ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

天皇陵のお土産

2017-05-21 | 雑記
しばらく更新を怠っていた。ほかの事にかまけていたのと、拙が何か言わなければならない理由が見当たらなくなったからである。

拙、ってなんぞと突っ込まれる前に言うと、わたし、とか僕、とかと同じく、自称である。この記事内だけの話なので、不断の努力で普段からやっているわけではないことをお断りしておく。

さて、先日。都内某所にある、天皇陵に墓参してきた。

多摩御陵と武蔵野御陵が併設、というとなんだか墓っぽくないが、そういうところである。

埋葬されているのは、大正天皇と昭和天皇、その両皇后であられる。

かなり前にも一度参ったことがあった。そしてその後、某陰謀論者とつるんで、昭和天皇はイルミナティの飼い犬だのとやったものである。今ではいい思い出である。

するとまた転んで、天皇万歳だとかいう気持ちになったのかというと、そういうわけでもない。説明は後でするかもしれないので、忘れてたら後日突っ込みをくれると、はぐらかすつもりなので、期待するように、などとコメントの催促をする。誘いに乗ってはいけない!

実は、二度行ってきた。しかし、一度目は時間切れ。家を出るのが遅かった上に、歩いていける距離(一時間ほど)だったので、歩いていったら見事最終入園時間をぶっちぎっていた。

しかたない。また日を改めようと、入り口から左の細道を通り、駅の方面に向かった。

御陵にそった脇の道を通っていると、御陵の上空に日が差し始めた。

「ははぁ、天皇の名は伊達ではないのだなぁ」などと、暢気なことを思いながら、大通りに出て、家のほうに向かって歩き始めた。

しばらく歩いていると、なんだか妙なのである。並木参道だとか名がついていて、まっすぐな道になっているのだが、何十メートルか先は翳っているのに、拙が歩いているところは日が照っている。

歩いていく先々が晴れていくといった具合になっていた。おかしいと思い、背後上空のお天道様を見上げると、曇り勝ちの空で、その時もお天道様の回りはほとんど雲。しかし、その時だけは丸々姿を覗かせ、照らしているのである。少しでも雲が動けば覆い隠そうというほどの状態であるにもかかわらずに。

「こりゃ一体・・・」と思いながらもそのまま歩き続け、御陵のある地区から外れたころだろうか。ようやく、雲に隠れた。

「入れなかったから、お土産でもくれたのかな」などと心の中で笑いながら、馴染みの店に入って今の話をしたものである。

晴れ男だのあんた何者か、たまに仙人とか言われる、みたいなノリで話をしていたような気がするが、忘れた。


そして日を改めて、間に合うように到着し、ようやく墓参してきた。なんだかずっと照らされるとかいう、あからさまな現象は味わうことはなかったが、御陵というのは不思議な空間である。

昔、初めて行った時は感じてなかったのか、それとも目が悪くなったのか(別の意味でよくなったが)、視界が少し湾曲するというか、膨張しているような、妙な感覚を覚えたものである。

もう少し詳しく言うと、遠近感がおかしくなったかのようである。御陵の作りがそうなのか、それとも日常の感覚で理解しうる物理法則とは別のものがあったのか(気だとかなんとか)、そのあたりは判らないが、興味があっていける方は、一度たずねてみるのもよいだろう。


さて。この前の記事だかに、神社にお参りしてきた話を書いている。パワースポット巡りがどうと書いた。

元来、宗教というのは、我々が認識しうる全てを作り上げた超越的な存在、神だとか真理だとか、そういうものへ到ろうとするものなのだという。
そのための教義であり、戒律なのだが、教義を覚えて戒律を守ることに宗旨、じゃなくて終始しているのが常となっている。
宗教のための教義ではなく、教義のための宗教組織の維持が認識を阻んでおり、害悪となっているというわけである。
そこを極端に悪用したのが、カルト宗教というわけであろうか。

そこを超えれれば、大体の宗教は全て同じところに到るというのである。二十世紀の物理学者が見出したように、全ては一つ、というのも本来はおかしいのだが、一つの意識から現れていることを知ることなのだと。

だから、実家で療養中の弟が、毎日だか三時間仏壇に向かって題目を唱えていることに、「無駄だから辞めろ」なんぞとは言わなかった。

「三時間やったからすごいとか、そういうのはない。何か違うなと感じられるものがあったなら、三唱で充分になる。それで三時間続けたなら、仙人にでもなれよう」などと、遠まわしには伝えておいた。
弟の感想は「さすが仙人のいう事は違うなぁ」と、褒めているのかなんだか、よく判らん感じであった。

実家のカルト宗教の戒律で、神社にお参りなんぞバチが当たると散々言われているのに、拙は平然と神社にお参りして、弟にそんなことを伝えたりするわけである。

日本最大の宗教団体の教義に浸っているから正しいなどというのはまったくない。そして、神社に賽銭を投げ込んで拍手を打っているから正しいというのもまったくない。

その先とでもいうべきものを見出せるかどうか。本質に行き当たるかどうかなのである。

本質を見出そうとしないものは、表面を変えた、自分で変えたと思い込んでいるだけの、中身は変わらないこと、つまり、本当の意味での幻に溺れ続け、この先も長いときを彷徨うのである。

言い方を変える。我々にとっての現実とは、我々の日常の感覚からしたら幻としか表現できないものが現実であり、それ以外のものは全て見せかけなのだということである。

誰のこととは言わないが、論語読みの論語知らずとは、けだし、明言である。

さあ。あなたも騙されたと思って、たまには神社にお参りして、賽銭は一円でいいから投げ込んで、なんでもいい(死ねとかそんなの以外)のでお祈りでもしてくるべし。

余談だが、上記の天皇陵直近の駅のすぐ近くに、小さな神社がある。そこの樹は、何の樹か忘れたが、二種類の樹が根っこからくっつきあって伸びている。

縁結びの樹だとのことで、小石に自分の名前と意中の相手の名前を書いて根元に置くと結ばれる、との謂れがあるとか。

まあ、観光案内程度の話である。気が向いたら覗いてみるのもよろしいかと存じる。


では、よき終末を。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿