goo blog サービス終了のお知らせ 

ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

桜を見ない会

2020-01-13 | 雑記
挨拶をするにはいささか遅いので、特には書かないが、新年が明けた。

馬鹿げた話だが、年末年始に金を使い過ぎたため、支払いを遅らせていたところ、その件で先ほど弟に怒られたところである。

支払いの件についてもだが、拙の言い草が悪くて腹を立てたのもある。内容は以下に。

つい先日までが支払期限だった水道代の払込用紙を玄関に置き去りにしてあった。

普段は気が付いた弟がその半額を拙に渡し、それで払うという流れである。

それで年末に貰ってはいた。が、使い過ぎたので次の給料日まで待つことにしようと放置していた。新たな払込用紙が来るのを待とうと。

放置していた用紙の期限はこれを書いている日から一週間前。経験上、数日程度なら過ぎた用紙でも支払いが出来るのを覚えているが、一週間も経てば使えない。細かい日数は思い出せないし、話には関係ないので割愛する。

そして昼に起きてきた時に、「まだ水道代の用紙が残っている」と言われ、「年末年始に使い過ぎてしまったから、次の給料日に金が入ったら払う。」と答えた。

「前に渡したよな?」と弟。「貰ったよ。今払えなくもないが、ちと厳しいから」と拙。

そして余計とも言えるが、こちらも気になっていたのだろう、こう続けた。「なら、電気ガス代払ってくれよ」と。普段なら引き落としが末日なのにさっさと渡しに来ることがほとんどだったからである。

弟は「払えなくもないけど、今手持ちがないから」と。「ならそれと一緒よ」というと、「ならネット代くれよ」というので、「そりゃまだ早いだろ」と答え、拙は洗濯に向かった。


部屋で洗濯が終了するのを茶を飲みつつ待っていたら、弟の部屋から机を叩くような音が一度した。

出てきた弟にそのことを聞くと、あからさまに機嫌の悪い顔をしつつ、その件ではないことを答えだした。

「一緒に暮らしてるのにすまないの一言もないのは失礼だ」と。悪かったと答えると、水道代は自分が払いに行くと言い出した。子供のころから、後は成人した時もたまに癇癪を起してまともにやりとりが出来ないことがあったのと、それを目の当たりにしたのが久しくあったので、気圧されて今ある払込用紙が使えないことを言うのを忘れ、それはこっちがやるからとのみ伝えると、弟は出掛けて行った。

少しすると戻ってきて、「電気代とガス代置いとくから」と、これまた玄関に置いてあった明細と折半分を拙の部屋の前に置いて行った。

電気ガス代については口座引き落としにしてある。何故水道代は?と思われるが、昔からそうしてただけで、理由はない。

なら、さっきのやり取りからすると、ネット代を差し引きで戻せばよかろうと部屋に持っていったら、「水道代は払えるのか?」という。

「給料入って新しい通知が来たら払うから」と部屋を出たが、結局、今の用紙が使えないことは言うのを忘れてしまった。


しばらく、というかついさきほどの話なので、「己は間抜けな奴だな」としばし自己嫌悪に陥っていたものである。陥ろうと思えばいつだって陥れるだろうというのは措く。


さて、何が言いたいかというと、説明しづらい。というより他人を納得させることは出来ない内容になっていくからである。


今回は支払いを滞らせていたので証拠が残っていたため、弟に見咎められたわけだが、そもそも電気ガス代は口座引き落としで、貰った金は拙の財布に入るだけ。

水道代も財布に入るだけ。もちろん、拙の財布にもともとある金と共にコンビニなどで支払いをすることには違いないが、貰ったそのまま水道局に飛んで行ってはいないのである。

また、弟に渡したネット代の方もしかりである。弟がどのように金を管理しているかは知らないが、上記の水道代についてと変わらないだろう。

常識なら、貰った金を…と言われるだろうし、そういうことも判る。それで弟が怒ったことも判る。後は、「えらそうに電気代ガス代払えとかいうな」とも言っていた。

とはいえ、借金を別の借金で返すことを、失礼だという声は寡聞にして知らない。首が回らなくなるぞ、とは言われるだろうとはいえ。

日本の企業で自社資金で回っている所は少ないらしく、それが出来ているのは有名企業ではたとえばNTTだとか。携帯電話のdocomoではない。

他は銀行の融資を当てにして何やら儲けたり設けたり運転しているというわけである。どれほどの数の企業がそうであって、またはそうでないかまでは知らない。

去年は上記のとは別の某携帯電話の会社が融資を断られたというような話もあった。

銀行の金はどこから出てきたか?というのは言うまでもなかろう。

銀行の融資、つまり、他人の金で動いている会社は実に失礼な存在だ、などと常に憤っている人は見たことがない。銀行が一般人の預金だけではないとしても。

自社資金で動いているところもまた、経済活動が回りまわってたどり着いたが故なので、失礼だ!と難癖を付けられないこともない。


金を無下にしろ、というわけではないが、金というものは、そもそも誰のものでもないのだと言える。

現代の金融システムはロスなんたらが云々でという陰謀の話はあるが、そこは関係ない。

見えなかったら気にしてなくて、見えたら気にして場合によっては怒り出す。

それは見えている数字は、ものは、自分のものだと思っているからである。

丁度、去年の話題の一つの「桜を見る会」の如くに。


現総理や内閣などを褒める気も貶す気もないが、政府が長続きすればするほど、関係者も増えていくのは必然であり、年々招待客が増えていき、その会の費用は上がっていってしまうだろう。

去年と同じ規模で質だけ上げました、というのもあり得ることはあり得る。年に一度の行事でお得意様にいい顔をしておきたいというのは、政治家だけの話でもない。同じことを同じようにやっても、民間に費用を支払うからには、「消費税」が違うのだから、値段も上がっていくだろう。

例の会を行っていることがよかったかどうかというのは、こちらとしては判らないし、ただの例えであって、その件を判断するためではない。

所謂ヤクザを呼んだ云々も、そもそも政治家はヤクザがいないと…というのは語るまでもないことである。


金は天下の回り物という。何故回っているのかは本来は理解できない。

何せ、先ほども言ったが、誰のものでもないからである。

ある時はそこ、また別の時はここ、というのが「わたし」だったりするというだけのものである。

ならば政府の税金(「桜を見る会」などの)や冒頭の水道代についてはどうなるのだ?と問われるかと思う。

税金については釈迦の時代ぐらいの仏教の態度を述べておく。以前、ちょくちょく書いたことだが。

「盗賊は力ずくで金を奪っていく。王侯貴族は合法的に金を奪っていく。だから王侯貴族を積極的に応援はしない」と。

人の金を奪うのが、それらの性だと思えばいい。蚊が血を吸うのと変わらない。蚊に血を吸うなと怒っても仕方がないし、蚊に対して吸った血を真っ当なことに使えよと説教する人も見たことはない。


さて。冒頭の話は拙の怠惰な使い込みが原因である。ならば、不慮の事故や病気で同じように使い込んだ場合、弟はどういう反応をするのか?

これまた常識なら、「仕方ないな」であるが、本来はそれらもまた個人が悪いことなので、怒るべきなのであろう。

怒ろうと思えばいくらでもできる。何故そんな時間にそんなところを歩いていた?と怒れるだろう。それが普段の帰り道の時間であっても言える。

何かの病気を発症したとしても言える。若い頃に肺炎で入院したからだ、とかなんでも理屈付けられるだろう。ちなみに、若い頃に肺炎で入院したのは弟ではある。

というのもまた、「見えないなら気にしない、見えてたら気にする」という奴である。


見えていても見えなくても、気にしないのがよいと思えなくもない。

ただし。誰かが意図的に隠している場合は別として。

それは、蚊が血を吸うのは仕方がないとはいえ、吸われるままにはしない、という程度のことである。



余談染みているが、桜を見るといえば、昭和の落語の速記本から起こした本に花見の話があり、枕の話で軽く触れていたものである。

「人が多くて賑やかでねぇ」というんで、花はどうだったかと聞いたら、「ん?ああ、綺麗だったんじゃないかな?」といった具合で…などと。


我々は桜を見ているようで、実は何も見ていない。見えている気がしていただけなのである。


では、よき終末を。


国民はSNSのために

2019-11-30 | 雑記
ずっと昔、著名人というか政治家のNGシーン集を紹介している番組があった。

何の番組だとかはまったく思い出せないが、とある政治家が街頭演説で言い間違いをしていたところを流していた。

その政治家が「国民は」と述べ、一瞬間を置いてから続けたものである。

「政治のために」と。

本当は言いたかったことと違ったので、そう言ってすぐに恥ずかしそうに顔を背けていたものである。

他に誰が出たとかそういうのは憶えてないし、それが誰だったかもまったく思い出せない。存命かどうかも判らないレベルである。

近年、政治家の失言がよくやり玉にあがるが、上記の政治家はただの言い間違いである。

言い間違いではない失言だからこそ上がっているというのは論を俟たないというところである。


政治家の如きは人を道具だとしか思っていない、というのはよくいわれる話で、古いが、「生む機械」というのがあった。

作家の石田衣良は、「女性差別どころではない。男性についてなら『働く機械』としか思ってないだろう。だからそんな発言を平然と出来る」と、あるコラムで憤っていたものである。


かつて、マルクスは、「疎外された労働」という言葉を繰り出していたものだが、人のために労働があるのではなく、労働のために人がある状態だと指摘しているとはいえる。

『資本論』を読んだことはないので、どういう文脈で語っているのかは知らぬが、色々と人間を疎外しているというものは世の中にはある。

政治が人間を疎外した結果が、上記の「機械」発言と言えなくもない。

もしくは、政治家は「人でなし」なのかもしれない。罵倒としての意味ではないが、罵倒でもあり得る、ダジャレである。もしくは、デーヴィッド何某を読もう。

例えば医療も、かなり人間を疎外している点を指摘されている。

人のために医療があるのではなく、医療のために人があるという状態といえる。

その具体的な例を挙げるとすると、心理学方面がよかろうか。


高名なフロイトの甥か何かの心理学者がいるのだが、彼の書いた広告業界の古典的名著というのがあって、タイトルはカタカナでいうと、『プロパガンダ』である。

マスメディアに学者だとかの権威を立たせて、有毒の疑いのある物質の安全性を語らせるとかいうことについての心理学的研究である。

実際、当時アルミ業界が発展して来たため、大量に出てきて処分に困っていたフッ素について、上記のやり口で押し通したという功績があるとのこと。


医者ではないが、エジソンもトースターを売るために、当時のアメリカ人は一日二食が平均的だったのを、「一日三食がいい。わたしも行っている」と語り、トースターはアメリカの食卓に当たり前となった。

これだけならいいが、エジソンはそんな食生活はまったく行っていなかったという。上記だけ読んで誤解のなきように。


人間疎外の現代的な例を挙げるとすると、SNSというものがある。


これについては、Facebookの創業者の雑貨、じゃなくてザッカーバーグ達が自供しているとのことだが、それはつまり、「如何に人から時間を奪うか」ということを突き詰めたものなのだという。

フロイトの親戚やらエジソンやらの例だけでなく、欧米の心理学やら大脳生理学やらの研究は徹底している。

では、どうやって時間を奪うのかという話にするが、実に単純である。

ああいう物を起動すると、大体ポップアップ(Windowsだと、右下に何やら効果音と文章が表示されるといった具合の物)でお知らせがピローンと鳴ったり鳴らなかったりするのだが、あれを見た時の心理状態というのは、カジノのスロットで当たり目が出た時と同じ状態なのだという。

それでついつい、何かないかとちょくちょく起動させたりするという流れになる。

これもまた、そういうことになると気づかずに作り上げたというのならまだしも、知ってて作ったと自供したとのことである。

アメリカにはトースター売りしかいないのか?と皮肉を言いたくもなる。日本も似たり寄ったりではある。


人のためにはない代物であるというのは、仕方のないところである。

至る所で人間が疎外されているというのは、近現代の思想家が度々指摘していて、目新しいものでもない。


では、時間とは何か?が疑問として上がる。

欧米の心理学方面の研究で、「エナジー・ヴァンパイア」という理論がある、とは度々紹介したものだが、企業が広告に多大な金をかける理由でもある。

つまり、売れるかどうかではなく、それに注目させることによって、エナジー、日本語化している慣例的な言い方なら、エネルギーを奪い取っている、という具合である。

それで、結果的に売れると相成る。広告したから売れるかどうかはまた別かもしれないが、端から目的は注目させることにある。

酷く挑発的な広告を出して衆目を集める炎上商法というのも、端からの目的が先鋭化した結果か、もしくは狙っているのだといえる。

広告に対しては、我々は抗告しなくてはなるまい。※本当に抗告しないように


時間とはつまり、エネルギーだと言える。時間がエネルギーであるという理屈は、別に拙独自のものではないことをお断りしておく。

ついでに言っておくと、ここでは「物質自体がエネルギー」とも書いている。こういうことを現代社会に向けて言い出したのは、アインシュタインであるとも。


坂の上からボールを転がすとする。坂の下まで行くと、かなりの勢いが付くだろう。下り切った先が上り坂なら、ある程度登ってしまうぐらいに。

そんな坂道だから、下の方から転がしても勢いが付くだろう、ということにはならないのは常識ではある。

何を馬鹿な、と思われるが、ピサの斜塔での実験がなされるまでは、木の玉と鉄の玉を同時に落とすと、重い鉄の玉が先に下につくに決まっている、というのが通念だった。


坂の下の方からでも、上から転がしたのと同等の勢いをつける方法はある。手を放して坂道に任せるのではなく、ボーリング宜しく、転がせばよい。

ボールにとっては、上から時間を掛けて転がるのと、人の手によって勢いづけられたこととに、違いはない。


ボールが坂道を転がる時間によって得たものはエネルギーであり、人の手によって転がされてついた勢いもまたエネルギーである。

つまりは、「時間を奪う」というのはエネルギーを奪うということに相成る。


人が人から「時間」を奪うのが、大なり小なり生業となっているのが世の常と言える。

端から人間は疎外されていたのだと思わなくもないのである。


では、そんな世の中でどうしたらいいのか?と考える人もいるだろう。


多少奪われても気にならないぐらいに頑丈になる、というのもあるとはいえる。

とはいえ、一朝一夕でなるものでもない。これもまた「時間」が掛かるであろう。

頑丈というより、柔軟な方がよろしいのだが、言葉の綾である。

だが、柔軟だろうと頑丈だろうと、人は疲れてしまうもの。


そうい時は、SNSの頭三文字に掛けて、この三箇条を志すとよい。

S:さしあたって

N:なにも

S:しない


三箇条というより、ただの文章であるが、SNSの三文字に掛けたかっただけである。

逆の三箇条も出来る。やはり同じく、ただの文章である。

S:せかせかと

N:なにかしようと

S:してしまう


時間を奪うツール(例:Facebook)に向かって奪われた時間を取り戻そうとすればするほど、余計に奪われるという悪循環になる。

この逆の三箇条(仮)を感じたら、前述の三箇条(仮)を思い出すのが、「時間」を取り戻すのに打って付けであろう。


疲れた時は休んで「時間」を取るのが一番である。SNSをどうぞよろしくお願いいたします。


では、よき終末を。




炎上する世界とその薪

2019-10-25 | 雑記
前回、「ガシャドクロが世界を燃やし尽くす」などと書いた。

こう書くとまったくもって意味不明になるが、そこは気にしない。

しないと言いつつ、敢えて要約すると、「世の中が急に変わると、殿上人だけでなく、下々も困るかもしれない」というだけの話である。

真逆と書いてまさか、と本当に振るのかは知らないが、まさか人を騙くらかして良いはずがない!と義憤の声かは分からねど、そういう声が多く聞こえてくる世の中ではある。


その点については、冗談めかして前回にいくつか書いた。別に参照してもらう必要はない。


所謂陰謀論という立場の寒天、ではなく観点から述べるとすると、政府やらそれらを操る悪辣な存在は、一般大衆には知らせていない秘密を握っていて、世の中を恣にしているのだ、と読みにくい漢字を書いたので改めて、ほしいままにしているのだと。


ほしいままに出来ているのかどうかはともかくとして、何故秘密にするのか?を少し考えてみよう。

一つ。分かり易いところだと、悪行の隠蔽。
よく言われる話ではある。個人でも悪事が露見しそうになったら誤魔化そうとするものである。わたしはしない!とかいう話は水掛け論である。

二つ。例えばになるが、軍事機密などは秘密にする。
単純な強みは見えるようにするとしても、弱みは見せるわけにはいかないだろう。
裏表のない友人関係ならばともかく、魑魅魍魎跋扈する世の中は、今も昔も続いているのだから。

三つ。二つ目に被る部分もあるが、広まってしまうと収拾がつかなくなる恐れがあるからというもの。
オカルト方面からの陰謀論などでは、魔術を使って世の中を操作している、という具合の話をしている。
それで、魔術というものは全て悪辣なものだ、という、まるで中世の魔女狩り時代と同じ論法で語られていることも多い。
これが時代の最先端だと、その方面ではない陰謀論者が自慢していたような気がするが、それはともかく実際は時代錯誤である。

拙としては、どれもこれも有るだろうと思っている。三つしか出さなかったというより、パッと思い浮かばなかっただけだが、他にもあるだろう。


前々からここをお読みの方には言うまでもないところだが、そういった悪行三昧の存在として、陰謀論方面から親の仇のように非難されている人物の言葉を書いておく。

「人が意識して行うことは全て魔術なのだ」と。

その人物の名は、アレイスター・クロウリーである。

善人であるかは別として、高名を馳せた稀代の魔術師である。


これはつまり、魔術師という存在にとっては、魔術師だからというのもあるが、この世の中で人を動かしているということ全ては魔術なのだと。

魔術師だから、と書いたが、例えば日本語では犬というが、英語ではDogになるのと同じだと思えばいいとしても、他の概念に思い当たる節がない。

ないが、秘教的なものや、種々の宗教の究極なども、同じようなことを言っていたりはする。

東洋だと万物の根源は気である、つまりは気で出来ていて、修行によってそれを扱えるようになるとしている。

万物の根源を自由に扱えるというと、つまりは奇跡のようなことを起こせたりするとなる。

論理は違うが、魔術と呼ばれているものも、同じような道筋を辿っている。


釈迦も物質については、似たような事を発見している。

物質はカラーパという、これ以上小さく出来ない粒からなっていて、この粒は生成と消滅を繰り返しているという。

意味と言い方が似てるから、日本語のこれこれは海外のこの言葉から来ている、というような説が一時期出回っていたが、からっぽの元かもしれない、などと思ったものである。


こういうのは、そういう突き詰めた人だけが出来ているので、関係ないと思われるだろうが、出来ないと思っている時点で、もう出来ないのである。

これもまた、「意識して行」った結果だからである。とはいえ、意識したら目の前に飯がいきなり出てくるとはならないのが、この物理世界ではある。


一口に意識と言っても、色々ある。奇跡を瞬時に引き起こすほどのものもあれば、単なる偶然のように思われる程度のものまで、千差万別とはいえるが、それはつまり、力の大小や働かせ方の違いなどしかない、同じものから来ているのである。

同じと言えるが、区分はある。ユングの心理学辺りが有名で、分かり易いだろう。大雑把に三種類に分かれている。興味のある方は、お調べいただく。


さて、話が飛んでいるように聞こえるだろうが、こういう結論を下す。

政府やら秘密組織が悪辣な陰謀を働いているというのを口汚く罵るというのは、実はその対象と自身を同化してしまっているのである。

何故なら、世界というものは、あなた無しには存在していないからである。あなたは、あなたという世界を罵倒するという、つまりは天に唾する行為を繰り返していたに過ぎないのである。


ガシャドクロを公表するかどうかで世の中がひっくり返るかどうかは判らないが、それが紛うかたなきものだとするならば、単純に学術的な話だけでも、権威が権威に胡坐をかいていただけなのがバレる可能性は高い。

学者によっては席を失うだろうし、公的教育機関も相次いで混乱するのは目に見えている。

隠すのは当座しのぎという奴でしかないとしても、これを隠すなと、隠す奴は泥棒だと口を極めて罵ったとすると、それが文字通り口火となって、ガシャドクロは炎のガシャドクロへと変貌するであろう。

ガシャドクロに火をつけてしまったあなたともども、「世界」を焼き尽くすことになるのやもしれぬ。

前回は隠そう(焼こう)としたら燃えて、大変なことになるだろうという意味合いで書いたが、上記は向きが違っている点をご了承願う。



言うのもバカバカしくはあるのだが、魔術だのガシャドクロだの政府やら権威に胡坐かいてるだのと、ある程度具体的な言葉を示したのだが、これらに纏わることを非難するな、という意味ではないことをお断りしておく。

また、褒め称えよ!末代まで崇め奉れ!というわけでもない。

魔術と聞いていい顔をする人はまず少ないし、また逆に学者が言っていたといって不審な顔をする人も多くはないだろう。

ガシャドクロと聞いたら、江戸時代の浮世絵を思い浮かべるのは結構である。


あなたという世界を炎上させる薪は、地下に埋まっているガシャドクロだけではない、ということをご理解いただければ、それでよろしいかと存じる。


では、よき終末を。


ガシャドクロは荼毘に付せられるか

2019-10-21 | 雑記
先日、「いつもの話で詰まらないから、昔のゲーム実況動画でもどうぞ」と書いたら、そのページにアクセスしている方が少々おられたようである。

といっても、某元陰謀論者と共謀したラヂオ(という名称)の方であった。

ご注意を。真実を具体的に語るというのは、事実どまりであって相対的なものに過ぎないことを。

語り部の良心の有無すら関係なく、まがい物に堕する危険性を常にはらんでいる。


などと脅かしておいて、続けることにする。


以前、日本のどこかでガシャドクロが見つかったようだ。

しかし、機能停止状態で土に埋まっていたので、ごく一部を除いて危険性はなかった。崖から崩れてきて潰されるとかいう現場での危険は別として。

ガシャドクロってなんだ?というと、古来から語られている大きな人の骸骨の姿をした妖怪のことで、ついにその存在が確認されたのである!!


とまあ、一部本当の話で、ガシャドクロの証拠ではないが、ご存知の方もいるかもしれないとはいえ、一連の流れを記す。


3.11の後かそれとももう少し近年の大雨の時だったか、とある地域の崖がごっそり削れて落ちたという事件があった。

直後のテレビニュースの報道で、その崩れた崖をヘリから映した映像を流していたのだが、そこにとんでもないものが映っていたという。

それは巨大な人骨で、人が立っていても豆粒のような距離になる具合でありながら、詳細に形が見て取れるという代物であった。

どうしてそこで何も引っかからずに、というのも、放送する時は嫌な言い方をすると「検閲」をしてから映像を流すのに、生放送でもなかったようだが、そんなものが映りこんでいたのだとか。

後日、これはいけないと現場も思ったのか、同じ上空から改めて映した映像には、巨大人骨のあった場所に、これまた大きな青いビニールシートが被せられていたという。


それでちょっとした騒ぎになっていたことがあった。ありゃなんだ?と。しかもわざわざビニールシートなんぞ被せ直してるのは余計に変だと。ただの崩れた崖に無意味にかけるものではない。

後にマスコミ側が、ネットに拡散されたその映像に対して述べた見解はというと、「個人がいたずらでつけたもの」であった。

世の中に、ジョーク画像というのはあるが、そういうのはただの切り貼りであり、実際にニュースを見た人や録画で気づいた人も多数いたと思われる。

その上合成としてもただの切り貼りではない具合な上に、合成するにしても個人で作るにしては手間のかかる代物で、尚且つジョークで出すにしても悪趣味であり、紹介された理由も冗談のためではなかった。

あれは妖怪ガシャドクロです、なんぞと現代人が言ったり信じたりはしないだろうから、マスコミがそういうわけにもいかず、「個人のいたずら」ということにされている。


さて、話をガシャドクロとか言って書きだしたところに戻る。

「一部を除いて危険はなかった」と書いた。

だが、これは嘘である。場合によっては皆々の生活にとても影響が出る恐れがある!!


何故ならば・・・真実が広まるというのは、決していいことばかりではないからである・・・。


思想家の呉智英が昔出した著作の「はじめに」に当たる部分で、中学生のころだかに修学旅行で広島に行った話を書いていた。

原爆資料館の入り口に、「心臓が悪い方や妊産婦の方など、負担がかかると危険な方はご遠慮ください」という、よくある注意書きをあまり気にせず読んで、原爆被害の生々しさを堪能してきたそうな。

しかし、後年(その著作を書く前に)思い出して、はたと考え至ったのが、原爆資料館の入り口で読んだ注意書きであった。

それはつまり、皆が皆、真実を受け取ることは出来ないのだということに思い至ったという具合の内容である。


馬鹿な!真実を隠しているなんて既得権益がどうたらこうたら!という意見は確かにそういえるが、ならば、その既得権益は、例えば上記のマスコミだとか、地下から出てきた古い物なら、考古学の分野になるだろうし、いわゆる陰謀論なら政府がとか、なんたらの陰謀だとかになるが、果たして、そこにしかないのだろうか、と考える。


まずはテレビの話にしてみよう。

崩れた崖からガシャドクロが見つかったと。ガシャドクロは仮名だが、面白いのでこれで行く。

上記のニュースから派生して「世紀の発見だ!」とテレビや新聞や雑誌も騒ぎ立てたとしよう。

では、今まで某国営放送でドキュメンタリーだとか教育番組で流していた内容はどうなるのか?

彼らや我々が学校で習っていたことは無意味だったとなる。なら、無意味なことを信じ込ませていた彼らはどうなるのか?

もはやその権威は地に堕ち、新聞は売れず、テレビは総スカンを食らい、広告料ももらえず相次ぎ倒産となる。

日本の意見を代表していないのに代表していると標榜している新聞なんかが無くなるわけだ。ついでに別の新聞もなくなるし、新聞社が抱えていたテレビ局もなくなる。

すると、それらに関係している業者も全て潰れる。輪転機(新聞を刷る機械)は、某宗教団体が回してくれるとしても、あれらもマスコミを抱えているので、影響がないわけではない。

今まで羽振りがよかったお客様がこぞって消えていったので、お店も閑古鳥が鳴く。

世の中恐慌状態に陥り、ますます某宗教団体だけでなく、魑魅魍魎跋扈する新興宗教界隈から百鬼夜行が起こるであろう。恐ろしや恐ろしや。



テレビ、といいつつ付随した話にもなったが、テレビというよりマスコミからの影響という点になった。

次は地下に埋もれていたという点で、考古学だとか歴史学の方にしてみよう。


いわゆる「心ある」学者が、ガシャドクロの考古学的歴史学的重要さをアピールし、大々的に研究を始めた。当初は乗り気でなかった学会も、研究が進むにつれて、ことの重大さに気づき始める。

というのは、今まで胡坐をかいていた権威が、ガシャドクロが見つかった崖のように崩れるからである。

もし、今までの業績が全て覆されたら、今までヘコヘコと権威に従ってきてようやく成ることが出来た教授や学部長の地位も危うくなり、尚且つ恩師の業績に泥を塗ることになる・・・!

これは消さねばならぬ!ということで、その「心ある」学者が派閥でないことを奇貨とし、八方手を尽くして闇に葬るのである。派閥だったとしても、恐らく関係なく。

恩師の業績云々は、人並みの良心と情状酌量しておくとして、闇に葬られなかった場合、これらは教育界にも波及する。

教科書は全部書き換え。現代ならネットで先に広まってしまうので、すぐに切り替わらない学校教育は、教師は下手をすると子供から馬鹿にされて、学級崩壊が加速すること間違いなしである。

すると、ストレス発散に激辛カレーで同僚後輩をいじめる輩が増えて、もはや教育界の権威は地に堕ちるどころか見つかる前のガシャドクロの如くに埋もれるであろう。

まあ、そのようなものは後年見つかっても、誰も見向きもしないだろうが。

学校が潰れれば、これまたそこに教科書を卸していた出版業界にも多大な影響が出て、歴史学や考古学で著名な大学は振るわなくなる。

進学率は下がり、低収入の人が溢れかえり、お店も閑古鳥が鳴く。

すると、「これを祈れば幸せになれるよ。一緒に頑張ろう」と誘いに来る人も誘いに行く人も増える。恐ろしや恐ろしや。


このノリで政府については、と書こうと思ったが、流石に呆れてきた。飽きたというより呆れた。少し短くして書く。


お店は閑古鳥が鳴くので、税収が下がる。仕方ないので消費税アップ。腰が重いのが取り柄の政府は古今を問わず抜本的な対策を取らないか取れないので、仕方なく(財務省は喜び勇んで)消費税やら酒税やらタバコ税を上げていくしかないのである。

時の総理は思い悩み、血迷ったのか、ガシャドクロの公表に至る。すると、ガシャドクロ特需とでも言うべきフィーバー状態になり、一躍時の人となった。もしくは炎上。

ガシャドクロが好評だったのでと、別のものを公表しようとすると、二匹目のドジョウならぬガシャドクロはいなかったようで、世間は何事もなかったかのように忘れていった。


これはいったい、何を書いているのか?それはともかく。


海外でもガシャドクロが見つかっており、彼の大英博物館にもいたらしい。

といっても、前述の如く、機能停止状態だったので、バラバラにして収蔵していた。

実際に出土して博物館の収蔵品として、公開されることはなかったが、倉庫にしまわれていたそれを公表するわけにもいかず、なんと捨て始めていたという。

それで、当時働いてたある学芸員が捨てられる前に一部を秘匿し、訴えを起こしたという。数年前にそんな話が出ていたようだ。

その報のまた聞きという奴だが、報が出ていた次の年に判決が下る予定と聞いた。続報は知らないが、お店に閑古鳥が鳴くと困るので、その学芸員の訴えは退けられたと思われる。


閑古鳥は恐ろしい。真実なんぞ覆してしまうのだから。


さて。冗談めかした話だけでは飽きてくるだろうし、既に飽きているだろうが、少しだけ丁寧に話を続ける。


今から何十年も前。南米のペルーのイカという場所で、奇妙な石が見つかった。

様々な大きさの石に、何やら彫り込まれていて、ある医者は診療に行った際、お土産にいくつか貰ったという。

よくよく見ると、現代考古学ではあり得ない事柄が記録されており、話題になったのだが、当時は新聞にこう書かれた。

「あれは地元民が作った、意味のない偽物」と、それを作ったという地元民の証言も載せた。

のだが、実は軍まで動き出して、隠蔽していたというのが、その石を貰い、奇妙なことに気づいて研究し始めた医者のインタビューやら取材で発覚したという。

とはいえ、無駄に騒ぎになって混乱しないように、という配慮だったようだが、詳細は忘れた。

そのドキュメンタリー本の翻訳版が、引っ越し前まで家にあった。

少しだけ読んだが、前半でそういう話が出てきたものである。

イカの石というものと、そういうことがあったと認識出来ただけで充分と思ったのもあり、全部は読まずに翻訳者のあとがきを読んだのだが、翻訳者は頭痛がずっと止まらなかったと述べていた。

今まで当たり前だと思っていたことが全部崩れていったからだという。そして、翻訳作業の足しになればと、海外の考古学界隈についての暴露本を読んだら、これまた頭痛が酷くなったという。

今となってはタイトルを思い出せないが、その当時は何かでタイトルを見たことがあるその書籍は、海外の考古学が権威の維持のために、真っ当な研究を潰していたことを書いていたという。

やはり、洋の東西を問わず、閑古鳥には勝てなかったようである。

格好をつけようとしてカッコウに鳴かれてしまっては、形無しである。(カッコウは閑古鳥の別名)



権威に座する神々は、ガシャドクロを燃やしてしまおうとしているようだが、それはラグナロクの始まりかもしれない。

その炎は世界を焼き尽くすことになり得るだろうから。

それから後に聞こえてくる閑古鳥の鳴き声は、今まで植え付けられてきたイメージと比べるまでもなく、心地のよいものかもしれないが。


では、よき終末を。


ナショナリズムは国境を越えて

2019-10-11 | 雑記
先月、何かの拍子にジョージ・オーウェルの『ナショナリズムについて』という短編を読んだ。

たまたまたどり着いたサイトで翻訳文を読んでいたのだが、サイト運営者が書いているにしては時間が古いのに当時のように語っていておかしいと思い、ページのトップに戻ってみたら、「ジョージ・オーウェル」の名と著作名が書かれていたのに改めて気づいた。

そういえば、岩波文庫か何かの巻末の既刊一覧で、このタイトルがあったような気がする。それなので、仕事が終わっていたのもあって、読んでいた。


誰の発言だったか思い出せないが、「ナショナリズム」という言葉は少し翻訳しづらいという。

国粋主義とよく訳されているのだが、それも面倒になったのか当てはまらないのか、上記の著作名はカタカナである。


一般に国粋主義とするなら別に問題ないだろうが、読んでみると、上記の著作では実際に無理があるなと言える。


なにせ、オーウェルが指摘している作家や政治家は、イギリスの人間でありながらイギリスのことを無視して、その人物が理想としている他の国への「ナショナリズム」だったからである。

これを「国粋主義」と訳するのは無理があるだろうと。

例えば、その中に挙げられたある人物の言動は、何で読んだか思い出せないが、同じことを指摘していたことを思い出したものである。

誰で何の話だったかは忘れたが、端的に言うとこうなる。

イギリスが戦争か何かで常軌を逸した行いをしていたのを糾弾していながら、その人物が心の中で忠誠を誓っている(らしい)国がまったく同じようなことをしているのを聞いても、無視するという。

そのナショナリズムの分類を示して考察していたり、上記の話なんかは人物や出来事が違うだけで、現代にも当てはまるという点で、実に面白いものであった。

現代日本なら、直近は日韓関係が当てはまる。もっと前で現代にも続いているが、日中関係というのもある。別にそのことを詳しく語る気はないが、一昔前の「韓流ブーム」や、慰安婦問題で日本を糾弾する癖に、ヴェトナムで韓国軍が何をしてきたかは報道しない(海外で人権団体が問題提起しているのに)といった流れは、もしかしたら「ナショナリズム」のなせる業ではなかろうか、などと考えたものである。文字通りのナショナリズムを持った他国人の影響だけにしては妙だと。

慰安婦問題が完全に向こう側の主張通りで反論の余地もないのであれば、ヴェトナム戦争時の韓国軍の蛮行について指弾するというのは不毛だろうとしても、国内はともかくとして、韓国国内でもその主張がおかしいことを発表している学者が現れている状況である。

丁度この記事を書く前に、その韓国の学者が言っていたことを読んでいた。

彼が言うには、韓国の独立は独力によるものではなかった(この辺りは周知の事実ではあるが)ゆえに、その心のスキマを埋めるために神話を作るしかなかったのだという。

そして、それを制する知性と器量を持った政党は今のところ韓国にはない。しかし、三十年もすれば変わるだろうとのことである。

後は自虐かもしれないが、「その時まで韓国が存続していれば」と。


三十年。日本の法律などでも成人は二十歳ということになっているが、生まれた子供が大人になるまでの時間がかかるようである。



この、「独力で為せなかったことの埋め合わせに神話をでっち上げる」というのは、実に興味深い。

小林よしのりが『ゴーマニズム宣言』で指摘していた、現代日本の精神構造にも当てはまるものである。

よくある「今の若者は」という言い草の代物ではあるが、現代日本の場合は高度経済成長期と、達成された後にそっくり受け取ることになった現代の若年層、という括りである。

新興宗教だとか市民運動にハマっていく原因だといっていた。


韓国の学者も小林も同じ言葉を使っていたが、アイデンティテイが脆弱だとか、それに空白があるという。


何にせよ「埋め合わせに神話をでっち上げ」ているといえる。


神話、というと妙に聞こえるので、現代的な言葉に置き換えるとすると、フィクションとなる。

それで、翻訳すると?と聞かれる前に答えるならば、作り話である。


ここでよく語っている言い草に則るならば、現代社会というのは作り話である、というところであろう。


ネット上で本名を晒すのはよろしくないというので、「作り話」で示すが、拙の名前は「山田太郎」であるとする。

だが、これは本質的に「作り話」である。例えで出した仮名だからというわけではない。

あなたは「山田太郎」という名前とそれに付随する経験や記憶に対する解釈を施した、「山田太郎」という「作り話」を生きているのである。

そういう意味では、「山田太郎」という人物は実在しない。

存在はする。しかし、同姓同名の「山田太郎」は、同一人物ではないだろう。百人百様の「山田太郎」が存在することになる。

わたしは「わたし」という「作り話」が無ければ生きていることはないのだが、この「作り話」が全てではないのである。

こういう話は初期仏教が散々語ってきたことなので、特に目新しい話でもない。えー、現代的に言いますとぉ、スピリチュアルとでもいいますかぁ。


そして、前回も語ったのだが、「作り話」は頭の中の話だけではなく、物質自体もだったということである。冗談めかしていうなら、これもまた「作り話」となるか。


パッと「現代社会は作り話」と先ほど書いたが、これは場所や生活様式といった狭義の意味ではないことを、ご理解いただけるかと思われる。

そして、種々の現代社会に存在しうる物事に拘泥することや、あまつさえ忠誠心を抱くなどというのは、オーウェルの指摘していた「ナショナリズム」と大差ないことも認識できるだろう。

具体例は常々書いてきたが、ご自身の経験や記憶に当てはめて類推するのが最も理解しやすいかと思われる。

人は「ナショナリズム」という「作り話」に拘泥していてはならないのである。


「作り話」の向こうがあるなら、それこそ「神話」といえるだろう。

そして、「ナショナリズム」は容易に国境の如きを越えることは出来るが、この「神話」を越えることは出来ない。

何せ越える国境がないので、己で国境を引いては越えて、引いては越えてを繰り返すだけなのだから。


では、よき終末を。


中性の秋

2019-10-08 | 雑記
今朝、仕事の交代をしながら、直接ではなく他の人のやり取りを聞いていたら、「今朝は寒いが、昼間は暑くなる」とのことだった。
まるで夏と秋が同居しているようだなぁと述べると、それを聞いていた相手は「ホントにそうですねぇ」と答えていた。

ただ、曇っているので現時点(昼の二時半ごろ)では涼しくはない、という具合である。家が熱のこもりやすい構造なのもあるので、外の方が涼しいのかもしれないが。


というわけで、今だに折々に触れて繰り返している話をまたやろうと考えている。


サル、ではなく然る翻訳家がどうこうという話である。

彼の人物は、今はその相棒が表立って更新しているHPはあれども、本人は恐らく登場していないようで、農業専念しているようである。

その話をものすごくかいつまんで喋る機会を得てしまい、少々書き散らそうというわけなので、見飽きた人はずっと昔のゲームの実況プレイ動画でもご覧いただいた方が楽しいであろう。ブログをずっと遡れば埋め込みで入れてある。このブログのリニューアルで使えなくなったとかがない限りは見れるだろう。

それはともかく。拙が何を言っているのか、もしくは考えているかの復習となり得ると思うので、しばしのお付き合い願う。


然る翻訳家が翻訳した、海外の活動家の啓蒙本というのがある。

その主張を掻い摘んで言うと、「物質は幻で、普通の感覚ではつかみどころのない潜在だとかの意識が人間の本体だ」というものである。

物質が幻?御冗談を。という方も多いだろうから、その本にあった内容も併せて書いておこう。

まず、その本には無かったと思うが、かのアインシュタインは『相対性理論』において、こう主張している。

「物質とエネルギーは同質である」と。

申し訳ないが直に読んだわけではない。とはいえ、この手の話を書いているところで、そう引用されていた。

エネルギーと形容される状態というのは、物質とは言えないだろう。

石ころが転がるとき、その転がる力は何かの物質と言えるだろうか?何かの物質が原因だとしても、転がり続ける理由になるだろうか?

火あぶりにされて驚いて動いたとかいうメルヘンな理由があったとしても、火から離れればもはや関係はない。

案外、本当に火あぶりに驚いたのかもしれないが、それは措くとする。

そして、上記の啓蒙本の話では、最先端の物理学の見解を引用していて、ほぼ同上となる。

物質というものを細かくしていくと、行き着いた先はモヤのようなもので、確たる形のない状態だったという。

そして、このモヤのようなものは、人の意識でもって動きうるというのが、物理学の見解なのだと述べていた。

完全に制御できる、とは言っていないが、それが出来たら出来たで、色々と困るだろう。

それ故に、例の海外の活動家は、人の本質は物質にはなく、意識なのだと言っている。

これが、その著作の主張である。


ただし。それらのことを理解するには心身の感覚が健全でなければならないのだが、それらを阻害する働きの物質(例:アスパルテーム、グルタミン酸ナトリウム)だとか設備(例:WiFiなどの電波や特定の周波数に調律されたテレビやラジオから流れる音)を広めて人類を牢獄に閉じ込めているのだという。

この部分は陰謀論と括られる部分だが、人間の本質についての論はスピリチュアルだとか精神世界というカテゴリになるだろう。


一読しただけでも、すぐ上記からさらに上記の内容に繋げて論を展開しているというのは判るものだった。


のだが、何を思ったのか、然る翻訳者は、本質に向かうために気付いてほしいこと(前述の人類を牢獄に云々の箇所)が全てだと主張しだしたのである。

そしてさらに、「彼の言っていることは昔から言われてきたことに過ぎない」とまで切って捨てた。

(何かの基準や戒律などによる)正しい食事と生活をすれば、人は正しく生きられる、というのもまた、昔から言われてきたことに過ぎないのだが、そこには思い至らなかったらしい。

こういえば勘違いされることが世の中多いのだろうが、そういう生活は無駄だから辞めろと言っているわけではない。

乱雑で投げやりな生活をするものに、慎重さを求めるのは無理だというのは言うまでもなかろう。


例の啓蒙本の話から例えるなら、こうなる。

「有害な食品添加物や電波や周波数を避ける生活を志すというのはよろしいが、それが出来たことと本質に到達するのは別なのだ」と。

件の活動家は、ニューエイジャーに世界の危険さを伝えに行ったそうだが、「そんなネガティブなことを聞かせるな」と、まったく相手にされなかったそうで、こう述べている。

「健康だからといって、判るわけではないのだ」と。


物質を覆すことは出来ない、というのは常識のようだが、実際はこれ自体が思い込みというものである。

だったら今すぐ金塊でも出して見せろ!というのもまた、常識的な反応であるが、物質界隈のみが全てだと思い込んでいるからそういう反応になるというわけである。

もうこの時点で受け付けない人は受け付けないだろうが、構わず進める。


我々の人体は数多の細胞で構成されており、その細胞もまたアミノ酸だとか炭素だとかの細かい物質で出来上がっている。

さて、既に述べたが、物質の本質はモヤのようなものだと。

例えばナトリウムなら、空気に触れると激しい酸化反応を起こして、量によっては爆発する。

これがナトリウムの本質となるが、それもまた本質ではないことになる。

ナトリウムをナトリウムたらしめているのは何か?人を人ならしめているのは何か?

もっと具体的に言えば、そのモヤをこねてこの世を作り上げたのは何か?という問いかけが必要なのである。


判らないから問いかけるのが、人に必要なことである。それは、判ろうとしているからである。

そのモヤをこねてこの世を作ったのが神だというのなら、我々は神とは何なのかを判ろうとすべきである。

判ろうとするというのは、その対象と同じになるということなのだ、というのを何かで読んで、以前にもここで書いたものである。


話が少し戻るが、物質が意識で動くというのなら、金塊でも出せるのか?というと、実は出ているのだそうな。

どこに出るのかというと、一般でいう「あの世」には出ていると、とある専門家が語っていた。

「あの世」には出ているのだが、物質化するには時間や砕けた言い方だと気合が欲しかったりと、一筋縄では行かないのであるという。

それをどうしていくか、というのをセミナーを開催して教えている人が、そのとある専門家なのだが、これは余談である。


判ろうとするのを辞めた時、それは堕落の始まりである。

鰯の頭も信心からというが、つまりは堕落しているといえよう。から、なので、その先を含めている言い方ではあるが。

鰯の頭を拝めば万事解決!などとやっていたら、鰯の頭も困って頭を垂れてしまうというもの。



人もこの世にも、本質的な善も悪もないという。ただ、バランスを欠いているのだという。

酸性でもアルカリ性でもない、中性がよろしかろう。

丁度、夏と秋が混在するような天気である。『中世の秋』ならぬ、「中性の秋」とでも名付けよう。

葉の色が変わりかけている木々でも眺めながら、思い起こして戴ければ幸いである。


では、よき終末を。


激情のイドラ

2019-09-18 | 雑記
久しぶりに「イドラ」という単語を聞いた。

どこかで聞いたような?としばらく悩んでいたら、フランシス・ベーコンが提唱した論説に、イドラという言葉が使われていることを思い出した。

とはいえ、カタカナでグーグル検索をしたら、とあるゲームのタイトルが飛び出してきたりはするので、スペースを空けて意味とでも一緒に書いて検索した方がよろしかろう。

実を言うと、その「イドラ」だけで検索した時に我が家のブラウザですぐに飛び出してきたというゲームがきっかけだったりはする。


ついでなので、その話も少ししよう。

『イドラ ファンタシースターサーガ』というのが正式名称で、通称「イドラ」(以下イドラ)という、セガのスマホ向けのゲームである。


冒頭のこんがり焼かない方のベーコンのことはすっかり忘れていたので、「イドラって蛇の化け物かな?」と、ごちゃ混ぜの想像をしていたものである。ヒドラと言いたいらしい。

ファンタシースターと名前にあるが、それはセガのRPGシリーズのことで、その一環となる。昔のシリーズと直接の繋がりがあるわけではなく、こちらも配信中のオンラインRPG『ファンタシースターオンライン2』(以下PSO2)との繋がりがある。PSO2側と繋がりがあることを具体的には謳ってはいないようだが、話を読み進めると、どういう繋がりかはまだ不明だが、明らかに示唆している設定があったりする。その辺り(PSO2側との繋がりなど)は詳しくは聞いていないので、勘違いかもしれないため、ここで書いていることを信じ込まないように。ただ、繋がりがあるようなシナリオの上の示唆は確認している。

そこはただのついでの紹介ではあるので、読み流してもらうとして、何故フランシス・ベーコンを思い出したのかに続く。

しかし、もう少し設定について説明しなくてはならない。

イドラの舞台は、とある架空の惑星上にある、イメージとしては中世ヨーロッパ風のファンタジー世界となっている。

トールキンの『指輪物語』のような、具体的に言えば耳がとがっているエルフだとか、獣が二足歩行しているようなのとか、機械の体の種族だとかが混在している世界である。

種族間の軋轢もあるが、さらにもう一つ、それらを大きく二つに分かつ陣営とでもいうものがある。

ロウとカオスといって、思考様式や価値観のの違いで反発しあう状態にある。

この二つの内容は説明するまでもない(ほぼ名前の通りといえる)が、お互い水と油のように反目しあっている世界なのである。

プレイヤーの分身たる主人公は、そのとちらでもないニュートラルという立場で、上記の二つの立場を超えて集まった仲間達と共に、かつて世界を滅ぼしたという存在に立ち向かっていくという流れである。

かつて世界を滅ぼした存在、というのは、ファンタシースターシリーズだと決まった名前の大ボスが大体いる。

「ダークファルス」という、いわば邪神とでもいうべき存在である。シリーズによっては必ずしも最後に倒すボスではなかったりはするが、大体ラスボスである。

恐らくは「ダークファルス」という呼び方以外は昔はなかったと思うが、(イドラからすれば)本家ともいうべきPSO2の影響なのかなんなのか、イドラのダークファルスにも個別の名前がついていた。

ダークファルスなんたらと、PSO2の方でも何体(邪神なら柱か?)かいるそれぞれに名前がついていたが、イドラに出てきているのは、ダークファルス テアトルと名乗っていた。

マリナーズ?そりゃシアトルだ、というダジャレは却下して、英語で読めばシアター、つまりは劇場である。

邪神だが、人と話すことも出来(出来ないと文字通りお話にならんからとして)、こんな風なことを言っていた。

「ロウとカオスが争い続けている理由を考えた人間はいない。親や国家だとかの権威にそうだと最初から教え込まれていて、誰も疑ったことなどないからだ」と。

ようするに、その「テアトル」という名前と、尚且つ上記の内容のセリフを聞いたから思い出した、というだけではある。


では、ゲームでない方のイドラの話に進む。


Wikipediaで調べるだけで十分な内容ではあるが、「イドラ」というのはラテン語で「偶像」や「幻想」を意味する言葉である。そこから転じて、偏見といった意味でも用いていたように思うが、申し訳ない、うろ覚えである。

偶像という意味から想像できるように、「アイドル」の語源でもあるようだ。ただ、日本語の偶像という言葉の原義は、木石で作られた像の事ではある。

イドラ自体は複数形の言葉で、単数形もあるが、そこは特に関係はない。


ベーコンは、人が人のままではどうしようもない理由が、「イドラに囚われているから」ということで、四つのイドラを分類して提示した。

一つ目は自然のイドラ。人の生まれ持った自然と思っている状態から形成されるイドラ。

二つ目は洞窟のイドラ。上記から形成されたイドラでもって培う個人的経験などで形成されるイドラ。

三つ目は市場のイドラ。(上記の状態の)人が集まって、憶測だとかでお互いに吹き込みあったりして形成されるイドラ。噂話なども当てはまる。

四つ目が劇場のイドラ。国家や宗教といった、権威によってもたらされるイドラ。


ベーコンは、人が真理に到達するためには、これらのイドラを克服すべきだということを提唱したとのことである。


タイトルがイドラで、ボスもしくはキーパーソンの名前が「劇場」。そして、「イドラ」に囚われた人々の紛争(ロウとカオスの軋轢)。

ベーコンがいうイドラの話を下敷きにしたのだろうなという所である。


このイドラというものは、目に見える形のものもあれば、見えないものもある。


考えているだけのことなら、行動に現れていなければ見えないことが普通なので、どちらにしても見えないといえるが、ともかく。


アリス・ミラーという心理学者が、ナチスの総統、アドルフ・ヒトラーがどうしてああいう言動に至ったかを、自身の治療体験を基に分析したというのを、かつて何度か紹介したものである。

とはいえ、ヒトラーが幼少のころに虐待家庭で育っていたというのは「俗説」と言われている。絵の勉強で下宿生活をしていたが、カフェでケーキを食べながら本を読んだりしていたとかいうらしく、私見だが、フロイトの精神分析なんかでよく指摘されている難点で、記憶をでっち上げてしまうというのが多いというので、その記憶はヒトラーを独裁者に仕立てるためのいわば洗脳だったのかもしれない。
ヒトラーの実家の村に自分を称える碑を建てられたというので腹を立てて、恨んでいたという父親の墓も諸共その村を潰したというのは、若い頃の呑気ともいえる生活態度からは少し想像しづらい。

それはともかく。

アリス・ミラーの話をおさらいすると、こうである。

幼少のころの虐待経験によって、歳長じた時に、当時晴らせなかった恨みを下(当時の無力だった自分と重ねた対象)にぶつけることで晴らそうとするが、決して晴らすことは出来ない、というものである。

この論は今でも陰に陽に立ち現れる。

その当時も書いたが、父親がアルコール依存症で荒れていた家の娘が結婚した時、その夫に向かって過度にアルコール摂取を止めようとするあまり、アルコール依存症にしてしまう、という流れがあるという。

無論、本人はよかれ(幼少のころに見た父親の姿を重ねているだけなので、余計なお世話だが)と思って行うのだが、結果は無惨となる。


本来は酒を止めるべきは父親だったのだが、その相手は目の前にいない。そして、当事者ではない夫を当事者にしたて、無意識に当時の無念を晴らそうとするがあまりに、過去の因果を蘇らせてしまう。


アリス・ミラーがいうには、こういう心理の背景は、社会的な環境、例えば政変などの不安などもあるし、過去の先祖が被った瑕疵が原因となったりする。

かつての先祖のトラウマなどとなれば、自覚しようがない。普段の意識のままでは理解できない理由でもって突き動かされているからである。


どこかの陰謀論者が過剰に不特定多数の他人、つまるところは一般人を無能だのと罵っていたとよく書いたものだが、その理由は恐らく、そういう虐待を誰か、もしくは何かに受けていたか、その手の知識を仕入れた際に、自分が無能だったと深く傷ついたが故なのだろうと考えられる。

その手の知識を仕入れた際に深く自分を傷つけたというのなら、やはり、原因はもっと過去にある。それもまた、習性であるからだ。でなければ、ミラーの説通りであるとしてだが、そうはなるまい。


つまらない然る個人の話は措くとして、近日、日本とかなり物理的に距離の近い国との間で騒がしくなっていることは、聞き及んでいるかと思われる。


そのことについて、何故か?と思いめぐらせていたところ、思い出したものである。


余談のようだが、一昔前に、その韓国であったという話をする。


現代の韓国人、恐らく北朝鮮もだろうが、その先祖は実は移民だったという。

日本も、太平洋から渡ってきた人達がいたらしいとかなんとかあるので、いわば移民の国だが、縄文以前の話である。

比較的近年に、中央アジアの方面から流れてきた、エベンキ族という人種が無人になった朝鮮半島に移住し、それが李氏朝鮮の先祖だったという。

それ以前の、例えば当時の日本が支援していた百済は滅び、敵対関係だった新羅もその北にあった高句麗に滅ぼされている。西暦二百何十年ぐらいの時代である。詳しくは歴史の教科書でもご覧あれ。

さらに時代が下り、高句麗の後継だった高麗も滅び、朝鮮半島は無人の野となる。そしてエベンキ族が移住し、その後に李氏朝鮮が出来た。

所謂韓国の歴史は、李氏朝鮮時代からであって、それ以前は現代韓国とは関係なかったという。

それで、かつて韓国の作家がそれを調査して出版したところ、ビニール本にされてしまったというのである。

韓国人の作家が朝鮮民族の先祖の話を書いてそんな目にあったのは本当だが、上記の歴史についての記述はいつも通りうろ覚えなので、詳しくはご自身でお調べいただく。

今の今では知らないが、その話は当時、タブーだったのだとか。公然の秘密という奴だったようだが、それなりの知的水準の地位にあれば、尚更言うわけにはいかないのだろうというのは、昨今の事情を何となく見てても察せることかと思われる。


では、どうしてあのようなどうかしたかのように突っかかって来るのだろうかと、その理由を考えた。


民族が移動するとしたら、どういうことかを考えてみよう。

近年でも、独裁政治で紛争状態になり、住んでいたところを追われて難民化するというのがある。

つまりは、環境の悪化により、定住できなくなるが故の、受動的な移動。無理やりどかされたというわけである。

もしくは、コロンブスの如く新天地を目指して行き着いた、というのも考えられる。

先ほども少し触れたが、日本人の先祖が海洋民族だったという説があるようだが、そうだったとしても、理由まではわからない。


地球人全員がコロンブス(彼が実際どう考えていたかは知らないが)なわけがないので、民族が移動する理由は、前者であったろうと考えられる。


現代の朝鮮半島に住む人たちの先祖が移住して来たのも、そうだと思われる。当時の志那の王朝による、同化政策として連れてこられた、というのも考えられるが、そこは分からない。


そういう民族的な不満は、訳も分からず個人を苛んでしまったりする。

これがかつての志那の王朝のせいだったとしても、今の中華人民共和国は関係ないので無意味となる。漢人の王朝は現代を除けば明の時代が一番新しい上に、漢人の王朝は数えるほどである。

そこで、少し前に「やり方を押し付けてきた」日本の出番となる。

大昔の誰のせいかは分からないが、状態は同じだといえる。そして名前が分かったというより決めることが出来たので、それでかつての恨みを一緒くたに日本にぶつけているのだと考えている。

「江戸の敵を長崎で討つ」というのがあるが、そういう状態なのではなかろうかと。


ベーコンはイドラを四種に分類した。恐らく、分類するだけならもっと細かく増やせられたのだろうが、四に意味があるのだろうと思われるとしても、さらに一つ、掛詞的に五つ目を提示する。分類を増やしました、というわけではない。



四種のイドラを克服することによって真理に到達できるとするならば、繰り言だが、イドラは幻想という意味があるので、幻想から離れられるといえる。

なら、その四種のイドラを嵩じればどうなるだろうか?

それは、劇場ならぬ「激情のイドラ」とでもいうべき怪物を生み出すのかもしれない。

上記で紹介したゲームの方のイドラは、「イドラ」と呼ばれる大きなモンスターがいる。その「イドラ」は、ダークファルスの眷属と呼ばれている上に、その世界ではそれに変身する力を有する人もいるという設定である。敵として戦ったり、プレイヤー側もイドラになって戦ったりする。


怒りは自他を滅ぼす。様々な宗派でもほぼ共通して言われるほどである。


ゲームのイドラの設定で、ダークファルスはかつて世界を滅ぼした存在だという。

怒りが自他を滅ぼすのならば、激情のイドラは、またの名をダークファルスというべきかもしれない。

あなたが目に見えていると思っているものだけが世界ではないのだから。


では、よき終末を。



超人歓呼して不全を為す

2019-09-06 | 雑記
最近、というよりいつものことだが、何かにつけて飲んでしまうため、何か思いついても書くのを忘れる始末。

その割には以前よりもプレビューは増えていたりと、少し不思議ではある。


先日は知り合いにふと思いついて、二時間くらいかけてケータイのメールで認めて送ったところ、後日に返信があった。

あったのだが、知り合いは大変な状況だったため、ご自身の状況を述べるに留まった。

何があったのかを書くのは失礼なので割愛する。


というわけで、何を思いついたのかを、掘り起こしてみたいと思うが、書けるかどうかは怪しい。途中で怪しくなってきたら、酒でも飲んで正体不明になる所存である。

姿かたちを変えるのか?というとちょっと違うが、似たようなものだろう。



最早この話しかしていないが、某陰謀論者とつるんでいたことがあった、と書いてきた。

翻訳出版までしていたプロでもある、というと、以前の経緯をご存知の方はピンとくるだろうが、それが誰かは特に関係ない。


さて。その翻訳出版していた本の中で、この地球を牛耳っている存在、というのも、究極に言えば、我々と同じような仕組みで生きていると認識できる人間と呼ばれる存在ではないからなのだが、それらの狙いだとかやって来たことだかを書いている箇所にこうある。「アメリカの工業を破壊」といった具合に。

それからどのように論が展開されたかは忘れたが、つまりは「脱工業化を促進し、アメリカを弱体化させることによって支配を完成させる」ということである。

人間が力を持っていると、支配に都合が悪いからである。その存在(分かり易くいえば宇宙人)は、その原著者の言によれば、「科学技術に偏執している」という。

そんな力を持たず、後ろ盾もない存在(人間)を支配するのは簡単である。

古い言い草だが、未開民族に現代の物品、身近な例でいえばスマホだとかを使うさまを見せればいい。魔法だ!などと言い出すだろう。

これが理解している現代人なら、画面の操作が覚束なくても(拙は持っていないが出来ることは出来る)、超常現象だなどとは思わないだろう。

とはいえ、どうしてこういうものが出来て動いているのかについては、やはり判らないが、それは余談である。


某翻訳者の方の主張は、人間は森に住んでいた生活が正しい!で、果物とか野菜などの植物が一番いいのだ!と言っていたというのも、何度も書いてきた。

そして、こう言いだしたことも書いた。「自然に沿ったものだから、自然に育った肉を食うのは正しい」と。

グラスフェドとか横文字で言う、牛の本来の食性である草で肥育した牛を食肉加工したものを食べていた。

森で果物を食べる生活を志した時に言っていたものだが、「本来の力を発揮できるので、超人になって宇宙人の支配を脱却できる」と言う具合の事を言っていたものであるが、ならば、かつての超人たちはどこに行ったのか?上記の原著者のいう宇宙人は、人間が森で難を逃れる生活を始める以前からいて、ちょっかいをかけて来ていたそうで、超人に戻ったぐらいではどうやら足りないらしい、などというのも言ったものである。

その張任(チョウジン)、じゃなくて超人気、でもなく超人氏は、とにもかくにも目に見える自然と呼びならわす風景こそが地球の本来の姿だと言いたいのだといえる。

そこで問いたい。地球の歴史はよく知られているレベルで結構だが、どれほどあろうか?

何かで聞いた話では、四十六億年という。

そして、その地球が出来た時から森があったかというと、そのよく知られている話からでは、森なんぞ存在しなかった。

いわゆる自然なんてなかったのである。だが、何かの拍子か介入かは分からねど、生命が発生し、現代に至った。

失われた記録と呼ばれるようなものがいくつもあるため(オカルト的ではなく学術的に)、学校で習ったような話でここまで来たのかは知らない。


地球は四十六億年と書いた。実際は知らんが、ともかく長い。少なくとも拙の年齢よりは古い。これでは理屈にもならんが。

では、その地球が浮かんでいるところはいつからあるのだろうか?同時に出来たのだろうか?

この世はホログラムで、3Dゲームの表現のように画面内の操作キャラが認識できる範囲を逐次作っているという説明を物理学がしているが、それはそれとして、同時に地球やら他の惑星やら空間を作り上げたのかどうか。

地球が出来る前からあるとしておいて、そうして地球が出来上がっていって、今に至ったと。

影も形もないところから、材料をかき集めて地球になったというのである。

我々が今立っているということは、そうして今を生きているというのは、地球が四十六億年というのを正当としていうならば、そんな年数より遥か以前から存在していたからである。

それのうちの何割か程度のものを見て、それが全てだと言うのは、地球にも己にも失礼であろう。


人の生まれることについて当てはめれば、もう少し理解できるかもしれない。


今、あなたがここにいるのは、父親と母親がいたからだ。孤児だったとしても、その繋がりがあったからである。

そういう不幸な生まれの方もいるが、それだとしても、その父と母にもさらに父と母がいた。延々と遡れる。姿かたちは分からないだろうが、それらの存在がなければ、今ここに立っていることはなかったのである。

話がそれたので、人一人が生まれることに準えれば、胎内に宿るまでは影も形もなかった。あなたの父と母が結びつくことにより、命が宿り、形をなし、そして生を受けた。

あなたは以前、現代人の言葉でいえば、何もなかった、存在しなかったのである。だが、いた。いたからこそ、今ここにいる。


我々は動植物が繁栄しているその循環を自然と呼びならわすが、拙は、地球を作り上げたように、また何もなかったところから人を作り上げたように、それらを働かせている諸力を「自然」と呼ぶ。


自然は「自然」の影である。我々の狭い認識範囲では、それを影だと認識出来ないので、全てなのだと誤認しているのである。


自然は有限だが、「自然」は無限である。

宇宙人に勝ちたいのなら、宇宙レベルで物を考えるべきだろう。


それが出来ないから、自然という価値観の押し付けを他人にしたがる。

今もそうしているかは分からないが、そういう「超人」は星の数ほどいる。自然の例だけでなく。

影に一喜一憂するのは、自然の存在たる我々人間の性なのである。


では、よき終末を。


零距離の目的

2019-07-17 | 雑記
これの前の記事を書いていると、以前から書こうと思っていたことをふと思い出したので、続けて書くことにする。

申し訳ないが、また「彼ら」の話に纏わることである。

「彼ら」などと書いていると、統合失調症の妄言のようにも聞こえるが、それはそれで面白いと思うことにする。


「彼ら」との関りがあった人物のうちで、拙も面識のあった人物がいた。その人物はなんやかんや言われるのが嫌になったので途中で離れていった。以前にも書いたことがある、今もやり取りのある人物とは別人である。

記憶違いでなければ去年、もしくは一昨年だったか。その人物のHPを見た。一応、一般人よりは影響力のある立場の人物ではあるのと、その職業のためのHPを開設していたからである。

気功がどうたらこうたらというのを書いていた。どうやら気功のセミナーに通っているようだった。

ちなみに、「彼ら」とも縁のあった人物が評して「セミナージプシー」とのことである。

拙は呑気なもので、「色々出かけて勉強してるんだなぁ」ぐらいにしか会った時は思っていなかったものである。どうでもいい言葉を覚えてしまって、とても後悔していると公開する。

目的は、「彼ら」との関りがまだ直接あったころにも述べていたが、「不食」だとのことで、そういうコツを伝えているセミナーだったらしい。

らしい、というのは、既にそのHPは消えている。消える前に見たHPの最新記事は、そのセミナーに行ってくるというところで止まっていた。

実に分かり易いが、要するに何の成果も得られなかったということだろう。それでHPごと消したと勘繰られてもおかしくはないし、実際そのようで、消去後も続いていたブログの方にも何もなかった。


不食というものがどういうものなのかを書くと長くなるだろうが、全く食べないことを指すのなら、実際にそうとしか言えない人たちはいるという。ブリサリアンと呼ばれる人たちが歴史上にもまた、現代にも存在する。
明治時代にも、不思議な能力があり、それで治療してたら裁判になったが、裁判官が事実だと認めて勝訴したという女性も日本にいた。

現代日本で流布されている栄養学の基準では、三食バランスよく栄養を摂るべし、となっている。脅し文句として、そうしないと体を壊すぞ!というのもセットになっている。

肉体労働者と小説家も同じだけ食えということになるとしたら、肉体労働者には足りなくて、小説家には食べ過ぎになる結末が見えるのだが、そういうことはおいておく。

三食摂っているのを前提としたら、それより少ない量で問題なく過ごしているのは、不食とは言わなくても、栄養学の基準を逸脱している、異常事態といわざるを得ない。

戦後の食糧供給に纏わる陰謀については、ここで書くまでもないので多くを語らないが、基準などというものは、全世界の人間を調べ上げて導き出したものではないので、当てはまらないことが多くてもおかしくはないのである。

栄養学に沿ってないと病気になって死ぬのなら、ヴィクトル・フランクルは収容所で死んでいたのだろうが、死なずに出てきた。他の収容者は餓死したというのにである。

反対に、動物のナマケモノは、満腹でも餓死するという、アクロバティックな死に方をすることがあるという。

日照不足で腸内の細菌の働きが鈍いと、食べても栄養が摂りきれなくて餓死するのだとか。餓死とは一体・・・。



余計な話が続いた。まったく関係がないわけではないのだが、本筋から何筋も離れている。


実際に不食だとか飢餓状態としか思えない状態で生きている、もしくは死ななかった人がいるのに、どうして件の人物は不食セミナーに通っても出来なかったか?この話をしたかったのである。


答えは・・・才能がなかったから、ではない。


少なくとも、ヴィクトル・フランクルがヨガやら気功をマスターしていたとかいう話は聞いていない。あったら失礼。

彼はただの精神科医である。この知性の高さが功を奏したとはいえるのだが、それはさておき。


フランクルは飢餓状態を乗り越えるために収容所にいたわけではない。ナチスの強制収容所に、ユダヤ人だからと放り込まれたのである。

彼は当時、収容所で出された食事の量を見て、「これは死ぬ」と考えたぐらいである。

だが死ななかった。他は皆倒れていったというのに。

もったいぶっても仕方ないので話を進める。

彼が収容所で気づいたことは、人間はどうしようもなく孤独で、だからこそ自由なのだということだった。

それから彼は孤独なゲームを一人でやって遊んでいた。寝るときは天井の木目を数えるだとか、収容所から連れ出されるときには右足から必ず出るだとかいった、看守にも見破られないゲームを。

挙句の果てに餓死しなかったどころか、入る前にはひどい歯槽膿漏だったのが、出た時には治っていたという。

歯槽膿漏を治すためにやっていたわけでもなく、そうやると餓死しなくなるというつもりでやっていたわけでもない。

ただ、人間は自由に生きるだけなのだと思ったら、こうなったというわけである。

歯槽膿漏だとか極限の飢餓などというちっぽけな話なんぞ考えてなかったのである。


さて、件の人物の話に戻る。

その人物は、「不食という究極の目標に到達するのだ」と思ってやっていた。だから到達しなかった。

何事にも個人差や段階があるとして語るなら、それ以前の段階には到達していたかもしれないのだろうが、それは知りようもない。

この不食については、実はブリサリアンの証言があって、指導者というのか何なのかは知らないが、「不食を目指してブリサリアンになろうとすると、なれないことが多い」とその人物は語っている。

この記述については、その人物も拙も関わっていた(上記で「彼ら」と表記している)人物がかつて開設していたHPにもURLが貼られていたのだが、ご存じなかったようである。

かみ砕いて言うと、「不食なんぞというちっぽけな話をさもとてつもないことのように思いなすから、その程度すら出来ないのだ」ということである。

件の人物とフランクルの違いは、志の違いであるといえよう。

フランクルの話とその不食を目指していた人物については、思い起こせば前にも書いた。

復習ついでに、ブリサリアンによるその定義を改めて書き記しておく。

それはつまり、一般の食べ物から栄養を摂っていない状態なのだという。

だから、食べているブリサリアンもいる。普通に食事しているのなら、違いが普通には判らない気もするが、そういうことらしい。


引き寄せの法則とやらから語ったかもしれないが、その方面から言うならば、不食を志すというのはつまり、食べるということに意識が向いているので、食べることから離れていなかったということである。


この前の記事に、船井幸雄の言葉をうろ覚えで書いたが、何を食うかなどというのはつまらないことである。何かを食うのを目的にして、生きるということ自体は下になっているからである。そして、食わないから尊いわけでもない。食わないことを目的にしているのならばなおさらである。生き物にとって、生きる以上の目的はないのだろう。


生を見つめたものだけが、生のなんたるかを知り、もしかしたらそれを乗り越える何かを見出すのかもしれないというのならば、森で物を食って自然だなどとのたまうのが人の生の目的であろうはずはない。

不食を目指すだの森で自然に暮らすだのというのは、生きているのではなく、生きるための手段に拘泥しているにすぎないのである。

生きるための手段。人それを生活という。生きることと生活を混同していては、目的にたどり着くことはない。

生きること、というより命は手段であるという言葉もある。

それは大きな目的であり、なおかつ唯一の手段なのだという両義的なものだということをご理解いただきたいものである。


では、よき終末を。


マトリックスのアリカ

2019-07-17 | 雑記
船井幸雄という人がいた。もう故人である。

その方面では有名な方だが、実はまったく知らなかった。

その方面、などと書いたが、何の方面だっけ?という具合なほど知らない。

認識したのは、先日も書いた「彼ら」との関りで耳にしたからである。

そういうわけで、知ったのは何年も前になるが、今も経歴などはほとんど知らない。

「彼ら」の首魁が翻訳していた著作の原著者であるイギリス人活動家が、船井幸雄との対談本を出していたことがあって、それで聞くまでは、恐らく聞いた覚えがなかった。


さて、また聞きのような状態だが、故船井は、多くの対談本を出している。その際、あるスタンスを持って対談に臨んでいたという。対談だけというよりは、そういう風な思考的態度を取っていたという。

対談相手が例えば科学者なら、スピリチュアルだかの話を吹っ掛ける。

その反対に、上記のイギリス人活動家の如きならば、科学的な話を吹っ掛けていたのだと思われる。


少し覚えがある、という程ではないが、前述の対談本についての評価を何かで聞いたものである。
誰から聞いたか、どこで読んだのかまでは忘れたが、船井は彼に付いていけてないようだった、という具合だった。

実際に読んだわけではないので、拙には判断しかねるが、上記の話の振り方をしたが、空振りになっていたのかもしれない。

某イギリス人活動家は、スピリチュアルな話をする、というよりそれを目標に活動をしているのだが、その根拠に科学の話を持ってくる。

船井の両建ての理屈と似たようなところがあったのではなかろうか。

対談の際に、お互いが同じ程度の理解と認識しかないのなら、ただ話が盛り上がった風になっても、目ぼしいところがないために、広がりに欠けるものではなかろうかと思われる。

それ故、船井が付いていけていないというような具合に対談が落ち着いたのかもしれない。

別に対談本の話をしようというわけではなく、その船井の考え方は、「ダブルコンピューター理論」という名前がついているのだよ、という程度の話ではある。

その話を紹介していたのは船井ではなく、聞いたのも今年から去年にかけてであった。


とはいえ、この考え方はやっているようでいて、やっていないものである。


一つ例を挙げておく。


またもや「彼ら」の言だが、地球環境の破壊が進めば人間が生きていけなくなる!だから自然に沿った生活をすべきなのだ!理解しない奴らは云々というのは散々書いたものである。

理解しない奴ら云々は措くとして、これだけならよくある理屈である。テレビやらで環境汚染の話やらを垂れ流す時にも出てくるような決まり文句である。

しかし、そういう生活で地球が満たされれば、まるで未来永劫地球が回り続けていられる、というような言い草には納得できるだろうか?

地球を人体、つまりは生命体として考えろというのならば、物質的な形を持った生命体は、いずれかはその姿を変えるだろう。これを日常的には「死」と呼ぶ。

地球は死なないのだろうか?人間や動物、大木に育つような植物からしても、遥かに長いとはいえ、死ぬ時が来るのではなかろうか?


ネガティヴな波動が地球をどんどんおかしくして、このままでは地球が壊れる!という、スピリチュアルというかなんというかの言も同じである。

地球に生命体が湧いて、争い合わなかった時間の方が遥かに短い。人間だけではないというと論が外れそうだが、ご理解いただく。

昔、日本がハイジャック犯の要求を飲んだ時の言葉が「人の命は地球より重い」である。

重いのだから、原始時代の少ない人口だろうが四捨五入して百億だろうが、地球はネガティヴ満載であったのだから、もう既に壊れていてもおかしくない。

原始時代はユートピアだった、のような話はあるが、ユートピア時代の蚊は血も吸わずに生きていたのだろうか?

命が等しく重いのならば、蚊の恨みつらみで地球上の生物は相争うようになったのだろう。その時蚊を叩き潰していた奴が悪い。(蚊の話は、寝てたら噛まれたせいである)

仮に、太古の蚊がユートピアな生活をしていたのだというのならば(琥珀に埋まった蚊から当時の動物だか恐竜のDNAが採取されているのだが)、どうして血を吸うような生活を始めたのかを明かさなくてはならないだろう。蚊に限った話ではないが。

釈迦が言っていたそうだが、「劣悪な存在の方が遥かに多い」という。

釈迦の時代とその周囲が素晴らしい人たちしかいないから釈迦が悟りを得られたのだ、などというのは馬鹿げた言い草であろう。

でなければ、釈迦が諸国遊説の旅に出る必要などなかったことになる。ついでに、頼まれたから始めたという。

これは『スッタニパータ』にも書かれている。帝釈天に頼まれたというのは、作り話臭いところに思われるが、帝釈天は「どうかその素晴らしい内容を広めて頂きたい」とお願いしたとのことである。

よくある神がかりになった人というのは、神の命令だとか、わたしが神なのだとか、頼まれてもいないのに説教を始めたりするものである。頼まれてもいないのに説教などは、自分の胃が痛くなるところであるが、釈迦は頼まれなければ広める気は微塵もなかったのだという。


話が逸れた。ダブルなんたらの話になっていたかも怪しいが、逸れたついでにたとえ話をしておく。

アリという虫がいる。働きアリというのは働き者の例えになったりもする。南米だったかには、群がって動物を骨まで食い荒らす獰猛な種類もアリじゃなくてあるというが、その話は関係ない。

何年も前にバカ売れしたとある動物についての著作にあったが、働きアリの巣を見てみると、何もしていないアリが必ずいるという。

これをつまみ出せば皆働くのかというと、そうではなく、やはり同じ割合のアリがさぼっているという。

実際のところ、サボっているわけではない、というのは後年聞いたものであるが、高度な社会性を持っていると評判だったアリの評価が下がったというアリがちな話である。


さて、何が言いたいのかというと、我々人類だけかは知らないが、劣悪なものの方が多いのである。サボっているように見えたアリは、サボっているわけではないので別である。

釈迦の時代などと比べても遥かに人口が増えたのだが、割合通りに推移しているとするならば、やはり多いままなのである。

『蜘蛛の糸』ではないが、今日の悪人が明日の善人になっていたりもする(かもしれない)ので、個人個人のうちにすらその割合が適用できるのかもしれない。

統計的に示すことは出来ないが、つまりは、地球というのはそもそもそういう場所だというだけの話である。


ではどうするのか?それは自分で考える以外にはない。

考えた結果が森で自給自足でも問題はない。だが、皆が皆やらなくてはいけないと言い出すのはおかしいというのは散々言った。その理論も根拠もおかしいというのも上記を含めて以前から指摘したとおりである。

その件に絡んだ、船井が生前述べていたという言葉をうろ覚えで引用して皮肉としておく。

「最近の人は何を食べるかとかそういうつまらないことばかりを求める。もっと優先すべきものがあるだろう」

といった具合のことを述べていたそうだ。


人は物を食って糞便を垂れ流すことが目的だというのなら、映画『マトリックス』で主人公が繋がれていた培養カプセルの如きものの中にいるのとなんら変わりない。

それは、見ている夢が違うだけで、夢を見ていることにはまるで変わりない。
つまり、この世という「マトリックス」からは微塵も抜け出していないということなのである。


では、よき終末を。


在りし日は今も

2019-07-08 | 雑記
過日、仕事場で拙がヴィーガン的な生活を志していた、という話になった。

というものの、こちらは夜勤明けで、聞き手は仕事開始という状態。ただ、忙しくなる前ではあった。

ある人物たちとの関りと、どうして辞めたかについてを語ったものである。

ヴィーガンとは何ぞや、とは、昨今では改めて書くまでもないだろうが、簡単に言うと、ベジタリアンの一種と思えばよろしい。


ある人物たちとの関りについても、ずっと書いてきたものである。


ヴィーガンの上位種として、フルータリアンを設定し、それを基にした農耕生活を志そうとしない一般人は馬鹿で救いようがないから死んで結構だと、公共の場でこそは言わなかったが、当時の拙を含めた仲間内では実際に口にしていたという、ある人物の話である。

所謂宗教でいう、神だとかを措定し、そこから物事を決めるやり方に似ているので、拙は「ただの宗教」と断じたものである。似ているというより、そのものである。

宗教、という言葉についても、これは価値相対化を狙った言葉であるらしい、という話も書いたものだが、ひどくかみ砕いていえば、上にあるものを引きずり下ろすために流布されたといえる。

真理という言葉は発すればたちまち発散する、と誰かが言ったそうなので、余り言いたくないが、宗教自体は真理ではない。真理から遠ざけるためにあるともいえる。

本当の事でないことを本当だと言われたまま疑うことを知らぬのならば、それはただの信者であり、奴隷でしかないのである。


上記の彼ら、-次にこの下に示すときは「彼ら」と書くが-の神は自然環境豊な状態での地球である。そうでない地球は「馬鹿な人類」が壊してきているので、違うのだろうと思われる。

その「彼ら」が実際にWebサイトに載せていた話でもあるが、地球を人体になぞらえて考えるべし、というものがある。

ある学者が提唱しており、ガイア理論及び仮説と呼ばれるものがあるが、その説に則ると、地球はご老体であるそうな。

日本でも天皇が生前退位を特例で行われたが、理由の一つが高齢だからである。もう疲れたから、というと怒られそうだが、このまま天皇としての責務を全うするのは難しいから、というわけである。


高齢の上皇、上皇后両陛下は、それほど前でもない日に入院して手術をなさったりしていたというのはニュースなどで覚えがある方もおられようが、確実に寄る年波を自他共に感じている状態といえる。


昨今の自然災害の頻発を、地球の高齢化と結びつける必要はない、とは断言しないが、人間で例えれば、「老人は怪我や病気の平癒までに時間がかかる」のである。

原爆の実験だとかで地軸がずれたという話も実際にいわれている。しかし、戻ったという話もない上に、そのまま地球は回っている。

人体になぞらえれば、歯が折れたりしてかみ合わせがずれたのと同じといえなくもない。

虫歯の治療ということで、銀歯を詰めたりして前のかみ合わせに近い状態にしたりすると、体の具合が一時的におかしくなったりするのだが、体はその状態に合わせて調整しようとする機能があるためで、銀歯を抜いたら戻ったりすることもある。逆に、かみ合わせを虫歯前に近い状態に戻した方がよかったりもあるので、時と場合によるが、何にせよ、状態に慣れることが出来るのが、人体の柔軟性という奴である。


自然豊かな地球は尊いと宣うのはお好きなように、ではあるが、かつての地球がどうこうと老人が若者に対してよくやる説教の如きは、実に無意味である。

学説通りなら、地球は最初は火の玉であったろう。それも地球なのだが、その話は無視する。

その次は水に覆われていたそうだが、その話も無視する。

「彼ら」が翻訳して一時は絶賛していた、イギリス人の某活動家が言う通りなら、月がやって来たせいで、水の天蓋で覆われていた地球は安定した気候だったが、月の引力のせいでそれらが落っこちて水浸しになったという。そして日光が直接突き刺さる、過酷な環境に変わってしまった、というのである。

そしてまた、月が離れてしまったとしたら、地球も壊れてしまう状態ではある、ともいう。これは学説でもあったと思われる。

自然というものが豊な状態が地球の本来の姿、というのは、時代を通してみれば一部でしかないことを持ち上げているに過ぎないのだといえる。

水の天蓋の時代が事実だとして、その時の気候で生えていた植物と今現在の植物は同じだろうか?違うだろう。

恐竜が跋扈していた時代の植物は、シダの仲間ばかりだったとか読んだが、現在はシダしか生えていないのだろうか?違うだろう。

人類は野菜と果物を食うように出来ていると「彼ら」も「彼ら」の参考にした存在がいうが、子供は母乳を飲んで育つのだから、死ぬまで母乳を飲むのがよかろう、とは誰も言わない。

地球が母親ならば、いずれ母の元を去る日がくるのは必然である。子供だった存在がいつまでも母の乳房をしゃぶり続けることはないように。


さて、ここまで書いておいて思い出したが、その「彼ら」は、実はヴィーガンではなくなっている。

この話もしたが、グラスフェドつまりは草を食べて飼育された牛肉を買って食べているそうだ。自然に暮らす牛を食うのは自然なことだというのと、「体が喜んでいるから」という。

自分に正直なのは大変よろしいが、かつてはその感覚について、「刷り込まれた常識に過ぎない」と断罪していたものである。

文明生活のひどさを指摘するのは結構であるが、その「自然だ」と礼賛する、グラスフェドの牛肉とやらを食べられているのは、実はその文明生活があるからに他ならない。


上記のイギリス人活動家の著作に、「あなたはバスの運転手になるために生まれてきたのか?違うだろう」という風な問いかけがあった。バスの運転手云々は一例であって、そのことだけを取り上げているわけではない。

人は何かを食べるために生まれてきたのか?その何かが食べられなくなったら、死ぬのか?死なないだろう。

かつて「彼ら」は、「あなたの目的は何だ」と問いかけ、他者の回答を全てけなしたうえで、自信たっぷりに「フルータリアンになるのが目的だ」などと言っていたものである。

ちなみに拙は「仙人になること」であった。

余談になるが、フルータリアンと仙人では、次元が違う。フルータリアンは環境に左右されることを前提にしているが、仙人は状況に左右されないことを志すものである。

環境に何とかしてもらおうという甘ったれた思考から一歩も抜け出さないので、グラスフェドがどうだとか自然環境がどうだとか、何も変わっていないのである。

人は何かに跪いて慈悲にすがるために生まれてきたのか?地球に慈悲を乞うためなのか?違う。


人は人であることが何なのかを理解し、かつそれを乗り越えていく存在なのである。この理屈は拙独自のものではないことをお断りしておく。


もう消えてしまったHPにあった話をかつて引用して書いたものだが、要約してまた書いておく。


宗教というのは、生活パターンの謂であり、その権威付けとして神を措定したのだという。そうすることによって、共有感覚が生まれ、生活しやすくなるのである。

そして、我々はそれを乗り越えていく始まりなのだと。

宗教、つまりは生活のために生きているのではないということである。

ついでに書いておくが、生活を投げ捨てろという話でもないことをお断りしておく。


あなたがバスの運転手かは知らぬが、それになるために生まれてはないだろう。父親や母親だったりもするだろうが、そのために生きてきたわけではないだろう。

生まれて食って死んで土に返るのが目的だというのなら、真理だと宣うのなら、それは奴隷の教義である。人であることを放棄している。


答を神に設定して、そこから物事が出ていると考えることと、神が何を考えているのかを知ろうとするのは、正反対の理屈であるという。

前者は思考停止である。後者はというと、神の心を知ろうというのは、神になろうというのと同義だという。


前者の理屈で神を地球に変えてみるとよい。「彼ら」の言動そのものになる。

同じくヴィクトリア朝時代の科学者の言にするとよい。「彼ら」と理屈の流れは同じになる。

いきなりヴィクトリア朝時代の科学者なんぞといったが、その言はというと、「物質があるだけで、神などいない」という具合である。

改めて書くならば、神を物質に変えてみるとよい、となる。その理屈はまさに現代社会そのものである。


「神」の元に跪かせようという奴隷の教義に反抗して立ち上がってこそ、本当の人間として生きられるのである。

人は跪くために生まれて来たのではないのだから。


では、よき終末を。


曇り空の先には

2019-06-23 | 雑記
相も変わらずの不定期更新である。

何をやっていたかというのは、あまり意味がない気がするので、割愛する。

ゲームだったり、ゲームだったり、後はゲームだったりする。割愛してないな。


というわけで、ここしばらくであったことを思い出しながら、何を書こうか考えていくことにする。



ある日、弟が帰ってきて語りだした。

内容はというと、自転車での帰宅の道中、相手の余所見だかは忘れたが、爺さんとぶつかりそうになった、腹が立った、というもの。

あんなの死んでしまえ、と言っていたものである。

昨今の老年というのは悪名高い話があったりする。元官僚だかの爺さんの車が云々というのは記憶に新しい方かもしれない。ただの爺さんはすぐしょっ引かれるというのに、というと話が脱線する。

高齢な方々の横暴ぶりは、犯罪の統計でも高く出てくるほどで、警察沙汰にならなくても問題になっていたりするというのは、人によっては覚えがあるかもしれないだろう。

少年犯罪の凶悪化だのなんだのというのは、実はセンセーショナルな話を取り上げただけで、少年犯罪と件数自体は減っており、増えているのは高齢者の方だったりする。

この語り口を羊頭狗肉というのかどうかは知らんが、やっていることは同じである。針小棒大の羊頭狗肉といっておこう。

仮に弟がぶつかりそうになった爺さんがそういう危い存在であったとしても、いや、そうであったとすればなおさらともいえるのだが、本当に非は相手方にしかなかったのだろうか?などと思うのである。

実は、そんな事態を誘発したのは、弟自身ではなかったか?といえるわけである。またこの手の話か、と思われたなら、あなたは立派なここの読者である。自分で自分を褒めてあげなされ。


それはそれとして、こう考えるべきである。

ぶつかりそうになっただけで、実際はぶつからなかったわけである。仮にその爺さんが悪くてぶつかったとしても、スポーツバイクをこいでいた弟の方が与える被害は大きくなっていた可能性が高い。

寸でのところで大事にならずに済んだ上に、もう少し気を付けた方がいいのかもしれないと考える余地を与えられたのだといえよう。

余地があったとしても、考えるかはその人しだいではある。それは拙の仕事ではないゆえに。

しかし、腹が立ったのならその爺に言ってもらいたいところではある。こっちに言っても返答の仕様がない。しばらく考えてこんな返事が来た日には、弟の怒の炎に油を注ぐことにしかならないのは明白である。

何故返答に困るのか?というのは、弟はその爺さんに腹を立てたと言っているつもりなのだが、実際はこちらに腹を立てているのと同じにしかならないからである。

おかしなことを、と思うのが普通であろう。だが、普通だなどと言ってふんぞり返っていては、そのうちひっくり返るだけである。


人は意識でもって言葉を受け取り解釈し理解し、納得しようとするわけだが、実は納得しない。

評論家の小林秀雄の言で、「人は他人と同じように理解するが、自分独自にしか納得しない」というのがある。うろ覚え引用なので、同じ文章でない点はご容赦願う。多分、書かれたものそのままではない。

理解するというのは、言ったことをそのままの受け取っていることだとするならば、納得とはどこになるかというと、感情の動きや力だと言える。

弟の上記の件でいうならば、拙にはこう聞こえているというわけである。「腹が立った。死んでしまえ」である。

拙にはと書いたが、相手にはと訂正する。

無論、言葉そのものというよりは、そこに込められた感情である。

発する方も受け取る方も、意識上では上記の内容を語って聞いているつもりだろうが、そうはなっていないのが人なのである。


面白いことに、拙は弟が嫌なことがあったという態度で怒りながらの「あんなの死んでしまえ」まで聞いた後、こう返したものである。

「まあ、そう簡単には死なんよ」と。

今思えば、それを言っているときは「そういう爺はそうそうくたばらない」と思いながら口にしていたと思うのだが、ほんの少し、どう返答するべきか逡巡したうえで出たものであった。

よくある道徳的なことを言えば、そういう言葉を使うなだの、怒ってはいけないだのというところではあるが、それもまた、少し違う。

汚い言葉は使わないにこしたことはない。まるで薬物中毒のように怒りに囚われやすい人は、感情をコントロールする術を知るべきではある。

その手の話で、昔も度々引用した話を書いておく。

整体の創始者、野口晴哉が語っていたことである。


ある人が怯えた感じでやってきて、「昨日、強盗に遭いまして」と語りだし、語りながらまるで今強盗に遭っているかのように青ざめて震えだしたという。

「今強盗に遭っているわけじゃないだろう」と野口は諭すが、相手はその内容を青ざめた顔で語り続けたという。


その時沸き起こった感情は、その時の物であって、それをしかと味わったのなら、手放すべきなのである。

野口の知り合いが、昨日強盗に襲われていた時と同じような心身の状態を引き起こしたのは、その時手放すべきであったものを、後生大事に握りしめていたからである。


その時は腹が立った、で済んだのなら、弟はああは言わなかっただろう。

「爺さんとぶつかりそうになったよ。危なかったわ」で済む。


後生大事に握りしめておくべきは、ぶつかってきそうになった爺さんに対する腹立ちや、強盗に襲われた時の恐怖心ではなかろう。

ぶつからなくてよかったとか、強盗に襲われたけどお金取られただけで怪我もなくてよかっただのと、いくらでもある。

それを「納得」しないのは、「理解」が全てだと思うが故なのである。



さて、本日は夏至。北半球では日照時間が最長の日となる。

なるのだが、曇っている。

曇っているが、夏至のお天道様は雲の上には確実にある。ここでは見えなくても、晴れたところでは見えるであろう。

今日は曇っているから夏至は明日に延期、などという話はないだろう。地球の公転だとか地軸がずれたとかの要因がない限りとはいえ、曇り空で太陽が見えないからといって、太陽がないなどと「理解」はすまい。

お天道様が見えなくても、そこに確実にあることは、皆感じて「納得」してもらえることだと拙は思う。


では、よき終末を。



理屈は通らない

2019-04-22 | 雑記
少々腹が立ったので、書いておく。

とはいえ、いつも通り長い導入からである。


先日、休みで家にいた。調子が悪くて寝転がっていたのだが、ようやく立ち直ってきたころには夕方になっていた。

そして、ほどなくして、弟が帰宅した。

弟は言う。「娘に会うなっていわれた」と。

語弊があるので言い直していたが、あまり、元嫁は元夫たる弟に会いたくないらしい。彼女がどう思っているかはこちらも聞きようがないし、どうしようもない。

「先週だかも、日曜に病院に連れて行くから、とか言われていたな。そういえば、日曜に病院ってのも妙よな」

というと、上記の開口一番に言い出したことを訂正したという流れであった。

腹が立つなどと言っておった。まるで、嫁が意地悪で会わせてくれないと言わんばかりである。


さて、長い導入、などと脅かしたが、ここまでである。


現時点からでいうと昨日。

家に帰り、弟の部屋に声を掛けながら入ると、寝ていた。寝入ってはなかったが、ネットの開通工事の業者が来るのを寝て待っていたらしい。

それから、上着を脱いだりしてから、何気なく台所のゴミ箱を見ると、蓋にひびが入っている。蓋の仕組みも壊れて、蓋が乗っているだけの状態になっていた。

「ゴミ箱が壊れているぞ」というと、「昨日部屋で暴れて壊した」という。どこで傷ついたか判らんが、右腕に怪我もした、などとのたまう。怪我、というほどのものではないが、赤く切れたらしい後があった。

暴れる(アパレル)関係の仕事か?と大昔、記憶違いでなければ弟から聞いたダジャレを言うと、ダジャレだと気付かなかったのか、「仕事じゃないけど」と苦笑いをしていたものである。

そのすぐ後ぐらいに、ネットの業者が来て、弟はすぐ外に行き、一階で待機していた管理会社の人を呼び、業者の人も含めて三者面談をマンションの廊下で始めた。

拙は、とりあえず手持無沙汰なので、部屋に戻って、見ようと思っていた某オンラインゲームの生放送を見ていたのだが、疲れて途中で寝てしまった。

その後、工事も許可が出て無事終わり、LANの接続を変えてくれと弟に起こされた。

LANの接続を変えた後、通信速度の計測やら接続の設定を変えればもっと早くなるのではと、色々やってみたが、出来なさそうなので諦め、買ってきていたケーキを食べようと思い、弟を誘うと、「もう食べた」という。声はかけたそうだが、接続の設定を調べていたら、気付かなかったらしい。

ならば茶を飲めと、いれてやった。

そして、改めてゴミ箱を見ると、横もひび割れている。思い切り叩きつけて破壊したらしい。

「何があったかしらんが、よく壊したもんだ」とだけ言っておいた。



弟が「晩飯はどうする」と尋ねてきた。「材料があるから自分で作って食う。何か食いに行きたいのか?」と問い返すと、「作るのが面倒だ」という。

とはいえ、こちらはまだ腹が減っていない。だから食べに行くのは無しだと答え、弟は何か作り始めた。


ゲームも一区切りついたので、飯の準備をしておこうと台所に向かい、流しの上を見ると、プラスチックの笊が同じ場所にあることにはあるのだが、色の違うものになっている。

焼いたとか漂白したとかいう、手間のかかることをしたのではない。これもまた、弟が壊したと言った。壊して買い直したのだろう。

別に大したものではない。百円ショップで売っていたものである。とはいえ、拙が前の家から持ち込んだもので、家財道具を余り持ち込んでこなかった弟にも必要だったかはしらんが、ボールだけでは事足りなかったりするので、時と場合によっては、ないと困っていただろう。

それを、破壊したのである。ゴミ箱に腕だか拳を叩きつけて無残な姿にしたのと同様に。

ゴミ箱も、蓋が機能不全で見た目がひどくなっただけで、用はこなせる。とはいえ、こちらは二人で金を出し、大学の後輩に車を出させて買ってきたもの。

半分壊れたから、弟の債分で壊したと思えばよかろうが、笊は違う。


笊を壊したのがゴミ箱の破壊と同じ理由かは定かではないが、見境を無くした状態では、関係のないことにまでつっかかるものである。

というのも、弟が寝る前に、拙の部屋に声をかけてきた。

「笊とボールを乗せているところに、鍋の蓋を置くな」と。

引っかかって落っことすからだという。それで、以前、落として置いてあったワイングラスを割ったのだと、今更言ってきた。

拙は今まで引っかけて蓋を落とす、などということをしたことがなく、「なんでそうなるんだ?」と問い返すと、「上の網棚が狭いからだ」と答える。

「ああ、わかったわかった」と、半ば不機嫌に返答して、戸を閉めた。


それからふと思ったのだが、どうして笊は弁償したのに、ワイングラスを弁償しないのかと。

粗忽な弟は、引っ張って笊かボールを取ろうとして、鍋の蓋を引きずって落としたのである。

そして、弟はこう思っていたから、わざわざ今更になってそう言ってきた。(というのも、笊が変わっていたのと同時に、鍋の蓋も消えていたので、これも壊したのかと思ったが、それは流しの下に入れたと言っていた)

それは兄のせいだと。それで、笊に八つ当たりしたのだろう。だから、拙の物ではあった笊を破壊した。笊は自分も必要だから弁償して、ワイングラスは100円じゃないのと自分が使うものではないし、兄が悪いから、というところだろう。

笊が先で、その後にゴミ箱かもしれないが、そこまでは聞いていない。聞いたところで、バカバカしいことこの上ない。


話は変わるが、女性というのは、男性と比べて、言語化されていない、いわば雰囲気とでもいうもののを察知する能力が高い、と思われる。

生存だか防衛本能というところか。強すぎるのも困りものだが、まったくないのも困る。

さりとて、日常の言葉で表現できるものでもない(もしくはしづらい)ので、男性と意思の疎通ができないところがあると言える。場合によってはそれで男性を馬鹿にしたりもしているのだろう。


それは言い過ぎとしても、弟の元嫁が、元夫にあまり会おうとしないのは、弟の心根を、何かにつけて人のせいにしたがる態度を見抜いているからが故ではなかろうか。入学式だとか誕生日ぐらいにしか会おうとしないのは、それでも渋々なのかもしれない。


会えなくて当然である。「お前」が悪いのだから。

弟の粗忽具合を勘案せずに、などと言い方が悪いが、拙が出来ることは弟に出来て当然だろうとタカを括っていた、「お前」が悪いのである。


ワイングラスが、笊が、ゴミ箱が壊れたのは、やはり「お前」が悪いということなのである。


鍋の蓋を、ひっくり返して重ねたボールと笊の下に置いた兄が悪いというのは理屈通りだが、実はそんな理屈は通らないのである。


そんな人を敵にする態度で、復縁など出来るはずもなかろう。


「お前」が悪い。人にその言葉を投げかける時、実際は誰に向けているのかを知らぬことには、ゴミ箱や笊がいくつあっても足りないのである。



では、よき終末を。


致神酔い

2019-04-12 | 雑記
二か月以上振りになったが、拙はまだ生きている。

というのも、二月に引っ越しをしてから、ネット開通でごたごたしてしまい、三月の半ばだったか、それくらいまで自宅ではネットに繋げない状態だった。

では、今は繋がっているのかというと、仮である。工事終了までの間、Wi-Fiの機器を貸し出すというのが最近の流行りらしく、それで繋いでいる。

自宅までが無線で、そこからLANケーブルで繋いでいる。速度は引っ越し前より少し遅くなったが、ネットゲーをやっていたらすぐ切断される、といった具合でもなく、おおむね問題なしといったところである。

前回は、弟が内定と上京を取り消そうか悩んで、あわや引っ越し自体がなくなりかねなくなった、というところで更新が中断されていた。

そんな話を気にしている人が何人いるか判らないが、冒頭の話の通り、引っ越しをして、もう二か月近く経つ。

とはいえ、その時弟に言った「現実がお前を作るんじゃない。お前が現実を作るのだ」をどう理解したかは、判らないというより、考えても仕方ないと思っている。

そこで、話のついでに、弟をどう評しているのか、という話をする。

以前も書いたかもしれないが、末の兄弟だから甘えん坊といったところである。

それに纏わる話もかつて書いたが、改めて書いておこうと思う。


子供のころ、弟は、車で出かけると、ちょくちょく気分が悪くなる。車酔いをするのである。今は判らない。

もしなるとして、運転してたら大丈夫なのかもしれないが、そこは知らない。母親は運転していたら酔わないと言っていたもので、そこは同じだろうと思われる。

さて。野口整体の創始者、野口晴哉がこう言っていた。

「まともな人は車酔いはしない。する人はどこか人に助けてもらうのが当たり前のところがある」と、『整体入門』にある。

拙は、車酔いをした覚えがない。もしあったとして、かなり小さい時はしていたかもしれない、というところだが、定かではない。

とはいうものの、野口整体なら、車酔いの抑え方はやる。

何故また思い出すことになったのかというと、別に今日に限った話ではないが、ここ数か月のやり取りで思い当たる節があったからである。


車酔いではない。その態度である。当たり前すぎて気が付かないのだろうが。


何の流れか忘れたが、弟がこう語っていた。

「日本が先進国なんて嘘だ。福祉やらがひどい状態だ」と。

そもそも、先進国という言葉自体が空疎なものなのだが、そういう話をしても仕方ない。

とある気功師の方の言葉を借りて、「ある意味、精神的には先進国なのだ」とは言ったが、これだけでは判らんし、詳しく説明するのも無理だったので、適度になだめておいたものである。

どこが?という人が大多数かと思うので、もう少し語る。

日本人ぐらいである。まったく別の宗派の宗教施設に同時に遊びに行けるのは。

ちっとも新聞にならない旧聞を垂れ流す新聞紙やらニュースでも流しているだろう。「宗派の違いでお互いを殺しあっている国や民族がある」と。

世の中、推しアイドルの違いで喧嘩している人もいるらしいが、あれも宗教であろう。本当にあるのかしらんが、それに似た話は何かにつけて出てくる。


話を戻す。

弟の上記のセリフは、つまり、「政府やら行政は自分を世話して当然だ」という態度なのである。

これも、大多数の人にとっては常識ではないのかと反論されるだろうが、常識もまた、とある民族やら地域の「教義」なのである。または、「神」だとかの、人の上にある何かといえる。

釈迦、もしくは初期仏教の、政府、当時は貴族だがに対する態度は、こうである。

「盗賊は非合法に人の金を盗むが、貴族は合法的に盗んでいく。積極的に応援するような存在ではない」と。

税金は取るのが目的である。搾り取ってその余りで福祉やらなんやらに還元した振りをしているだけである。

所詮はそんなもの。そういう存在が「お世話してあげます」なんぞと言ってくるのは、詐欺に違いないので、適当にあしらうのがよろしい。

たまには役立つ事もするが、カンダタが「仕事」の帰りに蜘蛛をたまたま殺さなかったのと大差ない。

「政府や国家がないと、人々は安寧に暮らすことは出来ない」というのもまた、「教義」である。その安寧は誰の安寧か、どこにも書いていない。


それ故、弟のああいう発言は、人に世話をしてもらうのが当然と考えているからだと、拙は評している。


とはいえ。拙も人のことはいえない。


もう八年経ったが、東北の大震災で、当時の東京もちょくちょく揺れた。

その時に話題になったもので、「地震酔い」というのがあった。余りにも感じる程の揺れが頻繁に来るが故に、三半規管が揺さぶられたのであろう。真っすぐ立っているつもりでも、フラフラしていたものである。

普段、車酔いしない人でも酔ってしまうものである。だが、政府はおろか、隣近所の人も肉親も、酔いを止めてはくれまいて。


その人の価値観だとか世界観というのは、その人の全てにおいて立ち現れる。

だから、「現実があなたを作るのではない。あなたが現実を作るのだ」と、伝えたのである。


車酔いをしない拙ではあるが、地震酔いは良い契機になったのだろうと考えている。

お前は自身に酔っておるのだろう?という月並みな発言は控えて頂く。

これは大地が鳴動することによって、己が神に触れたが故の酩酊である。人によっては車でもなるのである。

地震ではなく地神酔いであり、そしてタイトルの読みもまた「じしんよい」である。本来なら、ぢしん、と書いて変換できなければおかしいのだが、そこは措く。

補足だが、「精神」と書く。神と書くからといって、西洋から侵入してきた概念の「GOD」の訳語を思い浮かべては、足元をすくわれるので、ご注意を。

あれらも言っている。「信じる者はすくわれる」と。


では、よき終末を。


ドラマのようなセリフを

2019-01-25 | 雑記
しばらく更新が滞っていたが、拙は問題なく生きている。

これが彼の最期の言葉だった…。というのはよしておく。


恐らく、書いていなかったと思うが、書いたかどうかすら忘れているので、ともかく、綴っておくことにする。


十一月の半ば頃。自宅は二階に位置しており、その上の方(真上ではない)の給水管が壊れ、自宅の押し入れが浸水してしまい、古着屋で買った着物の大半やら、壊れかけたPCとモニター、そして寒くなってきたというのに冬用の掛け布団などなどがダメになるという事件があった。

入居の際に加入している保険で、予想外の収入を得ることになり、服を買ったりしていたものである。しかし、新しい革靴は靴擦れが酷い。飲んで帰るとなんともなかったりする。

それと、かなり冗談染みた話を人にしていたものだが、この事件のしばらく前から、「そろそろ引っ越ししたいものだ」などと思っていたら、階上の件の部屋の人は、隣の空き部屋に引っ越したそうな。

話はそれだけでは済まなかった。


年明けてすぐ。まだお正月気分が続いていないこともないぐらいの日だった。

弟から電話がかかってくる。何事か?と思い、出ると、こう切り出してきた。

「年末からやっていた就職活動が成功したので、そっちに行く予定だ。一緒に部屋借りて住まないか?」と。

押し入れもいずれ修理しなくてはならない。その場合、何某かの形で部屋を出ることになるのだろうと思われる。そうなるかは判らないが、階上の隣人のようにされるかもしれない。

ならば、いっそのこと引っ越しするのもよかろうと思い、二つ返事で快諾した。弟は少し驚いたような様子を見せ、いや聞こえさせていた。


さて、数日前である。

弟に、新居の契約についての話を電話すると(その前の日に、書類取って来たか?とメールがあった)、ひどく辛そうな声をしている。

これは何かあったなと思いつつも、詳細を尋ねると、不動産会社から、契約の内容を変えてほしいということを言われたという。

拙を保証人にし、弟名義での契約にしてもらいたい、というのだそうな。

そのことを実家の両親(弟は数年前から実家に戻っている。この件は書いたと思われる)に話すと「兄貴に迷惑をかけるんじゃない」と、叱られたのかまでは判らないが、そういう内容のことを言われたという。

契約に内定通知が必要とのことで、それは届いたらしいが、どうもこちらに来てその仕事だけでやっていけるかどうか危ういところらしく、ダブルワークでもせねばならぬだろうという。

普通に働いて飯食うだけなら、何が問題だろうか?と、一瞬思ったのだが、その後続けて「養育費」と言っていた。

この話は昔書いたが、鬱病が原因で、離婚している。娘の養育費を払わねばならぬというわけである。

弟の不安はさらにあって、仕事に必要な勉強を、専門学校のようなところに金を払ってしていたのだが、ここが詐欺まがいだったらしく、炎上中だとか。

消費者センターに相談しようかと思っている、などと言っていた。

「どうしたらいいかもう判らん。今はひどく憂鬱な気分だ」と、泣きそうな声で言っている。

拙はその時、洗濯していて、終われば昨日のメールで聞かれていた書類を取りに出かけるつもりだった。

窓から見える空は、とても青かった。そして、その後すぐに弟に聞いた。

「そっちの天気はいいか?」と。

「ん?天気いいよ?」と、弟は答えた。

「なら、散歩行ってこい。憂鬱だからとこもっていても仕方ない。前に教えた、家の近くの神社までだ」

と伝え、弟は「わかった」と言い、電話を切った。


洗濯機はまだ回り続けている。もう一つ洗濯する予定だったので、それを回し始めてから、ふと思い出した。

拙は別に心理学を習ったことはないが、長年の弟の言動を鑑みるに、いわば状況に流されているだけなのだと理解している。

この電話とは別の機会で、物件探しで会った時だったか、「人間は生きてりゃなんとかなる」と言うと、案の定、こう返してきた。

「生きててもなんともならんこともあるよ。嫁と娘に会えんし」という。

内容はというと、去年の就職活動でこちらの出向いたときに、元嫁に連絡すると、途中から連絡が途絶えたという。

「わしなんか、会いとうても会う相手がおらんぞ!」というと、「おらんのやから、会いたいとかないやんか」と答える。

これは言い過ぎたか?とも思ったので、そこで話は打ち切った。


ただ、先ほど仕事の合間に、こういう話をちょくちょくしている人に今のやり取りを伝え「鬱的な人に言うには過ぎた冗談かも」というと、「弟さんも、そこでそういう視点もあることに気づけないと」ということを語っていた。


そして、散歩に出るべし、と伝えた後、電話をかけなおした。正午だったので、恐らく食事中だったのだろう、出なかったが、少しするとかけ返してきた。

「どうしたんや?」というので、拙はこう言っておいた。

「わしはお前に金やったりできんから、せめてエールのようなものを送ってやろうと思ってな」と。

で、そこから少々長い話をしておいた。

いきなりステーキ、じゃなくて、いきなり「どうして人間は何もない大昔から生き続けてこられたと思う?」と問うと、少し考えた素振りを見せた後、「判らん」という。

「何もないってのが半分答えみたいなもんだ」と続ける。これで判る人はよっぽどか、拙が見聞きしていることと同等のことを知っているだろう。

「人間は、何もないところでも希望をもってして現実を作り替えてきたからだ」と。そして続けた。

「現実がお前を作るんじゃない。お前が現実を作るんだ」と。

「散歩に行ってこいといった神社で、お前が楽しいとか気分がいいとか思える状況を思い浮かべて来るんだ」と伝えると、弟は、「これから行くつもりだった」と言っていた。

「現実問題として対処せにゃならんこともあるが、ともかく、その時ばかりは頭の隅においやるんだぞ」と伝え、電話を切った。

自分で言っておいて、「まるで漫画みたいなセリフだな」とつぶやいたものである。

遅くなったが、書類を取りに行き、遅くなった昼飯をと思い、先日連絡のあった、馴染みのネパール料理屋に赴く。忘れ物があると言っていたのだが、自分のものではないと伝えてあったので、お互いの最終確認を兼ねてである。

ランチタイムは過ぎていたのだが、店に入れてもらえたので、しばらく飲みながら、上記の弟の話をしていた。

で、件のセリフの話をしたら、「なんかカッコいいこと言いましたねぇ」と、女性スタッフが感心していたようだった。

「自分でも、漫画みたいだなと思いましたよ」と、笑っておいた。


劣悪な現実が、劣悪な心身を常に生むのなら、この世は既に無い。

所謂素晴らしい環境が素晴らしい心身を育むのかというと、そうだと言えるが、それを素晴らしいと思わないのであれば、それは劣悪な現実と化す。


現実があなたを作り上げたのではない。あなたがその現実を作り上げてしまったが故なのである。


弟の問題は、金がないだとか鬱病だったかだとかいうことではなく、こういうことだったのである。

それを考える契機となり気づくことが出来れば、よりよく生きていけるはずだと、拙は確信している。


では、よき終末を。