ウヰスキーのある風景

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碧い話

2017-06-06 | 雑記
先月だったかその前か。煙草を切らしてしまったので、仕方なくコンビニで、アメリカン・スピリットのターコイズというのを買った。

これが実に美味く、シガレット自体もご無沙汰(敢えて書かないが、煙管で葉っぱだけ使うから)だったのもあり、解すことなく、終えたものであった。

愛称アメスピのオーガニック銘柄は、今のターコイズとゴールドの二種類となっている。青い箱が気に入ったので、そちらにした。

それで先日、手巻き煙草用の方を買って来て、先ほどようやく開封したのだが、不思議だった。

ビニールで密封されているのだが、それを開くと、煙草とは思えない、いい香りがした。

そして、中身を開いて煙草自体の香りを確認すると、これまた煙草とは思えないような、いい香りがする。

他の有名銘柄だと、マニトウのオーガニックというのがあるが、それとは違う、爽やかな香りであった。

マニトウの方は畳みたいな青臭い香りだが、多分、青臭い分類だとは思える。


さて、煙草の話はいいとして、思い出した話をする。


去る日、仕事場で、なぜか宗教の話をしていた。いきさつはあまり思い出せないが、そうなったのである。

とはいえ、別に特定宗教がいいとか悪いとかの話しではない。ある意味、悪いという意味ではあった。

話し相手は、例えば釈迦自身が「再び人として生まれることはない」と語り、悟りを開くとそうなると言っているのに、何故だかイタコの如くやって、釈迦の生まれ変わりだとかほざくのに騙される人が多い。しかも、高学歴に限って、と憤り気味に語る。

そして続けた。

「釈迦が言ってたことは、正しい生活やって解脱して二度と人に生まれ変わらないってことなのに、そんなのに騙される。特定宗教に肩入れする必要はないが、宗教の基礎知識を学校で教えていかないと、詐欺に騙される奴らばかりになる」と。

拙もその通りだと思い、「確かに。中村元の翻訳一つ読むだけで、バレバレですからね」というと、「実は子供向けの解説書も、あの人は書いているんですよ」と語っていた。
「なら、小学校で授業にするべきですな」と笑いあったものである。

中世の日本仏教史を勉強したのか調べたのか、色々と詳しく、拙が創価学会だというと、「うちも天魔の禅なんですよ」などと笑いながらいっていたものである。

禅の何が天魔かというと、日蓮が時の幕府に送った『立正安国論』にある、他宗派非難のキャッチコピーである。他は余り覚えていないが、真言亡国とか書いてたはず。

こういう風に物を見ている人は、意外と近くにいるものだなと、感心したものである。というより、これが普通なのかもしれない。

それはともかく。何ゆえ、世の中そういう風にならないのかということを、私見を交えて語ろうと思う。


ここで何度か書いてきたが、釈迦だとかイエスだとか、インドの聖典といわれているアシュタバクラ・ギーターだとか、ほとんど同じ境地を示している。

デーヴィッド・アイクの言う、全ては意識で、この世は意識が見せている幻なのだということである。
表現が違うだけで、同じ事を示しているのである。


子供心にそんなことを吹き込むとどうなるだろうか。すくなくとも、先ほどの話し相手の言の通り、頭の腐った宗教に肩入れして、身上を滅ぼす輩は減る。

さて、一つ問題がある。特定宗教に肩入れすることがなくなる、もしくは減るという点。

何故かというと、釈迦の言の通りに生きるなら、この社会を肯定することを是とする立場から言うならば、反社会的にならざるを得ないのである。

別に、皆托鉢坊主になって、乞食だらけになる、というわけでもないが、全ての権威、伝統、習慣を否定するからである。よって、宗教と名の着いていない宗教も否定する。

反社会的行動をとるようになるから危険だ、というわけではない。寧ろ粛々と従う。言ってしまえば、マハトマ・ガンジーの非暴力運動状態となる。
非暴力?それじゃダメだろうと思われるだろうが、これにはトリックがある。

確かにガンジーの運動は、暴力に訴えなかった。暴力ではないもので抵抗していたからである。

それは、不服従。

どこかの陰謀論ブログだかで見たのだが、例えば、ガンジーの非暴力は教えても、不服従は教えるな、とやっているという。

釈迦にしろイエスにしろ、本質的な意味での宗教、言い換えれば精神的、スピリチュアルといえるものは、世の中のことは幻なので、例えば五感の刺激に惑わされるなとか、不変の物はこの世にはないので、対象にすがるのはよせと言う。

単純にあの世とも言わない。『スッタニパータ』にもあったが、「この世とあの世を共に捨てる」と言っている。

されはさておき。

一般的な観念としての釈迦や仏教の言説から考えてみても、己の不安定な心を制御して、節制して生きろというものになる。

しかし。国家や社会というのはどういう代物か?考えてみても欲しい。国家や社会が教えたがらない理由を、箇条書きにする。

・国家や社会が必要とする人というのは、権威に逆らわず、自分で考えない、伝統や習慣を盲信し、不安を煽ればすがり、けしかければすぐに消費に走る存在であること。

・この世が幻であるのを前提とされると、家族や地域のしがらみを抜け、子供を作らなくなるので、戦争も出来ないし、消費活動のための労働もそこそこにしかしなくなるので、国家運営がしづらくなる。

・不安定な心を本質的な意味で制御されてしまうと、不安を煽っても誰も乗ってこないので、例えば北にミサイルを撃たせても意味がなくなる。

・陰謀論の理論に従って言うと、国家にとっての一番の不安は、国家運営者がそれぞれの国家に対してのものではなく、そもそもがそれらの上司達へのご機嫌伺いから来ているからである。

・根本的に国家や社会というのは、物質への偏愛から生まれたものにしか過ぎず、それらを否定するような思想は反逆でしかないので、触れたくないか、触れても本質は絶対に教えない。

もっとあると思うし、上手い表現があると思うが、とりあえずここまで。

かつて、アメリカがイラクだかに派兵するとき、なんといったか。

「自由と民主主義のために」だったか。そういう煽り文句を叫びまくって戦争に行ったものである。

アメリカに、自由も民主主義もないのは、よく知れ渡っている。それでもあると信じている人々にはあるし、ないと思っている人には当然となっている。陰謀論の話だけではなく、内外で色々と語り草になっている。

それで、上記の如く、悟りかねない状態の人々ばかりだとどうなるか?

「そもそも、この国にもこの世にもあなたがたにも、あなたがたが語るような理想は存在しない」となる。

かくして、ブッシュは藪の中へ。今は切り札らしいが、とんだババを引くかもしれない。


さてもう一つ。

国家社会や政治を変えても、上記に示した如く、それ自体が執着であり迷妄の産物なのである。

かつて、ビートたけしが例えたと聞いたが、「うんこにバケツ一杯のシャネルぶっかけても、うんこはうんこ」なのである。

国家や社会という物にまったくの恩恵がないとは言わないが、我々はうんこにシャネルをふりかけては、喜んだり怒ったりしているのである。

シャネルは解脱に必要ではないが、香水は自分に振り掛けるべし。


国家や社会があるから、ロスチャイルドやらの大富豪や宇宙人がいるから、我々が脅かされているのではない。

己の不安定な心をそのままにして、感情に振り回されているのが問題なのである。


地球に広がる世界というものは、そもそもそういうものである。

勧めはしないが、変えたいと思うのならば、せめて香水は自分に振り掛けるべきであろう。


では、よき終末を。



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