世の中、感謝しても仕切れないことがたくさんある。死ぬまで感謝するしかないのかもしれない。
例えば、拙の両親について。
実家のことは何度か書いてきた。祖父の代からの創価学会の家で、子供のころは仏壇の前に座ることを強要されたものである。
そんな時は、父親の隣で唱題をしている際、長くなってきたら、軽く肩でぶつかって、こちらから終了を促すという、今になって考えてみると、子供のころからメチャクチャだった気がする。
さて。多感なころになると、他の創価学会の家の子供達もあったりなかったりだが、「変じゃないか?」と考えたり、表立って反発したり、飛び出して悩んでは結局、創価学会は素晴らしい!となったりならなかったりする。名詞を交換すれば、どこでもある話である。
創価の家であることが、実に腹立たしかったものである。とはいえ、別に普段参らないのに元旦だけ参って初詣、とかいうのもふざけていると考えてはいた。そういう指摘をする父親の言は、確かにその通りだと、子供心に感じていたからだ。
なんやかんやあって、現在に至る。兄貴に胸ぐら掴まれたこともある。
この時の兄貴の言は、これもかつて書いたが、「創価学会は宗教団体じゃない」だった。
そこはひとまず。
長くなったが、要してみよう。
創価学会の家に生まれたお陰で、宗教とはなんぞや?世の中とは何ぞや?といった疑問を持ち続けることになったものである。
言うまでもないが、日蓮宗系の宗教団体なので仏教となるのだが、釈迦は一体何を言っていたのか?という疑問も同時にくすぶり続けることとなる。
今、拙があるのは、あの家に生まれたからである。感動を覚えるのである。
などと書くと、冗談染みているのだが、そこは良いとする。
そして、結局どういう結論に到ったのかを書いておく。
妙法蓮華経も唱題もおかしいものではなく、いい物と言える。
ただし、創価学会に所属していないと意味がない、というのは頭のおかしな理屈である。
明治の初版と現時点で書店で買える夏目漱石の小説を比較して、初版以外は読む意味がない、と言っているのと同じである。
貴重であるかないか、なら判るが、読む意味がないなら、どちらにしても意味のないものだと言ってやろう。
それなので、創価学会は、宗教の名を語った会社である。実際に宗教団体として登録しているので、詐欺集団である。
先日も書いたが、釈迦もイエスも、同じようなことを述べている。見出したものは同じなのだと。釈迦の言にならうなら、「真理はそれ以外にない」のだといえる。
宗教を否定しているアイクも、現実が幻であるという話や、愛がどうたらという。釈迦やらイエスと実際には変わらないものの見方になっているといえる。
「昔から言われていることと変わりないから」とけなしていた人がいたが、宗教を否定しているものが本質的な宗教的認識に到ることに思いをはせることが出来ないのである。
こういう物の見方をよく勉強出来たので、感謝するのである。
拙も思うこと仕切りなので人のことは言えないが、ネガティブになると思うだろう。
「こんな腐った世の中なんざ、消えてしまえ」と。
また、陰謀論だと、「明治に天皇入れ替わってから世の中おかしくなった、戦後でさらに加速して継続中だ。ひどいひどい」とやっている。
ちなみに、徳川家康の家康はイエスから来ているのでは?という話があって、西洋の秘密結社やらの影響は、ずっと昔からあったと言えるのかもしれない。
イエス=秘密結社になるかどうかはしらんが、詳しい人は知っているだろう。戦国時代にやってきた宣教師は云々と。
まあ、言ってしまえば、世の中は腐っているのが常であると思ってしまえばいい。
そして、考えなければなるまい。
その腐った世の中があったればこそ、こうして生きているのだと。そういう生きがい?みたいな物を得て、他人を貶したりして、頑張れたりしている。
とはいえ、他人を貶して暮らすのはよしたまえ。そこで、「馬鹿な日本人は滅びて当然だ」とおっしゃった日本人のことを思い出してあげよう。
本当に馬鹿なのかはしらないが、馬鹿と見なせる日本人が暮らす世の中があればこそ、そうやってふんぞり返ることが出来たのだと。
馬鹿(も多いだろうが)な日本人が暮らす腐った(上記の通りなら、世の中とは腐っているのが常だが)世の中を作り上げたのが、然る秘密結社だというのなら、斯様な者たちは感謝しても仕切れまい。
イルミナティに感謝を!最大限の謝辞を!
いや、別に感謝の言葉を送る必要は多分ないが、人の世とは面白いものだと、感謝せざるを得ないのである。
では、よき終末を。
例えば、拙の両親について。
実家のことは何度か書いてきた。祖父の代からの創価学会の家で、子供のころは仏壇の前に座ることを強要されたものである。
そんな時は、父親の隣で唱題をしている際、長くなってきたら、軽く肩でぶつかって、こちらから終了を促すという、今になって考えてみると、子供のころからメチャクチャだった気がする。
さて。多感なころになると、他の創価学会の家の子供達もあったりなかったりだが、「変じゃないか?」と考えたり、表立って反発したり、飛び出して悩んでは結局、創価学会は素晴らしい!となったりならなかったりする。名詞を交換すれば、どこでもある話である。
創価の家であることが、実に腹立たしかったものである。とはいえ、別に普段参らないのに元旦だけ参って初詣、とかいうのもふざけていると考えてはいた。そういう指摘をする父親の言は、確かにその通りだと、子供心に感じていたからだ。
なんやかんやあって、現在に至る。兄貴に胸ぐら掴まれたこともある。
この時の兄貴の言は、これもかつて書いたが、「創価学会は宗教団体じゃない」だった。
そこはひとまず。
長くなったが、要してみよう。
創価学会の家に生まれたお陰で、宗教とはなんぞや?世の中とは何ぞや?といった疑問を持ち続けることになったものである。
言うまでもないが、日蓮宗系の宗教団体なので仏教となるのだが、釈迦は一体何を言っていたのか?という疑問も同時にくすぶり続けることとなる。
今、拙があるのは、あの家に生まれたからである。感動を覚えるのである。
などと書くと、冗談染みているのだが、そこは良いとする。
そして、結局どういう結論に到ったのかを書いておく。
妙法蓮華経も唱題もおかしいものではなく、いい物と言える。
ただし、創価学会に所属していないと意味がない、というのは頭のおかしな理屈である。
明治の初版と現時点で書店で買える夏目漱石の小説を比較して、初版以外は読む意味がない、と言っているのと同じである。
貴重であるかないか、なら判るが、読む意味がないなら、どちらにしても意味のないものだと言ってやろう。
それなので、創価学会は、宗教の名を語った会社である。実際に宗教団体として登録しているので、詐欺集団である。
先日も書いたが、釈迦もイエスも、同じようなことを述べている。見出したものは同じなのだと。釈迦の言にならうなら、「真理はそれ以外にない」のだといえる。
宗教を否定しているアイクも、現実が幻であるという話や、愛がどうたらという。釈迦やらイエスと実際には変わらないものの見方になっているといえる。
「昔から言われていることと変わりないから」とけなしていた人がいたが、宗教を否定しているものが本質的な宗教的認識に到ることに思いをはせることが出来ないのである。
こういう物の見方をよく勉強出来たので、感謝するのである。
拙も思うこと仕切りなので人のことは言えないが、ネガティブになると思うだろう。
「こんな腐った世の中なんざ、消えてしまえ」と。
また、陰謀論だと、「明治に天皇入れ替わってから世の中おかしくなった、戦後でさらに加速して継続中だ。ひどいひどい」とやっている。
ちなみに、徳川家康の家康はイエスから来ているのでは?という話があって、西洋の秘密結社やらの影響は、ずっと昔からあったと言えるのかもしれない。
イエス=秘密結社になるかどうかはしらんが、詳しい人は知っているだろう。戦国時代にやってきた宣教師は云々と。
まあ、言ってしまえば、世の中は腐っているのが常であると思ってしまえばいい。
そして、考えなければなるまい。
その腐った世の中があったればこそ、こうして生きているのだと。そういう生きがい?みたいな物を得て、他人を貶したりして、頑張れたりしている。
とはいえ、他人を貶して暮らすのはよしたまえ。そこで、「馬鹿な日本人は滅びて当然だ」とおっしゃった日本人のことを思い出してあげよう。
本当に馬鹿なのかはしらないが、馬鹿と見なせる日本人が暮らす世の中があればこそ、そうやってふんぞり返ることが出来たのだと。
馬鹿(も多いだろうが)な日本人が暮らす腐った(上記の通りなら、世の中とは腐っているのが常だが)世の中を作り上げたのが、然る秘密結社だというのなら、斯様な者たちは感謝しても仕切れまい。
イルミナティに感謝を!最大限の謝辞を!
いや、別に感謝の言葉を送る必要は多分ないが、人の世とは面白いものだと、感謝せざるを得ないのである。
では、よき終末を。
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