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ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

滅法くどい神の仏法

2018-03-12 | 雑記
先日、たぶん、風邪から起き上がって仕事に行った日だったかと思うが、駅前で新聞のようなものを持った女性が、通行人の傍らを着いていきながら、「ねえ?すごいでしょ!?」としきりに喋っているのを見た。

その通行人は向かいから来てすれ違っていく形になったので、すぐその二人は視界から消えたが、今度は警官が前にいた。

どうも道行く人々を付回して気味悪がられたのか、通報されたらしい。警官に注意を受けていた。

しばらく前からこの駅前で活動をしているのは知っていた。当初はエホバの証人かと思っていたが違った。

その女性達が手にしていた新聞のようなものに目をやると、「日蓮大聖人の仏法」と、大きな文字を振ってある。新聞の一面の見出し程度である。

そして、記事の冒頭には著者近影よろしく、爺さんの写真が写っている。見たことはない爺さんだが、見たことのある内容である。読まなくても判る。

組織名は判らんが、恐らく、日蓮正宗系の団体である。ちなみに、日蓮宗全体だか一部だけかはしらんが、日蓮上人とは言わないで、日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)と呼ぶのである。

顕正会という、正宗系の組織があって、創価学会は彼らをカルトだのと呼んでいる。とはいえ、かつて自身らがやっていたことをやっているだけなので、ふざけた話ではある。駅前にいたのがそれかは不明だが。

それに、日蓮というのはソクラテスよろしく、辻説法というのをやっていた。道でああやって凄さを説いて回る、それはそれはとてもありがた迷惑で、わざわざ自分から迫害を呼びおこしては、「法華経に書いてあるとおりだ」と法悦境に耽るという、マゾヒストであったので、彼らこそ伝統に則っている。

というのも、その法華経とやらには、「この法を保つ者には苦難がやってくる」とあり、正しいから迫害受けるのだ、というわけだが、実際、世の中にあるカルト教団は皆同じ理屈なので、昔から人は変わらないと思わざるを得ないのである。

少々長くなってきたが、仏法とはなんぞや?という話を続けておく。

拙も近年まで勘違いしていたのだが、これを解いてもらおう。

釈迦は仏陀だが、では、仏陀は釈迦のことを指している。○か×か。

正解はキリスト!ではなく、ノーである。厳密に言えば、完全なノーでもない。

以前にも書いたことがあるが、仏陀というのは称号であり、「目覚めた人」という意味である。

釈迦は個人名である。釈迦という人が悟って仏陀になったので、釈迦は仏陀だというわけである。

つまり、仏陀は一人ではなく、色んな所に出て来得るというわけである。

そんな目覚めた人の、つまり仏陀の法理を「仏法」と呼ぶわけである。

では、日蓮は仏陀か?というと、イスラム!ではなく、やはりノーである。

釈迦は言っている。「自分が見出した法というのは、己以前の人々も見出したし、また、自分の後の人々も見出していくものなのだ」という風に。

日蓮以前にあのようなことを言い出した人はおらず、そして日蓮にしか見出せなかったというのなら、そんなものは「仏法」とは呼ばないのである。

釈迦はこれを「己の見解を真理だとみなしている」と指摘している。

己の見解を真理とみなすというのを、現代語に置き換えれば、それは「宗教」となる。

この言葉は比較的新しく、広まったのは明治あたりだったと聞いた覚えがある。「仏教」と呼ぶのが一般化していったのも、このあたりからだという。

日本がキリスト教という「宗教」に染め上げられていくのと足並みがそろっているのは、偶然ではない。

うろ覚えで続けるが、『荘子』だかの一説で「これをわたしの教えの宗(むね)としよう」というところから来ている。

つまり、何かの教義や思想、つまり見解を奉るということである。

釈迦はその反対を目指していた。それは、諸々の真理と見なされているだけの見解を乗り越えたところを目指す、つまりは「脱宗教」の理論と実践が仏法の本懐なのである。

それはとりもなおさず、世の中を破壊してしまう恐れがあったので、釈迦は悟った時は、広めないようにしようと思ったのだとか。

しかし、神の帝釈天に、「どうか広めてください」と頼み込まれて、重い腰を上げたとのことである。

神といったが、神というのは普通の人より少々優れたところ、例えば長生きだったりだとか、不思議な力があるだとかだが、輪廻の内に生きる存在なので、輪廻から解脱した仏陀たる釈迦に懇願したのである。

輪廻の内にある存在は、諸々の見解に捕らわれている状態なので、諸々の見解を乗り越えた仏陀は神なんぞより上ということになるのである。

これを踏まえて上の話を順に読めば、現代社会の問題点が多少見えてくるかもしれない。


それはさておき。


キリスト教は、神が自身に似せて白人を創ったとのたまっている。「見解」に過ぎないので、場当たり次第で何でも言う。だから今はこう言っていないだとかは当てにならない。先日の進化論しかりである。

それらの世界で研鑽されてきた学問というのも、それらの「見解」に彩られている。

例えば数学はどういうものかというと、何かで読んだのだが、あれは「神が存在するかどうかを証明するため」というところから発展してきたという。胡散臭い、と呼ばれるジャンルの本ではなく、一般レベルの書籍にあった話である。

物理学というのも、恐らくそういう性格のものではなかったろうかと考えている。物理学が、というより科学が、かもしれないが。

ニーチェは、「科学者は原因と結果をひっくり返している」と批難していた。西洋科学の見解は、物質を原因として物を見ているというのは言うまでもないところである。

何ゆえ何か見える形の、見えるといっても顕微鏡で見たりだが、確たる何かがあるという見解で物を言うのだろうか?と考えたのだが、これも恐らく、数学が神の存在証明のために発展したというのと同じなのだろうといえる。

神が人を創り人のために世界を作ったのだから、それらは神聖なものだ、神にも等しいはずだ、という見解で、物体を細かくしていって物質を取り出して行き、確たる神を見出そうとした。こういう流れなのだと思われる。神が創ったはずの我々は素晴らしいはずだ、という見解である。

ヴィクトリア朝時代には、この世には物質しか存在しないという、物質至上主義というか、そんな観念が流行ったそうだが、そんな態度を取ったのも、神探しが理由だったからだろうと思われる。

西洋のキリスト教社会の表立っての思想は、そういうものから来ている。とはいえ、洋の東西を問わず、神秘行と呼ばれる、西洋なら魔術、インドなら多分ヨガだとか、東洋なら仙道と呼ばれていることを実践している人々の見解は、ほぼ共通していて、物質以前のものが物質を作り上げていると、言っている。

釈迦も似たようなことを言っている。この世はカラーパ(パーリ語でこれ以上分解できないもの、という意味だそうな)という粒で出来ていて、これらが集まって形作られている。そして、それらは生成と消滅を繰り返しているのだと。

アインシュタインは相対性理論で、物質とエネルギーというのは同質なのだということを説いている。仙道ではそれを気と呼ぶ。


これこれの栄養(物質の形違いである)を取り込んでいるから健康だとか、毒物(右に同じ)を取り込んでいるから頭がおかしいだとか、こういう実践をしてきているからわたしは尊い存在になったのだとかなりつつあるのだとか言うのは(脳内の化学物質がみせる「見解」である)、上記に示した西洋科学の見解を押し戴いたものであるといえる。

地球の自然環境は麗しいだのというのもまた見解であり、それは頭でっかちが脳内で作り上げた自前の神様とやらを崇め奉っているだけに過ぎないのである。別に、汚いから燃やせと言っているわけではない。

だから、次から次へと新しい「見解」を見出しては乗り換えたり付け加えたりしていく。周りを口汚く断罪していたのを、今度は見せびらかす形に変えただけで、その思考回路は断罪している対象と何ら変わらないのである。

どこかの誰かのことではなく、これが頭でっかちの現代社会であり、その人々の姿である。何を食っているからとか森に入ったからよくなるとかいうのは、どこにもないのである。



そうそう。頭でっかちの例をもう少し挙げておこう。


現代社会の農産物は栄養が足りなくなっている!!という話を聞いたことがあるかもしれないが、それなら何故アメリカ人はデブが多いのか?日本も増えているが。

牛乳をたっぷり飲む彼らは、骨粗しょう症に悩まされているという。野口整体の話を引用して度々書いたが、改めて書いて、さらに追記する。


あるおばあさんが骨折して、医者に「カルシウム不足だから、よく取りなさい」と言われ、その後せっせと摂取しておったそうだが、また折れた。

そして検査したら、見事骨粗しょう症になっておったそうな。折れる折れないは、読んだ話でそうだったかは、うろ覚えである。

野口晴哉も、「取りすぎた栄養は糖尿とかにして排出したりしてて、そうやってるのは体がまともな証拠なのに、糖尿になったとか言ってはまたせっせと栄養を取って体を壊し、本当に糖尿病にしてしまう」と言っていたが、上記の婆さんも同じ事をやらかしていたわけである。

森に入った方々(かつての拙も含むが)は、以前から「栄養が足りない」と言っておったような気がする。それで、色々正しい食い物を集めては食ってとやっておったわけだが、どうやら栄養が足りない体を作り上げてしまったようで、おつむに栄養が回らなくなったらしい。というより、回っていなかったのである。

頭でっかちが頭でっかちの思想を押し戴くのは、当然の理だったというわけである。


別の例だが、頭でっかちの話をもう一つあげつらっておく。


以前、拙のブログで妙なコメントをしてくる奴がいた。態度も妙だし、突っかかってくるだけで、ろくな反論もないという、よくいるレベルの奴である。

コメントを見返してないのでうろ覚えで書くが、「そんなことは腰が抜けてもいえません」などという。

腰が抜けたというのは、驚いたりの恐慌状態で、まとも状態ではないことを指す。ドラマや映画のワンシーンで、通行人が道端に倒れている人を見て近寄ったら、殺された人だったと気付いて驚いてしりもちをつき、そのまま後ずさりしてからようやく立ち上がって「わー!」と逃げ出す、というのがあるが、ああいう状態のことをいうのである。

指摘したら、「一本取られましたね」などと答える。己の頭の鈍さを理解しようともしていない。その癖、後々、「お前の目的はなんだ?」と問うと、「あなたに正しい知識を授けたかった」とのことである。何かは知らんが仲間に引き入れたかったからという。そのやりとりはコメントに残っている。

そういう言葉を辞書で引いたり、また人から聞いていなくても、想像したらすぐ判ることである。もしくは疑問に思って調べる。疑問に思うことすらしない。そうなっているのは、頭でっかち、野口整体で言うところの身体を使って生きてはいないからである。


頭を使って生きるのではなく、頭で生きているうちは、娑婆から出ることはままならないのである。体も動かしてます、とかいう意味ではない。

己の脳内の神という獄を抱いて服役し続けるがよろしい。


では、よき終末を。


語るは上質 騙るは本物

2018-03-06 | 雑記
しばらく風邪で寝込んでいたので、アクセス数なんかはちゃんと見てなかった。記事を書こうと、先ほど、改めて確認してみたら、何故か三月三日のアクセスが多い。

そういえば、先月は二月の十四日のアクセスが飛びぬけていた。これは・・・陰謀!

という冗談は措く。

春らしくなってくると、去年なんかも風邪を引いていた。その時と比べれば、今年のは軽いものではあったのだが、背中と腰の痛みがひどかった。

一昨日に仕事へ行こうと電車の座席に座っていたら、これはもう立ち上がれなくなるのではないかといわんばかりになった。立ち上がれて歩けたので、とり合えず、仕事には行けた。

気が上がりすぎているのだろうと、ひざまづいてみたり、雑巾掛けのごとく腰を落として床に手をつけるなどとしていると、痛みは楽にはなったものである。

とはいえ、対症療法である。原因は寝込んでいたせいではないことは、その前日に起こった、というか報された出来事のおかげでよく判った。

その出来事やらのことの詳細は省くが、その出来事とそれに対する自身についてあれやこれやと考えていたら、痛みが消えていった。

拙自身のつまらぬこだわりが今回の腰痛や背中の痛みだったらしく、件の報せの直後、知人とその報せの件を交えた何気ない会話の中で既に答えを述べていたのに実感していなかったが故の強烈な痛みだったようである。

つまり、既に述べていたという答えを改めて認識し、実感すると、痛みが消え去ったというわけである。

詳細を記していない出来事の内容を前提にして書くと判り難いのだが、言いたいことではないので、我慢してもらう。もうすぐ春ですねぇ。


陽気ならぬ腰気な話はここまでにして、いつもの話にする。


拙は喫煙者である、というのは別に知っている人は知っている話である。煙管でぷかぷかやっておるわけだが、煙草の葉は無添加系の物を使用している。

タバコと聞いて一般の多くが思い浮かべる、自販機でも買えるシガレットはやらない。が、例外もある。

ナチュラルアメリカンスピリットと銘打たれたシリーズの中で、水色のような青のパッケージのがある。

キチガイアメリカの恐らくキチガイ染みた認証規定のオーガニック認証を通っているという代物。その葉だけで作られたシガレットである。

シガレットはこれだけは買う。煙管用のタバコが買えなかった時は、これを買ってほぐしたり、そのまま喫煙している。

ちょっと高いが、これの手巻きタバコ用のパッケージもあり、たまに買っている。ただ、葉が大きいので、本来は煙管には向かない。

仕事場の煙草飲みなんかが言っておったが、「アメスピは美味くない」とのこと。それから思い出したことと、直接それとは関係ない話で、だがそれにも関係してくる話をする。


拙が煙草を始めたのは、猿、ではなく然る自然崇拝者がかつて開設していたHPの影響である、ということを知っている人が何人読んでいるかは不明だが、そこからである。

吸う前は、春先はティッシュが手放せないような状態になっていたのだが、今はなんともない。食生活を改めたせいかとも思ったが、それなら今は元に戻ったので、煙草の影響であろうと考えている。

思い込みではなく、効果があるというのは、色々なところで語られている。ニコチンは毒だと毒づくのが世の習いだが、毒は薄めれば薬で、薬は濃くすれば毒薬になる。

西洋医学の医者は患者に薬を飲ませまくり、いらぬ薬は毒薬と化し、体を蝕み、手放せない体へと変貌させる。さながら医者はシャブのバイニンといったところである。


さて、なんのめぐり合わせか、その然る人物と連絡を取り合うことになったのだが、その時発売された、無添加を売りにしているタバコを教えて差し上げたものである。

今ではその銘柄は無添加を謳わなくなった(「無添加」とわざわざ書いていた)のだが、当時、その然る人物は、その煙草が美味い美味いと言っていた。

それだけなら別にいいのだが、さらにこういう風に言っていた。

「アメスピもやってみたが、痩せ枯れたアメリカで育った煙草は美味くない。こっちの方が味がしっかりしている」と。

教えて差し上げた煙草は、安くて保存料だとかの添加物がないだけのものであり、アメリカンスピリットのほうが遥かに上質なものである。

いわば本物の煙草であるのだが、常々「本物とは」と語る人物はそのような言い草をしていたものである。


話は代わり、最近の話である。

馴染みの喫茶店があり、たまに茶を飲んでいる。一杯五百円とか六百円とかするのだが、色々な茶があり、また、自身が認識している茶とは別格というか別物に思える茶を味わえたりする。

こちらも話好きなせいか、他に客がいないと、あれやこれやと聞いたり教えてもらったりする。先日も二時間ぐらい座っていた。

その中で、有機栽培の茶の味について聞いたものである。一般の茶は、肥料をよく使うので、パンチの効いた味がするのだが、無農薬の無肥料で育てた茶は、ひどくあっさりするのだとか。

どれぐらい差が出るのかという例えを、店主の感想だったと思うが聞いたものである。

それなりに味のある一般的な栽培で作った煎茶と、自然栽培の如く育てた玉露の味が近いくらいになる、とのこと。

いわば、現代は肥料で味を強く出したものに慣れてしまっているといえる。


煙草の話に戻そう。


通称アメスピの栽培方法は、無農薬は勿論だが、虫除けにヒマワリを植えたりして、生物多様性を守るような形をとり、土壌も継続していけるような流れを守っているという。入れ物にわざわざこういう風にやってます、と豆知識風に書いてある。ナンバーが振られているので、買うたびに違う話が書いてある。

現代アメリカの農地がメチャクチャになっている理由として(アメリカだけじゃなかろうが)、大量の肥料投入があげられる。そうして土壌の豊かさがやられていくわけだ。

アメスピはその逆をやっているのだろう。土壌を継続していけるようにやるなら、大量の肥料投入もしないと考えられる。

そして、それは味に現れている。舌が肥料で肥えた我々は、それを「不味い」と呼ぶ。

「本物」を語り追求していたはずの自然賛美者も、「不味い」と言った。


本物を語っているつもりが、それは上質を指していただけであり、本物を騙って語るに落ちていたというわけである。


件の自然賛美者は、今は「地上天国はもうすぐ」などとほざいて、神様気取りだといったが、訂正する。

その口ぶりは、預言者気取りである。ありもしないことを吹聴して人心をたぶらかす偽預言者はそこら中に出てくるから無視しなさい、とは聖書にも書かれていることである。

それを知ってか知らずか、ひねったつもりで面白くもない「地上天国」なんぞという言葉をひりだしている。

無自覚なキリスト教徒としか言いようがない。もしくは天国が空を指しているからという思い込みしかないのだろうし、それなら「浄土」やら「極楽」とでも言えばいいのに、わざわざ天国を使う。

日本にある言葉を使わないあたりが、彼の者の偽ぶりをさらしているのである。長くなるが、もう少しそのあたりを記す。


「進化論」というのがある。今となっては正しいのか正しくないのか、どちらでもよいのだが、「進化」という言葉自体への言及で持って、疑義を呈することとする。

進化論では、白人が一番進化している、という説を取っている。表立っては取っていた、ということになるのかしらないが、進化論が出てきた時代は、わざわざ比較図を作って、白人が人間で、色の順に猿に近づいていって、一番黒い黒人は猿と変わらない、というのを実際に語っていた。

こういう、政治的というかドグマ、すなわち、神が自身の姿に似せて創ったという白人だから尊いのである、という理屈を肯定するために出来ているのである。

しかし、以前書いた。

白人は黒人のアルビノの末裔であり、黒人なら平気な環境ではすぐにやられてしまう虚弱体質であり、なおかつ黒人に差別されたが故に、アルビノ同士で逃げて寄り集まって生きざるを得なくなっていただけなのだと。

マイケル・ジャクソンを思い出して欲しい。彼は黒人だが、色素が薄くなる病気で、肌が真っ白になった。

子供のころの彼は真っ黒で、確かに黒人だったが、白くなった顔しか知らなかった拙は、白人だと思っていたぐらいである。

上記の進化論の話からしたら、黒人から白人に進化した、というところか?

そんな馬鹿げた話はない。MJは進化したのではなく、肌が白く変化しただけである。

アルビノに変化して生まれただけなのを迫害されたのは災難であったが、それを進化したなどと自惚れるのは、言うまでもなく、コンプレックスの裏返しである。

進化している、という思想というよりは先入観がはびこった上での「学説」やら「考古学的発見」だとか「証明」で成り立ったものは、論理破綻を起こさざるを得ないのではないか。

森に入って人は進化した、というのもまた、同じだといえる。


彼の預言者気取りだけではないのだが、聞きたい。「進化」を前提にしているのなら、森に入る前の人類はなんだったのか?何をしていた?猿だったのか?

森を出たら退化したというのなら、森にいたころは三本脚で暮らしてたのか?今でも森で暮らしている人々と、その預言者気取りはまるっきり変わらないのに、何かすごくなっているのか?

目が見えない人の気配察知能力が凄いというのと、どこが違うのか?目が見えなくなってそうなった人は「進化」したとでもいうのか?

脳が退化した?落ちこぼれの西洋人の思想にどっぷり嵌っていることにすら気付かない脳みそなのだから、「進化」しても大差あるまいて。

森に入る前に猿だったら、出てきたらまた猿に戻った、というべきだろう。脳が退化して猿になっているのに、すごいことが判るのか?であるなら、動物に戻ったのなら、誰でも判ってしまうということになる。それでいて、己のようなものしか理解できなかったというのか?動物は素晴らしいとほめるが、猿に退化したという現代人は動物ではないらしい。己もそうだったのではないのか?

ならば、森に入ろうが入るまいが、何も進化していないというわけである。環境に合わせて変化しただけのことを、何か大層なことに祭り上げてきただけである。

それともう一つ。

森に入って本当の生命力が出てくるのだ、とかいう話なのだが、無人の森に入り込んだ当初は現代人のように弱々しかったというわけか?彼らはひ弱な現代人なら出来ないだろうという風なことを語っていたものである。

それなら、森の中で祖先に当たる存在はくたばって土に返っていただろう。ひ弱な猿が、何故出来た?

そのようなものは関係なく、人間は生きてきただけである。

現代人は文明を取り払ったら死に絶える脆弱な存在だ、などとけなすなら、己らは森が焼き払われたら死に絶える脆弱な存在だと、己をあざ笑っていることに気付くべきである。


本物を語る奴は、上質を示して騙っているだけである。進化論しかり、「不味い」煙草しかりである。


本物は語れない。上質に本物の片鱗を感じ取るだけである。進化論が上質かは知らぬ。


「本物」ではない物質が原因だと考える西洋の思想を本尊とするが故に、あのようになるのである。


本物を騙って語る、偽預言者にはご用心。



では、よき終末を。



常無の神

2018-02-25 | 雑記
堅苦しい話ばかりしていては、何人いるかは判らないが、お読みの方々も肩が凝って仕方がないかと思われる。

そこで、今日は漫画の話をすることにした。勿論、罠である。


手塚治虫に、『ブラック・ジャック』というのがある。有名なので、どんな漫画なのかは言うまでもないだろう。


サブタイトルやらはすっかり忘れたが、こういう話があった。

とある会社のワンマン社長が、事故で植物人間になった。

役員は「社長があれではもうダメかもしれない」などとその社長の病室で語り合う。

すると、その社長は何やら息苦しそうにする。すぐさま医者が呼ばれ、容態を確認するのだが、異常は見当たらない。

度々起こるのに、容態に異常はまったくないというのが続くので、その病院にいた、ブラック・ジャック(略称BJ)の知り合いに、「ちょっと診てくれないか」と頼まれ、BJは見に行く。

植物人間状態はまったく治せる見込みがないのを確認した後、BJは、その社長の妙な呼吸を観察すると、何やら閃いた。

社長は、完全な植物人間ではなく、耳は聞こえているが、言語器官を使っての会話が出来ない状態だったので、呼吸をモールス信号の如く、何回吸って何回吐くで例えば「さ」という風に伝えようとしていたのである。

BJはその表を用意し、社長に語りかけると、異常と思われた呼吸で返事をし、その表と照らし合わせた通りに解読すると、きっちり会話がなりたっている。

「皆に伝えるんだな。まだ社長は健在だと」とかいう風な台詞で、その話は幕を下ろす。

めでたしめでたし。


もうここで終った方が発砲、じゃなくて八方丸く治まるのだろうと思うが、続ける。



実家は創価学会だと、もう嫌になるほど書いてきたものである。

宗教というからには、何やら救いだとかを求める人が集まるわけで、そういうものの方法だかをやっているわけだ。

具体的には、朝晩に仏壇の前で勤行。法華経の一部を抜粋したのを読誦し、その後は題目を唱える。「南無妙法蓮華経」というやつだ。この時間は任意。

何やら願掛けして、毎日一時間だとか三時間だとかやっている人もいる。

他には地域の定期的な集まりで報告しあったり、新聞の勧誘をやったり、選挙になったら公明党及び連立相手の自民党の候補を応援しに、なんでか県外まで出かけていったり電話をかけまくったりして、迷惑がられるという試練をがんばったり、創価学会の書籍を買って地域の本屋に貢献して、創価学会を表彰してもらったり、本当は最低限度額は決まってない(らしい)お布施の限度額を暗黙の了解で決めてたりと、幸せのためには持ってる金使え!という感じである。

我が父は「世の中は金で動くけど、創価学会は金で動かんから、皆こわいんや」などと言っておったが、上記の書籍を買って表彰は、冗談ではない。

家に転がっている、捨てるのも面倒だが、断るのはもっと面倒ななんたら新聞。ある日付の一面に、ワカヤマの本屋の協会から表彰された、なんていうのが載っていた。

本屋なんぞというのは昨今は都会ですら潰れたりするのに、人、特に若い人が少ない田舎で「書籍文化の振興に貢献した」なんぞという空々しい文句を、誰が信じられるというのか。

世の中は金で動いている。そして、創価学会は金で動かしている。知らぬは、否、考えぬは信者ばかりである。


おっと。別に親を愚弄したいわけではない。


上の「どういうことをやっているか」の部分だが、こういう修行をやっていって幸せになれるのだ、と言っているわけである。

もうここまで言えば判るだろう。

冒頭の漫画の話を思い出してもらおう。人として会話は成り立つが、それ以外は人としての機能は成り立たない状態である。

仏壇の前にも座れない。目も見えないし、声を出して勤行なんぞ出来ない。社長さんなんで、お布施は出来ようか。

彼らは言う。「これこれやらないと、幸せになれないのだ」と。

では、上記の社長を創価学会に勧誘して、「一緒に幸せになろう」なんぞとやりにいくのか?やらんと幸せにならんという項目はほぼ出来ない相手に?

精々、面と向かって言うかは知らんが「仏罰が当たったから植物状態なんだ」とやるのが関の山。

そんなものが真理か?一切衆生を救うとかいうのが目的ではないのか?

敢えて言うなら、その社長にいたかは知らんが、奥さんを勧誘して学会活動をやらせるといったところだろう。


さて。実は創価学会の批難をするのも目的ではない。そもそも、団体名と実践内容の名前を変えたら、どこでも同じになる。


以前書いたが、「身体不具の健康法提唱者はいない」とやったものである。

先日書いた、然る自然賛美者もそうだし、それが参考にしたフルータリアンのスポーツドクターとやらもそうである。

食って体を動かすのが健康だ、というのがそのスポーツドクターの趣旨である。フルータリアンをやっている上で、である。

これも書いたが、「五体不満足」の奴に、それやらんと不健康だ病気だなんぞと言うのか?

例の「五体不満足」の方は不埒な奴ではあるが、健康ではあろう。何せ、不倫できるくらいだから。

まるで「三食バランスよく毎日食わないと不健康になる」と宣伝しまくっている、日本の栄養学と同じである。

それは、いや、それらは、「我が姿こそが真理を体現している」とのたまっているが故なのである。

このような姿を人間らしいというのならば、それこそ冒頭の植物人間であれ「五体不満足」であれ、それらは人間ではないと断ずる、レイシストも裸足で逃げ出す差別主義者であり、まったくもって人道にもとる行為である。その上、無自覚である。

また一方で、そのような姿や行為を「人間を超えた」だとか言い出すというのならば、それこそ矮小で小賢しい人間の姿そのものであると言う外ないのである。

「真理を得た」とのたまう姿は、神様気取りであり、その神は、人の数だけ存在するといえる。まさに八百万の神状態である。

本当に人間を超えたかったら、己が内の神を超えなくてはなるまい。娑婆は神の巣窟である。

そういえば、神無月というのがあるが、あれは出雲では神有月という。その時、出雲には神様が集まっているからだとか。

ニーチェは「神は死んだ。我々が殺した」と述べた。その神は死んだ。しかし、あの神は健在である。

なぜならば、娑婆は年がら年中、神有月なのだから。


では、よき終末を。


脱臼が治らない

2018-02-22 | 雑記
拙の弟が病んでいる、という話を書いたかは忘れたが、ともかく病んでいる。

病状は欝。飲む、打つ、買うも常軌を逸しているなら病気といえなくもないが、そんな冗談は措く。

今年の頭に、働き口を見つけて働くことになったと言っていたのだが、今月の頭かそのぐらいに、弟から電話があった。

何事かと尋ねると、仕事がしんどいのだと言おうと思った、とのこと。

何やら喋り始めたところ、夜の八時過ぎだというのに来客があったらしく、慌しく切っていった。


その後、また電話があるかと思っていたが、中々来ない。親に電話して、こちらの休みも大体同じだから電話するならその時にしろと、遠まわしに伝えたら、案の定、母親に「メールしたらいいのに」と突っ込まれたものである。

言われるまでぼんやりとしたものだったが、そういう状態の奴に直接いう方が酷な気がしたからであるが、業を煮やしたので、後日メールはした。

それで一週間ほど経とうというのにしてこないので、こちらから電話することにしたら、案外あっさり電話に出たものだった。

その時は丁度、病院に行っていたという。まだ薬を貰っているのかと聞くと、そうだと答えた。

薬は飲むべきか飲まないべきか、というと、所謂陰謀論方面の話ならノーとなる。

一時期ここでも紹介した、キネシオロジーという、意識にアクセスして物事を判断できるとか言われている方法を実践している人の立場から言えば、イエス、となる。

では、拙の立場はというと、症状が死ぬほど辛いなら、飲んで動けるようにしたほうがよかろう、である。

体もまともに動けない状況では、精神も動けまい。そうしてから「何ゆえ己は病んだのか」を理解していかなければ、飲む飲まないのどっちが正しいともいえぬだろうと、弟が薬を飲んでいると聞いた時に、ふと思ったものである。

これが骨折なら、麻酔で痛みを紛らわして治った気になったら、間抜けであろう。足の骨折なら運んでもらうとして、腕の骨折なら、気絶してなければ自分で治しに行く。

そこでギプスなり整復して、治療に持っていくわけだが、治すのは自分の身体である。

動けないほど辛い場合なら、骨折の例えで言う、ギプスの役割ぐらいにはなろうというわけだ。

敢えてどちらの立場かというならば、飲むな、ではある。飲まないに越したことはない。

西洋医学は投薬をギプスとは思っていないからである。


風邪の話を持ち出すが、野口整体では、風邪は自然治癒の働きで、邪魔するのはよくないという。

体の偏りを正す働きなのだとか。両足でそれぞれ体重を量る仕掛けで風邪の前と風邪の時の体重を計ると、前後で重さの偏りが違うという。

その人が普段どのように身体を使っているかで、その偏りは変わる。そして、ある水準を超えると、風邪を引いて元に戻そうとするわけだ。

欝は心の風邪と呼ばれたりするだろう。

ならば、風邪と同じで、身体の偏りが起こっているといえる。身体と野口整体でいう場合は、心と体を両方併せ持った意味となる。仏教では心身一如と言っている。

欝の原因がストレスというならば、そのストレスをどう受けてどう反応しているのか?これを自身で理解していかなければ、いくら投薬しようとも無意味である。

むしろ、そういう意味では投薬は害悪となる。骨がくっついた箇所にギプスをはめ続けるのと同じである。


拙の知り合いで欝だった人は、同時に胃薬も貰っていたという。その方は胃の異常が欝の原因だったという。

欝は精神の病気ではなく、肉体の異常が、野口整体で言うところの偏り疲労が現れた、器質的障害なのだろう。

まあ、例えのつもりだったが、骨折と変わらんといえる。

骨折ならあれだが、脱臼ならわかり易いかもしれない。よく、脱臼は癖になると聞いたものだが、それはつまり、その人の不意の動きに現れる癖が、脱臼を呼び起こし、かつまたそれを理解しないから、同じ事をうっかりしでかして脱臼しているのだと。

心の風邪であり、心の脱臼というわけである。


欝だけでなく、我々は常に心の脱臼をしているようなものである。

それが例えば、神様気取りだったりするわけである。本人は気取ってないつもりだろうが、脱臼した己の似姿を神として投影しているという指摘は散々やってきた。

そして、外してはくっつけ、また外してはくっつけと馬鹿を繰り返し、くっつけただけなのに「脱臼は治った」と喚いているのである。

これがもっと大きくなると、民族や社会といったもののうちに潜む悪癖になり、これを司る現代社会に大きくのしかかっている存在についても、前回と前々回に触れておいた。


脱臼を治した後は、脱臼してしまうその癖をどうにかしないといけないのに、わざわざ脱臼しに行くというのが、脱臼自体ではない人間の宿痾なのだといえる。


悪人正機ならぬ、善人脱臼とでも呼ぶことにしよう。

悪人なほもて脱臼をとぐ。況や善人をや。元と入れ替わったのが悔しいが、よしとしよう。


では、よき終末を。


言葉は壁

2018-02-20 | 雑記
改めて、というほどではないが、前回の記事を振り返れば、結局いつも言っていることと変わりはない気がする。

要約すれば、枠組みから外れていないのに、まるで脱却出来たかのように思っている上に、その枠組み内で、否、むしろその枠組み内にいるからこそだが、こちらは正しい、あちらは間違っている、ということをやっているだけだという話である。

漸く、要約できたなぁ、などとふざけても仕方ないので、もう少し補足を。

何ゆえああいう風に考えるのかという所を詳しくいうならば、そもそも理解している人なら読んだら、というより既にわかっているだろうが、それはというと、「人間は素晴らしい」という既成概念である。

キリスト教は、神が自身に似せて人間を創ったから素晴らしいのだ、という。

あさりよしとおの漫画に『るくるく』という、宗教を扱った漫画がある。その中で、下級天使のキャラがいて、「神が創った人間は完璧なんだ」みたいなことを言って、まわりに馬鹿にされるというのがある。
二足歩行したせいで腰痛になったりするのに、どこが完璧なんだ、と吹きだしではない台詞で皮肉っていたものである。細かい台詞やらは本当に忘れたのだが、そういう内容である。

前回にも触れたが、現在の人類には原罪があるからよろしくない、ともキリスト教は言っているのかはしらんが、これも有名なところ。

それから振り返ってもらおう。神様と言っていないだけで、あれらの論理はまるっきり変わらないのだと。


オカルトやらスピリチュアル的な話になるがもう少し。あれらもかつて触れていた話なのだが、地球というのはロクデナシの魂が集まった、いわば監獄なのだという。

もしそうだとして、監獄としての地球に最初に収監されていた人類の祖先というのを神様と見なすというのは、ただのコンプレックスの裏返しでしかないのでは?となる。

そしてもう一つ。キリスト教は白人の宗教である。神に似せて創られた人間というのは、すなわち、白人を指している。

何ゆえそうなったのかは前回は触れてないのだが、そもそも、白人は黒人のアルビノの末裔である。

黒人に迫害されていた白人のコンプレックスの裏返しでもって出来上がったのが、キリスト教なのだといえる。

だから、キリスト教の神は白人である。ただ、大昔は大雑把にキリスト教などと言っても白人だけのものではなかったので、ある地域のマリアの肖像は肌が褐色だったりする。発生直後のキリスト教と、現代のものは完全に同じではないのかもしれないが、その辺りは余談になるので、上記の理解でよろしい。

「人間は素晴らしい」という思い込みは、その思い込みの基準からしたら「人間」らしくない存在は人間ではないという理屈とセットになる。
上記の白人のための白人によるキリスト教の歴史を紐解くまでもないが、つまりは選民思想になるというわけだ。

先ほども触れた、地球が牢獄というのから、考えてみよう。囚人同士が、「俺は一人しか殺してないから、三人殺したお前よりマシだ」などと罵り合っているようなもので、余りにもバカバカしいというのは想像がつくだろう。

こういう見方は、何も今に始まったわけではない。昔も触れたが『歎異抄』に、悪人正機というのがある。

善人なほもて往生をとぐ。況や悪人をや。という一説は、他でも聞いたことがあるだろう。

宗教学者のひろさちやが解説しているが、悪人というのは、この世に生きている人全部を指している。うっかり悪事を働いたり、人を傷つけてしまったりと、本来皆悪人なのだと。悪人といっても、大量殺人鬼だとかそういうことだけを指しているわけではない。
善人というのは、そういう人間の情けなさやバカバカしさを自分も持っているのに頬かむりしている、偽善者だという。

そんな悪人より救い難い善人ですら往生できるから、悪人が往生できて当然だ、という意味である。

地球を牢獄だと見立てた話で続ける。そこにいるのは「悪人」である。

「俺は一人しか殺してないから、三人殺したお前よりマシだ」などと言い合っているのを見たとして、どう思うか?

どっちも同じだろうと。


そのようなわけで、「人間は素晴らしい」とかいうつまらん思い込みは投げ捨てるに限るのである。

良いとか悪いとかというのは、上の囚人の罵りあいと変わらんのだと。

とはいえ、牢獄内で殺しを犯した、とかなれば、刑が重くなったり、死刑になったりはするので、そういう意味での良い悪いは当然ある。ご注意を。


本当は別の話をする予定だったが、長くなってしまった。が、続けてしまう。


先日、去年の六月ごろから再開していた、オンラインゲームにログインしなくなった。一週間近くなる。

そもそも始めた理由は、大っぴらには「家から出ないようにする理由作り」だった。

ここで触れたかは忘れたが、大っぴらでないほうは、自宅で書いてる妄想駄文のキャラに、そのゲームのプレイヤーキャラを使ったので、どんな顔だったか見に行こうと思った、というのもある。

なんのゲームかというと、S○GAのPS○2である。知っている人は知っている、キャラクターメイクが優秀なゲームなので、なかなか凝った姿を作れたりする。

あれの4つ目のシナリオの舞台が地球で、ゲームだと思ったら現実だった、という流れのものになっていたのもあって、つい書いてしまったのだが、そこは余談である。

さて、ある日のこと。

公式HPには、予定表がある。年次改革要望書、ではないが、この日の何時にこのイベントがある、と一週間書かれている。

その週だけのブースト企画で、敵を強くする代わりに手に入るかもしれないアイテムの出易さやらを調整したイベントがあった。

高級品は、わざわざ出現時に画面の真ん中へ「RARE DROP」などと表示し、最高、もしくはその一個手前なら、文字の色と効果音まで変えてお知らせしてくる。
現物だったり、種類だけは拾う時には判るが、どういうものかは鑑定にかけないと判らなかったりだが、最高級、もしくはその一個手前は虹色に光る。
今後のアップデートでさらに上のランクが出ていたら、今の説明はちょっとずれることになるが、気にしないで頂く。

というわけで、昔からの付き合いの仲間一人と出撃し、粛々とアイテムを拾い、鑑定を済ませた後、拙はいった。

「虹は雨上がりだ!宇宙にはない!」と。いい物が出なかったと、捻っていったわけだ。

虹については、長々と説明した上の件である。別にオリジナルの用語ではなく、界隈では略称で虹と呼ばれたりする。上記のブースト企画は、そういうのが出易くなるよう調整したものであった。

宇宙は、そのイベントの戦闘場所が宇宙空間だったからである。ゲーム内で設定されている地球やら他の惑星上ではない。天候の設定があって、場所によっては時間経過によって雨が降ったりする設定がある。

別に言ったことを全部理解してもらう必要もないので、「いいものが出なかったんだろうな」ぐらいで受け取ってもらえればいい話なのだが、何故か突っかかってきたのである。

「何の話かな?」と。これ自体は突っかかりとはいえないが。

そりゃ、さっきのイベントの話だと返し、上のような説明を簡単にした後、こう返してきた。

「もっと通じるように言葉を選んでもらえないかな」と。

今思えば、相方のその時のキャラがシャーロックホームズをパクった台詞をやっているキャラだったので、そう突っ込んできたのかもしれない。ロールプレイというやつである。平たく言えば、なりきり。

わからんのなら、ああそう、で流せばよかろうと返すと、そっちがそれでよければ、そうするけども、という。

そこで不思議に思ったので、いつもの壁(物陰から覗き見しているアスキーアート。相方は辞書に登録して、「かべ」を変換してだせるようにしてあった)がそういう意味ではなかったのか?と問うてみると、こういう。

「あれは突っ込み」だと。

そして意趣返しで、「言葉にしなければ通じないと思うがねぇ?」と嫌味たっぷりに返して、それから別れの挨拶をして終わり、それっきりという流れになったものである。
それを持って辞めた、というより、以前から上記の言い訳が無意味だと感じていたのを、そのやり取りが後押しして確信にした、というところか。
そのやり取り自体も不毛だったし、楽しんでいるならまだしも、そもそも楽しむのが目的で始めたわけではないという不毛な理由なのだから、不毛の二乗が功を奏してしまったようである。


拙の上記の突っ込みも辛辣であろうし、その日は何か嫌な気分がしていたので、そこはかとなくイライラしていたことも覚えている。通じにくい発言だけでああいうやり取りになったわけではなかったのだろう。
仙人などと呼ばれたりすることもあるが、飽くまで悪人であるゆえ、半ば八つ当たりをしたりするわけである。


そのやり取りの後日に思い出したが、その件のAA(アスキーアート)が突っ込みになっていなかったという件があった。

別の人物とのやり取りで、詳しい内容は知らんが、別のゲームかアニメだかのキャラの話をしていたのだろう。そこで壁の人(今思いつきでつけた)が、話に呆れたのか、件のAAを出した。

すると、「突っ込まれた」方は勘違いして「なんだ、興味あるんじゃないか」とやり取りしていたものである。

そのAAが突っ込みになっていた時もあるだろうが、万事が万事、ただの記号で出来るわけもなく、頭の中で思い描いたか何かで印象に残ったことをただ繰り返しているだけなのだろうと感じる。

これは、別にそのAAだけの話ではなく、我々が普段用いている言葉自体が、そのAAと同じことになっているのである。



言葉は壁かもしれない。そう考えてみるのもよかろうと、思うしだいである。


では、よき終末を。


崇拝と選民と有頂天、もしくは恥知らず

2018-02-18 | 雑記
久方ぶりにブログを開いてみたら、この一週間で、何故か二月十四日のアクセスが多かった。

何か書くのかと期待されたのかもしれないし、昔書いた話が検索に掛かったのかもしれないのだが、詳細は不明である。

前回の記事は十二月で、マグロの話をしていたらしい。何ゆえマグロなのかは、ひとえにいつものノリだという以外に思い当たらなかった。


さて、この件は書いたかどうかは忘れたのだが、記しておく。

猿、じゃなくて然る自然賛美者が、「どうやら無理なので肉も食います」と言い出して、やりだしたのだとか。

草だけ食った自然に沿った生き方をしているとかいう牛の肉を買って食ってるのだとか。それ以前の食事方法などは変わらずだが、付け加えられたというところだろう。

はて?かの者の伴侶は「世の中はどんどん付け加えていっておかしくなっていくけど、本物はシンプルなんだ。減らすべし」的なことを言っておったのだが、肉を食うことを付け足したことについて、どうお考えなのかは知らない。

口を極めて肉を食うのが常態化している世の中とそれに疑いを持たない一般人をゴイムなどと蔑んでいたのに、一般的な言葉で言えば、肉食は道義的に許されざる行為だと言っていたのに、何故こうなったのか?

別に難しい話を始めるわけではないのだが、かの者が自然賛美者の食生活として、フルータリアンというのを知り、その教義への理解と実践を深めていたころに、こう語っていた、ということを付け加えておく。

「わたしは、フルータリアンになるために、今まで色々やってきたんだ」

さて、そういう何か有頂天になって訳のわからないことを言った上にすぐ忘れるのは、何も彼だけでなく、人間の性である。そんな状態なのに、「人間やめます」などと(記憶が正確なら、その伴侶の発言)言うのだから、恥の上塗りであろう。

しかし、彼らは恥ずかしいとは思わないのである。そのことについて少々お話をしていく。

話は宗教と呼ばれるものの事になる。

キリスト教というものがある。その教典たる聖書には、「神は人間を自身の姿に似せて作られた」とある、というのは有名なところ。

そして、祖先が楽園から追放され、それらの子孫が現代人だというわけである。楽園から追放されたのは、罰せられたからであり、これを「原罪」と呼びなす。

つまり、人間というのは原罪というのがなければ、その素晴らしい神様と同等なのだ、といえる。

実際にそういう風な思想があり、異端とされたグノーシス派というのがあって、キリスト教では許されない、人間が神になるという考えを持ち、実践していたという。


それはともかく、キリスト教は神を崇めることによって、自身も神に近い存在になったと考える。

考えているかはともかく、歴史を紐解けば、西洋白人の非白人に対する態度は、相手を同じ人間だと思っていないというのをしこたま見かけるだろう。「キリスト教=白人に非ずんば人に非ず」といったところか。

これは、神が人間を創ったからではなく、人間が神を作ったがゆえの、選民思想なのである。

同じ「一神教」で括られるイスラム教などは、詳細は省くが、キリスト教のような血塗れの歴史は歩んでいない。まったく争いがなかったというものではなかろうが、一つ、決定的な違いを示しておく。

同一の信仰を持つか持たないかに関わらず、相手を攻撃するための教義やシステムがないという点である。

キリスト教にある、異端審問の如きは、宗派によってはあったりしたかもしれないが、本義ではない。

彼らは本当の意味で、神の元に生きているからなのである。


例の自然賛美、というより崇拝者の話に戻す。


大昔に生きていたであろう人類の生活を取り戻すことによって、地球を楽園にする。これが彼の教義である。

これは、実際に今も書いている。先日、HPを見に行った。

上記に示したキリスト教の教義に準えるならば、大昔の理想の生活をしていた人類は神、現代人はそれを忘れた、いわば原罪を背負わされた迷える子羊、となる。

そして何故か仏教気取りなのか、「それに気づかず、人類は繰り返している」などと言い出す。


そもそも、魔術の伝統では、物質化したことが一番の堕落という。

そして、仏陀は語っていた。「何度も人として生まれてきたが、もう生まれてくることはない」と。


己を神の生き写しだと見なし、自惚れるのは、輪廻に囚われているが故の迷妄なのである。

何故なら、そのような神もまた、輪廻のうちにあるものに過ぎないからである。

繰り返しているのは、彼らだけではないのだが、彼ら自身というわけだ。


無自覚なキリスト教にはご注意を。

これは現代社会全般に及んでいるが故に、判る人にしか伝えられないのである。



では、よき終末を。



マグロの話

2017-12-10 | 雑記
近頃はゲームばかりやっていて、ブログに何か書くというのを怠っている。

というのも、人に向かって何か言うような能力も資質もない気がするからである。

だからといって、人を捕まえて何やら語るというのは、恐らく、もっとバカバカしいことになると感じているので、それならば、ここに何か書くほうがマシなのかもしれないとも思う。


少々愚痴めいてしまった。では、何やらつらつらと書くことにする。



キリスト教の異端に、グノーシスというのがあるという。この手の話題に詳しい方には言うまでもないが、彼らの考え方というのは、物質は悪であり、つまり肉体も悪だとのこと。

こういう思想は、それらの時代より古いものへと遡ると、プラトンあたりに行き当たる。そして、現代に到ると、ニューエイジだとかスピリチュアルだとかの思想に繋がっている。

じゃあ、お前もそうだな?と言われそうである。確かに、ここしばらく、そういう風な状態ではあった。

とはいうものの、物事に良いも悪いも本来はないのだという事も、頭にあったり、述べたりはしている。わざわざ書くと言い訳臭いが、我慢していただく。

例えばストレスについて。

大脳生理学だか心理学だかは忘れたが、ストレスというのは刺激という意味合いでしかなく(物理学用語だったか)、喜びも悲しみもストレスとして受け取っているのだとか。

もっと大昔に、このことを指摘しているというべきかは知らねども、釈迦も言っている。喜びだと思っているものは、さらなる苦痛を呼び起こすものなのだと。

ストレス発散で酒を飲むと余計にストレスになるので、さらに飲んで・・・という理由といえよう。


さて、グノーシスの話だったか。ずっと昔からここを読んでいる人が何人いるのか判らないが、思い当たるところはないだろうか?

上に書かなかったが、物質が悪ならば、それに対をなす善を設定しているはず。

それが、霊だとか魂だとか精神だというのが、グノーシスの主張という。

陰謀論と十把ひとからげにされているものの中で目立つ名称に「イルミナティ」というのがあり、それは悪たる物質を減らすために肉体の総数を減らす、つまり人類を削減しようとしている、という話を、ここでもよく書いたものである。

「イルミナティ」という名前の組織は実際にはあった。フランスの革命前後の時代に実際に作り上げられたが、ユダヤ人が作ったわけでもないし、黒幕とよく名指しされているロスチャイルドが出資したという話もなく(実際は敵対勢力側にいた)、上記のグノーシス的なカルト的な思想とは正反対のものだったという。

拙の与太話ではなく、ドイツ語の文献に当たって研究された本が出版されていて、そこに書かれている、信憑性の高い話である。

そして、「イルミナティ」というのが、世の中を破壊しようとしているだとか悪魔崇拝しているだとか言う話を広めたのが、当時の「イルミナティ」と敵対していたイエズス会の神父で、現代もその話が流布されたままになっている、というのが現状なのだとか。

この件については、日本語版のWikipediaにはないが、英語版には書かれているそうだ。

つまり、「何でもかんでもイルミナティ」というのは勘違いだと。

そもそも、どこまで本当のことを言っているのか怪しいアイクなんぞも「イルミナティは組織ではなくネットワーク」と述べている。

ネットワークというと判りづらいが、輪郭ぐらいは伝わるカナという表現だと思われる。

では、そのネットワーク内では、何が伝達されているのか?と考えるならば、悪たる物質を減らすという思想だといえる。

ネットワークに思想。これだけではよく判らないので、会社というもので考えてみよう。なんたら重工でも神扉製鋼でもなんでもいい。


会社を会社たらしめているものは何か?社長や管理職か?下っ端の従業員か?社屋か?それとも登記に名を記していることか?

不正を犯したとして、従業員が独自にやったといえるのか?社長だけでやれるのか?まさか登記簿が不正を犯したとでも?

そのどれでもない。企業を企業たしめているのは、思想であり、その思想が働く様が企業と名付けられているのである。現象というべきだろう。

思想に感情が入り込む余地はない。下っ端の従業員は、個々人では良くない事だと思っていても、また、上も上で不正だと判っていても、思想の流れのままに働いていたのだといえる。

野口晴哉は、心は気の流れるように動くといっていた。気というのも思想というのも、感じ取れないものには無いものと同じだが、確実に動かされてしまうのだと。


気を感じるのも思想を読み取るのも、少々訓練がいるという点で、似ている。

気なんてよく判らんものは理解できなくて当然だから、思想なら理解できる、とは思わないほうがいい。


拙はちょくちょく立ち寄る馴染みのネパール料理屋に置いてある本を、料理を待つ間に飲みながら読んでいることがある。

インドやネパールの薬草についての英語の論文である。全部の単語を知っていて読んでいるわけではないが、読んでいる。

「よく判らんナァ」などと言いながら読んでいると、ネパール人の店主に「読めるって事は判るんですよ」と言われたものだが、拙は「読んでいるだけですよ」と答えたものである。

何が言いたいのかというと、あなたは拙と同じ事が出来ますか?と。無論、こちらよりもっとすらすら読んで理解できる人もいるのは当然のこと。

そして、また逆も然りである。


あなたをあなたたらしめている現象というものを、深く観察することが出来るかどうか。これを「内観」という。

深く追求したところに、あなたを縛り付けている思想が見えてくるかもしれない。

そしてそれが、実は日本中で、はたまた世界規模で蔓延している病根ではないかと気付くだろう。


などと、おどろおどろしく書いてみたが、なんということはない。ある程度は本当であるが、気付けるかどうかは、釈迦も言うとおり、気をつけていくしかない。出来るかどうかは保証しない。


現代の日本人の思想というと、なんだか小難しい話に聞こえようが、噛み砕いて話をする。


時間厳守、勤勉、といった行動様式がいつ美徳とされ、日本中に広まったかといえば、それで十分、でない人もいるが、とりあえず。

明治維新の後である。以上!

それはさておき、現代の戒律染みたマナーのような何かは、江戸時代には無かった話である。

小林よしのりなんかは、それらが広まったお陰で日本は列強とやらに肩を並べられたのだと賛美していたものである。


そんな思想を吹き込んだのは何か?言うまでもなく、キリスト教という思想を持ったモノドモだったというわけである。

敵と見なした対象を殺戮するか懐柔して骨抜きにしつくさないでは生きていられないという、泳いでいないと死んでしまうマグロのごとき思想である。決してマグロの悪口ではなく。

日本的なものだと思っていたら、実は見せ掛けだけで、中身はマグロだったというのが、日本の文化に多岐にわたって神道、もとい、浸透している。つまり、マグロが我々の行動様式を無自覚に縛り上げているのである。上のマグロの例えからであり、マグロの悪口ではないことを再度お断りしておく。


ちょっとおどけた感じだが、もう少し。


本来、人も物も、良い悪いだけではありえないのである。もう少し正確に言えば、良くもあるし、悪くもある。

なのに、太った身体を憎み、己が身についた脂肪を悪と見なし、徹底的に殲滅する。

そして、痩せたら喜び舞い踊る。舞い踊っているかは知らんが。

痩せた彼の者は言っていた。「日本人は馬鹿だから救いようがない」と。そして「人間を辞める」と続けていた。

上記の流れのまま(痩せて欣喜雀躍)でそう発言したというのならば、そのままお返しいたそう。

「馬鹿だから救いようがない」のだと。

彼の者にとっては、己が身に植え付けられただけの「マグロ」を最高級品だと信じて疑うことはないのである。

余のマグロは大間のマグロぞ!といったノリであろうか。なら、脂が乗っていたときの方がよろしかろうに。

現代日本ではマグロはご馳走だが、江戸時代では猫もまたいで無視するものだった。

どうにもこうにも、かつて猫にまたがれたのが怨み骨髄だったようである。


では、よき終末を。


ありふれたFront

2017-11-17 | 雑記
もはやいつもの言葉だが、久しい更新である。

家から出歩かないようにするための理由として、オンラインゲームを再開したと、以前書いた。

無論、娯楽としてやっているのには違いないので、「拙はゲームに夢中になった振りをしているのである」などとは言わない。

どちらにしろ、外に行くと金を使うだけにはなる。ただ、人とおしゃべりすることや、馴染みのゴルフバーでスポーツの話を聞いたり、何ゆえかゲームの話やらアニメの話をするのも好きなのだが、先立つものがないので、上記になったという訳である。

とはいうものの、ずっとゲームばかりやっているわけではない。やたらゲームに時間を費やしているのには違いないが。

それはさておき、何やら見て回って、思い出した事を少し書いておこうかと考えた。


今から二十五年ほど前になろうか。家庭用のテレビゲームで大ヒットした商品は?というと、スーパーファミコンが出てこよう。

現スクウェア・エニックスの、当時はスクウェア・ソフトが発売した、とあるゲームがあった。

名を『FRONT MISSION』という。片仮名表記で「フロント・ミッション」である。

多分、この話自体はしたと思うが、そこはいい。

内容はシミュレーションという奴で、テレビゲームというものを見向きもしない人に判りやすく言えば、囲碁将棋と言えばいいか。

しかし、何事もシミュレーションではないかともいえるので、当時は言われなかったが、ストラテジー、つまり戦略ゲームといえる。
内容も将棋の如く、自軍の駒を動かしていって、敵軍の駒を撃破するというのが主な流れ。将棋と違うのは、升目に乗った時点で勝敗が決するのではなく、そこから戦闘が起こり、互いのHPを削りあったり、遠距離攻撃の場合は一方的に削ったり削られたりして、0になった方が負けとなる。

当時のゲーム雑誌で発売前に紹介されていたもので、当時も、今もあるジャンルである。
ストーリーがあり、それに沿って舞台が移行していくので、シミュレーションRPGというのが今も昔も、その手のジャンルの呼び名だった。

初めて見た時から変、というほどではないのだが、引っかかっていた事が一つ。

「フロント・ミッション」ってどう訳すのだ?というのがあった。

当時は中学生。英語を学校で習ったりするわけで、英和辞典だとかもあるし、なくても判るレベルの言葉ではある。

しかし、ミッションはともかく、フロントを「前」と訳すと意味が判らなかった。

弟と冗談で「前の作戦なんだ」などと言っていたが、やはり、腑に落ちなかった。


そして、何年か前。たしか、デーヴィッド・アイクの著作の引用だったか、それとも一時期持っていた『ムーン・マトリックス』だったかに、「FBIはFRBのフロント」だとかあったように思う。FBIはともかく、FRBであっているかは定かではない。

どこかの引用では、フロントというのは見せかけのものという意味だとあった。それで、上記の言葉となる。

FRBとやらの思惑やら行動を見せないようにするために、FBIという組織があって、活動しているという意味だといえるか。

というわけで、その「フロント・ミッション」のストーリーを紹介する。固有名詞だとかは余り書かない。後、細かい事実関係は間違えているかもしれないので、正確に知りたい方は、ご自身でお調べいただく。


舞台は近未来。2100年代だかの設定だったかと思う。架空の島で架空の国が資源を巡って争っていたが、停戦条約が結ばれた後に、主人公が所属する軍から指令が下る。
内容はというと、敵軍の工場を偵察してこいというもの。部下の恋人と親友とで、敵の基地へ偵察に向かう。
言い忘れたが、生身での行動ではなく、人型のロボットに乗っている。アニメで言えば、ガンダムみたいなものと思ってくれればいい。

無線でやり取りしながら、恋人が工場の中を覗き込むと、そこで絶句する。

不審に思った主人公が、どうしたのかと尋ねた矢先、待ち伏せしていた敵軍の部隊が出現し、恋人は囲まれ、乗っているロボットは一回り大きな敵軍の指揮官ロボットに撃墜されてしまい、それと同時に工場も爆破される。この爆破は敵軍の仕業である。

敵軍の、恋人を撃破した指揮官の台詞はプレイヤーには見えるので、敵がこの偵察のことを事前に知っていたことは窺える。

そして、これがきっかけで紛争が再発。主人公は軍を抜け、街の闘技場(ロボットでの賭け事)で荒んだ生活を送ることになった。
紛争の切っ掛けを作ったと非難されたことと、恋人を失ったことにより、自暴自棄になったのである。

そしてある日。主人公のもとに、ある男性が尋ねて来る。軍に戻らないか?と、その人物は語る。

傭兵軍を作ったので、それの部隊長にスカウトしたいのだという。

主人公はにべもなく断りかけるのだが、恋人が生きているぞと言われ(もしくは、仇を取りたくないか?だったか)、軍に復帰することとなった。

ここまでが物語の冒頭である。

で、どこが「フロント」か?となる。終りまでの流れをダイジェストでお送りする。

主人公が率いる部隊は、破竹の勢いで勝ち進んでいく。途中、恋人と会ったことがある人物に出会ったりしつつ、足取りを追っていくのだが、またもや停戦が結ばれ、恋人の仇たる敵軍の将校を倒すことは叶わなくなった。

そして、今度は島で活動するテロリストを倒せといわれ、テロリストの首魁を追い詰めるのだが、彼は「自分はテロリストなどではない」という。

その主張の真偽を問うため、テロリストの首魁に誘われた先で軍部の真実を目の当たりにし、主人公は軍に反旗を翻すこととなる。

さて、軍は何をやっていたのかというと、軍用ロボットに搭載するコンピューターの開発だった。

これだけなら、何がおかしい?となるのだが、その研究の責任者から聞いた話が驚愕の内容だった。

高性能のコンピューターにするために、人の脳を素材にする、というものだったのである。

話をした研究者は、当初は受精卵だか胎児の脳に、軍用ロボット向けの操作を施し、それを素材にするという研究をしていたそうだが、成人の脳を使うことは可能か?と軍上層部に問われたという。
理論上は可能である、と言葉を濁しつつも答えた後、その研究者は己の研究が唾棄すべきものだと思い至り、軍を脱走。そしてテロリストと軍からは呼ばれていた組織に匿われていたのである。

先ほど、恋人と会ったことがあるという登場人物に触れたが、彼女らが会った場所は病院である。

そして、その恋人はどこか別のところに移送されていた。そしてそれは、その脳みそコンピューターの製作現場だったというわけである。

これだけなら、石井給水部隊だとかナチスの研究だとかMKウルトラみたいだなで終れないこともないが、実は、冒頭の話に繋がる。

冒頭、主人公の恋人が覗き込み、余りの光景に絶句した工場が、それだったのである。

そして、紛争のきっかけと非難された主人公だが、実は対立している国家同士が共謀し、見せ掛けの紛争を起こすための茶番だったのである。

戦争になれば、死亡してなくても死亡扱いにし、大量の「素材」を合法的に入手できる。

敵対していると思わせながら、実はまごうかたなきビジネスでのお付き合いをしていたというわけである。

さて、結局恋人は果てていたのだが、なんと、冒頭で恋人を撃破した指揮官の搭乗機に搭載されていた。

恋人の仇を取ることが出来た主人公は、ライバル搭乗機の残骸から取り出した、変わり果てた恋人を自機に搭載するという荒業にでる。その上高性能で、自機以外は搭載不可。

ネットなんかでも、この流れはトラウマものとして語り継がれている。当時プレイしていた拙も、驚きの連続であった。


さて、ライバルを倒して終わりかというと、そうではなかった。

実は、そいつは生きていた。ただし、今度は機械に自身を搭載するという、脳みそコンピューターの進化系として登場し、ラストを飾る。

彼の語るところによると、脳みそコンピューターは、このための研究だったという。

ライバルを倒すと、よくあるような台詞を言う。「自分を倒したところで、何も終らないぞ」といった感じの台詞が、彼の末期の言葉だった。

その後、部隊にいた従軍記者がこの取材を元に、敵対国の軍が裏で繋がっているという暴露本を出版するが、当事国は知らぬ存ぜぬを通す。

主人公はテロリストとして、元首魁と共に、軍に素材として連れ去られていく人々を救出しているという後日譚が続くが、これは話が流れるだけで、ゲームとしての操作はない。

ある時の作戦で、敵の囮に嵌り、危機に陥るのだが、その時、かつての仲間達が続々現れ、窮地を救い出すというシーンで物語りは終了となる。


これが、子供向けのテレビゲームというジャンルで使われていたシナリオだというのだから、恐れ入る。すぐ上のエンディングの部分は少年漫画的というのは別として。


当時は脳みそコンピューターに驚いたものだが、「フロント」の意味がよく判った上で振り返ると、現代そのものであるといえる。

話が前後してしまうが、ラスボスでもある恋人の仇は、実は主人公所属からいうところの直接の敵対国の人間ではなく、物語上には名前しか出てこない第三国の人間で、詳しくは忘れたが、スパイだかなんだかだったらしい。

主人公に撃破されるが、この研究でもって祖国に世界の覇権を握らせようという目論見だったのだとか。


世の中の「フロント」というのは、もっと込み入っているのかもしれないが、目に付く、というより目に付かせるために見せびらかしているものは、決して本体ではないのだという事が判るかと思う。

昨今でそれは何か?ということは敢えてここでは書かない。もし、今まで拙が書いてきたことを読んできたというのなら、察しがつくかとは思われるが、なにぶん、拙も勉強不足というより、していないので、偏りが激しい。

今回の記事で紹介したシナリオで、ゲームのタイトル以外に固有名詞を出さなかった理由に想像がついたなら、それで十分である。

つまり、表立って名前がつけられているものは全て「フロント」なのだから。


では、よき終末を。


叶うというのは

2017-09-29 | 雑記
どこで読んだかはっきりは思い出せないが、時折ここにも話を書いている、然るスピリチュアル系ブログが紹介していたものと覚えている。

とある宗教団体だかで、そこに来ていた人が語った内容を記していたと思う。

その宗教団体に来ていた人は、実は元創価学会で、ブログの人があれやこれやと尋ねて、それに答える。他愛のない話をしているうちに、というノリだったので、長くはなかった。

そして、本題はというと、こうである。

「創価学会では、願い事は叶わなかったのか?」と。

抜けてきたというのは、霊験のれの字もないので嫌になったのだろうと、想像がつくものだが、その元学会の人物は、正反対の答えを口にする。

「願い事は叶うんだけどね」

叶うのだったら、何が嫌になったのか?

そして、続ける。

内容はこうであった。

願い事は叶うのだが、叶うとそれに比例したかのように、交通事故に遭うだとか病気になるだとかで、却ってひどくなったり、内容はちょっと忘れてしまったのでなんともいえないが、その人物か周りの創価学会員だかが、人を呪うようなことをして、呪った対象だか呪いをかけていた方が死んでしまったとかいうので、怖くなったから抜けたという。


後は、変な競争を吹っかけられたそうな。これは上記の抜けてきた人物の方ではなく、それを聞き書きしていた方だったと思われる。


創価学会とそっち、どっちが正しいのか、20年後に私とあなたがどちらが幸せになっているかで証明しましょう!などと吹っかけられたそうだが、吹っかけた学会員は、志半ばで他界されたそうである。


当時読みつつ、納得がいったことを思い起こす。


何かにつけて、試練だからここが踏ん張り時などと言ってくる(創価学会だけではないともいえる)のが常なのだが、どうということはない。それは願いではなく、呪いである。その反動が事故だとか病気だとかの災難になって帰ってきて、それに対してもっと宗教やれ!と、脅す。

悪魔と契約すると、契約完了後に魂を持っていかれるというのがあるが、それと同じ理屈になると。

つまりは、マッチポンプなのだといえる。


カルト宗教が大きくなる理由は、その契約を末端信者に押し付けているからという訳である。この理屈は、何も宗教団体だけではないのだが、そこは割愛する。似たような話はずっとしてきたし、他でも書いている人は大勢いるだろうと思われるから。


仏陀は言ったものである。喜びの元だと思っているものは、そう思っているだけで、実際は苦痛の種なのだと。


この話はずっと昔にも書いたが、現代心理学でも同じ事を言っている。

ストレスというと、苦痛だとか悲しみといったものの事を指して人口に膾炙されている状況だが、実際は刺激という意味であり、脳やら心の反応は苦痛も快楽も同じストレスなのだという。

これは、普段の生活で一つ実証できる。

例えば、仕事で嫌なことがあって、酒をちょっと多めに呑んだとする。すると、酔っているときは気分がよくなるのだが、酔いがさめてくると、今度は呑む前より嫌な気分になってしまう。

酒で気分がよくなるというのは、快楽ではある。だが、上記の通り、快楽も「ストレス」なのだから、呑む前に受けていた「ストレス」自体が解消されていないのなら、余計に荷物を背負い込んだ状態になっているに過ぎないわけである。

最初のストレスが途方もなければ、悪循環に陥ってアルコール中毒になるともいえる。

げに恐ろしきは、酒か人の性か。


少々話題が逸れたが、もう一つ。


願い事について。


願いといい、祈りといい、それは人類開闢の時から行い、叶えてきたものである。地球開闢以前からの何かの願いが、今ある世界を作ったとも言われている。

宇宙だとかそんな話になると、こちらの手には負えないが、それらに纏わる話も紹介はしてきたので、軽く聞き流しておいていただこう。


それはともかく、上記の元創価学会員の体験談は、先ほどの酒の話と同じなのである。


何ゆえか?


酒で嫌な事を忘れようとするのと、日常におけるレベルでの祈願というのも、仏陀の言う、苦痛の種を理解していないからである。

そのような、アンビバレンツな状態のものを無理矢理どうにかすると、これまたひどい勢いで歪みを修正しようとして、手痛い目に合うのである。

あたかも、引っ張ったゴムが千切れて自身を打ち据えるかのように、である。

だから、そのような願い事は、悪魔の契約や、実行者に反動が来るという呪いと同じであるのだと。


さて、話は少々代わって。


現代物理学では、物質というのは確たる形のあるものではなく、世の中にあるものは等しく一つのものから発ち現れている、という結論に到ったという。

表現は色々あるのだが、エネルギーだとか波動だとか。ともかく、形のあるものではない一つの何かが、その表情を変えているだけなのだと。

それらは、石ころだとか水だとか肉だとか野菜だとか動物だとか人の区別なく、全てなのだという。

そして、人間の意識もそうなのだという。

つまり、どこかの誰かさんがHPでかつて引用だかしていた文句を借りて言うと、「わたしはあなた、あなたはわたし」となる。


バトラーの『魔法入門』(以前何度か『魔術入門』と書いたが、持っている本は『魔法~』だった)にはこうある。

 人間は大宇宙の中にある小宇宙であり、彼自身の中には宇宙の写しがある。~中略~魔法使いにとって※ヴィクトリア朝的な意味における死せる物体のごときものは存在しない。実際あらゆる物質が時間と空間の中に存在し(三文字に強調点)うるのは、ひとえにそれがすでに永遠なる生命の部分として生きている(五文字に強調点)からであるという見解をいだいている。われわれが金属の不活性の一塊として「ここに」見おろしているものは、魔法使いによれば、無数の回転する力の凝集点の物質的な現れにすぎず、それは目に見えない世界の平面をいくつも通り抜けて、万物の生ける心の奥にまで遡ることができる。「主の精霊は地上に満てり。」それゆえ真の魔法使いにとって何一つ卑俗であったり不明瞭であったりするものはない。なぜならすべてが目的達成に役立っており、すべては永遠者の生命の表現だからである。このことを秘伝を受けた導師は次の言葉で儀式の中で明らかにする。かれはこう叫ぶのである。「神々の部分でないものはわたくしの部分ではない。」

引用者注※ヴィクトリア朝的な意味:所謂現代人が「科学的ではない」といった反発をするときと同じ態度がこの時代に出来たと思えばよい。

長くなったが、こういえる。


あなたが、あなたの敵だと思うものを殺したいと願うというのは、あなた自身を殺したいと思っているのと同じ事になるのだと。

日常のレベルでの祈願と、ずっと上に書いたが、あなたがあなただと思っているものの幸せとやらを願うとき、それはあなた以外だと思っているものの不幸を願うのである。

だから、「呪われる」のである。あなたが呪っているのはあなた自身だったのだから。


とはいえ、北のミサイル国家の首長を好きになりなさい、とかいう話でもない。お断りする。

だったら、こう思えばいい。

「拙が現時点であのキンさんだったとしたならば、ミサイル飛ばして調子こいてたんだろうなぁ」などと。

彼の国がミサイル飛ばしているのも、政治的な意味以外での何某かの意味があろうというわけである。今の自分の代わりに飛ばしているだけかもしれないのだと。

陰謀論方面の話では、北は実は日本の子飼いで、内政への不満を逸らすための、外交に見せかけた内政処置だという話がある。

だったら、こう思えばいい。

「キンさんは粋がっているように見えるけど、ただの中間管理職なんだな」と。

あんなにぶくぶくなのは、ストレスで過食症なのだろう。グローバルスタンダードというものは、実にブラック企業である。


では、よき終末を。


たまたまたまには

2017-09-18 | 雑記
昨日だったかその前だったか。その辺りはよく覚えていないが、家に転がっている六月十日の新聞を拾い上げ、なんとなく社会面を読んでいた。

もちろん、某宗教団体のあの新聞である。そこはともかく。

六月九日に、天皇の退位に関する特例法が国会を通ったという記事だった。

来年の末を目処に退位するとのことらしい。天皇は上皇に、皇后は上皇后と呼ぶことになるそうだ。

退位と同時に、皇太子が天皇に即位というのもセットである。今さら知ったのか?といわれたら、「そうだ」と答える。


記事を一通り読み上げて、拙はこうつぶやいた。「カウントダウンが始まっていたのだな」と。


何がカウントダウンか、と思われるが、日本はそもそも始まっているのかしらんが、終わるのだろうなと。


話は変わるが、ここと同じgooブログで、皇室の惨状を書き綴っているブログがある。


そこで聞いた話を前提で書くなら、日本の皇室というのは、まともではないといえる。

昭和天皇の代については不明だが、皇后と皇太子妃については、真っ黒な人間がごり押しで入内しているという。

かつてここでもやっていた(今も0ではないといえるが)陰謀論では、明治天皇は摩り替わってるだのとあるし、昭和天皇はイルミナティの狗だとか言われている。

それはともかく。今上陛下も、戦後に洗脳を受けているとすらいう。何せ、自身の誕生日に「A級戦犯」などとと戦勝国の都合で犯罪者扱いされた日本の指導層の絞首刑を執行とかいう、本来ならトラウマものの出来事に感謝するような心理構造を作り上げられているようだ。

その洗脳を施したといわれる人物は、名前も記録されている。バイニングというそうだが、バイニングという洗脳の手法なのかと、一瞬勘違いした。ちょっとありそうな名前だったからである。

皇后についてはGHQ。皇太子妃については、我が実家の創価学会の手のものだとか。


拙の父親はよく、天皇がテレビに映ったときには、「あいつら金持ちで庶民のことなんか考えてないんだ」と非難すること仕切りだったものである。

裏を返せば「我らが創価学会という物は、庶民のためにある正義の団体なのだ」と言っているのだが、それがどうして皇室に食い込んでいるのだろうか。

これは父親の言葉通りである。すなわち「金持ちは庶民のことなんぞ考えてない」からである。


ついでに、世の中についても、「普通の人達は金のことしか考えてない」とけなす。

だから、テレビや新聞は創価学会の偉業を報道しないのだ、などと言っていた。

創価学会は金では動かないのだ、とも言っていたので、それを踏まえた言である。

それで、その金のことしか考えてない普通の人達の集まりが製作するテレビで創価学会のCMが流れる理由はなんなのだろうか、とは考えられないのだろう。世の中が我々の思うように変わってきたからだ、などと思うのだったら、実にめでたいというしかない。

繰言になるが、「金持ちは庶民のことなんぞ考えてない」からである。

さて、もう少し詳しく話すなら、テレビ局には、「外国人採用枠」があるという。TBSが最初に作らされたと聞いた。

創価学会には在日が多いと聞く。在日はすなわち、国籍としては「外国人」となる。その心は・・・?皆まで言わなくても判ろうか。

世の中が変わったのではなく、腐らされているの間違いである。この「外国人採用枠」の如きものが、例えば皇室にもあるというわけで、GHQの手先だったり創価学会の信者だったりが入内しているのである。「外国人採用枠」とは謳ってないが、中身はその状態であるというわけだ。スパイに国籍なんぞ関係なかろう?


この手の話を書いているブログがあると記した。

先ほど、ブログのアクセス数などを確認する際に、編集画面から確認できるgooブログランキングを見ると、そのブログらしいタイトルだが、違う名前になっているものがあった。


タイトルが変わっていたのは、ブログを凍結されたからだそうな。凍結される前に閉めようと思って整理していたのだそうだが、なんやかんやで始めたようだ。


冒頭の新聞記事で、今さらな報告を確認しなければ、思い出して見ることもなかったろうし、こういう流れでなければ、もしかしたら、そのブログ主が執筆を再開してなかったのかもしれないな、などと思う。


話は普段の珍妙な方面へ向かう。似た話は、以前にも書いたかもしれないが。


先日、夜の仕事上がりに、だらだらしないでさっさと帰ろうと、普段より早く仕事場を出て、電車に乗った。

十分早く出れば十分早くつくだろうというのは、当たり前のように思えるが、乗換えが集中するので、関係ないことが多い。

普段より早く出た場合は、その目論見通り、十分早くなるのだが、そこは余談である。

つり革に摑まり、入り口の方を向いていた。座席前に立つことも叶わぬ満員状態であったので、車両の真ん中あたりの広場のつり革に摑まっていた。

しばらくして、目の前で人が急に滑った。歩いているわけでもないのに。

拙が立っていた方とは反対方面の出入り口すぐの座席の壁にもたれていた女性が、急に滑り落ちたのである。

足元がぐらついて、体勢を整えるために足を踏み鳴らしたとかいうなら判るが、滑って転んでいる。

余りの勢いに、何が起こったのか、目の前の人も一瞬判らなかったかもしれないが、ともかく女性が倒れた。

その女性のすぐ側に立っていた男性が立ち上がらせたが、どうも尋常でない倒れ方であった。

とはいえ、「大丈夫です」と言って元の位置に立ったのだが、程なくして、同じ勢いで倒れた。

「車掌に報せるべきか」と考え、視界に車内電話でもないかと思ったが、ああいうのは連結部にしかない。

ただ、幸いなことに、すぐに駅に着いた。最初に立ち上がらせた男性ともう一人の男性が、到着後、ホームに担ぎ出していったものである。

その出入り口からすぐに、ガラス張りの待合室があったので、女性はそこに座り、両手で顔を覆っていた。その先どうなったかは判らないが、あの倒れ方は、使い古された言い方をするなら、「糸が切れたかのよう」だった。

「たまに体調不良者の介抱で電車が遅れるとかいうのがあるが、こういう感じなのかもなぁ」などと考えたが、その電車はアナウンスされるような遅れもなく、そのまま進んだ。

これは拙が早く帰ってみようと考え、その電車に乗り合わせたからこそのめぐり合わせなのかもしれぬ、などと思うのである。

何を世迷いごとを。たまたまだろうが。と言われるだろう。

何か起こるのも起こらないのも、意識しているかしていないかの違いなだけで、たまたまである。


良かった悪かったというのは、人間の浅慮である。実を言うと、たまたま、というのも同じ。


つまり。たまたまなどということもない、となる。


冒頭の新聞記事の話と、たまに見ていたブログの凍結からの再開、それを受けて記事の更新というのも、たまたまではないというわけである。

余り、たまたまと書いていると、目が変になりそうなので、この辺りで終わることにする。


では、よき終末を。


されど、韜晦す

2017-09-12 | 雑記
最近はそうでもないし、それにそもそも、人と話す機会が労働中ぐらいで、そんな時はそういう風に受け取られる話もないので、めっきりなくなったといえるが、物知りと言われることもあった。

芥川龍之介の話だったと思うが、何某の本の何項になんと書いてあると、見ずに喋るといった具合のレベルで流石にはないので、たまたま周囲の人間知らなかったことをたまたま言っているだけなのだろうと思われる。

それはさておき。

先日、『魔術入門』の再読が終った。電車で読みながら途中で本を取り落としてしまったものである。寝不足で。

その冒頭になんと書いてあるのかというのは、以前に何度か書いた。

魔法の定義を、著者のバトラーはこう記す。「己の意識に思うがままに変革を起こす技術」だと。

さて、そうすると意識とはどういうものなのか?冒頭の章ではこの定義を示してのち、続きの章は意識とはどういうものなのかを解説していくとして、締めている。

意識という言葉だけだと、ひどく多様である。バトラーは、ユングの心理学を援用し、説を展開していた。

大別すると、顕在意識と無意識の二種になり、無意識の中にはさらに階層がある。この辺りは、ユングの心理学をご存知の方には説明はいるまい。

顕在意識とは、普段の状態で物を考えたり仕事したり飯を食ったりしている意識である。

この件については、野口晴哉も同じ指摘をしている。ユングの影響なのは、確か本人も言っていた。

曰く、「何々さん、と呼ばれて返事するが、それはそもそも、何々さんと自分で思い込んでいるだけのことなのだ」と。

何々さんと思い込んで生きている意識は、人間の意識全体から考えると、一部でしかないのだと指摘している。

大部分は無意識が生命を司っていることを、我々は常々忘れがちなのだと。

目玉を捨てろ、意識から離れろ、そうやってこそ生命の本質が理解できるのだ、と述べていた。


話が横道に逸れているが、もう少々。

野口整体というのは、身体のゆがみをいじるのが目的ではなく(最終目的ではないというべきか?)、心理カウンセラーの如き診察で人の心身を見るという。

この話も昔書いたが、ある社長さんが不調で診察を受けた。診察したのは、野口の弟子で、道場を開いている方である。

その御仁は、スポーツやったりで身体はしっかりしている。しかし、なんとなく調子が悪い。

そして、うつぶせに寝てもらって背中を診察した時に、背骨に力がないと判った。

背骨に力がないというのは、自分の意思がないか、薄弱なのだという。それで、その整体師は社長さんに、その件を伝えた。

すると、悲しげな顔をしてこう述懐したという。「たしかに、色々やってきたと思うが、どれもこれも自分でやろうと思ったものではなかった」と。

彼の不調は、上記で野口が指摘したとおり、自分だと思い込んでいるもののせいだったといえる。

本当は、無意識では嫌だと思っていたけど、意識でやりたいことだと自身に無理矢理言い聞かせたりしていた、という風に考えられるだろう。

話を戻す。


魔法の理論というのは何なのか。こちらも専門家ではないので、バトラーの言を伝えるに留まる。

しかし、実は横道の話そのものである。

『魔術入門』にもそのままの話がある。社長さんの背骨の話ではないが。

そもそも、日常の顕在意識というのは、環境による偶発的なものであり、偽りなのだと。

この偽りの自己を自分自身だと見なすのが、人類の問題の全てだというのである。

そこで、意識というものを「建てなおす」のである。全部破壊して更地から建てなおすわけではないが、以前の意識という土台をある程度残しつつ、改築する。

そして、魔法の理論では守護天使や、オカルト系の言葉だと「高位の自己」と呼ばれるものにアクセスするというのである。

そのために魔法の理論や修行方法があるというのである。

ここは書いてなかったと思うが、偽りの自己がイキアタリバッタリでする願い事を叶えるための超自然現象ではないのである。

魔法というのは超自然的なことをする、もしくはしようとするのが目的ではないのか?と思われるだろうが、そうではない。

そもそも、偽りの自己とそれを全てだと思う普段の生活からは隠されているだけの話で、決して自然を超えているわけではない。

普段の我々が知っている自然とは違うだけのことである。そして、偽りの自己の小さな視点を全てだと思っているから、嘘っぱちだと決め付けているだけのこと。


普段、我々が思ってないだけで、色々なところに魔法の理論が残っていたり駆使されたりしている。

バトラーの著作では、キリスト教の儀式についての記述がある。キリスト教だけでなく、例えば式典などの儀式の効用などについても、魔法の理論からなっているのだと。

上記の整体の診察の話で出た背骨社長(思いつきで名付けた仮名)も、診察という、生贄の儀式じゃないが、そうともいえるような状況で、己の偽りを気付かされたものである。



すぐ上からこう言うと変ではあるが、魔法の本質とは、実に宗教的なものなのだと。本来の意味でのスピリチュアルなのだといえる。

スピリチュアルについては、簡単な説明が以前紹介したブログにある。こちら。もっと詳しく書いているのはこちら


くどいが、森で生活することが人類のゴールだという方々は、ただのカルト宗教である。

かといって、文明生活を維持し、例えば日本で言うと、少子高齢化社会やら、経済やら、隣国のミサイルやら、日本だけの話じゃなくなるが、秘密結社の陰謀やらを解決することも、ゴールではないのである。


これらは全て、一つから端を発したものであり、一つなのだと理解できるかどうかである。イルミナティがいるから世界は戦争だらけ、ではないのである。


宗教を否定していると言った御仁が、先達の宗教家と同じ事を言い出す。ならば、それは疑いようのない真実だから到達したと考えるべきである。

それなのに、その著作を翻訳した人物は、「昔から言われていることに過ぎない」とのたまい、微塵も理解を示そうとしなかった。


その反応こそが、偽りの自己が全てだと心底うぬぼれきった言動だと、彼の者が毎時非難していた、「一般人」そのものだということを理解しないのである。


バトラーの書いたとおり、偽りの自己に囚われていることが、人類最大の問題なのである。



では、よき終末を。


記録更新

2017-08-23 | 雑記
恐らく記録更新は中断されたと思うのだが、八月に入ってから曇りだか雨の日が続いていた。二十日ほど続いていたと記憶しているが、実際は何日続いていたかはお調べいただく。

そんなこんなで、今日こそは洗濯しておこうと思い、徹夜でゲームしてから寝ていた少々重い体を持ち上げると、少々日が出ていた。

それで、上記の話を思い出したというわけである。今月はまともに晴れたことはなかったなと。とはいえ、本日の部屋から見える太陽は、雲の裏から存在をほのめかしているような具合で、晴天とはいかない。

今週に入ってまた暑くなったので、記録更新は恐らく先週末か今週の初めにストップしたのだと思われる。

とはいえ、本日の以下省略。


起き上がる前に、ふと思い出した話を書こうと思う。いつもの内容ではあるので、以前に書いたものと下手をすると重複しかねないが、悪霊を調伏するためゆえ致し方なしと心得ていただく。どこに悪霊がいるのかしらんが、どこにでもいるらしいので。


昔、といっても五、六年前ほどから同じことを書き連ねている。

人類を目の敵にしている人達のことである。しばらく前に書いた、人には三種類ある、という話を覚えている御仁がいたら、とりあえずは忘れてもらう。直接にはそのことではないからである。


具体的にどのような方々かというと、食事は菜食。正しくはフルータリアン+αといったところ。

生活様式は森に入って、その中での生活こそが、人類にも地球にも素晴らしいものであるとのたまう。

日本史で準えるなら、縄文のような生活というところ。囲炉裏がどうこうといっていた。服も自前で作るのだとか。

好みの問題だと思うので、憧れる憧れないは個人によるだろう。


話が急に変わるが、温暖化というものの話をする。まったく関連がないわけではない。

テレビにもよく出ている学者の、武田教授なんかもいっているが、環境に纏わる報道やらキャンペーンというのは、嘘に塗れているという。

国連が推進する二酸化炭素削減キャンペーンなんぞ、実際は科学的根拠がないでっち上げであるとすら言われている。もっといえば、それで儲かるから推進しているのであって、地球やら環境やら、ひいては一般庶民のためではないのである。

温暖化二酸化炭素説の嘘については、デーヴィッド・アイクも色々と指摘している。ここを見ている人は、読まれたり何かで聞いたりしたであろうという前提で記しておく。

そこはさておき。二酸化炭素が多いと、温室効果が進んで、地球が暑くなるというのが、一般に流布されている地球温暖化というものの教義である。

言い方を変えて気候変動としているようだが、温暖化のせいでなっている、という理屈自体は変わらないと思われる。

二酸化炭素を減らすために、現代の文明的生活を抑制しようというのが、この宗教のドグマだと相成る。


「今の生活をこのまま続けたら地獄に行くぞ」と、こういっているのが、温暖化教徒の言い草となる。

つまりは、人の罪悪感を煽っているのである。言っている彼らが自身の文明的生活を抑制しているのかというと、まったくそうではないのも、昔からある流れといえる。

アイクも書いていたが、かつて記録的な大雪の中で、温暖化キャンペーンのセレモニーがあったそうだ。

「二酸化炭素が原因だといっているのに、馬鹿みたいに二酸化炭素を使って何を言うのか」といった具合に突っ込んでいた。


さて、話を戻す。


温暖化の話の前に示した方々。彼らも教義は違えど、やり口は同じ。

「現代文明は環境を汚すので、このまま続けると地獄に行くぞ」と言っているのである。

人に罪悪感を催させ、自身はそれから解放されているとうぬぼれるのである。

実際は設定した罪悪感の裏返しで紅葉、じゃなくて高揚しているだけなのである。


現在に到るまで木々が繁茂した理由に思い至らないのだろうが、指摘しておく。


それは人間が増え、二酸化炭素が増大したからこそである。木々の生長には、二酸化炭素が最大の栄養とも言われている。

つまり、憎んでいる文明が続いてきた現代だからこそ、好みでそういう生活を選ぶことが出来ているに過ぎない。


人類を憎んでいるからこそ、騙してその力を奪わんとする。それらの一環が罪悪感を煽る地球環境詐欺であり、それらの反対側で片棒を担いでいるのが、地球だとか自然という言葉に己を高く見せる理想を抱くという、歪な心理構造に気付きもしない存在である。

ならお前は、地球の環境が汚れきっても構わないというのか?と聞く向きもあろう。大体の人はそう聞いてると思われる。

少し持って回ったような言い方で答える。

現代の生活で、例えば空気が汚れたら、気管支やら循環器系の病気が増えたり、自身がなったりして困るかもしれないが、それは飽くまで人の姿を纏っている間の社会生活の問題というより手違い程度のもの。

アイクが書いていたが、「あなたはバスの運転手になるために生まれてきたのですか?」というのと同じで、「あなたは病気を治したりならないようにするために生まれてきたのですか?」と指摘するだけである。


あなたは森で暮らすために生まれてきたのですか?

あなたは何かを食って生きながらえるためだけに生まれてきたのですか?

あなたは地球上で起きている問題が実際は地球上だけではない問題だと気付かずに誑かされるために生まれてきたのですか?
※地球温暖化の最大の原因は、太陽活動である。

どれでもない。どれでもないなら、どれなんだ?と人は聞こうとするが、それは温暖化が地上だけの理由だと決め付けられて、隘路にはまり込んでいるのと同じく、外からの物が一体、自身の内側の何を攻撃しているのかを理解しないからである。


地球温暖化やら環境の悪化が理由ではない。政治がふざけて戦争したり、経済が悪くなっていくのが問題ではない。


それらを手段とし、人を柔弱ならしめるのが目的である。その手綱として、罪悪感があるというわけである。


森で自給生活をするなというわけでもないが、根本的な解決ではないことだけは言える。


環境云々で何がしかの行動を取るという事はつまり、罪悪感に駆られているからに過ぎないからである。


あなたは地球環境をよくするために生まれてきたのですか?

よくするのは何のためですか?悪くしろとは言ってないですが、よい地球環境とは何ですか?

今より自然に溢れてはいたであろう昔の日本は、土地と水を争って殺し合いをしていたものである。ある程度の秩序が作り上げられた後代では、隣同士で監視しあう世の中だったものである。

それと比べれば、随分いい環境になりましたね?なら、あなたの役目はすでに果たされています。


太陽活動による温暖化は、地球上での行動で抑制することが出来ないのと同様に、何かにつけて悪足掻きをする。

理由は後付のこじ付け(当人は思わない)で動くのは、繰言になるが、罪悪感のなせる業だというわけである。

それに気付くか気付けないかで、世の中は天国にも地獄にもなる。そして、天国にも地獄にもしようとも思わなくなるのである。


では、よき終末を。



目と目が合うとき

2017-08-20 | 雑記
数ヶ月ぶりであろうか。

いつぞや、「更新が途絶えたら、気を込めたフィギュアが拙の寝首を掻いたに違いないと思うべし」などと、血迷ったことを書いたものである。

気の訓練といったものは最近は疲れたのでやっていないので、フィギュアも動かずじまいである。

これだけ読まなくても、一般的に言えば拙は頭のおかしな人であろうが、別にどうということはない。

というのも、自分は正常だ、真理を見出し、それにのっとって生きていこうとしているがゆえに、他のとち狂った凡百の人類なんぞと比するものではない、という風なことを言っているが、実際はその凡百となんら変わりないという、面白くもない人を見てきたものであるからだ。

この理屈から言えば、凡百と同様に自分(上記の内容を語った人物)もとち狂っているのだと言っていることになる。

凡百と違うと思い込んで主張する以外に根拠がないのである。

そういうお前はどうなんだ?と訪ねる向きもあろうが、愚問である。

この世に生を受け、この世のしがらみのうちに有る限り、またその範疇での優劣を語る限りに於いて、誰しもが凡百である。

だから、上記の「面白くもない人」は凡百以外の何者でもなかったし、拙も同列でしかないのである。


などと、久方ぶりに更新したと思ったら、いきなりこんな話である。



更新をサボってはいたが、時々、思い出したかのようにブログの編集画面を開くことはあった。書くためではなく、「どれだけ閲覧者と閲覧数が減ったか」を確認しようとしたのである。


ところがどっこい。閲覧者数は近年の落ち着きどころだったのだが、閲覧数がおかしかった。

八月に入って一度見た時に、何故か数日続けて閲覧数が二百を超えていた。

記録は一週間分残される。全部をパッと見て記憶したわけではないが、ニ、三日そうなっていたことがあったように思う。

記事を更新して、何かの検索だかで見つけてしまった人が読んだ、なら判るが、更新は数ヶ月なかった。

何人いるかしらんが、ちょくちょく読んでいる人がまとめ読みしたのかもしれないし、たまたま来た人がまとめ読みしたのかもしれないが、ここで何を探ろうと思ったのか。これが判らない。

ここには、金持ちになる方法も、異性にもてる方法も、明晰夢を見る方法もない。オーラの見方については、他サイトの引用はしたが、見えたからどうというのはない。
かつては陰謀論の話を書いていたが、陰謀の有無は本質的な問題ではなく、そもそもが己自身の問題であることを自覚せよ、などと言い出す始末。

だから、ここに答えはない。そもそも、人間の理性で答えを出すことなど、根本的には出来ないのである。

その理屈を細かく書くことは、拙には少々無理なので、割愛する。

というわけで、当たり障りのない日常の話を書いて、茶を濁すことにする。


近所に、秋田犬を飼っているところがある。たまに、車の出入り口の門扉裏で寝そべっている。

こうも暑いと、犬にも人にも拷問なので、その犬(名前はさくらちゃんという)は家の中にいることが多いが、その日はたまたま外にいた。

夕方からの出勤で通りかかると、寝そべっている位置ではないところから吠え掛かってくる。そして、車の出入り口の門扉まで走ってきた。

足音で拙が通りかかったとわかったらしく、捲くし立てるように吠えるのである。何ゆえか?

この暑いのに、撫でてほしくてたまらないらしい。これ以前にも暑い日に撫でてやると、息を荒くしながら撫でられていたものである。

その時は仕事の帰りか何かで、帰宅途中だったのでゆっくり撫でていたが、今回は仕事の行きがけ。

余り撫でてくれない気配を感じたのであろう。撫でても黙らなかった。

吠えるさくらちゃんをたしなめに、飼い主さんが勝手口から顔を出したのを確認し、挨拶をして離れた。

ちなみに、飼い主さんとは顔なじみではある。

しばらく、さくらちゃんは吠えていたが、悲しげな鳴き声を最後に上げたかと思うと、それっきり鳴き声は聞こえなくなった。

今度また外にいたら、暑さでまいるまで撫でてやろうかと思うが、それでは動物虐待か。


さて、もう一つ。

先日、朝までゲームをしていた。

財布の中身が乏しいゆえ、外で飲み食いをしないようにするための大義名分として、オンラインゲームを再開したのである。

再開は数ヶ月前となる。掛かりっきりだったから、ブログの更新もなかったというわけである。

ゲームといっても、その時はキャラクターの外見変更をしていた。ゲーム内では「エステ」である。

エステというより、性別以外を全部変えられる(※一部有料)ので、整形である。

それはさておき、少しその整形をしようと(ゲーム内で時折配られる、有料部分を無料で出来るチケットもある)設定画面を開いていた。

専用のBGMが流れるのだが、聞き慣れない音がする。リズムに合っているような合ってないような?

無料でいじれる部分も多いので、毎日のように入ることもあるのだが、今まで聞き漏らしていたのかな?と最初は思った。

だが、明らかに音楽としては流れていない。そして、イヤホンを外すと、窓から聞こえる。

窓のすぐ向こうから聞こえてくるのである。咄嗟に窓の方を見やると、ベランダの物干しを掛ける部分に、黒い影があった。

なんと、鳥が雨宿りして、雨宿りのクセに、ピッピーと鳴いていたのである。鳩くらいの大きさだったが、鳩ではなかったように思う。

距離にして三メートルも離れてなかったろう。なおかつ、窓は網戸だけの状態で室内側にスダレという、気配がダダもれな状態である。

こちらが鳥の姿を確認したすぐまで、鳴き声を出していたが、スダレの横から顔を覗かせると、目と目が合った。

意外だったのだろう。鳩が豆鉄砲を食らったような顔、というが、そもそも、鳥の表情はいつも同じな気がする、というのは措くとして、ぴたりと鳴くのを止め、こちらも元の位置に座すと、小雨の中を一声あげて、飛び去っていったものである。

どうも、餌を撒いているわけでもないのに、我が家のベランダやその前は鳥が迷い込むらしい。

春には、変な鳴き声を上げながらじゃれる二羽の鳩を見たものである。鳴き声を上げていたのは、一羽のみである。

じゃれついてた鳩と目が合ったら、じゃれつかれてた方が先に逃げたものであった。

すまない。驚かせるつもりはなかったんだ、ではなく、上述の鳥もその時の鳩も「ここで何をしているんだ・・・」と、こちらが驚いたと言いたい所だが、鳥語は大学でも習ったことがないので、伝えようがないのが悲しいところである。


というわけで、このブログに書いてあることが理解できない場合は、鳥に語っているのだと思っていただければ幸いである。


人の言葉を駆使して人に語りかけているつもりだったのだが、通じないことがあったもので、きっと拙は鳥に感化されてしまったのだろうと考えるのである。もしくは鳥インフルエンザ。


では、よき終末を。


シロクマは実在しない

2017-06-13 | 雑記
家の近所に、秋田犬を飼っているところがある。

実は二代目で、初代は亡くなった。去年の桜の季節に生まれたので、サクラちゃんと名付けられ、そして、その家で飼われているのである。

秋田犬はなんというか、仏頂面というか、ムスッとしているとでもいうのか、少々険しい顔つきをしている。

聞いた話では、狼の血が他の犬より濃いのだとか。たしかに、がっしりしている。

そんなサクラちゃんだが、何度か散歩中の飼い主共々出会って、撫で回している。

この間は、その飼い主と他の知り合いが話していて、撫でながらその犬に纏わる話をしたりしなかったりで、撫で回していた。

家の前を通りかかると、たまに門扉の裏にいて、気付くと吠えてくる。警戒されているのかと思うのだが、手を出すと、別に噛まない。

触れるまでワンワンいうのだが、触れるとムニャムニャと黙る。そして、手を放すと、飛び上がって吠え始める。また触るとムニャムニャ。

こういった遣り取りをしているものである。

その、飼い主と他の知り合いの人が立ち話しているところで撫で回しているときのことだったのだが、かがんで撫でているこちらの横手に回りこんで、首を上に逸らすように身体をこすりつけてきたものである。

どうやら甘えているのだろうと思ったら、今度は地面に横になった。腹を出したわけではないが、何故か寝転がったものである。

そういうわけで、門で吠えているのは、撫でろと催促しているのだといえよう。満足するまで撫でないと、ムニャムニャループに陥って困るのだが。

そんな秋田犬だが、サクラちゃんの体毛は白と、一部茶色である。

撫でているときに気づいたのだが、肌に近い部分は、黒い。初代はもともと黒かったから気付かなかったが、もしかしたら、寒い地方で育った特長なのだと思われる。

それで思い出したことがあった。

シロクマという動物が存在する。

彼らの体毛は白いが、秋田犬のサクラちゃんと同様、肌に近い部分は黒い毛で覆われているのだとか。

五分刈りにしたら、真っ黒になるのだろう。サクラちゃんもシロクマも。


シロクマというと、温暖化の旗印になっている。

昔あった、小さな氷の上で二頭のシロクマが乗っかって、カメラの方を見ている写真というのがある。

ちなみに、この写真を撮った人物は、「面白い構図だと思っただけ」と証言している。別に温暖化の証明のためにやったわけでもないし、あんな風景が北極中に広まっているわけではなかったとのこと。

ともかく。シロクマさんの生息地が侵されている!人間の生活のせいだ!悔い改めよ!というのが、昨今の流れである。

先日触れた、キネシオロジー・テストというものによると、こういう結論だという。

「温暖化はしているが、二酸化炭素によるものではなく、太陽活動の影響である」とのこと。

ちなみに、キネシオロジー・テストは未来予測は出来ない。裏を返せば、太陽活動が弱まれば寒冷化すると言っているのに等しい。

太陽の影響という結論は、デーヴィッド・アイクも同様のことを示している。アイクの場合は、地球温暖化の原因は二酸化炭素、と言っている方々がそもそも詐欺師だという話を前提にしていることと、それを示す証拠を挙げた上での論である。

さて。ここで我々は、自身の思い込みについて、考えを広げなくてはならない。

アイクの著作でもデータを列挙して書かれていたが、近年より、例えば1945年なんかは、地球の平均気温は今より高かった。

これ以上になると解けて危ないと示している温度より高かったと、書いてあったはず。

二酸化炭素が原因なら、半世紀前より今のほうが充満しているわけで、今のほうがもっと高くなっているはずで、だとすれば、シロクマは水泳選手になっていることだろう。

だが、そうはなっていない。ちなみに、シロクマは自然の水泳選手。むしろトライアスロンというべきか。平然と長い距離を泳いで渡りつくという生活を、元々しているそうだ。

つまり。地球は熱くなったり寒くなったりを、繰り返しているだけだったのである。

ここ何年か暑いから、「温暖化している!!」というのなら、「その通りですね」というだけである。

寒かったころよりは温度が上がっていることを、「温暖化」とものものしく言っているに過ぎないのだから。

それだけの意味しかない言葉に、我々は「地球と人類の生活の危機」という意味を込めており、振り回されているのである。

昨今は「気候変動」という言葉に取って代わられているらしい。半世紀前と現在の気温の変動は凄まじいので(半世紀前のほうが氷が解けているはずなのに)、現在までにどこかの島国はすでに水没し、シロクマはトライアスロンから水泳に転向しててもおかしくなかったのに、何もない。

「気候変動」と言い出す前から、気候は変動するのが当たり前で、これも、上記のような危機意識を煽る意味合いを込めて流布されているに過ぎないのだといえる。

アイクは、かつて「爬虫類人がどうこう」と語りだした当初は、キチガイ扱いを受け、一時期はテレビでタレントが「アイク」だかフルネームをいうだけで笑いがとれるほどだったという。

「アイク」という名に、キチガイで笑いのめす対象であるという意味は存在しない。世界のデーヴィッドさんに謝らなければなるまいが、そうなっていた。
デーヴィッドと言えば、ロックフェラーの重鎮が過日、亡くなられたという。人によっては大喜びしているそうだ。

世界を牛耳っているという存在の一人だったとのことで、祝福している人もいるそうなのだが、先日書いたように、牛耳られた(といわれている)世界があるからこそ、あなたは生まれ、生活し、陰謀とやらに気付いて(と思い)、その上、人の死に欣喜雀躍できるのだと。

別に、哀悼の意を示しましょう、というわけでもないので、勘違いしないように。

寧ろ、世界を牛耳ってきたということを前提で言うなら「世界を牛耳る仕事を今までよくやってくれました。お疲れ様でした」とでも述べる。


アメリカの政策だそうだが、ケネディ暗殺の時に出来たやり口に、「陰謀論」がある。これは以前も書いた。

目撃者多数なので、隠しきれてなかったりするのだが、公式見解では遠くから撃たれて死んだと発表している。

それに異を唱えるのは「陰謀論だ」として、つまり、「アイク」と口にしたら笑いを取れるのと同じ状態に情報操作していったというのである。

実際に陰謀としか言えないものを指摘したら、そっちこそ陰謀だとやり返すというわけである。

陰謀論という言葉自体が、甚だ虚しいものであることがわかるだろう。無意味だといっているのではない。


それはつまり、陰謀論という言葉に、「人類解放への道標」とでもいうべき、上記の温暖化の件で述べたこととは逆の煽り文句を込めているのである。
これも、アイクがいう詐欺師が温暖化を押し広めているというのと同じで、詐欺師が危機意識を煽っているのである。
危機意識の煽動という点だけでも、どちらも詐欺師には違いない。
それに、人が死んだことをやたら喜ぶような具合なら、なおさらである。


我々は思い込みで、黒いものを白いのだと思っているのである。

シロクマの本来は白くないのである。そもそも、ホッキョクグマなのだから。


では、よき終末を。


気がかり故に

2017-06-09 | 雑記
拙の記憶が正しければ、四月のことだった。

近所の米屋で買い物をして、家の近くの住宅地の道路を歩いていると、反対側の道から、制服を着た中高生の女子が歩いてくる。

こちらがそれと認識した後だった。凡そ十メートルからもう少し離れていたと思う。

前髪をそろえた髪形だったのだが、何故かその辺りからずっといじりながらすれ違う。

風も吹いてないのに、どこが乱れていたのか。不思議でならないのだが、こう思うことにした。

拙も、まだまだもてるのかもしれないと。でなければ、不審者だったので、不安を紛らわせていたのだと言われそうだが。

昔、何かのテレビで、男性に対面した女性が前髪をいじるのは気を引くためというのがあると、心理学者が芸人だかとの対談で語っていた。

いきなり化粧を直すわけにもいかないので、すぐに直せて目立つ前髪を整えようとするのだという。

話は覚えていたのだが、余り気にしていなかった。

ただ、今年に入ってから、そういう話を思い出して人に語ったもので、それから見てると、前髪をいじってすれ違う人を多々見かける。

話で上げた例では、仕事の時に、カウンターにやってきた予約の女性客が、拙が応対に出ると、急に前髪をいじり、いじりながら「予約の○○です」などと言い始めた、なんぞとやったものである。これは数年前の話になる。

さらには、こっちを見ていないのに、前髪をいじっている女性を見かけるほどである。

そこはまあ、いいとして。

ただ、気がかりがある。

数こそ少ないが、何故か、男性まで前髪やらをいじって拙とすれ違うことがある。後に絶世の美女でもいたのだろうか、と思いたい。

もしくは、拙の背後に何かが・・・。見えない何かが・・・。しかし、背後に何かと言われても、首を捻ると背中はどっかいくので、いても見えない。映画『エクソシスト』ばりに、さらに九十度回さないことには無理である。


これらについて、別の視点を示す。まるで見た目がいいことを自慢しているだけになるからである。それだけではないが。


四月はまだ夜が寒い時があり、家でこうやってブログやらを書いている際に、厚手のシャツを羽織っていた。袖は通さず、肩に掛けている状態で。

今日はいるか、いらないか、などと、日によって気にしたりしてなかったりしていると、ある日、街中で上着をそうやって着ている女性を見かけたものである。

二度ほど見たような気がするが、同じ女性だったのかもしれない。他にもいたと思うが、数えていないので忘れた。


そこから考えてみると、こうなった。

拙はここしばらく、髪が伸び放題である。勤務中は整えてあるが、たまに崩れて顔にかかる。仕事以外で整髪料をつけていないと、『ゲゲゲの鬼太郎』にできるほどである。

つまり、前髪が気になって仕方がない。そんなわけで、街行く人々も、拙の気がかりが影響して、老若男女問わずに前髪をいじるのであろうと、そういうわけである。

向かい合ってすれ違った人はともかくとして、男性及びこちらが視界に入っていないのにいじっている人は、こういう影響なのだろうと考えている。


さて、いつもの話になる。


例えばキリストは、神の前では人類は平等、と謳っている。

それでもって、救済とやらも、釈迦の言にある「この世とあの世を共に捨て去る」というのと同じだという。

聖書の記述は詳しくないのだが、起こした行動の違いだけで、到達している地点は両者とも変わらないとのこと。

この場合の「神」というのが、アイクも言っている「意識」とほぼ同義といえる。だから、違って分かれているように見えるけど、皆一緒。だから、人類は平等という訳である。

ふざけた例えになるが、クトゥルーとかクトゥルフ神話と呼ばれる、小説群をご存知だろうか。

詳しい話はググってもらうとして、簡単に言うと、地球はずっと昔の神がかった宇宙生物やらが一杯いて、時折見かけて恐ろしい目に遭う、というような内容のホラー小説である。コズミック・ホラーという。

大抵は邪神だとか化け物で、そのうちの一つに、言い方が色々あるが、「ニャルラトホテプ」というのがいる。

ライトノベルの『這いよれ!ニャル子さん』のニャル子がそのニャルラトホテプである。元のクトゥルー神話からの意味合いからは少々ずれているが、とりあえず。

そのニャンとかいうのの特技というかで、自分の分身を作って人として過ごさせるというのがある。しかも、複数に。

ニャンとかいうのの眷属だという自覚があったりなかったりするそうだが、ないままに、お互い戦いあったりしているのだという。実に悪趣味だと言わざるを得ない。むろん、本体たるニャンとかは、誰が自分の分身かわかっている。


というわけで、「意識」とやらが邪神だと言いたいわけではないのだが、我々人類がやっていることは、ニャンとかのやっている悪趣味と同じ状態なのだといえる。

またもや悪口になるが、ついでに。


拙が一時期、仕事場で果物ばかり食べていたりしたのはとある人物の影響だったと、話をする機会があった。

アイクの翻訳をして、「意識」の話をしっかり読んでいたであろうその御仁は、「自給自足のフルータリアン生活こそ至高」とのたまい、アイクを超えたと語っていたと伝え、それを例えていった。簡単に、物質は意識が見せる幻である、という話もした上である。

人類皆平等(例えだと切り出したのに、聞き手は「人類は平等ではないですよ」と二度ほど茶々をいれてきた)だとその根拠を語っている人に、「これこれのことをしているから、俺のほうが偉い」と言っている状態だと。

聞き手は大笑いして、感想を述べたものである。

「今年で一番笑えた」と。


悪趣味は邪神の専売特許ではないのである。
生涯の笑い話とならぬよう、努々、精進を怠たることなかれ。


では、よき終末を。