先日、たぶん、風邪から起き上がって仕事に行った日だったかと思うが、駅前で新聞のようなものを持った女性が、通行人の傍らを着いていきながら、「ねえ?すごいでしょ!?」としきりに喋っているのを見た。
その通行人は向かいから来てすれ違っていく形になったので、すぐその二人は視界から消えたが、今度は警官が前にいた。
どうも道行く人々を付回して気味悪がられたのか、通報されたらしい。警官に注意を受けていた。
しばらく前からこの駅前で活動をしているのは知っていた。当初はエホバの証人かと思っていたが違った。
その女性達が手にしていた新聞のようなものに目をやると、「日蓮大聖人の仏法」と、大きな文字を振ってある。新聞の一面の見出し程度である。
そして、記事の冒頭には著者近影よろしく、爺さんの写真が写っている。見たことはない爺さんだが、見たことのある内容である。読まなくても判る。
組織名は判らんが、恐らく、日蓮正宗系の団体である。ちなみに、日蓮宗全体だか一部だけかはしらんが、日蓮上人とは言わないで、日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)と呼ぶのである。
顕正会という、正宗系の組織があって、創価学会は彼らをカルトだのと呼んでいる。とはいえ、かつて自身らがやっていたことをやっているだけなので、ふざけた話ではある。駅前にいたのがそれかは不明だが。
それに、日蓮というのはソクラテスよろしく、辻説法というのをやっていた。道でああやって凄さを説いて回る、それはそれはとてもありがた迷惑で、わざわざ自分から迫害を呼びおこしては、「法華経に書いてあるとおりだ」と法悦境に耽るという、マゾヒストであったので、彼らこそ伝統に則っている。
というのも、その法華経とやらには、「この法を保つ者には苦難がやってくる」とあり、正しいから迫害受けるのだ、というわけだが、実際、世の中にあるカルト教団は皆同じ理屈なので、昔から人は変わらないと思わざるを得ないのである。
少々長くなってきたが、仏法とはなんぞや?という話を続けておく。
拙も近年まで勘違いしていたのだが、これを解いてもらおう。
釈迦は仏陀だが、では、仏陀は釈迦のことを指している。○か×か。
正解はキリスト!ではなく、ノーである。厳密に言えば、完全なノーでもない。
以前にも書いたことがあるが、仏陀というのは称号であり、「目覚めた人」という意味である。
釈迦は個人名である。釈迦という人が悟って仏陀になったので、釈迦は仏陀だというわけである。
つまり、仏陀は一人ではなく、色んな所に出て来得るというわけである。
そんな目覚めた人の、つまり仏陀の法理を「仏法」と呼ぶわけである。
では、日蓮は仏陀か?というと、イスラム!ではなく、やはりノーである。
釈迦は言っている。「自分が見出した法というのは、己以前の人々も見出したし、また、自分の後の人々も見出していくものなのだ」という風に。
日蓮以前にあのようなことを言い出した人はおらず、そして日蓮にしか見出せなかったというのなら、そんなものは「仏法」とは呼ばないのである。
釈迦はこれを「己の見解を真理だとみなしている」と指摘している。
己の見解を真理とみなすというのを、現代語に置き換えれば、それは「宗教」となる。
この言葉は比較的新しく、広まったのは明治あたりだったと聞いた覚えがある。「仏教」と呼ぶのが一般化していったのも、このあたりからだという。
日本がキリスト教という「宗教」に染め上げられていくのと足並みがそろっているのは、偶然ではない。
うろ覚えで続けるが、『荘子』だかの一説で「これをわたしの教えの宗(むね)としよう」というところから来ている。
つまり、何かの教義や思想、つまり見解を奉るということである。
釈迦はその反対を目指していた。それは、諸々の真理と見なされているだけの見解を乗り越えたところを目指す、つまりは「脱宗教」の理論と実践が仏法の本懐なのである。
それはとりもなおさず、世の中を破壊してしまう恐れがあったので、釈迦は悟った時は、広めないようにしようと思ったのだとか。
しかし、神の帝釈天に、「どうか広めてください」と頼み込まれて、重い腰を上げたとのことである。
神といったが、神というのは普通の人より少々優れたところ、例えば長生きだったりだとか、不思議な力があるだとかだが、輪廻の内に生きる存在なので、輪廻から解脱した仏陀たる釈迦に懇願したのである。
輪廻の内にある存在は、諸々の見解に捕らわれている状態なので、諸々の見解を乗り越えた仏陀は神なんぞより上ということになるのである。
これを踏まえて上の話を順に読めば、現代社会の問題点が多少見えてくるかもしれない。
それはさておき。
キリスト教は、神が自身に似せて白人を創ったとのたまっている。「見解」に過ぎないので、場当たり次第で何でも言う。だから今はこう言っていないだとかは当てにならない。先日の進化論しかりである。
それらの世界で研鑽されてきた学問というのも、それらの「見解」に彩られている。
例えば数学はどういうものかというと、何かで読んだのだが、あれは「神が存在するかどうかを証明するため」というところから発展してきたという。胡散臭い、と呼ばれるジャンルの本ではなく、一般レベルの書籍にあった話である。
物理学というのも、恐らくそういう性格のものではなかったろうかと考えている。物理学が、というより科学が、かもしれないが。
ニーチェは、「科学者は原因と結果をひっくり返している」と批難していた。西洋科学の見解は、物質を原因として物を見ているというのは言うまでもないところである。
何ゆえ何か見える形の、見えるといっても顕微鏡で見たりだが、確たる何かがあるという見解で物を言うのだろうか?と考えたのだが、これも恐らく、数学が神の存在証明のために発展したというのと同じなのだろうといえる。
神が人を創り人のために世界を作ったのだから、それらは神聖なものだ、神にも等しいはずだ、という見解で、物体を細かくしていって物質を取り出して行き、確たる神を見出そうとした。こういう流れなのだと思われる。神が創ったはずの我々は素晴らしいはずだ、という見解である。
ヴィクトリア朝時代には、この世には物質しか存在しないという、物質至上主義というか、そんな観念が流行ったそうだが、そんな態度を取ったのも、神探しが理由だったからだろうと思われる。
西洋のキリスト教社会の表立っての思想は、そういうものから来ている。とはいえ、洋の東西を問わず、神秘行と呼ばれる、西洋なら魔術、インドなら多分ヨガだとか、東洋なら仙道と呼ばれていることを実践している人々の見解は、ほぼ共通していて、物質以前のものが物質を作り上げていると、言っている。
釈迦も似たようなことを言っている。この世はカラーパ(パーリ語でこれ以上分解できないもの、という意味だそうな)という粒で出来ていて、これらが集まって形作られている。そして、それらは生成と消滅を繰り返しているのだと。
アインシュタインは相対性理論で、物質とエネルギーというのは同質なのだということを説いている。仙道ではそれを気と呼ぶ。
これこれの栄養(物質の形違いである)を取り込んでいるから健康だとか、毒物(右に同じ)を取り込んでいるから頭がおかしいだとか、こういう実践をしてきているからわたしは尊い存在になったのだとかなりつつあるのだとか言うのは(脳内の化学物質がみせる「見解」である)、上記に示した西洋科学の見解を押し戴いたものであるといえる。
地球の自然環境は麗しいだのというのもまた見解であり、それは頭でっかちが脳内で作り上げた自前の神様とやらを崇め奉っているだけに過ぎないのである。別に、汚いから燃やせと言っているわけではない。
だから、次から次へと新しい「見解」を見出しては乗り換えたり付け加えたりしていく。周りを口汚く断罪していたのを、今度は見せびらかす形に変えただけで、その思考回路は断罪している対象と何ら変わらないのである。
どこかの誰かのことではなく、これが頭でっかちの現代社会であり、その人々の姿である。何を食っているからとか森に入ったからよくなるとかいうのは、どこにもないのである。
そうそう。頭でっかちの例をもう少し挙げておこう。
現代社会の農産物は栄養が足りなくなっている!!という話を聞いたことがあるかもしれないが、それなら何故アメリカ人はデブが多いのか?日本も増えているが。
牛乳をたっぷり飲む彼らは、骨粗しょう症に悩まされているという。野口整体の話を引用して度々書いたが、改めて書いて、さらに追記する。
あるおばあさんが骨折して、医者に「カルシウム不足だから、よく取りなさい」と言われ、その後せっせと摂取しておったそうだが、また折れた。
そして検査したら、見事骨粗しょう症になっておったそうな。折れる折れないは、読んだ話でそうだったかは、うろ覚えである。
野口晴哉も、「取りすぎた栄養は糖尿とかにして排出したりしてて、そうやってるのは体がまともな証拠なのに、糖尿になったとか言ってはまたせっせと栄養を取って体を壊し、本当に糖尿病にしてしまう」と言っていたが、上記の婆さんも同じ事をやらかしていたわけである。
森に入った方々(かつての拙も含むが)は、以前から「栄養が足りない」と言っておったような気がする。それで、色々正しい食い物を集めては食ってとやっておったわけだが、どうやら栄養が足りない体を作り上げてしまったようで、おつむに栄養が回らなくなったらしい。というより、回っていなかったのである。
頭でっかちが頭でっかちの思想を押し戴くのは、当然の理だったというわけである。
別の例だが、頭でっかちの話をもう一つあげつらっておく。
以前、拙のブログで妙なコメントをしてくる奴がいた。態度も妙だし、突っかかってくるだけで、ろくな反論もないという、よくいるレベルの奴である。
コメントを見返してないのでうろ覚えで書くが、「そんなことは腰が抜けてもいえません」などという。
腰が抜けたというのは、驚いたりの恐慌状態で、まとも状態ではないことを指す。ドラマや映画のワンシーンで、通行人が道端に倒れている人を見て近寄ったら、殺された人だったと気付いて驚いてしりもちをつき、そのまま後ずさりしてからようやく立ち上がって「わー!」と逃げ出す、というのがあるが、ああいう状態のことをいうのである。
指摘したら、「一本取られましたね」などと答える。己の頭の鈍さを理解しようともしていない。その癖、後々、「お前の目的はなんだ?」と問うと、「あなたに正しい知識を授けたかった」とのことである。何かは知らんが仲間に引き入れたかったからという。そのやりとりはコメントに残っている。
そういう言葉を辞書で引いたり、また人から聞いていなくても、想像したらすぐ判ることである。もしくは疑問に思って調べる。疑問に思うことすらしない。そうなっているのは、頭でっかち、野口整体で言うところの身体を使って生きてはいないからである。
頭を使って生きるのではなく、頭で生きているうちは、娑婆から出ることはままならないのである。体も動かしてます、とかいう意味ではない。
己の脳内の神という獄を抱いて服役し続けるがよろしい。
では、よき終末を。
その通行人は向かいから来てすれ違っていく形になったので、すぐその二人は視界から消えたが、今度は警官が前にいた。
どうも道行く人々を付回して気味悪がられたのか、通報されたらしい。警官に注意を受けていた。
しばらく前からこの駅前で活動をしているのは知っていた。当初はエホバの証人かと思っていたが違った。
その女性達が手にしていた新聞のようなものに目をやると、「日蓮大聖人の仏法」と、大きな文字を振ってある。新聞の一面の見出し程度である。
そして、記事の冒頭には著者近影よろしく、爺さんの写真が写っている。見たことはない爺さんだが、見たことのある内容である。読まなくても判る。
組織名は判らんが、恐らく、日蓮正宗系の団体である。ちなみに、日蓮宗全体だか一部だけかはしらんが、日蓮上人とは言わないで、日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)と呼ぶのである。
顕正会という、正宗系の組織があって、創価学会は彼らをカルトだのと呼んでいる。とはいえ、かつて自身らがやっていたことをやっているだけなので、ふざけた話ではある。駅前にいたのがそれかは不明だが。
それに、日蓮というのはソクラテスよろしく、辻説法というのをやっていた。道でああやって凄さを説いて回る、それはそれはとてもありがた迷惑で、わざわざ自分から迫害を呼びおこしては、「法華経に書いてあるとおりだ」と法悦境に耽るという、マゾヒストであったので、彼らこそ伝統に則っている。
というのも、その法華経とやらには、「この法を保つ者には苦難がやってくる」とあり、正しいから迫害受けるのだ、というわけだが、実際、世の中にあるカルト教団は皆同じ理屈なので、昔から人は変わらないと思わざるを得ないのである。
少々長くなってきたが、仏法とはなんぞや?という話を続けておく。
拙も近年まで勘違いしていたのだが、これを解いてもらおう。
釈迦は仏陀だが、では、仏陀は釈迦のことを指している。○か×か。
正解はキリスト!ではなく、ノーである。厳密に言えば、完全なノーでもない。
以前にも書いたことがあるが、仏陀というのは称号であり、「目覚めた人」という意味である。
釈迦は個人名である。釈迦という人が悟って仏陀になったので、釈迦は仏陀だというわけである。
つまり、仏陀は一人ではなく、色んな所に出て来得るというわけである。
そんな目覚めた人の、つまり仏陀の法理を「仏法」と呼ぶわけである。
では、日蓮は仏陀か?というと、イスラム!ではなく、やはりノーである。
釈迦は言っている。「自分が見出した法というのは、己以前の人々も見出したし、また、自分の後の人々も見出していくものなのだ」という風に。
日蓮以前にあのようなことを言い出した人はおらず、そして日蓮にしか見出せなかったというのなら、そんなものは「仏法」とは呼ばないのである。
釈迦はこれを「己の見解を真理だとみなしている」と指摘している。
己の見解を真理とみなすというのを、現代語に置き換えれば、それは「宗教」となる。
この言葉は比較的新しく、広まったのは明治あたりだったと聞いた覚えがある。「仏教」と呼ぶのが一般化していったのも、このあたりからだという。
日本がキリスト教という「宗教」に染め上げられていくのと足並みがそろっているのは、偶然ではない。
うろ覚えで続けるが、『荘子』だかの一説で「これをわたしの教えの宗(むね)としよう」というところから来ている。
つまり、何かの教義や思想、つまり見解を奉るということである。
釈迦はその反対を目指していた。それは、諸々の真理と見なされているだけの見解を乗り越えたところを目指す、つまりは「脱宗教」の理論と実践が仏法の本懐なのである。
それはとりもなおさず、世の中を破壊してしまう恐れがあったので、釈迦は悟った時は、広めないようにしようと思ったのだとか。
しかし、神の帝釈天に、「どうか広めてください」と頼み込まれて、重い腰を上げたとのことである。
神といったが、神というのは普通の人より少々優れたところ、例えば長生きだったりだとか、不思議な力があるだとかだが、輪廻の内に生きる存在なので、輪廻から解脱した仏陀たる釈迦に懇願したのである。
輪廻の内にある存在は、諸々の見解に捕らわれている状態なので、諸々の見解を乗り越えた仏陀は神なんぞより上ということになるのである。
これを踏まえて上の話を順に読めば、現代社会の問題点が多少見えてくるかもしれない。
それはさておき。
キリスト教は、神が自身に似せて白人を創ったとのたまっている。「見解」に過ぎないので、場当たり次第で何でも言う。だから今はこう言っていないだとかは当てにならない。先日の進化論しかりである。
それらの世界で研鑽されてきた学問というのも、それらの「見解」に彩られている。
例えば数学はどういうものかというと、何かで読んだのだが、あれは「神が存在するかどうかを証明するため」というところから発展してきたという。胡散臭い、と呼ばれるジャンルの本ではなく、一般レベルの書籍にあった話である。
物理学というのも、恐らくそういう性格のものではなかったろうかと考えている。物理学が、というより科学が、かもしれないが。
ニーチェは、「科学者は原因と結果をひっくり返している」と批難していた。西洋科学の見解は、物質を原因として物を見ているというのは言うまでもないところである。
何ゆえ何か見える形の、見えるといっても顕微鏡で見たりだが、確たる何かがあるという見解で物を言うのだろうか?と考えたのだが、これも恐らく、数学が神の存在証明のために発展したというのと同じなのだろうといえる。
神が人を創り人のために世界を作ったのだから、それらは神聖なものだ、神にも等しいはずだ、という見解で、物体を細かくしていって物質を取り出して行き、確たる神を見出そうとした。こういう流れなのだと思われる。神が創ったはずの我々は素晴らしいはずだ、という見解である。
ヴィクトリア朝時代には、この世には物質しか存在しないという、物質至上主義というか、そんな観念が流行ったそうだが、そんな態度を取ったのも、神探しが理由だったからだろうと思われる。
西洋のキリスト教社会の表立っての思想は、そういうものから来ている。とはいえ、洋の東西を問わず、神秘行と呼ばれる、西洋なら魔術、インドなら多分ヨガだとか、東洋なら仙道と呼ばれていることを実践している人々の見解は、ほぼ共通していて、物質以前のものが物質を作り上げていると、言っている。
釈迦も似たようなことを言っている。この世はカラーパ(パーリ語でこれ以上分解できないもの、という意味だそうな)という粒で出来ていて、これらが集まって形作られている。そして、それらは生成と消滅を繰り返しているのだと。
アインシュタインは相対性理論で、物質とエネルギーというのは同質なのだということを説いている。仙道ではそれを気と呼ぶ。
これこれの栄養(物質の形違いである)を取り込んでいるから健康だとか、毒物(右に同じ)を取り込んでいるから頭がおかしいだとか、こういう実践をしてきているからわたしは尊い存在になったのだとかなりつつあるのだとか言うのは(脳内の化学物質がみせる「見解」である)、上記に示した西洋科学の見解を押し戴いたものであるといえる。
地球の自然環境は麗しいだのというのもまた見解であり、それは頭でっかちが脳内で作り上げた自前の神様とやらを崇め奉っているだけに過ぎないのである。別に、汚いから燃やせと言っているわけではない。
だから、次から次へと新しい「見解」を見出しては乗り換えたり付け加えたりしていく。周りを口汚く断罪していたのを、今度は見せびらかす形に変えただけで、その思考回路は断罪している対象と何ら変わらないのである。
どこかの誰かのことではなく、これが頭でっかちの現代社会であり、その人々の姿である。何を食っているからとか森に入ったからよくなるとかいうのは、どこにもないのである。
そうそう。頭でっかちの例をもう少し挙げておこう。
現代社会の農産物は栄養が足りなくなっている!!という話を聞いたことがあるかもしれないが、それなら何故アメリカ人はデブが多いのか?日本も増えているが。
牛乳をたっぷり飲む彼らは、骨粗しょう症に悩まされているという。野口整体の話を引用して度々書いたが、改めて書いて、さらに追記する。
あるおばあさんが骨折して、医者に「カルシウム不足だから、よく取りなさい」と言われ、その後せっせと摂取しておったそうだが、また折れた。
そして検査したら、見事骨粗しょう症になっておったそうな。折れる折れないは、読んだ話でそうだったかは、うろ覚えである。
野口晴哉も、「取りすぎた栄養は糖尿とかにして排出したりしてて、そうやってるのは体がまともな証拠なのに、糖尿になったとか言ってはまたせっせと栄養を取って体を壊し、本当に糖尿病にしてしまう」と言っていたが、上記の婆さんも同じ事をやらかしていたわけである。
森に入った方々(かつての拙も含むが)は、以前から「栄養が足りない」と言っておったような気がする。それで、色々正しい食い物を集めては食ってとやっておったわけだが、どうやら栄養が足りない体を作り上げてしまったようで、おつむに栄養が回らなくなったらしい。というより、回っていなかったのである。
頭でっかちが頭でっかちの思想を押し戴くのは、当然の理だったというわけである。
別の例だが、頭でっかちの話をもう一つあげつらっておく。
以前、拙のブログで妙なコメントをしてくる奴がいた。態度も妙だし、突っかかってくるだけで、ろくな反論もないという、よくいるレベルの奴である。
コメントを見返してないのでうろ覚えで書くが、「そんなことは腰が抜けてもいえません」などという。
腰が抜けたというのは、驚いたりの恐慌状態で、まとも状態ではないことを指す。ドラマや映画のワンシーンで、通行人が道端に倒れている人を見て近寄ったら、殺された人だったと気付いて驚いてしりもちをつき、そのまま後ずさりしてからようやく立ち上がって「わー!」と逃げ出す、というのがあるが、ああいう状態のことをいうのである。
指摘したら、「一本取られましたね」などと答える。己の頭の鈍さを理解しようともしていない。その癖、後々、「お前の目的はなんだ?」と問うと、「あなたに正しい知識を授けたかった」とのことである。何かは知らんが仲間に引き入れたかったからという。そのやりとりはコメントに残っている。
そういう言葉を辞書で引いたり、また人から聞いていなくても、想像したらすぐ判ることである。もしくは疑問に思って調べる。疑問に思うことすらしない。そうなっているのは、頭でっかち、野口整体で言うところの身体を使って生きてはいないからである。
頭を使って生きるのではなく、頭で生きているうちは、娑婆から出ることはままならないのである。体も動かしてます、とかいう意味ではない。
己の脳内の神という獄を抱いて服役し続けるがよろしい。
では、よき終末を。