと、「人間には根本的に善悪を判断する能力がない」からだとか。

じゃあ、それ書いている人は判るのかというと、その人自身が判るわけではない。

そのブログで紹介しているというか、その人自身がセミナーやったり勉強しにいったりして来たそうだが、「キネオソロジー・テスト」というものがあるのだとか。

アイクで言うところのConsciousnessとほぼ同義の意味での意識が、全てを作り上げていて、そこにアクセスすれば、真偽の程がわかるという理屈である。

ほぼ同義、といったが、多分まるっきり同じである。

それはともかく、それでテストすると、良いか悪いか判るのだと。タバコの場合は、混ぜ物が少ないものなら問題なしとのこと。具体的に上げていたのは、アメリカン・スピリットのオーガニックの物や、高級な葉巻だとか。
この件は拙も以前書いたが、タバコと言った場合に大体の人が思い浮かべるのは、シガレットである。まずはそういう思い込みから考え直すべし。

その「キネオソロジー・テスト」というのを開発した学者が、世の中の色々な物を検査したそうで、それが書かれた本も存在するのだが、未邦訳である。

代わりに、そのHPの人が、翻訳とさらに解説なんかを大量に加えて著作権問題をクリアした状態のリストを配布しているそうなので、気になる方はそのブログへアクセス。

さっきの検索ワードで出てくるはずなので、後はお好きに読んでいただく。

スピリチュアルって一体何なのか?拙もよくわからないというか、どうやら間違っていたらしいが、多少当たっていたらしい。

目標は、「人間卒業」なのだとか。ん?人間を辞める?どこかで聞いたような?まあ、よかろう。

詳しくかくと大変なので簡単に言うが、とぼけて言ったほうの人間を辞めると、「人間卒業」はまったく意味が違う。

森に入ってそこで自給生活するというのは、つまるところ、将来への不安の払拭を、物にすがっているだけである。金が土地やら樹になっただけのことである。これはどこまでいっても人間そのものである。この辺りは散々書いたので、終わりにする。


拙が気になった、というよりは、やはり疑問に感じたことが当たっていたようだと。そんな話を読んできた。

理由は、最初の検索ワード。そして、たまに紹介していた「空色ノート」というスピ系のブログ。

そこの方が載せていた新江、じゃなくてアラーエとかいう、宇宙人のメッセンジャーというのか?チャネリングか何かの文章を以前紹介した。
実を言うと、そこ自体ではなく、注釈の方が面白かったから紹介した。その記事は・・・別にいいか。


さて、人類の未来のためになにやら語りかけている?未来のためだったっけ?は措くとして、それなら物事をちゃんと伝えないとおかしいだろうなと感じた次第である。
曰く、「タバコを攻撃に使ったりしている」だとかなんとか。
タバコの煙がー!身体が悪くなるー!ってのは上記でも示したとおり、洗脳である(紹介した記事でも断言している)。
タバコなのかシガレットなのか、混ぜ物してるのか、本当は身体にいいところが多いのにそういうのを無視し、迷妄を破らせようとしないで、作り上げられた迷妄を利用して話するというのは、不誠実極まりないと思うのだが、実際にそうだったようである。

上記の「キネオソロジー・テスト」で、有名どころのチャネリングはどうか検査したそうだが、バシャール、プレアデス共にアウトだとのこと。
新江さんもプレアデスでしたね。ソウデスね。
ついでに、チャネリングという行為自体もアウトだとのこと。

まあ、タバコは身体にいいから、選んで吸うならいいですよ、なんて宇宙人が言うとは思えないので、仕方もないか。

何ゆえか?ちゃんとしたタバコを吸われると、自分たちに着いて来てくれなくなるからだと思われる。吸っているかどうかというのは別の話だが、嘘はばれるものである。

「人間卒業」と言っていたが、そのHPの人も言うとおり、こういう話は釈迦やらイエスやらも到達していたというものなのだとか。

『スッタニパータ』にも、掻い摘んで言えば、馬鹿なことをしてきているから、また母親の胎内に入って、馬鹿な人間に生まれるなんて繰り返すんだとあった。

アイクだと多分、そこに向かう道筋を見出したくらい、とでもいうところか。さすがに、「人間卒業」では人が集まらない。


さて、ご注意を。


件のHPは、人によっては拒絶反応が激しいと思われる。特に現代社会における道徳的振る舞いに血道を上げているような方には、到底受け入れられない話もあろう。


「人間卒業」。上等である。いや、いきなり卒業できるもんではないが、以前にも書いた。

己の意識を変えれば、周りも変わるのだ、と。この場合は意識というより思考だが。

唸って変わるものではないので、ご参考までに件のHPを覗いてみてもよかろうと存じる。


では、よき終末を。


口熊野霊異記

2017-04-28 | 雑記
月曜の夕方から木曜の昼まで、帰省していた。

何度か書いたが、拙の弟が病んで実家に戻って療養している。その見舞いついでに帰省したのである。

ここしばらく妖怪染みてきたので、妖怪になるためのメソッドを伝えて、昔より元気にしてやろうなどとも考えたが、この辺りはあまり上手くいかなかった。

三日目の夕方、野口整体の背骨呼吸の話だとかをしていたら、階下から母親が「ゴミないか?」などと問いかけてくる。狙ったようなタイミングであった。

所謂陰謀論とか言われる話にも少し触れた。といってもいきなり「物質は幻なんだ」と伝えても、俄かには信じられないとは言っておった。

アイクがどうこうだとか、物理学者がこの世界はホログラムなんだと言い出している話もしておいた。

それでもって、ついでに、オーラとか言われてるものが見えるようになった、とも言った。名実共に仙人染みてきたのだと。

そこはともかく、背骨呼吸と姿勢に意識を向けていけば、改善されるだろうとは思う。薬なんぞ飲むな、とはいきなり言っても通じないだろうから、ここまでにしておく。


弟にその話をする少し前。一階のリビングで、親父殿がたまに座っているマッサージチェアに座ってみたところ、一日目は警戒して寄り付こうとしなかったチワワ(弟が連れてきた)が何故か膝に乗ってきた。

しばらく撫でて、ふと思いついた。皮膚炎だかを煩っていて、今はそれほど問題ない状態なのだが、首から肩辺りにまだその様子が見て取れる。

掌を当ててしばらく、野口整体でいう「愉気」というのをしてみた。

すると、チワワが何か思ったのか、膝から飛び降り、母親のいる仏間とリビングを行ったり来たりし始めた。

そのうち、犬用のトイレの上に立ち、口を下に向け、吐き始めた。

何を吐いたのかというと、シイタケだった。


その前夜。家で鍋をしていた。某キムチの素でやる、簡単な鍋である。

具が足りないぞと母親に言うと、少々酔った母(酒にひどく弱い)が冷凍されていたシイタケを一つ、取り落としてしまった。

すかさずチワワは駆け寄り、それを食べてしまったのである。取ろうとすると返って無理に飲み込んで窒息するし、凶暴な奴なので、噛み付いて危険なのもある。

それから、先ほどの吐きだすところまで、一日は経っていなかったが、他に食べた餌は吐いてなかったようで、シイタケだけ胃に取り残されていたようだ。

「撫でてたらシイタケ吐いた」というと、母が「あんたは救世主やな」と言っていた。


その後、弟に陰謀論だとかオーラが見えるだとか、野口整体だとかの話をしたというわけである。

チワワがシイタケ吐き出せたのは、拙の「愉気」のせいかもしれぬなぁ、といった具合である。


実家のあるところは、霊場として名高い、熊野の入り口辺りで、口熊野とも呼ばれている。

神社や神社跡がそこかしこにあったりする。今の状態の拙がそこに立つと大丈夫なんだろうか?と思いつつ、各地を訪ね歩いてきた。


一日目の夜、母が「どこか行きたいところあるか?」と尋ねてきた。

「特にないかな?パンダくらいか?」などと言ったが、寝ながら思い出したものである。

今は合併されて、同じ市になったとかなってないとか、未だにややこしいみたいだが、隣の市にあたるところに、南方熊楠(ミナカタ・クマグス)が死ぬまで住んでいた家があり、記念館になっているというのを、数年前にその市の駅の案内で見た。

たしか、2011年の一月下旬なので、六年ごしか。そこに行きたいと、次の日の朝伝えた。

母は三時から用事があるとのことで、二時前に家を出て、駅に降ろしてもらった。帰りは歩き回るので暗くなったころだろうとは伝えた。

もしどうしようもなくなったら電話してくれたら迎えに行くとのことで、記念館を探しに行くことにした。

かつて、駅前にあった案内はなく、観光案内所はあったが、元々地元民だったのがそこに尋ねに行くのも妙だと思い、記憶を頼りに歩き出した。

しばらく進むと、交差点の角に、この先何メートルなどと、案内が出ていた。なんとかなるものである。

施設の名称は「南方熊楠顕彰館」という。資料館と、隣に復元された住まいがある。

さすがに現物は置いてないが、模造品の原稿だとかがラミネートされてあり、手にとって見ることができる。

なかでもとんでもないのが、「履歴書」と銘打たれた巻物である。

履歴書とは言っているが、自身の履歴やら研究のことやら、なにやらたくさん書いてあり、「自伝文学の傑作」と言われているそうな。

そして、その巻物の長さが7.8メートル。このブログの文字より小さな字でびっしり書き込んである。たまに小さなイラストが描いてあったりするが、文字が氾濫しているかのようであった。

南方熊楠の主な関心は、「粘菌」と呼ばれる物体の研究だった。それ以外にも広範にわたる研究があり、日記にいたっては読みづらいのもあってか、全部解読できていない。

地元の高校生だかが集めてきた粘菌の標本があったのだが、どれも名前がひどかった。

なにがしホコリ、という名前だった。たしかに、ホコリにしか見えないので、頷くしかなかった。


その資料館の二階の参考図書だかに、粘菌についての新書があった。タイトルしか見てないが、どうやら調べると画期的なことが判り始めたらしい。

ゴキブリの体内を調べると、人類の病気だか寿命だかに素晴らしい効果のものが見つかった、とかいうのが昔あったが、粘菌というものにも、そういう話が出てきたようである。

「陸上トコロテン」(水木しげるの伝記漫画で書いていた)だとか、正式名称がホコリだとか、散々なのだが、世の中は不思議でたくさんのようである。

南方熊楠は、当時のヨーロッパで広まっていたオカルトだとかにも並ならぬ関心があり、友人の天台宗の高僧とやり取りしていた手紙に、カバラのことだとかを書いていたようだ。

オカルト系陰謀論の世界だと悪名高い、ブラヴァツキー夫人の著作も読んでいたようである。一回読んだときは無視していたらしいが。

本人も幽体離脱の経験があって、霊だとか魂だとか人間というのは何なのか、というものへの不安とでも言うものがあったのだろうと思われる。


資料館の横に、復元された住まいがある、と書いた。そこに入るには、資料館の受付で料金を支払う必要があった。

受付のお姐さんの喋り方も地元のなまりがあり、「ああ、やっぱりここは和歌山なんだな」と、わけのわからん感慨を覚えたものである。


書き物机がある部屋の襖の上の壁に、肖像写真が掛かっていた。

それをぼんやり眺めてみた。ただのぼんやりでなく、昨今の拙の「ぼんやり」である。

なんと。写真の中の肖像が少し動いている。ホラーな状況だが、こちらとしては当たり前の風景なので、気にはしていなかった。

オーラ診断に、写真を送ってください、というのがある。なるべくこういう背景のものが望ましい、とか書いてあったが、その肖像写真からも少し見えた。ただ、何色なのかはよく判らなかった。見えると気づいたころよりは色はまだ判りやすくなったかなとは思う。


その後、顕彰館を出て、海に行こうかと思ったが、断念した。余りうろつくと遅くなりすぎるので、神社巡りにすぐ方針転換し、駅に引き返し、その裏から実家のある方へ向かった。

立ち寄った神社は三箇所。一つ目は行った覚えがあったかどうかは忘れたが、残りの二つは子供のころから行っていたところである。

幸い、どの神社に立っても、奇妙な物が見えるとかいうことはなかった。よかったよかった。

最後の一つは、田中神社の森、となっていて、かつての廃仏毀釈で、一時期は消えていたこともあるそうな。

文字通り、田の中にある。田んぼの真ん中に樹が生い茂っているという、不思議な光景である。

ここに咲く藤が変種らしく、「オカフジ」と命名されているそうな。南方熊楠の銘、となっているそうだが、顕彰館で見たとき、煮え切らない表現をしていたので、実は違うのかもしれない。


顕彰館から凡そ三時間からその辺りを、舗装されているとはいえ、山の坂を登って戻った。

しかし、筋肉痛にならなかった。トボトボ歩いたのではなく、セカセカ歩いていたというのにである。

神社だとかはパワースポットなんぞといわれて、それ系統の人がよく巡ったりする。

地脈だとか龍脈だとか、そういうエネルギーに溢れた場所に、神社や寺が建てられていたりするのだとか。

何か得体の知れないものが見えるとかいう、拙にも困るようなことは起こらなかったが、何かは感じたのだろう。

おかげでひどく腹が減って、滞在中は「よく食べるナァ」と親にも弟にも驚かれたものである。


さて、これも前から書いているが、勘違いではないのかもしれないという話をして終る。

最近、自室で深呼吸や喫煙などでリラックスすると、部屋の壁が鳴ったりすると書いた。

見える範囲で鳴った時は、夜だとそこが光っていることもあって、これはこれで怖い。怖くはないが、爆発するんじゃなかろうかと。

それはさておき。滞在中の夜も、布団でリラックスしていると、やはり部屋のそこかしこで音が鳴る。

「やっぱり、偶然じゃないんだな」と、納得する数日であったとさ。


では、よき終末を。


あくまで人間

2017-04-21 | 雑記
今日、仕事場のトイレで用を足していたら、靄に囲まれてしまった。

最近ずっと書いている、気だとかオーラとかいうものを見ていたのである。

コツとしては、ある意味リラックスする状態になれればよろしい。よくアイデアが思い浮かぶ時は?というのに、トイレで用を足している時、というのをあげる人もいるくらいである。何かのアンケートで取り沙汰されるほどの数だった。

音をごまかす音を出す奴から出ている煙みたいな気を見ていると、やはり影がない。そりゃまあ、普通にしてたら見えないものなのだから当然といえば当然で、そんなものは存在しない、という人にとっては文字通り、影も形もない。

手で扇いでみると、動く。以前、駅のホームで見たときは、「風に逆らっている」などと書いたものだが、動いていた。

とはいえ、出ているのが見えるのに影が存在しないという、日常の物理法則に逆らった存在であることは間違いない。

これと関連することで一つ。

静かな夜、自他の気を見るということをしていると、部屋が軋むような音がする。
電源を切ってかなり時間の経つパソコンのモニターが、「パチッ」と音をあげることがある、と書いたが、大体、気を見ようとしているときや、呼吸法などで瞑想状態に近くなった時と思しき場合などに起こっている。
その内、アパートごと倒壊するとか、上の階の底が抜けて振ってくるんじゃないかと、戦々恐々としておる。

ラップ音がしたら近くに仙人が潜んでいるかもしれないので、あまり気にしなくてよいのかもしれないと、安心させる一言を添えておく。


話は代わって、最近、とあるアニメを見終えた。

世界の真相に迫る内容のものか!?MAGICA魔法入門カバラの真似事か!?というわけでもなく、見ていたのは、ガンダムである。

『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』という作品である。なじみのバーの店長とか、近所の沖縄そば屋の店長の友人などから、「見やがれ」と脅されながらも、一年近く見てなかった。
四月で放送を全部終えたとのことで、ようやく重い腰を上げ、数日前に全部見終えたというわけである。

その知人たちからの評判は散々な物だったと思う。曰く、「主人公がおかしい」と。他の評価は忘れたが、余ほど狂気に満ち満ちたキャラなのだろうと思いながら、恐る恐る見始めたものである。

確かに、狂人かと思うようなところがあったが、そもそも捨て駒として扱われ、虐げられている少年兵という立場。強くなければ生き残れないし、また、自分に中身を入れてくれた親友とその願いも守れない。

要するに、ひどくひたむきで、他のことには無頓着な奴であった。

監督が言うには、天才の奇形性を描きたかったという。主人公は確かに、かなりするどい。

最初に現れるヒロインが、「虐げられている人々と対等に接したいのです」という風な台詞を主人公に投げかけながら握手を促すと、素っ気無くいう。
「じゃあ、今は対等じゃないんだ」と。

ヒロインはその一言にショックを受ける。己の無自覚な傲慢さに気づかされるのである。

主人公はよく、親友に尋ねる。「次は何をしたらいい?」と。その後、「何を壊せばいい?」とか、「何人殺せばいい?」と、かなり物騒な発言も飛び出す上に、それがまた無表情ともいうような具合で尋ねる。

こういうノリが、まるでその親友に操られているように見受けられたらしく、「このガンダムひどいよ!」と言いながら勧めてきた知人の批評にもあった。

しかし、結構最初のほう、四話くらいでそうじゃなかったらしい、というシーンがあった。

その親友が、「あいつの目が怖い」と、別の団員に漏らす。あの目で見つめられると、あいつに無様なところは見せられないんだといった、覚悟というか、怯えにも似た感情を吐露していた。

主人公の「次は何をしたらいい?」というのは、親友の願いをかなえたいという、ひた向きさが故なのだろう。

終盤で、手を組んだ元は敵の幹部に、「君の願いは?」と問われるが、「親友の願いがオレの願いだ」と答えていたものである。

こういう言い方をしていたのは、親友の願いはそもそも自分の願いなのだということを示していたのかもしれない。


とはいえ、このガンダム。今まで見た中でもかなり血みどろだった。

ガンダムの名を冠するものは、全て、ソロモン72柱の悪魔の名を冠していて、主人公機も「バルバトス」という。

主人公の性格とパイロットとしての資質の次元の違い、さらに操縦システムが人体に直接リンクさせて動かすというのもあいまって、化け物みたいな動きをする。
改修によって、容貌がいかつくなり、神経リンクによる操縦で尻尾を使う攻撃までして、ホントに化け物みたいになる。

「邪魔だから死んで」みたいな台詞を吐きながら、立ちはだかった敵を粉砕する様は、悪魔と呼ばれても仕方ない。他のガンダムの主人公ではいなさそうな具合である。

最終回なんかでは、本当に悪魔などと呼ばれている。ネタバレが嫌な人には悪いが、主人公ともう一人のエースが大軍相手に戦うのだが、見ているこっちも「ばけもんだ・・・」と言わざるを得なかった。

ネタバレになるが、結局主人公ともう一人は死ぬ。それを討ち取った敵の軍人は、バルバトスの首を斬りとって掲げ、「悪魔を討ち取ったぞ!」と勝利宣言をする。

後年、主人公達を倒した軍人が、「悪魔かと思ったけど、彼らはやはり人間でした」と述懐していた。


少年兵や、用語でスペースデブリという、奴隷の立場におかれていた少年達。彼らは生きることそれ自体がもはや戦いであり、つまりは生きること自体にひた向きであった。

人間のひた向きさというのは、理解できないものからすれば、悪魔のように見えたりもするのだろう。

監督の言う、天才の奇形性というやつである。

悪魔といえば、イタリアのバイオリニストに、パガニーニという人がいた。

彼の演奏はすさまじく、悪魔に魂を売ったのだと噂されていたという。


悪魔の名を冠し、悪魔だと対峙したものを畏怖させる、戦争兵器とそれを駆る少年。

もしかしたら、主人公は、親友(死んでしまうのだが)が願いをかなえるために契約した悪魔だった、なんぞと思ったりする。

別に、悪魔だったと言いたいわけではないのだが、幼少のころに出会った時、主人公は空っぽだった。それに中身を入れた、と上のほうで書いたが、親友が現れなければ、主人公になっていなかったのである。

ソロモン王は、悪魔を魔法の指輪で縛り付けて契約し、こき使っていたそうな。悪魔は契約してなければ、神殿建設の仕事だとか、端からしてないわけで。

幼少の二人の出会いもまた、契約だったのかもしれない、などと考えたりする。


内容で驚いたところはたくさんあったが、それとは別に、変なところで驚いていたものである。

例えば主人公を親友だけが呼んでる愛称。第一話か二話だったか、掛かってきた敵のモビルスーツを粉砕した時の動き。後に手を組む軍の高級将校の幼な妻が、そいつにしている愛称。

三つ目は一字違いであったが、見せる予定はない、イメージトレーニングのために書いている小説の中で符号していたので、第一話で親友が主人公を「ミカ」と呼んでいた時に、跳ね上がりそうなほど驚いたものである。ちなみに、このガンダムの主人公の名前は、三日月・オーガスだそうな。そして、驚いた理由になったほうも、三日月から来ている。あー、拙の頭はおかしくなったんだな、こりゃ。忘れてもらおう。

拙も悪魔に取り付かれたのかもしれない。おそろしや、おそろしや。


ここまで書いておいて、実は余談だった、といったら長すぎる。

とはいえ、気になった話をもう一つしておく。


以前から、山の中で暮らすのが人類の目指すべき最高の到達点だ!とほざく奴は人でなしだと、具体的な名前は余り書いてないが、誰と判る人には判る程度に示しつつ批判してきた。

空色ノートというところで、最近、アラーエというスピリチュアルなメッセージを届けている存在の記事を、何度か再掲していた。

プレアデスから来ました、とか言われても困るかもしれないが、ソウデスかと答えておけばよろしい。

記事はこちらである。

長い転載に、三箇所ほど注があり、その三つ目が、拙が普段から言っていたことをもっと的確に述べていたものである。


その最後の部分を取り出して、書いておく。

彼らには愛が不足しているんだ。実際に彼らは、そのエゴイズムによって逃げるという行為に走ってしまったんだよ。健康な生活とか、心身の浄化とか、精神の進歩とかいった名目にカモフラージュされたエゴイズムだ。


どうであろうか。普段の拙の話は、あれらは精神と肉体の牢獄を超えたといいながら実際は自ら突き進んでいるだけで、挙句の果てにその前提であるはずの「物質は幻である」という話を論破すらしないという、ふざけた根拠でなりたっているのだと書きたててきた。

それが一般人ならどうでもいい。それを主張していたアイクの著作を翻訳しておきながらである。
翻訳したなら判っているだろう?よく判っているなら、主張を覆すことも出来たろうが、そんなことは微塵もしなかった。
出来なかったから、ではあろうが、そんなことは知らない。

人に、己自身を覆せと言いながら、それをまったく実行していなかったのである。欺瞞も甚だしい。

『オルフェンズ』の主人公のほうがよほど人間だといいたくもなる。

彼はひたむきなだけの、あくまで人間なのだから。


そして、あれらはひたむきさを装った人でなしである。

何せ言っておった。「人間辞める」と。

人間を辞めた人でなしは、悪魔そのものと呼んでも差し支えなかろう。

せいぜい、神殿建設などにこき使われたまえ。



こういう風に考えて書くのは、紹介したところの記事からしたらよくないのだが、言わざるを得ないのである。


拙も、あくまで人間であろうとしているので。「じゃあ、今は人間じゃないんだ」とか突っ込まれそうだが。


では、よき終末を。


憑くも神

2017-04-19 | 雑記
気が見えるだの感じるだの、挙句には操れるようになったらしいなどと、気が狂ったようなことをずっと書いている。

とはいえ、野口晴哉は以下略、というのも何度もやってきたところ。

話は変わるが、先日、電車に乗っているときに、先頭車両の先頭にいた。

ドア付近の壁には広告があった。今度始まる、ドラマの広告だった。

人も混んできたので、それに頭が寄りかかる状態で過ごしていたら、広告の額縁に当てている頭のところが何か重い感じがする。

おかしい。別に頭痛でもないのだが、圧迫されるような嫌な感じがする。右頭(広告の額縁を当てている箇所)だけなっている。

どうも、この見ててさして気分のよくない広告のせいらしい。電車の電磁波で気分が悪いなら、頭を当てたところだけ異常を覚えるのも変である。

ああ、これも気ってやつなんだろうなぁ、なんぞと思ったものである。

普段は、手で感じるとか、前にも、手先が寒いと腕を伝わるものがあるだとかは書いた。

例えば、火のついたローソク。熱さなんぞ微塵も感じない距離で掌をかざすと、掌がほんのり温かくなる。

そして、ローソクの火が揺れたりする。風もない、鼻息がかかる距離でもないのにである。

ただ、毎晩のように見ていて気づいたことが一つ。ローソクの炎は、意識してなければ、後は風が当たったりしてなければ、基本的に揺れないのである。

家にローソクがある人がどれだけいるのかは不明だが、一度試してもらいたい。視線の脇にローソクをやり、例えば画面を眺めるとする。

拙の場合は文章を打っている最中に気づいたものだが、ローソクに視線を、つまり意識を向けてないと、揺れていないのである。

勘違いだろうと言われそうだが、揺れてなかったなと思い、改めてローソクをしばし眺めると、思い出したように揺れ始める。

以前、脳の疲れを取る方法、というのをたまたま見ていたとき、その中に、「ローソクを眺める」というのがあった。

ゆらゆら揺れるローソクは、潜在意識に働きかけ云々とあったのだが、それで思ったのである。

「ローソクの炎って、揺れてたっけ?」などと。

それで、ローソクは揺れているのではなく、意識を向けられたせいで揺らされていたのだろうと考えるのである。

見えていなくても、気というのは勝手に感じて勝手に出入りしたりしているわけである。



野口晴哉の言から広げて言うならば、この物質世界というのは、気と呼ばれるもので作り上げられたといえる。

物理学者が、この世界はホログラムとしか思えないと言い出し、物質を極限まで細かくしていくと、靄だとか波のような、もはや親しんだ覚えのある、何か確固とした状態のものを見出せなかったという。挙句の果てに、人の意識で動いているようだとまで述べた。


なぜ、改めて何度もやっている話をしたのかというと、ローソクのせいである。

見てたら揺れだすという話だろう?と。正にその通り。


というのも、ある日のこと。

部屋には、小さな鉢植えのガジュマルがある。これを眺めて、気、別名オーラを見る練習をしていたのである。

どうも、昼間は見づらい。後、初めて靄状のを見たときは、距離が離れていたのもあって、近いと見えない気がするのと、生き物では試したことがなかったからである。

とはいえ、自分の身体から出てくるのは見えるようになった。明るすぎると見えづらいが、ローソクの火だけにすると、よく見える。

それはともかく。ガジュマルを眺めていると、枝が動いた気がする。はて?物が触れると枝を動かす植物というのは実際にあるのだが、ガジュマルにそんな特性があったか?そもそも触れてない。

別の日に、定位置に置いてあるガジュマルを眺めていた。やはり、枝がゆっくりだが、少し動いているように見える。

物質は幻で、人の意識で動く。本質的には物質は気に動かされている。ということは・・・。ローソクの火が揺れるのと同じように、ガジュマルの枝も動いたのだろう、などと思ったわけである。

そこで、拙は別の対象に着目した。

ガジュマルよりも古株の、部屋に飾られている、こういうものである。



特にファンでもないのだが、とあるアニメだかゲームのキャラのフィギュアである。どれくらいの大きさかは、サムネイルをクリックすると判る。

この写真自体は、某オンラインゲームの知り合いに見せるために、ここにアップしたもので、数年前のものである。

大きさの比較のため、二十センチほどの煙管を、台座の手前に置いて、比較対象としている。

今はなくなったゲームセンターのUFOキャッチャーでせしめた。二千円で手に入ったので、儲けたか?そこは判らない。何せ、酔っていた。

せっかく取ったのだからと、部屋に飾って数年と相成る。

余談はさておき。


ガジュマルの枝が動いたように見えた感覚で、このフィギュアを眺めた。すると、腰の布(写真を参照のこと)が少し垂れ出したり、それを持っている左腕も少し垂れ下がったりする。

全体的に見ると、まるで息をしているかのように佇んでいる。

そして、顔を見ていたら、なんと。口がパクパクしている。小さな溝を横一文字に彫り付けてあるだけの口が、ただ開いたり閉じたりするのではなく、何事か喋っているかのように動く。

こりゃなんだ?物質は幻というのが覆しようのない真実だと決めておいていえば、そりゃ動いてもおかしくないが、どうして喋っているかのように複雑に口を動かしているのだ?


九十九神、もしくは付喪神というのがある。読みはどちらもツクモガミ。

百年使われたものに神やらが宿って動き出すという伝承である、と、さっき検索したら出てきた。まだ百年も経ってないのだが。

ホラー映画なんかや、そういう心霊現象的な話で、人形が動き出して人に襲い掛かるとか、暢気な具合なら、夜におもちゃが動き出してパーティーしてる、なんてのがある。

拙が眺めたから動いたとするなら、そして、物質は人の意識や気で動かされるというのなら、こういう話は単純に作り話だったとはいえないのだろう。

ちなみに、映画になった『エクソシスト』というのは、脚色はあるが、実話を基にした話だそうな。人形が動き出すだのというお話も『エクソシスト』も、多感な子供がそこにいるというのが共通点である。
拙は子供という年齢ではないが、そういうことを起こしうるのは、大体子供だったりするというわけである。

さて、もう一つ踏み込んで一言。これだけでも十分頭のおかしい人の話だと思われるが、もっとである。


物質の本質が、もはや形や存在を特定できるようなものではない、というのならば、彼のフィギュアと我が身に違いはないのだろう、などと思うのである。

人という名の人形に命を吹き込んで動かしたのは、このブログを書いていたり、これを読んでいる我々ではないのだから。

道具やフィギュアが動き出したら九十九神。もしくは心霊現象。

人という人形が動き出したのも、実は九十九神と同じなのかもしれないというわけである。


しかし、このお嬢さんは何て喋っているんだろうか?

まさか・・・拙の命を狙っているのでは・・・? ま、可愛い子に殺されるなら本望としようか。

ブログの更新が途絶えたら、セイバー(フィギュアのキャラの役職名?)なのに命を奪われたということにしていただく。

そのセイバーじゃない、という突っ込みは、知っている人にしかやれないので、ご注意を。

では、よき終末を。


幽玄にして有限

2017-04-16 | 雑記
子供のころ、週刊少年ジャンプで連載していた、『新・ジャングルの王者ターちゃん』というのがあった。

ターちゃん、というのはターザンのパロディな存在で、元々アフリカにいた存在ではないのだが、子供のころに置き去りにされた野生児というわけである。

ストーリーが進むにつれて、実は某の血筋だとかなんだか出てきたりする。「新」がつく前のギャグ漫画状態の時、実はどこかの王族の子供だったとか書いていた気がするのだが、そこは忘れよう。

その中で、中国拳法の使い手が登場する。最初は戦って、後に仲間になる、という流れだったと思われる。細かいことは忘れた。

拳法、というわけで、気功を使う。体内で練った気を攻防に使用するという、色々なところで見られるものであった。

その弟弟子だかも同じく気功を使うが、こちらはターちゃんの奥さんの怪我だかを治したりと、扱い方の違うキャラだった。


さて、そのとあるストーリーで、実はターちゃんはどこその吸血鬼の血筋じゃなかろうか?という展開があり、その家系の人物達に付けねらわれたり助けられたりするというのがある。

創作でよくある吸血鬼というやつで、血を吸われると吸血鬼になるのだが、あろうことかターちゃんの弟子と、仲間の拳法家がなってしまう。

夜は吸血鬼の人間離れした能力で、普段では扱えない能力が開花する、というシーンがあった。

件の拳法家は、普段は体内で自力で練った気を使う。これを「内気功」という。

吸血鬼状態の時は、普段使えない外気功が使い放題だ、などといいながら敵をなぎ倒していた。

その「外気功」というのは、『ターちゃん』の描写からすると、自分の身体の外、つまり、大気だとか地面からの気を集めてそのまま使う、というものだった。

拙が子供のころに読んだときは、「へー、すごいなぁ」と思って読み流していたものである。気功があるとかないとかは考えずに。

後年、少年サンデーで連載されていた拳法漫画、『拳児』というのを読んだところ、「内気功」については呼吸法等で体内に練り上げる、というのは同じだったのだが、「外気功」が違った。

ジャッキー・チェンのカンフー映画などで見たことがあるかもしれないが、砂に拳を突っ込むだとか、ああいう身体を硬くするための修練を「外気功」というのだとか。

『拳児』のキャラが簡単に例えていたが、筋トレが「外気功」になるのかな?というと、師範が「その通り」と答えていたものである。


いきなり話が飛ぶが、以前、「カルシウムを取って、骨粗しょう症を予防しましょう」といわれたおばあさんが、せっせと取っていたら、見事骨粗しょう症になった、という話を書いた。

記憶違いでなければ、これは野口整体関係のHPで見た覚えがある。でなければ、『整体入門』だったかもしれない。もしくは・・・?まあいいか。

つまり、外気功もカルシウム不足だと信じ込んで取っていたおばあさんも、同じく気が身体をそのように作り上げているのだといえる。

つまりと言われてもよくわからんと思うが、古来より日本でいうように、「病も気から」である。健康も気から、となる。

『ターちゃん』の描写は間違えているのではなく、端的に判りやすく描いていたのだろうなと、今になって思ったわけである。


なーんでそんな話を思い出したのかというと、最近は余り飯を食べていない、という風に書いてきた。

食えないわけでもないし、食べると結構食べるのだが、間隔がおかしかったり、食べているものがおかしかったりする。

栄養学でいうところのバランスなんぞ崩壊しているわけである。それでいて、やはりおかしい。

上半身を鏡に映して見ていた所、しばらく前のかなりやつれたころより筋肉が膨らんできている。

筋トレをしているわけではないので、歴然の差があるわけではないが、腹に力を込めると、腹筋の形がしっかり出ていて、前より膨らんでいる。

この体型は若いころからさして変わってないのだが、歳食って、その上食事がデタラメになったというのに、若返っているというような状態になっているのである。

知ってか知らずか気を練るとかいうことをやっていたら、外気功にもなっていたというわけである。

日に日に人間離れしていくような気がしないでもないが、やはり、夜勤明けで酒呑んで帰ると、数時間はぐっすり眠れるらしい。まだまだ人間は捨ててないようだ。

何もないと、いつまで経っても眠れなくて、外で鳥がさえずっても寝た覚えがほとんどない、というのがザラだというのは変わりなしだが。


さて、冗談はさておき。上の内容が冗談だというわけではないが。


毎日のように眠れない日々を悶々と過ごしてみたりしていたある日。三月だったと思う。

休みの日で、日没から無理矢理寝てみたら少し眠れたのはいいものの、日付が変わる前に目が覚めていた。

とはいうものの、起きて何かしようという気もなかったので、お茶飲んで寝なおしたか。すぐに眠れないのは仕方ないとはいえ、目を瞑ったりまた開けたりを繰り返していた。

日付が変わったくらいだったか。目を瞑るとよく、Windowsのメディアプレイヤーとかで、「視覚エフェクト」とかいう項目なんかをつけて音楽を再生すると、サイケデリックとでもいうのか、妙な波形を映したりするのがあるが、ああいうのが見れる。
眠れないときは子供のころからそれを眺めて過ごしていたものである。しかし、その時は違った。

普段は平面状に見えたものが、やたら立体的に、しかも規則的に動いている。

具体的に書くと、仰向けで寝ていた状態で、天井の蛍光灯辺りのところに、天空の城ラピュタの黒い石みたいなのに刻まれたような模様の四角形が光っていて、そこから白い羽のようなものがヒラヒラ落ちてくる。

「これはおかしい」と直感的に思い、かっと目を開くと、その光景が目を閉じていた状態と同じに続いているのである。

なんだこれは?と思い、しばらく眺めていると、一際大きな羽が落ちてくる。白色ではなく、茶色っぽい感じのものが、同じところに落ちてくる。

先と思しきほうは白く、後は狐みたいな色をしていた。顔に落ちたと思ったら、また上から降ってくる、というのを何度も繰り返していた。

しばらく見ていると、上から降ってくるのではなく、顔の横で振り上げては降ろし、とやっていたらしい。

そのころには、羽というより尻尾のようにも見えた。鳥の尾羽とでもいうところか。

仰向け状態の右の方から、何かがその尻尾らしきものを、拙の顔に当てている。犬が近くで寝ていて、尻尾だけ振って人に何かアピールしているような感じだといえばよかろうか。

「そこに・・・何かいるのか・・・?」と感じ、ひどく怖いような気分になったのと同時に、「これが先日読んだり見たりした、魔術でいう精霊とかいうやつか?なら、本当にいると思えば・・・?」などと考えたら、顔に当てていた尻尾が、幻覚どころじゃなく、本当に当たっているように感じる。
まあ、それだから幻覚なのかもしれないが、とはいえ、いったいそこには何がいるのか?と、恐る恐るそちらを窺がおうとしたが、見えない。

その時受けた感覚の流れを書いたが、当時の時系列ままかは定かではない。そこに何かいる?と感じたくらいか、尻尾の先を見ようとしたくらいだったか。

何か身体を貫かれるような感覚が走った。貫かれた瞬間は、何が起こったか判らなかったが、なんとなく気持ちよかったように思う。

バタイユ著『エロティシズム』という著作で、とある修道女の神秘体験の引用がある。なんたらのエロティシズム、という三部目辺りかにあった話で、修道女はその体験で、心臓を天使だか神に貫かれ、恍惚を覚えたとかいう風に書いていたとかいう。

ああ、これが名前忘れたけど、バタイユの言っていたなんたらのエロティシズムなんだなぁと、後になって思ったものである。

尻尾で叩いても反応ないので諦めたのか、尻尾の持ち主は消えた。上から降ってきた羽根も消えたのだが、しばらくしてからもう一度目を瞑ると、白い羽がまた出てきた。

今度は昇っていくのが見えた。目を開いても続くところも同じ。「出てきたらちゃんと帰っていくなんて、律儀な奴らだナァ」などと、暢気なことを思いつつ、見送ったものである。

さて、試しに視線を横にしてみたら、やはり目に映ったものらしく、見ている先の状態で上に昇っていく。

そう書いたが、やっぱりちょっと自信がなくなってきた。何にせよ、昇っていったのは見えた。


それから一ヶ月以上経つが、同じような体験は起こっていない。あの時と同じような状態で過ごしてはないせいだろうと思われる。


さて、もう一つ。上記のよりはまだぼんやりしている内容で、短いが、白昼に、といっても時刻は夜だが、体験したものである。


夜中上がりの仕事の終了時刻となり、着替えて事務所内の椅子に座っていた。

泊まりのメンバーは丁度カウンターにいて接客しており、拙はぼんやり無人の事務所内を眺めていた。

先日来、書いたり喋ったり(聞いている人は少ないが、前回のラヂヲでも)しているとおり、オーラだとか言われるものが見えるようになった。

どうも、昔から見えていたらしい。空間を凝視すると、細かい粒が集まっているのが見える、というのが多々あったものである。

それはともかく、事務所のデスクあたりをぼんやり(オーラを見る感覚で、である)眺めていたら、デスクの辺りから青い煙状のものが見えた。
立ち昇ったそれは、すぐ上に書いたように、細かい粒が集まった状態だった。下の方は銀だか金のような色をしていたように思う。

すると、その青い煙状のものが、こちらに向かってゆっくり飛んでくる。ギョッとしたところ、傍らにあった空気清浄機が、座っていた時は何も反応しなかったのに、ホコリだかを検知した時の動作を始めた。

ぶつかる直前くらいで一人が事務所内に戻ってきたので、凝視状態を解除したのだが、見えてないだけで、こちらに飛び込んできたのは違いないだろう。

こちらも、その後なんどか同じようにしてみたが、同じ事は起こっていない。

気とかいうものならば、あれは拙が引き込んだというわけだろうか?その辺りは判らないが、色彩がハッキリしていて尚且つよく見える動きをしたというのは、初めてだった。


やはり、人間離れしているのだろうか?それとも頭がおかしくなったのか?

某漫画の爆弾魔なんぞは、明らかに尋常じゃない精神を持っているのに高級軍属で、それでよく精神鑑定を通ったな?と言われたところ、平然と答える。

「あんな形式的ものは、自分が異端だと理解していれば、常人の振りをしてパスできる」と。


拙が自身を異端であると認識しているのだ、というわけではない。

ああいう体験は、誰にでも起こりうるのだろうと思っているだけである。

誰にでも起こることを、さも神に選ばれただとか、正しい知識を得ただのとか、一般化というより押し付けがましくしている方がどうかしているのである。

そういう物言い自体が、上記の指摘の状態が一般的だとするならば、異端ではあろうが。

とはいえ、我が身に降りかかったという意味では、実に不思議で面白い体験だったとは感じている。


奇跡というのは起こるのではなく、そもそもが奇跡の上に成り立っているのが世の中だといえる。

自他に潜む奇跡を、お見逃しなく。人類としての時間は幽玄でいて、そして有限なのだから。


では、よき終末を。


拙ないラヂヲの時間

2017-04-11 | 雑記
今日のブログは何を書くか、などと思いながら音楽を聴いていたら、何故か急に「よし、ラヂヲにしよう」などと思い立った。

喋ってなければ書いていただろうという辺りは、ラヂヲ冒頭の鳩の話くらいで、後はいつも言っているようなことと、ここしばらくに自身に起こったことをまとめて喋った。

合計一時間を少し越える内容である。内容が深いのか浅いのかはしらんが、一時間喋り続けている。時折、煙草をやっていたりで黙っているのもあるが、放送事故のようにずっと黙っているわけでもないので、ほぼ一時間喋っているようだ。

書いてきた内容そのままと言えばそのままなので、聞くまでもないとは思うが、暇な方はどうぞ。

このブログ上で再生する分には、某動画共有サイトへのアカウント登録は不要なので、再生ボタンをクリックしてくれればよろしい。

画面だとかを押すと、元のサイトへ飛んだりする。後はブラウザが古いとかプラグインの因果で表示されないという事もありうるので、ブラウザを変えるか、更新したりするとよろしかろう。

後、中では「拙」とは言ってないが、前回の話は、あくまでここで書くときの自称を変えたという話なので、喋りについてはご容赦願う。



【ラヂヲ】ウヰスキーの時間 ストレート六杯目



では、よき終末を。


拙ない仕事人

2017-04-10 | 雑記
拙者、という自称があった。正確には今もある。それは、時代劇だとかそういうノリでしか使われないという意味で存在しているので、今もあるとなる。

この言い方は、かつて大学で言語学を習ったときに、教授が言っておったものである。構造学とかいうものの言い方で、共時的な分析というやつである。

さて、拙者というのは本当なのか?という話をちょっとする。別に学術的な考察をしようというわけではない。

明治以前の日本人は、喋る時と文章で書き表す時とがまるで違ったのである。

漢文を習ったことはあるかと思うが、それと同じく、というよりそれを下敷きにしているのであろう文語文と、喋っている風に書く口語文という分類である。

これは本当なのかは知らないが、拙、という自称があるという。セツ、である。

漢文調で文を認めると、「拙は」、と書くと「拙者」になるのじゃないか?という疑問がふと思い浮かんだのである。

時代劇で「せっしゃ」と言っているのは、残っている文語調の文書を現代の感覚で読んだせいで出来上がったものかもなぁ、などと、想像を逞しくしている。

というわけで、これからは「わし」といわずに、拙、で行くことにする。どういうわけかはまったく判らない。

ちなみに、この「拙」という自称は、とある格闘ゲームの忍んでいない忍者の自称だとかいう。知ってたらかなりマニアック。

わし、というのは、基本的に目下に対するぞんざいな言葉遣いなのと、某漫画家の真似という謗りを受けるのを避けるためである。

別に謗られた覚えはないのだが、ノリである。多分、酔っ払ったら「わし」とは喋ってる。

以後、自称を間違えたら拙は切腹する所存である。それくらいの覚悟で変えるのである。いや、本当に切腹したら死ぬからやらんが。



余談はこれぐらいにして、拙の日常をツラツラと述べようと思う。最初から最後まで余談を許さないのである。


ここ最近、というかもうずっとかもしれないが、所謂スピリアルっぽい話を書いている。

何せ、なんだか見えるとか、手を当てたら何か感じて温まって痛みが治まるとか、何を食っても美味いが別に飛び上がるほど感激するわけでもなく、「美味いみたいだな」となんとなく思うぐらいになっているだとか、寒いのに震えない上に、手足が寒さを感じたら、勝手に温まりだすだとか、言っている本人も訳が判らんところである。

多分、野口晴哉の言っていた気とかいうものなんだろうと。特に、先日書いた「愉気」についての実感による処といえようか。

「愉気」については、野口晴哉は、「誰でも出来ることです」と言っている。これが出来るから私は特殊な人間だ!とか舞い上がる人は間抜けだと言っておこう。


さて、なにやらオーラとか呼ばれたりしているものが見えるらしい、と書いてきた。

色によって特性が違うそうで、拙は一体何色なのか?と疑問に思い、試してみた。誕生日だとかで判るのだろうか?と思ったのと、色の分類が曖昧というか、人によって数や分類が違いすぎる。

試し方は以下である。

1.自然光、もしくは白色の伝統、じゃなくて電灯の元に立つ。立たなくてもいいが。

2.白い壁に手を置く。拙が行った時は、仕事場の机で、真っ白だったので試した。

3.その手をぼんやり眺める。目を離してはいけない。また、手に目玉をくっつけてもいけない。目が潰れるから。

4.お楽しみください。

とのことであった。お楽しみください、は書いてなかったが。

するとあら不思議。拙の場合は、水色っぽく輝きだしたものである。

水色?簡単な診断だと青だとか言われたし、水色と書いているのはなかったような?と思い調べてみたところ、水色の分類と特性を見つけた。

本当のところを言うと、その分類を書いてあったところに、上記の見方を書いてあったので試したら、水色が現れたというところではある。

さて、水色の特性は何かというと、賤しい、じゃなくて癒すらしい。

仕事場で見ていたページを見つけたので、他の色と一緒に併せてご覧あれ。

ああ、だからか。かつて大きな鳥やら竜と戦うオンラインアクションゲームをやっていた時、知り合ってよく一緒にプレイしていた方が、「あなたと話してると落ち着いてしまって、寝てしまう」なんぞと言っていたのは。

いや、これから狩りにいくんだけど?と、当時の拙はやきもきしたものである。

色々流し読みしてみると、必ずしも身に纏うオーラというのは一定しているわけでもないらしい。この色だからこれと、必ずしも決まってないのだとか。

とりあえず、昨日、仕事場で試した時に見えたのは、水色で白っぽく輝いている感じだった。電灯がLEDのせいで、ブルーライトの影響か?と思ったが、多分関係ない。

気やらオーラやらというのは、物質以前のものだというのだから。


癒し。確かに、拙は拙自身を癒したかったのである。他はどーでもいい、というとメチャクチャだが、最近も似たようなことを書いたものである。

というのも、わたしとはわたしとその環境である、というオルテガの命題に則って言うならば、二番目に書いてある「わたし」を変えれば、嫌でも環境は変わるはずだ、という考えが前提にあるからである。

それを忘れて、外、つまり、上で言う「その環境」をいじっても、「わたし」が前の環境の状態のままなら、また元に戻るだけなのだと。


恐らく、昔からそういうことを感じていたのだと思われる。風邪引いても薬を飲もうとしないし(身体の抵抗力が怠ける、と高校くらいから思っていた)、生まれ故郷より東京は寒いからと、寒さに耐えられるようにしようとちょっと心がけていたりだとか。某宗教団体の大学が東京にあるわけで、拙の親はそこに放り込むつもりだったからである。

一人でも寂しくないように、精神修養も欠かさなかった!といったら大嘘だが、なんやかんやで、目の前に他人がいないとつまらないだとか寂しいというのは無意味だと思い至ったのは事実である。

何で一人になるのだろう?と思わなくもなかった。とはいえ、愚兄に「一人になるな!」とか散々説教されたのは、鬱陶しいことこの上なかった。

それを思ったせいなのかは知らないがオーラの診断していたの同時くらいに、前々から名前は聞いたことのある、「ライトワーカー」とかいう存在の内容を読んでいた。

いわく、ライトワーカーは孤独な人が多いだとか、過酷な人生の場合もあるのだとか。

過酷かはしらんが、孤独といえば孤独かもしれない。親や兄貴に「某宗教団体含めて宗教はキチガイ沙汰だ。国内の他の宗教的伝統を貶すのは、自分たちが伝統になってふんぞり返りたいだけだろう」なんぞと言った所で通じないのは判っていた。

当時は別のものにかぶれていた。それは「日本的」という宗教だったから、拙自身も同レベルでしかなかったのだなと、今は思う。


それで、何でライトワーカー?と思われるかもしれないが、別に拙が光の国からやってきたとか言いたいわけじゃない。

二番目のリンクに書かれた、アメリカのスピリチュアルカウンセラーの方が示した具体的な特徴の最後の行が、正に拙のことだったからである。


世界を癒すための第一段階として、自分の人生を癒したいと思っている



世界とは大きく出たなぁ、と思われるだろうが、別にそれほど大きくない。というのも、世の中が言ってくる世界というのも、誰かのでっち上げた見た目は大きいが小さな見せ掛けなのだから、自分から見た世界を癒そうというだけの話である。

他に世界などない。己のうちから広がっていく世界を見ずして、何を語ろうというのか、というわけである。

だから、こうして延々書いているのだろう。これではLight workerじゃなくて、Wright workerだが。


今までずっと切なかった理由は、「拙」がなかったからなのだろう。もしくは見失っていた。

それで、「拙」ないことはもうやめにしようと相成ったわけである。

記事タイトルの「拙ない」は「つたない」の書き間違えではないことをお断りしておく。

まあ、色々と拙いのはご愛嬌ということで、御免被る。


では、よき終末を。



筋肉痛による空腹

2017-04-08 | 雑記
前回のオーラだとか靄だとかの記事のせいか、妙な閲覧数と訪問者数を記録していた。

お酒のブログだと思って来られた方には申し訳ないが、ある意味酔っ払っているような人が書いているブログなので、そういうものだと思っていただきたい。

酔っ払いの名言にもあろう。「俺はよっちゃいねえ」と。そして足元は覚束ないという。

一滴も飲んでないのに、正気を失った、失礼、酔っ払ったとしか思えない言動をするのを、自他ともによく見てきたもので、こういう内容になっているのである。


さて、最近はまるで霞を食っているかのようになってきた、という話をしているが、このごろはまあ、そこそこ食べている。

さっきも帰ってきて(0時ごろである)うどんを茹でて食べていた。その前に食べたのは、日付が前の夜七時ごろにトースト二枚だったが、その前は早朝の握り飯と、間隔は短い。

早朝から夜まで食事なし、はかつての自分では思いもしない間隔の長さだとはいえるが、これでも短いと言い出す辺り、どうかしているのかもしれないが、特に問題なく過ごしている。

うどんは二束食べたが、特に眠いという感覚も起きてこなかった。多少気を抜けば眠ってしまうのかもしれないが、腹いっぱいなのにしんどくないというのも、かつてはなかったものと記憶している。

明日は夜勤に入ってから、買っておいたトーストを焼いて食べていることだろう。その間は?茶でも飲んでいる。


改めて、ブリサリアンという人達の感覚による定義を書いておく。

食べないからブリサリアンではなく、食べ物によって生きてはいないからブリサリアンである、とのことである。

それなので、食べているブリサリアンもいると、実際に言っているようだ。五感を超えようとしない人が英語で「五感を超えて」とかいうタイトルのHPを運営していた時に紹介されていたリンク先のページにあったものである。当時からあったが、同じタイトルの別のHPがあるので、間違えないように。

以前書いたので割愛だが、野口晴哉も同じようなことを言っていた。

『魔術入門』でバトラーも、「食べるのは大事だ」と書いていて、食物の栄養が必要とは言っておらず、「エネルギーを取るために」と書いていた覚えがある。

エネルギーとかいうものは、栄養学をひっくり返しても出てこない。カロリーは出てくるだろうが、カロリー=エネルギーとは言えそうもない。


なら結局食べ物に頼っているのではないか?この世が牢獄だから脱獄するんじゃないのか?といわれるかもしれない。


お間違えなきよう申し述べておく。

五感に溺れた誰かさんは、果物と野菜と、チーズとかは除外だろうが醗酵食品を食べるとかいっておったようだが、それを食うために生きているだけである。

バトラーの理屈から言えば、食うのは手段であって、尊いと勝手に崇めている食べ物を食べるという目的ではないのである。

この世の労働というのは何のためにあるのか?

つまるところ、食うために、つまり、食うことが目的だから、そのために行われているのではないかな?

その誰かさんは、「フルータリアンになるために色々やってきたんだな」などと言っておった覚えがあるような気がするが、つまるところ、この世の大抵の人が好きか嫌いかを問わずに続けている労働社会の延長にいるだけなのである。

それは、ビルで働いているか、森で働いているかの違いでしかないのである。

森で働いているのをさも素晴らしいことかのように讃えているのは、大体の人がうなずく「自然はスバラシイ」という既成概念がある故であり、これを吹き込んだのは誰かは考えていない。さも、生まれつき持っていると思い込んでいるだけである。
その自然というのは、目に映った物質世界であり、つまり、それは偶像崇拝に過ぎない、というのも以前書いた。

現代なら、マスコミが環境破壊がどうこうと垂れ流しているわけで、怪しむべきではないのだろうか?

そしてなおかつ、精神と肉体という、基本的に離れることが出来ない、自身にとって一番身近な物質に対するフェチズムを日々強化するのが現代社会、というよりずっと昔からだが、それらは幻だから気づきましょう、と言っているアイクを翻訳しておきながら、自らその罠に嵌っていく。

彼の者は、牢獄の中で模範囚になりたいだけで、脱獄を試みる気などない。脱獄しましょう、と言っている人の話を最初から馬鹿にしていただけである。

ただの模範囚の癖に、森に入っただけで「脱獄した」だのと言っている詐欺師でしかないので、似たようなことを言う人は詐欺師と断罪して結構。


とまあ、こういう事をずっと書いてきた。「アイクを翻訳したことがある」とか「五感を超えての英訳名のHP」というキーワードで特定個人を指してはいるが、こういう思考回路はそいつだけが頭おかしいんじゃなくて、現代社会はこういうバカを量産するようなところがあるのだよ、ということをちょくちょく書いている。

ただ、最近になって思うのは、世の中という幻は自分が見たいように、ある程度捻じ曲げられてはいるのかもしれないが、自分が見たいように見ているというわけで、自他のバカバカしさというのは、そのことに気づくための足がかりなのかもしれないな、とは思っている。

だから、ブッダも「己自身にしがみつけ」とかいうことをいってたり、五感に囚われるなとか言ったのだろうと思う。

囚われるな、であって、五感を断てというのは、後代の拡大解釈だと思われる。

それに類するであろう逸話があって、ブッダが断食やってて飽きたくらいに(こういう書き方はノリなので、真に受けないように)、スジャータという女性が乳粥を持ってきたが、ブッダはそれを受け取って食べた、という説話があるのだが、これは隠喩だそうな。

乳粥が、実は精液の隠喩であり、女性と乳粥というのは、セックスのことだった、という話を・・・多分、「五感を超えて」の裏フォーラムで聞いた覚えがある。

どこぞでソープ通いで有名になっていたことがあったという麻原もどきは、スジャータの乳粥の虜、つまり、五感に溺れているくせに、嘘偽りのタイトルをつけておったのだろうな、などと思うのである。もしくは超えたかった・・・のだろうが、超えなかったと思われる。現時点では知らないが、アイクにつまらん難癖をしただけで超えたと言い出した辺りは、とち狂っているという以外に言葉はない。

その麻原もどきが最後に翻訳した、アイクのメールマガジンの一節をうろ覚えで書いておこう。

内容は、かつてハワイだかのニューエイジャー達に、世界に渦巻く陰謀を伝えに行ったら、門前払いされた、という話である。

彼らは古き良き健康的な生活をしているが、それらもこのままではいずれ奪い取られるだけだということを伝えようとしたら、耳を塞がれたと。

そして、アイクはこう締めていた。「健康に越したことはないが、だからといって判るものではない」と。

健康病、という皮肉があるが、まさにそれは、現代社会の流行り病なのである。

本当に五感を超えるなら、物質に惑わされることはないのである。

なぜなら、バトラーが言っていたが、三次元としての人間ではない人間が、この世を作ったのだから。



さて、余談は終る。

余談?と思うが、こういう話は何度もやってきた。何故か延々書いてしまったが。


先日、夜中上がりの帰る直前に、客から「冷蔵庫がおかしい」と連絡を受けてしまい、地下から運び出して交換する、なんぞという目にあった。

なんやかんやで三十分ほど掛かったので、チーフに冗談で「残業代でももらいたいところだ」なんぞといったら、本当にくれた。

なんでも、以前の役職時代の機密費だとか。ありがたく受け取っておいたものである。


そこは別に関係ない。立方体型の冷蔵庫を一人で持ち運びしたせいで、腕が筋肉痛になってしまったという話である。

二日目になる昨夜になって、ようやく痛みが激しくなってきた辺り、わしも歳を食ったのだろう。違和感だけなら運んだ次の日にもないこともなかったが。

揉んだりすると余計ひどくなる。身体とはそういうものだ。

なら、どうするか?というわけで、思い出した。

野口整体には、「愉気」というのがある。手当てだとか手かざしである。

悪いところに手を当てて、治れとか思わないで無心になってゆっくり呼吸しているようにする、というものがある。

これだけを取り出して宗教やってたりする人もいるが、別に悪いものではないんで、難癖はつけないように。

それはさておき。


とりあえず、右手を左の痛くなっているところに当てた。

しかし、無心になるってどうだろうか?と思ったので、前回書いた、オーラを見るだけでぼんやりしてみた。

その時、不思議なことが起こった。メタルライダーになったわけではない。

ほのかに、あてた手の方から患部に、何か伝わるものがある。

そして、かなり温かい。息を吸うと引く感じで、息を吐くと、あてたところに熱と何かが伝わるような具合になるのである。

ああ、これが野口晴哉の言っていた「愉気」なんだなぁと、感じ入ったしだいである。

さすがに筋肉痛は取れてないが、肘の関節辺りに試したら、すっかりよくなったようだ。

そういうことをフロントのカウンターで座って試していたせいか、うどんを二束食べるはめになったのである。

何を食べるかではない。どう食べるかである、とは、野口晴哉の直弟子の方のHPで書いていた。

この場合のどう食べるか、というのは、食べることに瞑想的に集中して食べるべし、という意味であったのだが、わしは気を使うために食べているとなったのかもしれない。

人に気を遣うような文章は書いてないぞ、という突っ込みは無しの方向でお願いする。


では、よき終末を。