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ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

そこはかとなく不思議

2018-12-30 | 雑記
昨日の出勤時のことであった。

その前の日に、用を思い立って夕方に出かけたが、目当てのものは見つからず、そういえば行く予定だったのを忘れていたところにいくつか出向いた後、また飲んでいた。

そして夜に帰宅してから風呂に入ると、寝てしまった。

おかげで風邪を引いて動けない、ということもなく、少し疲れたな、ぐらいで出勤していたのであった。

ただ、出発前に手洗いに行ったので、予定の電車より一本遅れて乗ることになった。それに乗っても余裕のある時間にはつくのだが、仕事までの時間が少し減る。

走れば間に合うレベルだが、走りたくない。走れば紳士ではなくなるぞ!というネタは以前書いた。あと、誰が(英国の)紳士だ?とも。


案の定、一本遅れた電車に乗り、いつもの乗り換えをしようと別のホームに向かうと、あら不思議。

一本前の電車に乗っていたら確実に間に合う電車が、まだ出発していない。

数分遅れていたらしく、さすがに大晦日前日というのと、遅れたせいで人が増していたというぐらいで、慌てることなく乗れた。

電車も途中で時間調整で止まるなどということもなく、いつもとほぼ変わらない時間で到着するのであった。


これがいつも通りに乗っていたら、乗り換えで待たされて、少しムッとするところだったかもしれない。だからといって、電車にメッ!としても意味はない。

立つ腹はないので、電車で立っている時間が延びるだけである。人が多くなって立つ瀬がなくなる、というのはあっただろうが。



どうしてこうなったのかを合理的に説明するのは無理であるし、また、説明して理解を得られるものだとも思えないが、色々と聞き及んでいるところで話をする。


上の流れを今一度確認しよう。


いつも通りの電車に間に合わないが、走れば間に合うかもしれない、それで普段のペースよりは速く移動していた。(走ってはいないとは前述通り)

何しろ、いつも撫でている犬を一撫でしただけに留めたほどである。代わりにさっき、また同じ道を通って帰って来たので、撫でておいた。

いつもの電車に、と思っていたが、やはり間に合わなかったので、乗ったら乗ったで、この時間に着いたらああでこうでと計画し、それから別の事を考えていたら意識が飛んでいた。

たまに、寝てるのか何なのか判らない状態で目的の駅や近くに着いて意識を取り戻すことがある。それはともかく。

間に合わせようと心掛けたから、本当に間に合ってしまった、といえる。いえるのかどうかはともかく。

これがもし、もう間に合わないから次の電車でいい。普段通りの移動速度で行けばその電車に悠々間に合うから、としていたら、やはりその通りになっていたのかもしれない。

昨日起こったことは昨日のことであり、また今日や明日は別の日だから、再現は出来ない。よく言われるが「歴史にifはない」という。


出来事にifはないのだろうとしても、そこには法則があるといえる。


何の法則かというと、一昔前あたりから流行っている、「引き寄せの法則」という奴だろうか。


その法則の話だったのかは実はもう忘れたのだが、願い事をする際には、ちょっとしたコツがある。

ちなみに、このコツを漢字で書くと、「骨」なのだそうな。お骨ではないが、骨である。

引き寄せの法則だとかで、具体的なイメージを描いて一心に保ち続ける、というような説明をなされているそうだが、場合によっては逆効果になる。

例えば親が病気で、治ってほしいなと願うとする。一日一回お祈りするとしよう。お百度参りだ!般若心経の書写だ!とか、ラヂオ体操でもサッカーでもなんでもいいが、ここまで書くと混沌としている。

まあ、何かそういう願掛けをすると。するのはいい。問題はした後、となる。

願掛けを終えた後、またそのことについてあれやこれやと引きずると、せっかくの願掛けがご破算になるという。

大体そういうときは、例に出した親の病気平癒から考えればこうなる。

「これでよくなったかな?どうなるかな?」という風に思いがちだろう。

こうなると不思議なもので、「良くなってほしくない」と願っていることと同義になってしまうのだという。

願掛けは願掛けとして終えたなら、そのことに纏わることは一度思考停止してしまうべし、ということである。

また次の日同じ願掛けをするなら、その時だけ考えればいいことなのだから。

病気なのはあなたではなく、他人なのだから。肉親であるとかないとかいう意味ではない。


拙の出勤の話に戻して続ける。

似たように遅れて電車に乗って、ということは何度もある。労働環境によっては違いはあるが、覚えがある人も多かろうと思われる。

冒頭に書いたように、慌てて向かったが遅れた電車に乗って、「ああダメだ。遅れた」という心持で通勤していると、さらに遅れたり、予定通りの遅れた電車での通勤になったりする。

「まあ、これなら間に合うには間に合うか」と乗っていたら、上記のような状態になったりすることが、正確に数えたことはないが、多々あった。

また逆に、今日はなんだかしんどいな、わざと一本遅れていくかとやると、電車が遅延していたりということもある。途中で気を取り直してサッサと向かってそんな目にあった覚えもある。

一本遅れても、発車時刻の差は五分から十分程度なので、あまり意味はないのだが、気持ちの問題という奴である。


料理の味付けでも言えることだが、何度も味見をして加減しなおしていると、台無しになってしまうことがある。

味見しないのは論外だが、ここだと何となく決めておくというのが骨だといえる。何となく、から外れたら、上記の例の「願掛け後に反対の願掛けをしている状態」と同じなのだろう。

何となくから外れたと思ったら、また何となく戻す感じと。塩気が多いなと思ったら何となく砂糖追加するという具合とでもいうところか。何となくカップ一杯投入、とかいうのは料理ではなくなるだろうとはいえ。

人の思惑というものは、場合によってはケーキでもない料理にカップ一杯の砂糖を投入するのと変わらないことが往々にしてあり得るのだと。

料理というものにカップ一杯の砂糖を入れてはならぬ、という意味ではない。アメリカの説明書並みにくどいのは、わざとである。


さて、明日は平成最後の大晦日と相成る。


平成最後だからといって、テレビでは平成の御世で話題になった、確かに大きな話題になったがそれだけでなくしつこくしていた、恐ろしい事件の話をしていたそうな。

一つは鳥の名前のような団体。一つは連続幼女殺害事件というやつである。

今朝の男性スタッフのうち一人が、小さくて可愛らしい女の子が好きな感じなので、年長のスタッフが後者の話を絡めてからかっていた。

すると、女性スタッフがその容疑者の名前で検索して、事件のあらましをWikiで読み始めたので、帰ろうとしていた拙はこう言っておいた。

「年末に暗い話なんぞするもんじゃない。明るく行こうではないか」と。

女性スタッフはそうだそうだと、年長スタッフに反撃を始めたところで、今年の仕事は終わりを迎えたのであった。

といっても、元日に出勤である。短い年末であった…。しかし、平成の終わりまでは四か月ほどあるので、世も末、ではなく、御世の末まではもうしばらく続く。


では、よき終末を。


英国紳士

2018-12-12 | 雑記
急に寒くなってきたので、ようやくコートを着ることにした。といっても、ハーフコートという奴だが。

そして、秋から被っている、秋冬用の帽子を被れば、何故だか「英国紳士」などと呼ばれる。

そのことについては、昔も書いたなどというと、いつの間にか一年や二年は過ぎ去ってしまうのだなと感慨にふけりそうではある。

さて、本場英国では、紳士というものの条件がいくつかある。

その中で「駈け出さない」というのがある。例えば、信号がもうすぐ変わるとして、ちょっと走れば渡り切れるという状態。

そういう時に走らず、悠々歩いて、次まで待つというわけである。

では、走ればどうなるのか?と、作家のひろさちやが聞いたそうだが、答えは至って単純だった。

「その人は紳士でなくなるだけです」とのこと。


ここ何日か、信号ぎりぎりを渡って、少し駈け出してしまったので、拙は英国紳士ではなくなったようである。

そもそも日本人なので、英国ですらないが。


これに絡めて、話を続ける。


例えば、作家だとか漫画家とか、陶芸家だとか落語家だとかがある。

フィナンシャルプランナーとか、意味がよくワカラナイ横文字でも構わないが、日本語で馴染み深いのを並べてみた。

作家は、脚本だとか小説だとかの文章を書いて、それで生活をしている人、となる。出来ているかどうかは取りあえず措く。

措くといったが、もう一つ付け加えるとすると、それで生活しようと志している人というのもいえる。

でなければ、連載を持っていた作家が急病で全く書けなくなったとして、その貯金だとか印税だとか保険で療養していたとしたら、その人は作家ではなくなるのか?

普通は言わないだろう。その人は作家だったし、治ればまた作家として書き続けるつもりなのだと判る。とはいえ、そこで引退すると言ったら、作家ではなくなる。


余談だが、画家のゴッホというのがいた。いた、なんぞというと言い方が悪いがともかく、ゴッホの絵は、現代では高く評価されて、著名な美術館に収蔵されていたり、取引されるととんでもない高額になるというのは、美術に造詣がなくても窺い知れるものだといえよう。

そのゴッホだが、生前はほとんど絵が売れなかった。片手で数えるほどだったとも聞く。

では、死ぬまでほとんど絵が売れなかったのに、どうやって生活していたのかというと、それはイルmとかではなく、実は弟が匿名でパトロンをやっていたからだという。

ゴッホはそれを知らなかったので、弟に向かって「お前も画家をやったらいい」などと言っていたとかなんとか。


そんなゴッホだが、画家には違いない。


悪名高いヒトラーは、若かりし頃、画家を志していたが、時代にそぐわない、謂わば古風な絵を描いていたので認められず、挫折した。絵自体のレベルは高かったともいう。

後は余人の知るところとなる、ドイツの総統になってというわけだが、ヒトラーは画家ではなく、政治家である。付け加えるなら、元画家の卵となる。


何々家というなら、政治家もいいかもしれないが、それはともかく、ヒトラーは死ぬまで政治家をやっていた、となる。彼の場合もまた、引退したのは自殺と同時である。

上に書かなかったが、ゴッホも拳銃で自殺した。


上にあげた職業を指す言葉は、廃業するまでなら皆、「その仕事をしている状態の人」を指す。だから、駈け出した英国紳士よろしく、すぐに辞めることが可能である。

その仕事をしない、とか辞めたとなれば、その仕事をしている状態の人ではないからである。


話は、拙のことに続く。


先日から、人は言葉をうっかり間違えて使うせいで、実はひどい目に遭っていると書いてきた。

端的に言うと、上の流れを踏まえて、以下の言葉を考えてもらいたい。

「わたしはガンです」とか、「わたしは不幸です」とか、「わたしは貧乏です」などなど。

医者は医者で、「あなたはガンです」という風な告知を実際にしているかは知らないが、ドラマなどでそういうシーンがあったりするが、ついつい、人に向かって思ったり言ったりする。

「あいつはおかしい」と。頭がおかしくなっている、ならまだしも、これは上に並べた三つ同様、意味は通じるが、短絡している言葉遣いである。

何々家をその仕事をしている「状態」の人と書いたが、すぐ上に並べた言葉は、そう指してはいないのである。

「わたしはガンにかかりました」なら、かかってない状態もあることを指している。なら、治るのだろう。

「わたしは不幸な状態です」なら、不幸でない状態があることを踏まえている。なら、不幸は一過性だろう。

「わたしは貧乏な状態です」も、以下同分である。

「あの人はストレスで頭の働きが鈍くなったか過剰に働いてしまっていて、おかしな行動をとってしまっただけです」なら、これもまた一過性の症状である。実際はわからないとしても。


というようなことを書いてきておきながら、実は、拙もこの罠に陥っていた。


度々書いたが、拙の実家は創価学会で、祖父母の代から続いている。

そして、拙も創価学会で云々と。


その上までの流れを読んで、すぐ上の今の自己紹介を読めば、おかしいことが理解できるだろう。


拙も拙の実家の家族や親族は、創価学会員だが、決して創価学会という存在ではないのだと。


これに思い至ったのは、先日書いた、顕正会員とのやり取りの後だった。半ば強引に辞めると言って、向こうも引き下がったようだが、例のお店のイベントやらでまた来る可能性はある。とはいえ、そんな頻繁には現れないが、次があるなら以前にも書いた、「人は宗教という名の生活を超えていく存在だ」ということを説明する。それがだめなら、仏法と仏教の違いやら法華経の成り立ちやら全部説明する。

とはいえ、はっきりいって面倒なので、世間話で帰ってもらうことにしよう。


話が逸れたが、その後思ったものである。創価学会を辞める簡単な方法として、預かっている曼荼羅を丁寧に梱包して、信濃町の本部宛てに郵送するというものがある。

周りの学会員とやらがいるなら、白い目で見られたり、拙の場合はバレたら親やら兄弟(特に兄がなりそう)や親族がヤイノヤイノと言い出しそうである。

しかしだ。こんなものは肩書に過ぎないのだと。肩書一つで人の存在を決め付けるとは、笑止千万だと。

なら、キリストが死んだ直後に、今のキリスト教会があったわけではないのに、その当時のキリスト教徒はキリスト教徒ではないというのか?

それと同様に、日蓮正宗の寺が日蓮の遺命の正統というなら、その寺を離れて何が日蓮正宗か?というのは昔から思っていたものである。寺が正しいのかどうかも今となっては怪しい上に、どうでもよいのだが。

余談が重なるが、創価学会の宗教法人の登記名は、「日蓮世界宗 創価学会」だとのこと。元創価学会員で反創価学会ジャーナリストをやっている人のHPに、画像付きで紹介されていたものである。

日蓮正宗ではないので、好き勝手やっているというわけである。なら、現代の創価学会の「弘安二年のは却下」はやって当然となる。日蓮正宗ではないのに、日蓮正宗の振りをしているから、自他が混乱して、今の有様といえる。とはいえ、本名を名乗るわけにもいかないのだろう。それだけで瓦解することは目に見えている。

弘安二年云々は、顕正会員との話のところで書いたが、要するに、国宝級の代物の曼荼羅が日蓮正宗の総本山にあって、代々保管されてきたのだが、それを拝む対象にはしません、と公式に発言し、取り決めたという。


話が逸れているが、騒がれて親にストレスかけても仕方ないので、肩書は残しておこうと思っただけである。宗教は生活でしかない、ともいえるからである。

そういうわけで、自分が肩書一つで自身の存在を決め付けていたことに、ようやく思い至ったというわけである。

「わたしは創価学会とかいう、存続に固執する人が動かしている組織などではなく、それに所属しているという肩書を持っているのに過ぎないのだ」と。


理屈、といえないような説明することも難しいところなので暴論に聞こえるが、人は見た目で判断して結構。

ただ、肩書で存在を決め付けるのはよした方がいい。

「あなたはガンです」と同様、「あいつは創価学会だ」も、自他を呪う言葉になる。

ガンも創価学会も「存続に固執し伸張しようとする組織」なのだから。そんなものに決め付けるのも、決め付けられるのも、たまったものではない。


英国紳士が駈け出さないように気を付けるのと同様、習慣となった呪いの言葉遣いは改めるべきであろう。

駈け出した英国紳士は、紳士ではないただの人になるが、前述の自身に投げかける言葉の例文も同様に、人を「ガン」認定するということは、文字通り「人でなし」と見なしていることに他ならないのである。

拙もまた、人でなしだったのだなと、深く感じ入ったしだいである。


では、よき終末を。


代打の提婆達多

2018-12-07 | 雑記
前回に、とある宗教団体がどうこうと書いた。そして、終わったと思っていたら、実は終わっていなかった。

のだが、退会の意思は伝わったようである。めでたしめでたし。

さて、復讐、ではなく復習として、前回、「宗教は生活のためにある」というのを、キリストの逸話を例に引いて示し、釈迦については、そういう話があったかは忘れたと書いたが、それに近い話はあった。

恐らく、『スッタニパータ』に書かれていたと思われるのだが、こういう風にあった。

「法に寄らなくても成道出来るとは言わないが、法に寄っているからといって、成道出来るわけでもない」と。

成道だったか悟れるだったか、言葉は忘れた。詳しくは、ちょっと探せば見当たるだろう。


釈迦と同じ修行を積んだからといって、悟って成仏できるかというと、そうとは言えないのである。

宗教は生活のためにあると判っても、宗教を超えていけるかは、その人しだいとなる。

前回でも書いたが、皆そのうち起きてくるのである。起きないからといって、たたき起こすものではない。

用事やら仕事やらで起きなきゃならんのなら、たたき起こさざるを得ないかもしれないが、それは生活の内での話。


宗教が国の範囲ぐらいにまたがっているとして、その中で出来上がった教義だとかは、やはり、その地域色を帯びていく。

忘れがちだが、朝になったら日が昇って、夜になると沈むというのは、日本人にとっては当たり前で覆しようもない話で、これが基準になって当然、と思われるだろう。

何をか言わんと思われるが、朝晩の勤行という感覚は、この日の出日の入りが当然の環境だから定着した単なる習慣であって、真理ではない。


なら、それが当然でない地域はどうなるのだろうか?それが理解できない人々は、地獄行きが決まっているのだろうか?

南極は忘れたが、北極に近いヨーロッパなんかは、空を見てても朝だか夜だかワカラン状態が何日か続く地域もある。「白夜」というやつである。

かつて、小林よしのりの漫画でフランスでディナーに出かけた話を書いていたが、夕方だというのに昼間のように明るい状態と、ちらっと書いていたものである。

今の世の中は、共通の時間認識を持って生活しているがゆえに、問題にはならないだろうが、そういうのを普遍の真理だなどと言い出しても仕方ないのである。

日の出日の入りは、具合が違うとはいえ毎日地球上で起こっているとはいえ、日本で見出したものは、万国共通ではないのである。外国でも同じである。上記の白夜やフランスの日照時間もまた、日本の常識とはならない。

それは、日本人の宗教、つまり生活でしかない。


かつて拙は子供のころ、親に聞いたものである。

「これをやっていない人で幸せな人がいるが、どうなのか?」と。

返ってきた言葉は、「そういう人達がこれをやっていれば、もっと幸せになる」とか、別の方面から聞いたような覚えだが、「そういう人達も法華経のリズムだか流れに乗っているのだ」といった具合であった。


話は変わるが、地上で一番発行部数のある書籍は『聖書』というのはご存知だろう。

では、二番目に来ているものは何かご存じだろうか?

それは、現代でよく耳にする、引き寄せの法則と呼ばれているモノの原典ともいえる、『原因と結果の法則』というものである。

ジェームズ・アレンという人物が、百年以上も前に書いた本だとのこと。

また引用的に簡単に理屈を説明する。


人は考えたとおりのものになる。

プラスの思考がマイナスの思考を生み出すことはなく、また、その逆もない。

マイナスの世界が現実の世界の背後にあり、それはマイナスの思考が作り上げる。


というものである。最後の一行は、説明していた箇所にはマイナスの世界の現実の、となっていて意味が分かりにくかったので、変更している。

何ということはない。底抜けに幸せな人は、勝手に幸せになるというだけの話だったのである。


先日から書いたが、「ガンです」と告知されたらぽっくり逝ったというのは、こういうことである。

おススメしないが、自分をガンだガンだと想像してみよう。ガンというものにまつわる、不吉なメッセージをあれやこれやと集めまわることになろう。

冗談でもやらないほうがいいので、もし試すなら、ちょっと試したらすぐやめること。それは他のマイナスな話全般にもいえる。


さて、これだけでは不十分なので、たまたま行き当たった話をする。


先日、釈迦の弟子で裏切り者といわれている、提婆達多(だいばだった)という人物のことに行き当たったので、とりあえず検索にかけてみた。


比較的新しくできたと思われる仏教解説のサイトに、提婆達多の生い立ちやら釈迦とのエピソードが書いてあった。


提婆達多は釈迦の親戚で、釈迦に次ぐ能力の持ち主だったそうだ。

というのも、何をやっても釈迦に勝てず、ずっと二番手だったのである。

彼は必死に勉強したり訓練したりで、釈迦をやっつけて一番になるんだ!と頑張るのだが、結局、大きな大会で釈迦にあっさり負かされてしまう。


ものすごく端折って書いたが、こういう話であった。後年、出家した釈迦の元で修行したり、釈迦を殺そうとしたなどという話もあるが、そこはいい。

どちらにしても、上記と変わらないからである。


彼は一番になりたい!と願い続けたのに、どうしてなれなかったのか?釈迦がすごいのか?まあ、釈迦はすごいのだろうとしてもだ。


一番になりたいと思いっているのは見た通りだろうとして、実はそう考えてなかったというのがある。

それは「釈迦に負けて二番手に甘んじているのは嫌だ」とばかり考えていたからである。

こういう思いは、「釈迦を倒して一番になりたい」からで、結果として、自身が常に二番手にいることを想像しているが故なのである。


つまり、本人としては願っていたつもりではないのだが、実際は二番手を願っていたので、願った通りになっているということである。

実際、上記の負けたという大会も、釈迦に負けて二番手、という結果であった。


これは単語を変えれば、何にでもいえる。

貧乏は嫌だ!と言っていた場合どうなるか?それは、貧乏を意識している。

病気は嫌だ!と言っていた場合どうなるか?それは、病気を意識している。

不幸は嫌だ!と言っていた場合どうなるか?それはやはり、不幸の塊となっているのである。


じゃあ、金持ちになりたい!なら叶うかというと、もう一度提婆達多の事をよく読んでもらいたい。

「釈迦に負けて二番手に居続けるのは嫌だ」と提婆達多は考えていた。

「貧乏は嫌だから金持ちになりたい」では、上記の提婆達多と同じことになるのである。


提婆達多も、あっさり負かされた時に、こう考えればよかったのかもなと思う。

「釈迦の奴、本気じゃないみたいだから、次は奴の本気を見てみたいものだ」とか。

そうすれば、次はあっさり負けることはなくなるかもしれない。


貧乏ならこう考えてみてはどうだろう。

「これは世を忍ぶ仮の姿で、世間を見て回っているのだ」とか。

病気ならこう考えてみてはどうだろう。

「病気さんもお仕事なんだろう。ごくろうさん。働きすぎは毒だぞ」とか。

不幸だというなら、上記のようには考えにくいだろうから、まずはこう考えてみよう。

「わたしは不幸ではなく、わたしであり、ただ、不幸な状態なだけなのだ」と。

あなたはガンです!でガーンとなって死ぬのが冗談抜きで人間なら、あなたは不幸です!と言われて先立つ不孝にもなるのが人間である。

上記でも触れたが、「あなたはガンです」とか「わたしはガンです」というのは、自他をガンという存在だと認識させることとなる。

提婆達多のエピソードの件で言えば、「わたしは釈迦に負ける二番手です」ということになる。


それでは、ガンも、貧乏も、不幸も、永遠の二番手も、永遠に変わることはない。

何故なら、そう願っているからである。


自身にも覚えがある。覚えもあるし、そうやっていた人物のことを、かつて書いた。


陰謀論という奴で、それを理解しない人々に業を煮やして言っていた。

「日本人は馬鹿だから、陰謀団(好きな陰謀団の名前を入れよう!)に殺されて当然だ」と。

馬鹿な日本人、だったかもしれないが、こういう言い回しだった。

森での生活こそ真理!と言い出し、それを理解しない人々にも以下略である。陰謀論と森での生活を混ぜた、文明脱却論というノリである。


他にはかつて見たことがあるベジタリアンのブログでは、「こんな世界は狂っている!」と叫んでいた。


人を馬鹿だと決め付ければ、何をやっても馬鹿だと見なすものである。

実際に馬鹿な行いをしたからといって、その人が馬鹿な存在であるかどうかは別の話である。

いつどこで見ても馬鹿な行いしかしないなら、そう言っても差し支えはないだろうなとはいえる。

日本人は馬鹿だというのだから、全国津々浦々広め聞きまわった結果なのかというと、そうでもないわけで。

そして、この世にあるものを悉く危険だ陰謀だといい募る。そのノリならたぶん、森も危険になると思いますが?


いわゆる宗教らしい意味での宗教を奉じている人も、医者のガン告知の如くやりがちである。

いわゆる宗教らしい意味ではない宗教(すぐ上の方々)もまた、同様になることは、往々にしてある。


宗教なんぞ実際は関係ない法則に合致していただけのことを、まるで霊験があると言っているあたりは、前回の顕正会も創価学会も、数多の特定宗教を奉じて広めている人々も、変わりはなかったのである。


これをやっていると幸福になれる、というのは、つまり、これをやっていないと不幸になると言っているのだから。

そういう心根を作り上げる故に、特定宗教に肩入れするというのは危険極まりない。宗教と謳っていなくても、この理屈が分かれば充分であろう。


また、『魔術入門』でバトラーも書いていたが、日常では体験できない不思議なことを出来るようになっていくと、慢心し、選民意識を持ってしまいがちである。それを指導で戒めていくとあった。


その戒めもなく、戒め方もわからない(上記なら「言葉遣い」となるか)か意図的に放置しているというのが、世の中の現状と言える。


さてさて。理由や根拠はわからなくてもよい。本来、人間であること自体が幸福なことなのだと聞く。

というわけで、拙はこういうことにする。

「我々は幸福なのだ」と。


では、よき終末を。


よき生活

2018-12-06 | 雑記
先日、某宗教団体に勧誘を受けて、ついうっかり入ってしまったものの、十日前後だったのでクーリングオフしてきた、と書いた。

電話で辞めると言ったときに、相手にもそういう冗談にしか聞こえない話も言った気がするが、それはおく。


こちらは夜勤明けで、向こうは平日は日中の仕事。正午から昼休憩だろうと思い、十二時を過ぎるまで、例のお店で飲みながら待っていた。

その宗教団体の名前は、「顕正会」という。たまに街中で日蓮大聖人の仏法がどうこうという話をしている人、といえば覚えがある人もいるかもしれない。


顕正会と創価学会は、兄弟みたいな間柄となる。

日蓮正宗の総本山、富士大石寺の一般信徒の集まりを、他の宗派も同じ呼称かは知らないが、「講」と呼ぶ。創価学会という講と、顕正会(破門以前は別名だった)という講という具合で、破門されていない中では法華講というのがある。


何故うっかり入ってしまったのかというと、「創価学会から離れられれば何でもいい」とつい思ってしまったのだが、それがそもそも、間違いである。そのことについては後ほど。

さて。かつて、創価学会の中で読み聞きした話で、「宗門(日蓮正宗のこと)は、学会員を呼び戻すのを折伏だなどと言っている」とせせら笑っていたりした。

そんな彼らは、自分たちの足元を揺るがせにする衝撃の事実が、今年になって色々と沸き起こり、上記の顕正会の言うことに納得して、転向しているのだとか。


例えば、大石寺には、弘安二年に書かれてずっと保存されている曼荼羅がある。

創価学会の現会長の原田氏が、公式に「信仰の対象にしない」と発言したのである。つまりはお達しである。

「授受しない」という言葉で表現していたが、拝む対象にはしませんと言っているのである。

このことだったかは忘れたのだが、数年ほど前に、拝む対象にまつわることで会規を変更したというのが新聞にあった。気が付く人は「これはおかしい」となるレベルのものだったが、大方の人は拙と同等に抜けているので、気にしていなかったものである。そもそも、こちらは気にしていないが、それはともかく。

後は、名誉会長という、まるで上皇かのような役職の、池田大作氏の著作のゴーストライターをやっていたという元幹部が、実は五年ほど前から顕正会に入信しており、それまでずっと黙っていたそうだが、今年になって、ゴーストライターをやっていた時の内実を暴露したのだとか。

ゴーストライター云々は、週刊誌などからだが、ちょくちょく聞き及んでいた。のだが、もう一つあった。

日蓮が書いた手紙の集大成というのがあり、他は当時の幕府に送った、中公バックスという文庫(紅白のめでたい装丁である)にも収められている『立正安国論』などを含めたものを、『御書』という。
学会員の家には必ずある。名前だけ入れてるだけ、とかいうレベルでなければ。

件の元創価学会幹部でゴーストライターをしていたという人物が語るには、その『御書』の現代語訳を、創価学会に都合よく歪曲していたともいう。金の誘惑に負けて、騙し騙しやっていたと、悔悟の念を語っていたらしい。

きっと、新聞配れて書いてるんです、とか捏造したのだろうと笑いそうにはなったが、それは今書きながら思いついたところである。

そんなわけで、「そのことを言わないでくれ」と、件の人物の元へ、創価の幹部が頼みに来たなどともいう。


というのを、顕正会の人に勧誘を受ける際に伺ったところである。かつてせせら笑っていたことが、シャレにならない状態で彼ら自身に降りかかっているようだ。


後は、「曼荼羅をどうしても処分したいなら、こちらで預かることもできる」などというのを言っていた気がするが、どうやらそれにそそのかされてしまったようである。

いや、もう一つあった。

今から一か月ほど前になる。勧誘を受けた日からは二十日と少しの、十一月のある日。

帰宅して宅配の再配達を頼んで待っていたら、折り悪く、近所の学会員が訪ねてきた。普段なら居留守だが、思ったより早く宅配が来たのかと、確認せずに開けてしまったのである。

それに対する、拙のバカげた対応を書いておく。

「ごめんよ。元気してたか?」という。その人物は、口を開けばすぐに「ごめんよ」と行ってくる上に、そういう時の顔は実に陰気である。心配して来たのだろうに、こちらを心配させるような顔はよしてもらいたいものである。

「ああ、そうですか。さようなら」と言って、ドアを閉じ、聞こえるように音を出して鍵をかけた。

そして奥で煙草を詰めなおそうとしていたら、またノックがある。今度は覗いて(これこそ確認するまでもないが)、ドアを開ける。

その時に向こうが何を言っていたのかは忘れたが、腹立ちもあったのと、その人物の陰気に嫌気が指していたのだろう。「もう学会に関わりたくないから、来ないでくれ」と言った。

「何かあったの!?」と、慌てふためくが、「何かあったじゃなくて、昔からです。学会も辞めたいぐらいです」と述べ、ドアを閉めた。

部屋の中に戻り、「感情に任せて動くべきではなかったか」と少々後悔もしたものだったが、それが尾を引いたのだろう。

そういう話が先日あったから、今回、この話(顕正会の勧誘)を聞くことになったんでしょうね、などと語ると、相手はひどく驚いて喜んでいた、などということがあったものである。

つまり、創価学会から離れたいというので頭が一杯になっていたが故に、といえる。

他にも「やりたいことはないのか?」というような具合の話である。かつて、結婚したくないという話を、その人たちに、創価学会の家の生まれであることを絡めて話したりしたもので、それに纏わる話なんかもされた。

その時言ったが、「何もしたくない。何もしないというのをする」とは言ってはある。冗談だと受け止めただろうが。


想定していたような、気持ちの悪い感じはなかったのだが、こうも思ったものである。「昔の学会とやらも、きっとこんなノリだったのだろうな」とか、見せてもらった幹部会のビデオ(見た日の前日開催のもの)で、体験談を語っているのも、名詞を変えれば、創価学会でも聞いたこととまるっきり同じ状態であった。

やたら親切で、後はその人の癖らしいが、やたらべたべたと触る。こちらの体躯がひどく細いからと、腕を掴んで「細い」などとやってくる。別れ際の改札前でそれである。

もう反故になったろうが、今度の土曜に昼からあるから行こうなどという。こちらは夜勤の日だというと、「じゃあ車で迎えに行くから、車で寝ていたらいい」などと言い出す。

それ自体は非難の対象ではない。それぐらい行動的だというだけの話である。人目に付くところで腕を掴んで「細い」と二人して(勧誘時の二人)と言い合っていたのは、閉口するが。

それはさておき。これはすごいなと思ったのが、会長の浅井という人のことだった。九十近いというのに、二時間余りの会合で最初から座っており、登壇する会員の方をずっと見ていた。一人だけ椅子が斜めに壇の方へ向いていたのだが、そこに腰かけていた小さな(人のことは言えないが)老人が、会長という。

姿勢をほとんど変えることもなく、壇上の方を眺め続けている。腰が痛くならないのだろうかとも思うほどで、尚且つ最後に登壇した際の内容も驚いたものである。

会の内部にまつわる話をした後(年一度のお布施の額変更や、入信者の数)、十月にアメリカのシンクタンクで行われた会見で、ペンス副大統領の演説の話をしていた。それの要点を話する際に必要と判断した四つを抜き出して、延々よどむこともなく語り続ける。

副大統領の演説というのは、中国の拡大主義への警戒というやつだが、そうなったこと自体、今までのアメリカの態度とは打って変わっている。

その後の米中外相の会談は、まるで喧嘩で、終始罵り合いの如きだったという。


じゃあ、なんでそうなったかというと、池田大作が云々という。


日中国交正常化直前の中国は、悪名高い「文化大革命」の後。中国はボロボロになっており、当時の首相の周恩来は、日本から金をせびりたかったので、都合よく動かせる上に影響力の高いのはいないかと、創価学会に目を付けた。

ある取材で、中国の外務省の官僚に「創価学会をどう思うか」と尋ねれば、しばし考えこんだのちに「とても利用価値があります」と述べたというのがあるほどである。

で、作家協会の交流で度々訪中していた、阿川佐和子に「池田大作に会わせてほしい」と伝え、昔、創価の会長もしていた幹部の秋谷に話が伝わって云々。というわけである。

この流れは、創価学会の自慢話として、何度も聞いたものである。

池田と周の会談の後、公明党の幹部が訪中し、周の頼み事を全部メモして(その人物がメモ魔だというのは、創価でも聞いた)、田中角栄に渡し、それから日中国交正常化と相成ったというのである。

その後の中国がどう動いてきたかは、言うまでもない。簡単な例だと、ODAの横流しだとか、覇権主義的拡張を続けて、軍事力は世界有数となっている。ミサイルが日本に向けられている、というのも有名な話であろう。

チョット考えれば、殺しまくっていた毛沢東の右腕なんぞをやっていた人物が、綺麗ごとだけで動くとはいえない。

池田は、その前後にローマ法王を大石寺の本堂落成に呼ぼうとしたりしていたそうだが、ノーベル平和賞は貰いそびれたそうだ。代わりの名誉会長なのかもしれない。名誉という文字は貰えた。

簡単な話である。

周も池田も、お互い野心満々だったから、うまく噛み合って、こういう流れになったのである。

いいことはいいことを呼び込むが、ろくでもないことが呼び込むのはやはり、ろくでもないことなだけである。


浅井会長は、前述のスピーチで、呼び捨てにしてはいたものの、口ぎたいな罵倒はしていなかった。

顕正会がかなりのスピードで伸びてきているのも頷けるものであった。


日蓮が言に、「災いは口より出でて身を破る」とある。

かつて創価で見ていたが、うまく飼い慣らせなかった宗門側に噛みつかれたからと、まるで人でなしだと罵りまくっていたものであるが、それらが返ってきているのであろう。

とはいえ、別に顕正会が正しいという話ではなく、これは世の中の摂理なだけである。


辞めると電話する際に、件の店で、店主のネパール人と話していた。拙が入信してしまった件は向こうも承知なので、最終確認でもあった。


というのも、である。


勧誘をしてきた人物は二人組だが、その内のメインの方が、ネパール人と結婚したという。勧誘を受ける一か月前に、お店のイベント終わりに訪ねてきて、そんな話をしていた。

拙は飲んでいたので余り憶えていないが、店主はこういう目にあったと語った。

「旦那さんがネパール人なんですか。じゃあ友達になれそうですね」と手を差し出し近づくと「なれませんよ」と撥ねつけられたという。冗談染みてやったのか、その後フォローしたか、という流れや雰囲気までは聞いていないが、その行動だけで、傷つけるには十分である。

それが大きく響いているのか、それ以外に何かあったかは分からないが、「あんな人達はもう来なくていい」と憤っているほどである。近所には住んでいないので、何某かのイベントで休みが重なった時だけの程度の人たちではある。


辞めると電話した際に、改めて尋ねた。

「顕正会は、時が来たら、今ある施設は国に寄付するんですよね?」(書いてなかったが、勧誘された際に具体的な期限は忘れたが、そう公言していると語っていた)と。そしてこう告げた。「なら、僕も期限なんで、抜けますね」と。

いきなりのことなので、向こうも面食らったらしい。電話自体かけてくることが予想外だったようである。知り合いに電話をかけられるのが予想外?というのも、今となっては不思議だが。

前提となる細かい話は前回の記事を読んでいただくとして、彼女たちが勧誘しようと拙を呼び出した時、いきなりこう言ってきた。

「最近いいことあった?」

なんてことはないように聞こえるが、前回の話を踏まえて考えてもらうとして、これは「こいつは不運の塊だろう」と認識しているのではないか?となる。推測なのか?と思われるだろうが、つい人は「自分はガンです」と間違えた認識をしがちなのだから。指している意味は同じだが、同じ結果にはならないのである。


あれがひどく気になったものだ、という話をする。人を不幸の塊か何かと決め付けているのだと、こちらも決め付けておいた。

上記の理屈を説明はしなかった。というより、そういう余裕もなかったとはいえる。

それに、あちらは昼休みだろうから、「実はダブルクロス(スパイの意)なんです」などという冗談を言う暇もなかった。というより、ほんの少し、気を遣っただけである。

実際にはトリプルクロスとも言えるが、別に報告する組織や機関はない。

そして、先日の握手の話をすると、本人は憶えていないという。石を投げた方は忘れるが、投げられた方は憶えているものである。

件のお店の店主から証言は貰ったと伝え、こういった。

「そんなことをする奴がまともな人間なわけないだろう!もう二度とかかわるな」と、電話を切った。

すぐにかけなおしてくるかと思ったが、なかった。夜になって、別の人物に電話で顛末を報告していたら、その間に電話があったらしい。メールで着信の知らせが入っていた。


顕正会が嫌で抜けたい、と言っているようには聞こえないし、何か違うような気もするが、付き合い続ける意味もない。別に悪気があってやっているわけではないだろう、という向きもあるだろうが、普段から気を付けていないと、間違いの善意が人をおかしくしていくものである。


それはともかく。


何がそもそも間違えていたのかというと、拙は宗教をやりたいわけではなかったのである。もう少し正確に言うと、特定宗教に肩入れすることを否定している。

宗教というものは、定義が様々だが、そんな一般に広まっている定義ではない話をすると、それは、生活パターンである。

日本では想像しづらいが、多くの国々は、多民族が混在して暮らしていることが多い。

習慣の違いが軋轢を生み、不安を煽りやすい。そこで、お互いが安心して暮らせるように、共通認識を持とうとなり、それの権威付けに人を超えたものとしての神を設定したという。

つまりは、宗教も神も人の生活のためにあるのであって、宗教や神のために人の生活があるのではない。


日蓮宗及び日蓮正宗は、その教義に、「世界中にこの宗派を広める」というものがある。宗派というよりは、その拝んでいるモノ、であるが。

まあ、そうなれば皆ハッピーかもしれんが、何かに似ているなぁとふと思ったものである。

体内にチップを埋め込んで、それで感情や思考を統一してしまえば、世の中(誰にとってかしらんが)ハッピーになると言っているのも、変わらないなと。

とはいえ、ハッピーかもしれない。戦争も宗教同士の殺し合いも、ご近所のトラブルもなくってしまうだろうから。

そこは皮肉としても、体内にチップを埋め込んで制御しなくても、自身で言葉遣いやら人に対する態度を制御するというのは、洗脳である。

日蓮宗は陰謀団だった?なわけはないが、ともかく、そもそもが古臭い話なのである。

創価学会の創価の意味は、「価値を創造する」から来ているというが、ちっとも出来ていないと言える。

顕正会の顕正は、日蓮宗から出てきたのか知らないが、恐らくは仏教用語に「破邪顕正」というのがあって、悪いものをやっつけて正しさを示すという言葉から来ているのだろう。

とはいえ、日蓮正宗内の教義で正しいか正しくないか、という意味での顕正でしかない。


宗教は人の生活のためにある、ということを指摘している事例は、実は既にキリスト教にある。釈迦の説法にあったかはワカラナイ。


有名な話で、キリスト教の母体と言われている(諸説あるらしいが)ユダヤ教は、現在の日本でもキリスト教国にならって、日曜が休みである。

安息日という奴なのだが、定めたところによると、お休みの日というよりは「その日は仕事をしてはならない」というものであったという。

しかし、ある時、麦だかの収穫がどうしても今日やらないといけないというので安息日に行った人達がいて、こっぴどくユダヤの司祭だか周囲の人々に非難されたが、それをキリストが擁護するという話である。


人が宗教のために生きなければならないなら、ユダヤ教徒の非難はごもっともとなるが、本当にそうなのか?とキリストは指摘しているといえる。


キリストや釈迦は、「覚者」と呼ばれる。各々、色々な奇跡を起こしたりしているのに、超人ではなく「目が覚めた人」なのである。

釈迦の呼び名にある、「仏陀」も同じ意味である。


宗教が生活パターンなら、つまりは生活は宗教と相成る。家に仏壇だとか拝むものがあるとかは関係ない。

そして、生活を超えた何かを見出すことを、人は「目が覚める」と呼ぶのである。


脳内に誰かがチップを埋め込むまでもなく、自身で言葉遣いや態度を制御出来るようにするというのは、洗脳である。

チップで制御でなくても、日々の生活という名の宗教の元、それらを学んで自身を制御、つまり洗脳している。

所詮は生活と馬鹿にするのはいけないが、これこそが真理!と勘違いするのも間違いである。ただの手段を貶めるのも礼賛するのも、お門違いである。



よい目覚めのためには、よく眠る必要があろう。睡眠時間が同じだとして、眠りに入った時間が違うのなら、皆、それぞれの時間に起きてくる。

よき眠りとは、よき生活があればこそと言える。よき眠りを過ごせているからよき目覚めになる、とは限らないかもしれないが。


隣の人が起きてこないと、あわてる必要など、この世にはなかったのである。息をしていないとか、そういうのは別として。



さて、妙な話になったが、他に書いておきたかったことがある。


顕正会側の論説、だけではないが、つまりは創価学会員は、野心家の池田に騙されて、アメリカが「これではいけない」と怒り出している状態になるほど中国に肩入れしてしまい、言わば地球規模の危機的状況に陥れる、悪の片棒を担いできたと相成る。

なら、拙は池田を憎んで、この世から消し去ってやろうなどと考えるのか?

ちなみに、件の顕正会員は、「池田大作はひどいことをしたから、楽には死ねない状態になっている」と語っていた。

色々と飛び交っている話からすると、池田は、まともに生活が出来る状態ではないと噂されている。


そうだとして、可哀想とは思わない。上記に書いた通りなら、そうなって当然であるからだ。

なら、ザマミロと笑うのかというと、笑うこともない。


この件は、昔、別の事柄で書いたが、こう考えている。


そういう流れがあったから、自分が生まれてきて、こうしている。創価学会の発展が違ったりと、少しでもずれていたら、もしかしたら、自分は生まれていなかったのかもしれないと。

そういう意味では、感謝するしかないのだろうと思う。彼の者のなしたことが良いか悪いかは関係ない。


某陰謀論者の話で、同じ内容のことを書いたが、改めて書く。


陰謀で彩られた世界を憎んで非難しているが、そういう流れが(本当にあるのかないのかは別として)あったから、生まれてきて、そういうことをしている。

いるのかいないのかワカラン陰謀団に感謝したらどうだ?と。


こういうことを改めて見直す機会を与えてくれた件の顕正会員には、つい怒ってしまったが、感謝するしかないのだろうと、思うのである。


とはいえ、何故抜けようと思ったのかは、恐らく想像もついてないだろうとはいえ。




余談になるが、では、創価学会に置いてある籍はどうするのかとなろう。

簡単な話である。親が宗旨替えでもしなければ、このままでよい。

所属しておいてやるのが、親と拙との生活パターンという奴だからである。

後は、親が亡くなったら辞める、とは考えている。

未入信の親戚に、集団で入れと迫るような親族には未練もない。

そんな親戚に囲まれて、拙の直接の親だけ宗旨替えするというのは、なかなか難しいだろう。



大多数の日本人は、当たり前すぎて考えたこともないが、お互い全然関係のない宗教の施設に平然と行けるのは、日本人ぐらいのものであるという。

それは、無宗教だが、信仰心がないわけではない。無宗教の信仰心なのだという。

意識が進んでいるから、というのである。当たり前が故に気が付かないし、理解できない人々(主に外国)からは、変な目で見られる。

変な目で見てくる方がお互いを殺しあったりしている宗教だったりするのだから、どちらが変かは言うまでもない。

日蓮とその宗派のありようを、なんとなく知っている人なら、今回の話の中心に出てきた彼らがどちら側かは、想像できるだろう。

拙が若い頃に抱いた違和感は間違いではなく、こういう話に行き当たるからだったのだろうと、考えている。


だから、親にも創価学会にも感謝している。欣喜雀躍してありがとう!というような具合ではないが。


では、よき終末を。


不幸の作り方

2018-12-04 | 雑記
釈迦は言っていたという。「正しい言葉を使いなさい」と。

これを「正語」と称されていたような気がするが、細かいところは忘れた。

判りやすい例でいえば、「お前なんか死んでしまえ!」だとか、「おまえは間抜けだな」というような言葉遣いが思い浮かべやすいだろうか。

綺麗な言葉を使ってそういう言葉には親しまないようにしましょう、という標語のように聞こえる。聞こえているなら、とりあえずは問題ない。


ところが、そういうところではない、と不断の疑問を取りあえずは棚上げして考えてもらう。


これらのことに類する事柄について、先ほど、知人にさらに続けて語った。どういう内容なのかというと、以下である。


正しい言葉遣いというのは人に向けての、上記のごとくだけではなく、明晰な判断を欠いた言葉遣いを指すのだと。


誰にでも覚えがあるだろう。疲れがたまってあなたは風邪を引いた。そして、こういう。

「私は風邪です」

まあ、風邪を引きました、というのが普通だが、何かの拍子に「風邪なんで」とはいうだろう。


風邪ならそこまで気にしないこともないところして、これならば、ご自身の経験がなくても、聞き覚えがあろう。


ある人が、何かで医者に診断を受ける。そして、こう告げられた。

「あなたはガンです」

医者にそう告げられたあなたは、自身の口か内心でこう呟く。

「わたしは、ガンなのだ」と。

そして命尽きるその日まで、闘病生活が続き、そして病院のベッドでこと切れるのだと。


これはどういうことなのかを説明する。


つまり、ガンという疾患、つまりは治っていくはずの、言ってしまえば風邪と同じもの。治るのに時間が掛かるかもしれない、ということは別として、治るか治らないかの話である。


医者は、ガンをとても治しづらいものだと、毎度のように説明する。とはいうものの、治る人もいる。

そこは良いとして、釈迦の「正語」という観点から言うと、妄言となる。


何が?と思われる向きが多いのは承知で言うが、拙もあなたも、風邪になろうがガンにかかろうが、風邪でもガンでもないのである。

風邪にかけて言うならば、「ガンを引きました」となるはずのもの。ガンを引く、だと弾が飛び出しそうだが、引くのは引き金である。


病気は医者が作っている、という話がある。医者にかかってひどいめにあった人たちや、その人たちの証言を集めて、世に訴えている人々がいたりもする。

これは、嘘ではない。嘘ではないが、受け取った当人の問題でもあるという、またひどく不安を煽る話になるのだが、ともかく続ける。


こういう言葉遣いは、「あなた自身をガンという存在として認識する」ということになる。

そもそも。健康な人間の体内では、常日頃からガン細胞が沸いては消えというのを繰り返しているのだと、実際に医者は言っている。

ガンと言われるまでは、皆口々に言うだろう。「わたしは健康です」と。

ならば、人は健康なのである。健康だからといって、仙人だとか魔法使いのごとく、何百年も生きないだろうし、生まれつき細胞の老化が異常で、十歳そこそこで肉体年齢が老人という病気の人もいた。昔、某テレビ局でちょくちょく取材した話を流していたので、知っている人もいるだろう。ここで言いたいことは、死ぬまでは人間は健康だと言いたいだけである。

話が逸れたが、ガンという、風邪と同様に完全に消滅することのない存在だと己に思い込ませることによって、人は本当にその病状に侵されて死んでしまうことができるのだと、知人に語った。

すると、こう返ってきた。

「仕事をさぼるのに、例えばおじさんが病気で、とかいうと、本当にその人が病気になったりだとか、普段はマラソンだとかして頑強な人が、一たびガンの告知を受けたら二週間ほどでなくなったりとかあるんで、わかります」と。

人は、拙も覚えがあるが、こういい易い。

「わたしは不幸だ」と。

不幸をガンとか風邪に置き換えてもらう。そして上記の話の流れに乗せて考えれば理解できるだろう。

風邪やガンと同様、人によって千差万別の不幸というものは、消えることはない。

そして、消えることのないそのものだと認識することによって、人は不幸そのものになり、自他を苦しめ、場合によっては自身を殺すことになる。


今回のタイトルに戻ろう。


拙は某宗教団体の家系だと、寝言でも言い出しかねないほど書いてきた。

そして、その傍流の団体から、先日、勧誘を受けて、何かの間違いで一週間ほど、登録していた。今も残っているかもしれない。「辞める」といったのはついさっきなので。


某宗教団体というのは、日蓮宗の分派と言われる、日蓮正宗の…というやつだが、知っている人は知っている。

正義を掲げて悪を断ずる、というのが宗旨である。日本風のキリスト教といっても差し支えないのが、それである。


いきなり話が吹っ飛ぶが、アメコミが原作の「スパイダーマン」というのがある。

今から三、四十年前だろうか、日本でも許諾を受けて、特撮ドラマをやっていたそうだ。日本人俳優でやっている。

その主題歌の一節にある。「悪を探し空駆ける」と。探したり求めたりしている。


スパイダーマンはまあ、いいとして、うっかり八兵衛じゃないが、うっかり入ったところも、実家もそうなるといえるが、自分たち以外は悪かそれに近いと考えがちである。そういう宗旨である。

ここの読者なら、もしかしたら閃いたかもしれない。

そう。陰謀論、というより陰謀論者である。ここで何度も語り草にした人物がまさにそうだった。今?知りようもない。人より森やら地球と呼びならわす生活環境を礼賛しているらしいとしか。


それは、この主張を理解しない日本人は馬鹿だ。陰謀団に殺されて当然だ、というノリである。



ガンの告知の話に戻る。


医者は診察に参った人物に告げる。あなたはガンだと。

それを受けた人物は、自分はガンなのだと思い込んでしまい、本当にガン地獄へまい進してしまう。

なにせ、上記で触れたが、ガンは風邪と同じくらい普遍で、ガンではないが、風邪を治療できる薬が出来たらノーベル賞ものだといわれるほどである。

なら、聞かなければいいのでは?となるが、既にそのことは知人の言が示している。

嘘で親戚が病気だというと、本当に親戚が病気になったと。

これは我々の日常の感覚でいうならば、偶然で済ませるところであろうとはいえ。


某宗教団体だけでなく、数多の存在はいう。「人を幸せにしたい」と。

不幸な人を助けたいと。字面は高尚である。

ただし。既に言ったが、前後が抜けているので理解しがたいが、人はそもそも「幸せ」な存在である。別の言葉で「そもそも健康」といったが、ニアリーイコールと思ってくれればいい。

それらに、多くの人が自分に向けて「わたしは不幸だ」と述べるのと同様、彼らは目についた人にこう述べる。実際に口にするかは別としても。

「あの人は不幸だ」と。

不幸でコーティングしたのを、少しほぐしたところで、「霊験があります」という具合にして、本来はもともと、もっと幸福であったものを(可能性ではあるとはいえ)隠し、己たちのおかげだとのたまう。

それが、自他の不幸の作り方なのである。


釈迦は言っていた。己の心のありように気を付けるようにと。


だからといって、別に釈迦は皆を戒め続ける、現代社会に蔓延する宗教団体のごとくではなかった。


わたしが見出した法理というのは、わたし以前の人々も見出し、また、わたしの後の人々も気づいていくものなのだ、と、釈迦はいう。


子供に、大人が経験し、理解したことをいきなり知りえるかというと、その子しだいだとはいえるが、桃園の誓いのごとく、同時にはなりえない。



ともかく。あなたが理解しなくてもよい。まずは己自身が理解を深めることである。


変な例えだが、皆が明日の正午に成仏しましたとなれば、その夜にあった、見たかったスポーツの試合も見れなくなるだろうというもの。


成道するなら、悔いを残したくはないというものである。なにせ、釈迦にも嫁と子供はいたのだから。


どちらもいない拙が人にいえた義理ではないというのは、とりあえずは忘れてもらう。


では、よき終末を。


その視線

2018-11-24 | 雑記
先日のことであった。いつもの通勤で通り過ぎる、小さな公園がある。帰宅は一定しないが、帰宅時にも通ることは多い。

そこは住宅街の一角で、道路に面している。横断歩道で車が来ていないか確認していると、公園で遊んでいる親子がいた。

よちよち歩きという具合の小さな子と、その母親と思しき女性が戯れている。

歩道を渡り、公園の敷地に一歩踏み込んだその刹那だった。


母親と遊んでいたその子供が、こちらを見出したと同時に、動かなくなった。発作だとか躓いただとかいう話ではない。

動かなくなってこちらを見ているというのは、公園に足を踏み入れたと同時に分かったことだったので、どうしたのだろうかと思いつつ、その近くを歩いていく。

というのも、急に先ほどまで遊んでいたのが固まってしまったので、母親が柔らかそうなそのほっぺに風船(に見えた)をあてがいつつ、「ほら、ボール」と語りかけているのに、微動だにしない。

かなり近づくまで、こちらも視線をそらさなかったので、こちらを見ているというのは理解していた。母親は子の方を見て、上記の行動をしている。

こちらも立ち止まったり、見つめ続けると不審がられるかと思い、視線を進行方向に合わせ、そのまますれ違うことにしたのであった。母親と思しき女性が、その子にボールをあてがいつつ名を呼んでいたのが記憶違いでなければ、女の子だったと思われるので、余計に気を遣ったのである。


これは以前、たまにニュースだとかになった、「事案」の逆だなと思いつつ、仕事に向かうのであった。



仕事場について着替え、ふと思い出し、仕事場にいた、そういうネタを言ったり言われたりする女性スタッフ(人妻)に、「さっきこういうことがあってな」と語ると、こう返ってきた。

「ああ、きっと宇宙人を見たんですよ」と。

つまりは、単純に、拙のことを宇宙人だと言っているのである。

宇宙人なら、知っている人だけのネタになるが、カバンからアイスクリームを取り出したりしなければならないと思うのだが、そんなことは出来ないのに何故か、拙は宇宙人扱いらしい。

肌は浅黒いので、最近やっている松本零士原作のアニメの登場人物の宇宙人にも見えないというのに、困ったことである。


自ら宇宙人だなどと名乗った覚えはないのに、それに近い話もあった。


夜勤スタッフの一人が、先日風邪を引いていて、声がおかしい。「風邪か?」と問えば、「熱は下がったけど、咳が止まらない」とのこと。

すると、当日のチーフが言う。「気でも送って治してあげなさい」などと。

その人物に直接、気が見える、という話をした覚えはない、というのは、前にも何度か書いたものである。いきなりこんな話を見た人には申し訳ないが、そういう話を書き綴っている、訳のわからないところだとご理解願う。

出来ません、というのも何なので、「他人にやったことないので、効くかどうかはわかりません」と返すと、「やっぱりできるんじゃないか」と答えた。

何故そういう話になるのかとさらに問うと、件の人物はこう答えてきたものである。

「出来そうに見えるから」と。


ふむ。そうなると、拙は宇宙人に見えないこともない可能性があり得るので、少々訓練を積んで、カバン(拙のカバンは結んだ風呂敷だが)からアイスクリームを取り出せるようにならなければならないと、思わなくもなかった。


作家のひろさちやが言っていたものだが、世の中を見る時に、他の人と同様に見ていては仕方がない。そうしていると、ウンコ地獄(実際そう書いている)から抜け出した視点を持てないから、例えば宇宙人になったつもりでこの世を見てみるのはどうか、などと。

人というのは無限の可能性であると言えなくもない。ならばどうするか。

そうであるならば、この世に起こることを、全て珍奇なものと捉えれば、毎日が不思議なものでしかないのだと思えるだろう。

今もやっているのか知らないが、トミー・リー・ジョーンズが出演している、某缶コーヒーのCMの如きである。


我々は、地球へ調査にやってきた宇宙人なのだ、などと思えば、この世は摩訶不思議で、何が起こっても腹が立つというより面白いことなのだと、毎日が楽しくなるか、面白すぎてストレスになるかのどちらかになってしまうかもしれない。


では、よき終末を。


理解できないから?

2018-11-07 | 雑記
今年の夏から再開している、某オンラインゲーム。

去年の夏ごろから続いていたシナリオが終結を迎え、その終わりと同時に、次のシナリオへと続く形を示して幕切れとなった。

もちろん、打ち切りではなく、来年のアップデートで新章が始まるという意味である。

漫画の終わりでいうと、敵を倒したー!と思ったらもっと強敵が出てきたー!続く!である。週刊漫画なら休載でもなければ来週になるが、こちらは何か月か待つこととなる。


その某オンラインゲームのシナリオの評判は、どちらかというと悪い。

具体的な内容をあげつらうつもりもないし、それにシナリオの批評をやるつもりもないが、何にでも当てはまる難点をいくつか挙げれば、設定の矛盾だとか、演出が悪いだとかはある。

もっと詳しい非難もある。シナリオライターが、かつての自身の小説の設定を流用して、その某オンラインゲームのシナリオに使っているだとか、読んだこともない人間にしたら、「よくぞそこまで調べたものだ」と思わなくもない。

思わなくもないが、実際にその点は危うくもある。シナリオライターが運営会社の財産を私物化している状態になるのでは?という指摘なのだが、そこまでいくと、シナリオの良し悪しに対する直接的な非難とはいえない。

古くはラヴクラフトが始めた小説のごとく、シェアワールド的なノリを、オンラインゲームのシナリオで展開しようという試みだったのかもしれないが、推測の域を出ない。しかも、ただの思い付きの推測である。


ここでたとえ話をする。


「桃太郎」と呼ばれるおとぎ話がある、などというと、馬鹿にしているのか?となるが、とりあえず。

始まりはこうだ、というまでもないが、改めて。

おばあさんが川へ洗濯に行くと、大きな桃がどんぶらこと流れてきて、じいさんと食べようと思い持って帰り、柴刈りから戻ってきたじいさんと共に切ろうとしたら、中から子供が出てきたと。

また、「竹取物語」だと、竹の中からこれまた子供が出てくるというのもお馴染みであろう。

馬鹿な!人がそんなところかから生まれるはずがない!こんな話は出鱈目だ!と非難するのを聞いたことはない。されているのかもしれないが、知らぬ。

ちなみに、「桃太郎」は実は改変されていて、川から桃が流れてくる点は同じなのだが、老夫婦がその桃を食べると若返り、そこから子作りをして生まれたのが桃太郎の主人公という流れだとか。

ああ、それなら…。いや!桃を食って若返って子作りなんぞあり得ない!こんな話は以下略!という非難の向きも聞いたことはないが、子供に子作り云々と直に言うのは近代社会ではタブー視されるので、現代に流布している形への改変となったようではある。

だが、こういう話はずっと昔から受け継がれてきた。なぜだろうか?こんな破綻した設定のシナリオがどうして?と思わないだろうか?


話を戻す。

某オンラインゲームのシナリオのジャンルは、「SF」である。SFは和製英語らしく、サイエンス・フィクションだとか言われたりしているが、厳密な定義はよくわからない。

とある漫画家だったかは、「少し不思議の略」だと申していたそうな。記憶が確かなら、藤子不二雄のどちらかだったかと記憶しているが、曖昧である。

話が出たついでに、藤子不二雄の漫画、厳密には藤子・F・不二雄の「ドラえもん」の話でも思ってもらうとよかろう。

ダメな小学生ののび太のもとに、未来から猫には見えない猫型ロボットがやってきた。目的は、過去を改変するためである。

のび太がこのままでは未来の子孫が困ってしまうので、送られてきたという話だったはず。

こう書くと、映画の「ターミネーター」を思い出す。ロボットが助けに来るのは「2」の方だったが。

よくある考察だと、「ドラえもん」の流れでいけば、そも未来はもともとののび太がそのまま過ごした先にあるわけで、このままだったらダメになってしまう状態なら、その未来は生まれてこないはず。

なのに、ないはずの未来があって、そこから過去ののび太を助けるという矛盾が起こっているとなる。

「ドラえもん」を見ながら「なんだこの矛盾は!」と憤りながら見ている人は、寡聞にして知らない。怒らなくても、おかしいと思っているせいで仏頂面になりながら見ている人は、いるのかもしれないが、全国にアンケートを取って調べているわけでもないので、知りようはない。

未来が過去を助けるというこの理屈は、実は、時間が不可逆的なものではないという論理の元では当たり前の話となる。

いきなりなんだそれは?となるが、別にタイムマシンで飛んで行って助けてくるというのが当たり前だと言っているのではない。


あなたの過去にひどく辛いことがあったとしよう。ないという人もいるが、ともかく。

それを延々引きずっていて、今も辛いと。しかし、ある時、それに纏わる、当時はわからなかった事情を知ったりして、トラウマになっていた過去に対する評価が逆転してしまい、今ではむしろそのことに感謝するくらいで、今は快適だという話があるだろう。

実は、この理屈である。タイムマシンだとかはたとえである。実際にそのような物が未来に出てくるかは、拙には何とも言えないが。

トラウマの原因が実は、掛け替えのない物だった、などというのは、それが陰惨な事件だったりしたら、ひどいシナリオだと言われそうだが、そんなものである。


ある、名前は忘れたが、海外の文芸評論家が言っていた。「我々は批評家になりすぎている。作品をもっと楽しむべきなのだ」という具合の事を。楽しむこと自体に没頭するべきだ、だったか。


某オンラインゲームの、去年から先日まで続いていたシナリオは、言わば夢物語の世界を探索するというものだった。

「お話の世界」である。その結末の方では、実際に何でもありな状況が起こり、主人公の助けになっていき、結末を迎える。

こんな都合のいい流れなんぞあるか!だとか、めちゃくちゃで話が頭に入ってこない!という風な非難の向きがある。

「お話の世界」はなんでもありである。あなたが決め付けている、既定路線の外にもお話はある。


上記のたとえ話をもう一度。

トラウマの原因だった過去の事件が、例えば、目の前で親を殺されたことだったとして、実はその親が自分を殺そうとしていたのを、たまたま忍び込んだ泥棒が仏心を出して、止めるために殺してしまった、というのを知ったとしたら、どうなるだろうか?

その親がどうして殺そうとしてきたのかは、もはやわからないとしても、殺そうとしていたのも覆らない事実だったとしての上記の流れなら、感謝一辺倒にはならないかもしれないが、殺した相手を憎むだけにもなるまい。

めちゃくちゃな話ではある。



彼らは、彼ら自身の「お話の世界」を楽しむことができない。だから、シナリオをけなす。

自分の知識や感覚や想像力がなまくらだったりすることは、思いもしないことがほとんどである。

持って回った言い方をしてきたが、別にさっきから書いている、創作上の話のことだけを指しているのではない。

あなたは、我々は、もっと「己というお話の世界」を楽しむべきなのだと。


「お話の世界」はなんでもありなのだから。


では、よき終末を。


鳩が飛ぶ

2018-11-04 | 雑記
先日、毎週金曜と土曜を予約して来店する常連の方が、キャンセルの電話を入れてきたという。今回は土曜のみの予約だったが、木曜に電話を入れてきた。

高齢ではあるが、よぼよぼとは言えない、しっかりしている方なのだが、たまに、今までで数えるほどしかなかったが、体調を崩したりでキャンセルするということはあった。体調不良以外でのキャンセルもあるが、キャンセル自体が珍しい。

だが、今回は毛色が違った。

手術をするという。その時に応対に出たスタッフは今朝も出勤だったので、改めて話を聞くと、死にそうな声でどうなったか、何の手術をするのか、日程はと語るのを聞いていたら、泣きそうになってきたほどだったと答える。

余談だが、そのスタッフ(女性)は、感受性が強いというのか、日本人にやたら多いという、エンパス的なところがあるようで、何かでそういう風に思われることを語っていたものである。エンパスとは何ぞや?というのは、この世には便利なものがあるので、ここでは書かない。

とはいえ、たびたび会う機会があり、たまにお土産を貰ったりする相手が、電話口で死にそうな声で語っているというのでは、恐らく、拙でも同様に動揺するだろう、などとダジャレを言っている場合ではなかった。

話を戻すとして、心臓が悪く、鼻血が止まらないと言っていたとか。心臓で鼻血?と少々疑問に思ったが、スタッフに問い返しても意味がないので、「不思議だな?」とは口に出すにとどめた。後は、上京の理由が仕事のこと以外では趣味で来られている方で、それが体を動かすものなのに、来店時や退店時に、ひどく辛そうな具合の時があったのを思い出したので、あれは今回の手術に至ったものの兆候だったのでは?と所見を述べておいた。

書きながら思ったが、心臓が悪いの種類が違うのだろう。当初思ったのは、心臓の動きが弱っているのだと考えた。
しかし、異常に拍動するのもまた、心臓が悪いとなる。それなら、気血の巡りが激しすぎたりで、鼻血になるのだろうと。

そして、手術をこの日に行うとも言っていたという。それが実は、本日なのである。

その客がキャンセルしていたというのは、金曜の夜には知っていたのだが、その時は体調不良としか聞いておらず、あまり気に留めていなかった。

それとは関係なく、「最近、お参りしてなかったから、帰りは近所の神社に寄っていこう」などと、なんとなく考えていたら、上記の話に行き当たったというわけである。

帰り際、例の電話に出たスタッフに、「じゃあ、最近行ってなかったから、帰りにお参りしてくるわ」と言い残し、帰途に就いた。

そして、その神社に行ったのはいいものの、電車を降りると雨が降っている。

雨は問題なかった。最近、空気が乾燥していたので、唇が渇いたりで、少々うんざりしていたからだ。

問題、というほどではなかったのだが、神社に着くと、着飾った親子が集まってきている。

なんと、今日は七五三だったのである。そういう行事に疎い生まれなので、こういう日にあるとは知らなかった。

拝殿に人が集まって出入りしているので、「辞めた方がよかろうか」とも考える。

とはいえ、時間を空ければよかろうと思い、近所の店で昼食を摂り、引き返したが、やはりまだ人はいる。

「七五三なんで、今日は貸し切りです」というのは、普通のお店ならあり得るだろうが、ここは神社。

そんな神様がいるか!と考え(そこまで乱暴な言葉で考えてはいないが)、意を決して鳥居をくぐった。

話は前後するが、先ほどあきらめかけて通り過ぎた時は聞こえなかったと記憶していたのだが、戻ってくると、境内の木々から小鳥の鳴き声がしきりにしていた。先ほどは聞こえてなかっただけなのかもしれないとはいえ、妙に聞こえる。

念のため、拝殿のすぐ脇にある、お守りやらを売っているところに人がいたので、「お参りしてもいいですよね?」と尋ね(残念ですが、というような答えはなかった)、しばらく振りのお参りを済ませ、先ほどお尋ねをした神社の方に軽く会釈しつつ、階段を下りた。

五、六段ほどの階段を降り切ったと同時に、左手から鳩が十はいなかったと思うが、何羽か飛び立った。すぐ近くに一羽がいたりで驚いたからとは思えなかったのだが、計ったように飛び立ち、こちらの頭上の少し上を飛び越して、鳥居から拝殿に続く道を斜めに横切り、境内の大きな木が植えられている、土のところに全羽が降り立った。

こう書きながらその光景を思い浮かべると、まるで映画か何かのようだなと思うのだが、その時も、実は同じことを思っていた。

さて、帰宅し、ポストを確認すると、これまた予想通り、宅配の不在通知が入っていた。その差は十分未満といったところ。

そして現在進行形だが、この上の行を書いていると、再配達を頼んだ宅配が丁度やってきた。冗談のようである。

ここからはあまり冗談にしたくないというか、少し気分の良くない話である。


再配達を頼んでから、ゲームをしていた。オンラインゲームというのは、物にもよるが、決まった時間に起こるイベントがある。

それに出撃していたのだが、少々調子が悪いなと思っていた。夜勤明けでゲームをやるものではない、というのは忘れてもらおう。

その時間制のイベントが終わって後始末をしていると、ドアをノックする音がしたので、頼んだ宅配が予定より(電話口では、早くて二時から四時の間と言っていた)早く来たのかと思い、確認せずにドアを開けると、見知っている人物がいた。

何のことはない。近所のなんとかインの人である。ビョウインとかオクノインではない。


開口一番、その人の口癖なのだろうが、「忙しいところごめんね」か「ごめんね」という。

こちらは煙草を詰めて火をつける前だった煙管を咥えたままドアを開け、その人が何事かを言ったのを確認した後、こう言ってドアを閉めた。

「ああ、どうも。では、さようなら」

向こうもあっけに取られたかと思うが、五分もしないうちにノックをしてきた。

こういう、あからさまに相手にする気がないような態度を取っているというのに、理解してくれないのが癪に触ってしまったのだろう。以前から言いたかったことを吐き出してしまった。

「もう僕は、創価学会の相手をしたくないんです」と。

いつも困ったような顔をしているその人は(理由の一つとしては、こちらがまったくその方面の公に顔を出さないからだろうともいえるが、そこまでは知らない)、戸惑ったような声で(表情のせいかもしれないが)、「何かあったの?」と聞く。「元から嫌なんです。辞めたいぐらいです」と言って、ドアを閉めた。辞めたいぐらい、となったのは、実家のしがらみがどうこうと続く予定ではあったのだが、そんなことを延々話しても仕方がないので、それ以上は語らないことにしたのである。


ドアを閉めてからは少々落ち着かなかったが、腰を下ろして、ふと思った。

「新聞を止めてもらうように言えばよかったな」と。

感情的になるのは、いい結果を招かないものである。それで、少々やり過ぎたかと考えたのだが、何がそこまで嫌だったのかをもう少し考えると、拙は、その毎度尋ねてくる人物があまり好きではなかったようである。

ドアを開けたり電話を取るごとに「ごめんね」では、あたかも罰してもらいたいかのようである。

陰気が伝わるので、どんどん嫌になってきたのだろうと思える。なら、その創価学会についてはどうなのか?と思う向きもあるだろう。

この話を次に回してもいいが、次がいつになるのかは分からないので、手短に書いて終わることとする。


拙は、宗教を否定する気はない。だったら、お参りなんぞしない。市内のとあるお寺の喫煙所でたびたび休憩していたら、先日は、買い物帰りのお坊さんが「こんにちは」と声をかけてきたぐらいである。その人は声をかける人で、他の人は会釈だけだった、というのかもしれないが。

宗教は、いや、宗教だけでなく、人として生きていること自体を、人は乗り越えていく存在なのであり、そのことを知ろうとしなければ、どのような煌びやかさを示そうとも、世界中で信者が増えてますだと言っても、意味がないのである。
宗教を宗教で完結させている以上、それはもはや物理的な人の世界のうちで終始する、幻でしかないのである。

以前に何度も書いたが、釈迦は宗教を作っていない。イエスもキリスト教を作ったのではない。

人という枠組みを知って、それを乗り越える足掛かりとなるか、それとも足枷となるか。

宗教としての宗教は、決して前者には導かない。足枷となるからだ。

また、それに気づくのは、個々人のみであり、教えたからといって、同じようになるものでもないのである。

釈迦は別に、自分の説法を聞けば解脱できます、なんぞとは言ってないし、イエスはなんと言ったかは知らんが、「この中で罪のないものだけが石を投げよ」と語ったように、自分で考えないと意味がないよ、とでもいう風なことを述べている。

一世を風靡した?スピリチュアルネタでいうと、全世界同時アセンション、てな具合の話があっただろう。

言っていることやっていることは、昔からある宗教としての宗教(宗教を宗教で完結している、と同義と思ってもらう)の焼き増しである。

釈迦か仏陀という別人かははっきりしないのだが、「七回生まれ変わってようやく悟ったから、もう人間に生まれてくることはない」という言葉を残しているという。

その人が気づくかどうかというのは、個体の年齢や経験といったものだけでないとするのなら、全世界が同時に平和になったりアセンションするというのは、ただの冗談というものである。

そういうことを無視して語っているのだから、どれだけ善意を、いや、むしろ善意を込めれば込めるほど、禍々しいと形容したくもなろうというものである。


足枷がなければ、足枷が邪魔だということは理解出来ないとはいえ、足枷の不自由さを自由だと思い込むのまた、人間の可能性といえるのである。


だから、そんな可能性はいらぬと考え、「相手にしたくない」と言ったというわけである。上のことを一瞬で考えて言ったというわけではない。


こうやって、怒ったように書くことになるから、あの時、鳩が驚いて飛んだのかもしれないなと、笑覧頂ければ幸いである。

では、よき終末を。



飲めないお茶の話

2018-10-13 | 雑記
しばらくここを放置しては、思い出したかのように、いや、実際に思い出して書き始めてはまた止まる、ということがちょくちょくある。今回も例にもれず、というわけである。

久しぶりに文章を書こうというので、そもそも書けるのかどうか怪しい。そこで、ここしばらくの話で茶を濁そうと考えた。


数か月ほど前に、休止していたオンラインゲームを再開した。辞めていた理由もバカバカしいのと、その時書いた気がするので、改めて書くことはしないが、怒りにまかせて決めた事というのは、例えばそこから始めた習慣だとか決意だとかいうのは、何にもならんということが、改めて理解できたかもしれない。

何のゲームかというのを具体的には書いていないが、それは日本国内サービスで有数のID登録数を謡っている、昔はゲーム機を作っていたとある会社の、といえば、分かる人には分かる。

外で飲み食いしていると、金がかかるので、こっちの方がよかろうと思って始めたりしていたことはあるが、結果的にはそうともいえる状況である。

と思っていたら、先月、ついにPCが起動しなくなった。電源は動くが、システムにエラーが出たから修復しています、というような画面が出て、何時間たっても延々変わらない。

さすがに何年もパーツの更新をしてこなかったのもあり、マザーボードに至っては初期のもので、買った年月を後で調べると、十一年ほどとなっていた。

ならば、今やっているゲームをもっと快適に動かせるレベルのに変更しようと、修復画面から戻るかどうか徹夜でにらめっこしていたあと、新品を買ってきて、今に至る。


そこは余談である。


某オンラインゲームを久方ぶりにプレイしていながら、ふと思ったものである。

「こうやってゲームが出来てるってことは、実にありがたいことなんだろうな」と。

単純にゲームの会社が常々、プレイヤーのセーブデータを破損しないように保存して、尚且つ二十四時間いつでも接続したら、どちらかに異常がなければ問題なく(接続者数の集中などで動きが悪くなるなどというのはあるとして)プレイできるというのがある。ゲーム会社にサーバーがあるわけだが、つまりはその精密機器の塊をしっかり管理しているからというわけである。どれくらいしっかり管理しているのか、というのは専門外なのだが、まめに保守しないと、すぐ壊れるのだろうと思われる。

しばらく前に北海道で地震があり、停電が続いたりしていたが、電力会社の供給がなくなれば、上記は破綻する。ゲーム会社の方でなく、自分が住んでいる地域だけでも停電したら、アクセスは不可能と相成る。

無論、それだけではないのだが、話を広げると収拾がつかなくなるので、ここまでにする。

そんなものは今の世の中、当たり前ではないか?という声が普通に出てくるだろう。だが、普通のことというのは、本当に普通なのだろうか?

余談だが、こういうことを何となく感じながら再開して、昔からの知り合いとプレイしていたら、今までプレイしていても触れたことのなかった、高級アイテムが手に入ったりしたものであった。

それも、この数か月で立て続けに。プレイ時間の長さもあろうし、その手のアイテムの入手難度の緩和もあったとはいえ、拙より続けている(続け方は知らんが)他の知り合いには出ていないそうだ。


それはさておき。

そのゲームのことを、例えばプレイ日記を書いたり、ゲーム内容のここが良くないだとか、新しいアイテムやらシステムのことやら、発表された今後の追加要素だとかの事を書いているブログが多くある。

タイトルの略称から検索すると、すぐ見つかるあるブログは、何かにつけて、言ってしまえば「あいつら(端的に言えばゲーム会社)あほだ」と書いているブログは、コメント数が百だとかになっていたりするものである。

そういう人たちというのは、上記のような想像は、白痴のごとき無邪気さだと一笑に付するだろうと思われる。


別に、そのブログに群がっている人々を批判するために書いているわけではない。相手にする必要もないし、また、相手にされるような立場でもない。


さて、そうは言ったものの、もう少しその点を掘り下げるとする。


彼らは、サービスの内容に不満を持っていて、それについて怒っていたりする。後は、一緒に騒ぎたいだけのもいるが、内容については理解できるところもあれば、怒るために書いているとしか思えないような不見識も多々見られる。


腹が立つことがあるのは理解できるし、感情は鬱屈させるものではないだろうとはいえる。


いえるのだが、不見識についての御免状にはならない。ここは「免罪符」というのが一般的ではあるが、余談である。


その感情というものであるが、不思議なものである。

一般には、腹が立つから怒っているのだと思われるし、悲しいから悲しみの涙を流して泣いているのだと思われる。

そういうのは実際にあるので、そこは論を俟たないという奴である。

だが、何かを発散させるために感情を表現している、というのが往々にしてあるというのである。

正確かは分からないが、例えるとしたら、「疲れたから怒りの感情表現をする」という風になるという。

感情表現というのは、必ずしもその対象の感情を示してはいないということが指摘されている。


これが不見識に陥る理由の一つなのだろうと考えられる。そもそも、指摘していることが正しいかどうかは二の次になるからである。

怒るのが目的なら、そうなって当然である。


それともう一つ。


人間は感情の生き物だ、というような言い草がある。

感情があるのは当然ではある。あるから正しいとも言っていないが。

問題は、「感情を己自身だと思い込んで振り回されていること」なのである。

「疲れたから怒って発散する」というのは、例えとして書いたが、よくよく振り返ってみれば、そういうことが拙自身にも感じられたものだった。

感情は大事である。それは、職人にとっての道具と同じく大事である。しかし、津波で自宅ごと無くなってしまった場合は、職人は死ぬのだろうか?津波で一緒に流された、ではない。

世を儚んで自決する、というのはあり得る。職人としては廃業する、というのもあるし、再起する人もいる。

使い慣れた道具でなければダメだ、というのは思い込みではある。無論、職人としてはそういうのが尊ばれるというのもあるし、その経験に培われたものは称賛に値するであろうが、平たく言えば、既に書いたが、思い込みなのである。

ちょっとずれた例え話だが、少し。


しばらく前、仕事場の急須の注ぎ口が欠けており、これは危ないかもしれないと廃棄した。今は、余りない来客用に急須で茶をいれるという機会もないので、拙が使っていることがほとんどであった。

では、茶を飲むのをやめたのか?そうはならない。

その急須に付随していた茶こし網を取り出して取っておいて、カップを二つ使い、茶をいれている。これ以前にも急須がなくなったことがあって、その時は濾さずに飲んで、「トルコ式コーヒーみたい」などといわれたものである。

上記の疑問が浮かぶ時点で、先入観というものが起こっている。

それはつまり、急須があるから茶が出来たと思っているのである。実際は違うだろう。茶の飲み方の一つとして急須でいれることが付け加えられたのであって、茶の葉を加工したものを煎じて飲む行為自体は、そんなもの以前からある。


我々は、急須という道具を、茶だと思い込んでいるのである。

感情というのは、偶発的といえる経験が培った記憶による反応である。職人の手になじんだ道具と同義である。

それは、己を取り巻くものであり、かつ己自身の一つではあるが、それだけを取り出して、己自身とは言わない。

急須から茶を注ぐが、急須だけで茶は出てこない。急須は茶葉で出来ているわけではないのだから。
それと、お湯もお忘れなく。


では、よき終末を。



されど、蝉は鳴く

2018-08-08 | 雑記
確か、先週のことだった。

仕事帰り、といっても夜勤明けなのに、家も程近いところを歩いていたその時間は、夕暮れの時間であった。

通勤中に通る道を途中で曲がると、広くはないが、社務所もある神社がある。帰宅時も通ることは多い。

上記のその時間に、その神社の前の道を通りかかると、地面に何かいるのが目に入った。

もしくは、何か聞こえたので、聞こえた方に目を向けた、だったかもしれない。


そこには、道路のほぼ真ん中でひっくり返っている蝉がいた。



死んでいるのかと考え、つま先で小突いてみると、ジジ!となく。まだ息があるようだった。

「そんなところでひっくり返っている奴がいるか!」とひっくり返すと、のそのそ動き出した。かろうじて動くことは出来るようだ。

しかし、飛び立つ様子はない。そこは車も通る。車に轢かれて無残な姿を晒すことは許さぬ、と考え、進行方向に手を差し伸べると、のそのそと這い上がってくる。

「よし」と言ったかは忘れたが、手の甲に蝉を乗せ、自分の肩の高さまで掲げ、目の前の神社に向かう。その神社には幹が太めの木がある。

鳥居を潜ると同時に、神社から退散しようとしていたメガネをかけたおじさんが、拙の手に乗った蝉に気づく。

「蝉ですか」「ええ、そこの道でひっくり返っていたんでね。車に轢かれる前に拾いました」「蝉の命は一週間ほどですからねぇ」「でもまだ多少元気があるのか、ひっくり返し直したら、ゆっくり歩き出しましたよ。それで、せめてそこの木にでもと」「そうですか」

というやり取りをした後、すれ違いざまに、そのおじさんはこう言った。

「ありがとうございます」


えっ?と思ったが、道が汚れたりするのを防いでくれたから、みたいな意味なのだろうと思い、蝉を木に貼り付けた。

最初は上手く行かず、一度落っこちたが、まだ意識はあるようで、次には上手く張り付いてくれた。


そして、これを書いている時間からすると昨日の昼間に、蝉を貼り付けた木を見に行くと、既にいなくなっていた。

車に轢かれるよりは、食われるほうがよかろうと思い、神社を後にした。


その蝉の貼り付けと確認までの間のある日だったと思う。

近所の川原を歩いていると、物陰から鳥が飛び立つのを見た。

どうやら、蝉を食べようとして飛び掛ったのはいいが、咥えるところまでいったのに浅かったようで逃げられていた。


蝉の貼り付けよりもう少し前になるが、道を歩いていると、暑さにまいったのか、電柱に何度かぶつかる蝉を見たものである。

そんなのを見てから仕事場にたどり着くと、差し入れのお菓子があり、その折込の紹介カードを見ると、なんと、蝉の絵が描かれている。

同僚の旦那さんが差し入れをしてきたそうで、ついその奥さんに、「蝉が電柱にぶつかってるのを見たと思ったら、ここでも蝉だわ」などと語ったものである。


例の貼り付け蝉は、地面でひっくり返した時に、少々鳴いていた。木に貼り付けた時に鳴いていたかはもう定かではないが、今日は気温が多少落ち着いたためか、真昼の帰宅から夕方まで、蝉の鳴き声が聞こえていた。

例年、蝉の鳴き声が少なくなったかと感じていたが、それでも蝉は鳴いている。


蝉の腹は、音を響かせるために、空洞が大きい。

『老子』の一説だが、部屋を作るために穴を開ける。この空間は無駄ではない。また、車輪の間に穴があるのも無駄ではない。これを無用の用というとある。


蝉を拾って木に貼り付けてやる、なんぞというのは、実際無用のことである。


しかし、蝉は音を鳴らすために、無用な物を作り上げた。


人間もまた、己という音を大きく響かせるためには、無用を持つ必要があるのかもしれない。


我々は有用を追う余り、本質的には無用を抱え込んでしまっているのだろうと思わざるを得ないのである。



では、よき終末を。



欣求穢土

2018-08-02 | 雑記
日本史の中で、大きな転換点となった戦というと、豊臣勢と徳川勢の雌雄を決した、関ヶ原の戦いが思い浮かぶだろう。

などと、歴史の話を始めるようでいて、実は関係がないのだが、しばしのお付き合いを願う。

関ヶ原の戦いで全て決着したわけではなく、その後、大阪城に居座る、豊臣秀吉の肉親を滅ぼす戦いがあった。

確か、大阪夏の陣と冬の陣、という、二つの戦というのか紛争というのか手討ちというのかは忘れた。

どっちであったのかも覚えていないのだが、徳川が豊臣に言い掛かりをつけて滅ぼしたという流れであった。

それは、寄贈した寺の鐘に刻まれた文言だったかに、忠君豊臣 国家安康とか書いてあったが、家康を蔑ろにしているのか?と言い立てて始めたと、高校の教科書で読んだ気がする。

豊臣、の字は分かれていないが、家康の字は国家鮟鱇、ではなく安康と分かたれているから、という事である。

大阪城の濠について交渉し、一番外の奴だけ埋めていいと許可を貰っておきながら、一気にその先の濠まで埋めてしまうという約束破りをやったりしていた。滅ぼす気満々である。


それはさておき。


ここも記憶は定かではなく、もしかしたら別の武将だったかもしれないのだが、その大阪夏の陣やら冬の陣で、とある文言を旗にしていたと記憶している。

「厭離穢土 欣求浄土」と。読みは「おんりえど ごんぐじょうど」である。仏教系の言葉だと思われる。ついでに、アンコウは変換したら魚になるが、これらはしっかり変換される。さかなヘンを取れば同じ字になるのは、何かの偶然なのだろうか?

意味は読めるなら言うまでもない内容だが、穢れた土、即ちこの穢れた世が嫌だから離れて、浄土を求めるということである。

改めて断っておくが、これを徳川が掲げていたかは、書く前に確認したわけではない。余り突っ込まないで頂く。というより、日本史の話をしたいわけではないからである。



さてさて。先日から何度か、いわゆる陰謀論者という存在に突っ込みを入れる話を書いてきた。

似たり寄ったりの話なら以前からしているので、目新しい話ではないと思われるが、そもそも、目新しい話などない。

人の世で繰り返されていることは、真に目新しいといえるようなことはない。敢えて言うなら、日付が違うくらいである。

怨恨による殺人事件、と題を振れば、怨恨の理由もやり口も、棍棒が包丁だったり拳銃だったり毒殺だったりというだけで、動機も流れも変わらない。

企業や政府の不正というのも、昨今騒がれているのと同様、日付と固有名詞を変えたら、明治の新聞に載っているのと変わりがなくなるものである。



というわけで、目新しくないついでに、復讐、ではなく復習がてらに、よくある話を綴る。拙の体験ではなく、お聞きになったこともあるだろう話である。


とある会社員が、仕事場の人間関係が嫌になって転職した。

転職した当初は、前と違ってよくなったなぁと思っていたら、前の職場と同じように人間関係で嫌な目に合あうことになった、という話である。


まあ、本当に転「職」するなら、会社員じゃなくて籠編み職人になるとかやれば、本当の意味での転職なのだが、現代社会は会社にしか職がないと思うのも無理はない。


どこが復習なのかよく判らなくなってきたが、もう少し続ける。


上だけ読まれて話が続いても訳が判らないので、陰謀論者という存在について書く。

曰く、いわゆる陰謀論者というのは、この世界は誰か、もしくは何かが我々を陥れるために仕組まれたものだと訴えている方々だと。


改めて書き出して並べてみれば、共通点が見えてこないだろうか?


会社員を陰謀論者に変えて、人間関係を環境とか社会とか世界だとかに変えてみよう。


転職した会社員は、人間関係が嫌になって離れたが、結局、別の場所で同じ目にあっていると書いた。


この世という職場の環境が嫌になって、でも離れきることも出来ないから、環境が悪いと口を極めて罵っているといえる。

いつも引き合いに出している誰かさんは、森に「転職」したが、上記の如しである。

上記の例えの会社員もそうだろう。人間関係で嫌な目にあったのは、そこにいる人達が嫌だったから、であろう。

いわゆる陰謀を働いている存在に「転職」してもらったところで、本質的に変わることはないのである。


すなわち、他人のせいにして転職をした会社員とやっていることは何一つ変わらないからである。


会社員は考えるべきであった。「そこにいる人達が嫌だ」に、自分を含めていないということを。


陰謀論者も考えるべきであった。「陰謀のせいで我々はひどい目にあっている」というのは、己自身も陰謀に加担、もしくは含まれていることを。



もう少し具体的な話をして、終りにしようと思う。


高名な「アスパルテーム」という甘味料がある。砂糖じゃないので太りませんよ、カロリーがないんで。というノリで売り出されている。品名はまちまちだが、原材料名に書かれていたりする。

これが体に悪くて、実は却って太る上に、色々と心身に悪影響を及ぼすと、一昔より少し前から、特に作って売り出したアメリカなんかでは話題になっていた。

こんなものを売り出す企業は悪徳だ!陰謀働いている!というのがよくある話である。

実際に、政治的に働きかけて売り出したという話もある。当時の国務長官だったかのラムズフェルドが、自分の会社のそれを売らせるために、アメリカのこっちでいう厚生労働省に自分の腹心と思しき人物を要職につけさせて認可させた、というしかないような話が出ている。

FDA(アメリカの厚生労働省的な役所)は、実は圧力と思しき上記のことが起こるまでは、アスパルテームを認可しなかったのである。

砂糖のもどきを売るのに認可がいる、というのも不思議な話だが、研究報告で、猿がおかしくなったり死んだというのが出ていたので、当然の判断だったのだと思われる。


では、何故そんなものを売り出すことになったのか?勿論、売れると踏んだからである。

何故か?一般人が砂糖では物足りなくなっているからである。そのくせ、太りたくないだのなんだのと文句を言っているからではないか?

砂糖より健康的です、というのが売り文句の一つだが、砂糖自体が害悪だという向きもある。

いずれにせよ、加工されたものは全て害毒だ!という向きの話もあって、それを少し踏まえて話を書くとしたら、そもそも砂糖も陰謀になる。(そう言っている向きもある)

陰謀だと言い出した理由は何か?食べてたらおかしくなったとか太ったとか虫歯が増えたとか、中毒性があるからいけないのだなどという。

この中毒性を利用して、人類をボケた脳みそに作り変えているのだ!というのが、横文字の物質だけでなく、ありとあらゆる、「人の手」が入った物事全般に言い及んでいる陰謀論というものもある。

まあ、ここで何度も引き合いに出してきた、「ラクダ達」がよく言っていた。


中毒性があるからとかないからとか、実際は関係ない。

煙草吸ったら病気になりますよ、とはパッケージに書かれているが、病気になるほど吸うのは、煙草のせいになるのか?

余談だが、日本で販売されている煙草の注意書き(肺気腫の悪化云々)を書いた人物は、学者の養老猛の後輩で、養老がそれについて「根拠はなんだ?」と問い詰めると、まともに答えられなかったそうな。

書いていないだけで、砂糖もなんたらテームも中毒性やら病気になる可能性があるが、病気になるほど摂取するのは、誰のせいか?

売った奴が悪いのか?砂糖や煙草はともかくとして、動物実験で猿がバタバタ死んだりするような毒物を売るのは明らかに悪いが、それが売れる下地はどこから来ているのか?

甘いものを一杯食べたいけど、太ったり病気になりたくないなどとぬかしているのは、どこの誰か?ラムズフェルドが思ったのか?

これは正しく、上記の例えの会社員の如く「人のせい」にしているだけである。アスパルテームがあるからではない。

厭離穢土というが、穢土が嫌だから浄土を求めるなんぞというのは穢土のことで頭が一杯なのである。

Only 穢土では浄土なんぞに行き着くことがないというのは、上記の会社員の如しというわけである。


前にも書いた言葉に少し付け加えてもう一度書いておく。

陰謀があるから我々は陥れられているのではない。人は自他の環境の言いなりのままでは間抜けだから陰謀に付け込まれるのだと。

全地球を掌握しようというレベルの陰謀論的陰謀だけではなく。




以上になるが、白状しておく。実はこのダジャレを思いついたから書いた。

当初のタイトルも『Only 穢土』だったのだが、ネタバレに過ぎたので、ここまで書いて変更することにした。

とはいえ、厭離穢土が過ぎた欣求浄土は、Only 穢土になるのである。

そもそも、浄土なんぞどこかにあるわけではない。己で作る以外にないのだから。



では、よき終末を。


希望が消えた時

2018-07-18 | 雑記
先週は休みが続いていたので、久々に『整体入門』を読みかけていたと書いた。

野口晴哉はずっと言っていた。現代人は食べすぎなのだと。それで糖尿になったりするわけで、さして食わなくても食いまくっていた時より遥かに身体は動くのだし、食べ過ぎて怠けるなら、それこそ悪いことをする以外になくなるわけで、活元運動が広まれば、お互いを疑りあって暮らすようなことはなくなるだろう、という風な希望を述べていたものである。

思うに、世にはびこる陰謀とやらの遠因は、己の裡の要求というのを無視した、上で言ったように食べすぎて怠ける己のことを無視した結果なのでなかろうかと。

そうなると、あまり動かなくて儲けようなどと考えれば、悪い事をせざるを得なくなる。なら、世の中を牛耳っている、パッとみでも判るような、いわば「お偉方」じゃないかと言われそうだが、まずは考えてもらおう。

あなたが思いつくことは、既に誰かが思いついている。なら、誰かが思いつくことはまた、あなたも思いついて当然である。

いわゆる「悪いこと」を思いついて実行される原因は何か?それに思い至らなければ、「歴史は繰り返す」こととなろう。

とはいえ、人の身であり続ける限りは、繰り返される歴史というある種のフィクションに沿って動き続けることになるのもまた、必然と言える。

だからといって、森に入ったところで人を辞めたつもりになるのは、それこそ人の愚かしさそのものであると、何度も指摘した。



さて、先ほど、何かの縁で健康関係のHPやらを見ていた。スギナの茶が健康にいい!というのをたまたま見て、そこから調べたら行き当たった。

いわゆる陰謀論の話を展開していた。そのことについては、異論はまったくない。

表面上は儲け続けようと思ってやってきていることだから、人を間引いて(死人続出のがん治療だとか)、それらの遺児には現状維持を教え込み(世の中の決まりきった形を型通りに教える)、かつて遺児だったものはまた間引いて・・・と繰り返すのが、今時の商売のやり口であるのは、言うまでもないからである。子供が大人になったら、その大人が子供時代のおもちゃを買いなおす率は低かろう。

そして、そういう世の中の流れというのは、実に不可逆的で、絶対的な何かの力で動いているように感じるし、また思える。

個人の力は無力である。それはそうだ。人が人を変えるというのは、山を切り崩すより大変というより無理である。


先日来から言おうと思っていて、書いているうちに忘れたり話が長引いて逸脱したり、はっきり書けてなかったりしたことがあった。



さっきも書いたが、世の中というのは、実に抗い難いもので、こちらを押し潰すのではないかと考えるのも無理はないと。

これはまるで現代社会特有なのかというと、そうではない。

健康の良し悪しは別とし、日本だけで見るとしても、そこら中に餓死者が溢れているような時代ではないのは判るだろう。災害が立て続けに起こってはいるが、『日本沈没』の憂き目に会っているわけでもない。

かつては、食いつなぐことすら困難だった時代が長かった。日本も例外ではない。

森で生活していたから安泰、というのは楽観にすぎる。森は現代でいうコンビニではない。

仮にそうだったとして、どうして飢餓状態で発揮される遺伝子が我々の身体に残されているのか?それは進化だったのか?最初から無かった体力なら、火事場でも出なかったはずだとは、野口晴哉の言である。

森でたらふく食っているだけでよかった、などというのなら、安定をもたらした森林の消失と共に、我々の先祖に当たるものは、地上から姿を消していたであろう。

だが、我々は生きている。木の股から生まれたのなら森で暮らせばよかろうが、木の股から生まれた証拠を出してもらわねばなるまい。

また話しが脱線してきたので、元に戻す。


かつては自然の、または神の「陰謀」だった人類への災害だとかの困難は、現在はまだ目に見える形での軍産複合体による「陰謀」という流れになっただけで、別に何も変わってはいない。

地震兵器についての話なんぞは、昭和の新聞では当たり前に出ていたと聞く。出なくなった年代は知らないが、恐らく二千年代からは出なくなったと思われる。

ジャーナリストのウイリアム・イングドールが、その現在の神(自然の、または神の「陰謀」というのにかけただけである)がやろうとしている統治、その名も「ニュー・ワールド・オーダー」について言っていた。

あれは新しくなんかない。アンシャン・レジームの復刻でしかなく、「ワン・ワールド・オーダー」と呼ぶべきだと。

それらが人の形をしているからなんとか出来るとお思いの方も多いだろうが、人が人を力ずくで変えるのは無理である。出来ても破綻するだろう。


ならばどうするかというと、己自身を変えよ、である。


何ゆえ大企業やら大富豪のとてつもない陰謀を書き散らすのか?書けば書くほど、またそれらを見れば見るほど、己の中にある恐怖が膨れ上がるだけである。

なら、無視すればよいのかというと、これもまた違う。

無視するのは、恐怖を克服しているからではなく、ただ、己の中の恐怖心を見たくないがゆえである。

それらの情報を知るのはいいが(推奨はしない)、恐怖心と猜疑心の塊になるのなら、意味はない。


陰謀を書き散らす人に伺いたいところだが、仮に、そういう存在を全て抹消したのち、何をするのか?

曲がりなりにも、というとあれだが、彼らが敷いて(強いて?)来たと思われるレールの上で成り立っている生活をぶち壊す覚悟はおありか?

また、その後の混迷を統治する気概がおありか?

己の不幸は何某のせいだ、と言っているだけではないのか?



似た話は、知り合いからも聞いたものである。


某駅前で、「安倍を辞めさせろ!」とチラシくばったりしている人がいて、知り合いはちょっと癪に障ったので聞いたそうだ。

「安倍を辞めさせたとして、それからどうするのだ?」と。

その相手は、特にどうしたいという言葉は出てこず、ただ安倍を辞めさせるのが目的だというノリで、会話にならなかったそうだ。


これと同じになっていないか?という訳である。



話が回りくどくなったが、簡潔にいう。


陰謀とやらも含めて、周りがどうこうではなく、あなたは何をしたいのか?どのように生きたいのか?これだけなのである。

某森の生活者は、マネーがない世の中を作ると言っておったが(フタコブラクダの方の新HP)、マネーが無くなれば幸せになるというのは、既に述べた「己の不幸は何某のせいだ」の言い換えに過ぎないのである。
また同様に、「これがあるから幸せだ」というのも同じ。コインの裏と表である。

上記のビラ配りと同様、目に見える対象に振り回されているに過ぎない。

コインの裏と表に違いはない。百円玉の裏は五百円の価値がある、などというのはおかしな話であろう。



さて、話は代わるが。


先ほど、この話の切っ掛けになった、某健康と陰謀のHPの件に絡めて、少々続ける。


現代人は栄養が足りない、というのは、ちょくちょく聞く。

曰く、土壌のミネラルがとか、農薬のせいでとか、遺伝子改良作物のせいでとか、穀物が本来は人間に合わないからとか、以前からよく聞いてきた話であった。

別に目新しくも無く、また、今まで習ってきたことから逸脱もしていない。

それは今まで通り、食べたものの成分を取り込んでいると思い込んでいるのだから。それには違いないとするとしても、正しいとは思えない。


野口晴哉が言っていた。

いろいろと余分な栄養を与えて、食物から栄養を摂取しようという体の勢いを消してしまうというのはよくあることだと。

また、一粒種が大樹になるのは、必要な物質を気が集めてきてなったのと同様に、人の体も要求によって生み出された気が必要な物質を集めて生み出したのだと。


江戸時代に日本を訪れた外国人の手記があるのをご存知か。

その中にある記述で、雇った人力車の車夫が何を食っているのかと思ったら、野菜と穀物メインだったので、これはいけないと思い、力つけてくれと肉を食わせていたら、後の方で「もうやめてくれ」と言い出したそうな。

食わせていたら、当初のような力強さがなくなっていったという。


別にベジタリアンになれ、という話ではない。


現代の我々は、栄養が足りていないと、そういう風に気を動かしてしまっており、栄養があると聞けば飛びつく状態なのだと。

野口晴哉が現役だった何十年か前からも、流れは変わっていないといえる。



いわゆる陰謀論というのは、常識の否定と相成っている。

なら、そういう常識も否定すべきものであろう。

また、政治活動やらをして他人や環境を変えていくというのも、正に常識的である。


世の中を変えたいというのなら、己を変えろというのは、現代社会では正に非常識である。


だから、外ばかり見ないで、己の内側を見、さらにそれを広げていく努力をすべきである。


スペインの思想家、オルテガが見出した命題がある。ずっと前にも何度か書いたものだ。

「わたしとは、「わたし」とその環境である」と。

わたしが変われば環境も変わる。それはオルテガ以前からも、ずっと伝わっている話ではある。

常識と、それの対になったかのような恐怖で「わたし」を縮め続けているのなら、自ずと環境も小さく、また歪になろうというもの。



病気が治ったらどうしたい?という質問にまともに答えられない人がいる。

するとどうなるか?病気が長引く。もしくは悪化して死ぬ。

仮に世の中からいわゆる陰謀が無くなったとしても、夢も希望も持っていないなら、その先は闇が続くというわけである。

そういう人を助けてくれるとかいう宇宙人とやらは、間違いなく、詐欺師であろう。

夢や希望のお手伝いしてあげます、というならまだしも、絶望の淵に立とうという人を助けますというのは、霊感商法と同類なのだから。

だから、病気が治った後のことを世界人類同時に答えられるはずがないので、「陰謀」は消えないのである。



本当の陰謀とは、あなた自身が夢や希望を抱いていないことだといえる。本人が夢や希望だと思っても、それは何かの裏返しだったりするからである。

最早何もかもなくなったとしかいえない状況でも見出せるか否か、である。

ヴィクトル・フランクルが、収容所での生活で見出したかの如くに。

彼は例えば、「収容所から出るときは絶対右足!」という孤独なゲームをやっていた。建物から右足で出ることに何かエネルギーが充填されるとかいうのがあるというわけではないことをお断りしておく。

そういう勘違いが多いのも、人の性という奴である。成功法則の真似をしても成功しないことが殆どな理由の一つであろう。


長くなったが、陰謀自体を否定する気はない。むしろ、よくここまで計画してきたものだと(本当かどうかは別として)感動すら覚える。

現代の生活を、アウシュビッツの収容所と同じだと考えるとフランクルに失礼かもしれないが、そう思うのなら、日々の収容所の生活のうちに、看守にも見破られない独自のゲームをするのがよろしかろう。

それを希望というのである。夢や希望を思い描けるのは、人間だけなのだから。


夢も希望も本当に思い描けなくなると、現実の模倣をするだけになる。

しつこいが、森での生活が理想だというのも、かつての、また現代にも続いている現実の模倣であるからだ。


陰謀があるから希望が失われるのではない。希望を失っているから、陰謀につけこまれるのである。



では、よき終末を。


余談だが、どこぞの天気予報で、「この暑さは終末まで続く」とか書かれていたというのを先ほど見たものである。


サッカーはサッカー

2018-07-11 | 雑記
子供のころの夢は、保育所(幼稚園ではない)時代は飛行機のパイロットと言っていた、なんぞというのは、書くことが何度も重複するここで、大昔にも書いた覚えがあったものである。

小学生の時は、「飛行機が落ちたら死んじゃうから辞めた」といって、カガクシャと言っていた。科学なのか化学なのかは曖昧である。

それを今度は、ドリフのコントみたく爆発したら死んじゃうから嫌だ、なんぞと抜かして夢ではないと言い出したというのも覚えている。

その次は作家、なんぞと言っていたが、今となっては遠い夢なのかなんなのか。

サッカ、という音だけのつながりになるが、過日自殺したという思想家の西部邁は、小林よしのりと仲が良かったときに、小林の現在は廃刊していると思われる季刊誌で、かつてサッカーに纏わる時事評論を書いていた。英語表記が同じなのか別なのかは判らないが、玉蹴りのサッカー以外の意味をさらに二つ述べていた。

後援者という意味と、もう一つは間抜けという意味だといって、サッカーのサッカーはサッカーなのさ、などと書いておったものである。

サッカーの後援者は間抜け、ということになる。後、カタカナで表記するなら、ブラッドサッカーと書けば吸血鬼と相成るが、これらの綴りがどうなのかは今も知らない。

別に球蹴りのサッカーを批難するつもりで書いているわけではないことをお断りしておく。西部はブームに沸く日本を含めて批難めいて書いていたが。

それで、上記の説明をした上で、拙はサッカーになるのだぁ、などと酔っ払っていつものお店で笑っていたりするのであった。

というわけで、拙はついにサッカーになってしまったといえる。これは正に願ったり叶ったりであろう。この世とは面白くてどうしようもない。


さて、サッカーはサッカーでも、すでに上記したサッカーの一種で、エナジーサッカーだとかもいる。別名エナジーヴァンパイア、日本名を生霊などという。

それは一度措くとして、人への突っ込みは運気を下げる、などという話がある。細かい理屈は気にしないで頂く。

もしくは、ここで元ネタにしている所をご存知であれば、あの話だなと判るが、ここで直接は紹介したことはないので、興味があればご自身でお調べいただこう。


というわけで、サッカーたる拙は、サッカーによるサッカーのためのサッカーの面目躍如をしようと思い立ったのである。というか、いつもやっている気がするのだが。

つまりは突っ込みである。酔って件の如し。



数日、休みが続いていたので、部屋に転がっていた『整体入門』を読んでいた。全部読んだわけではなく、体癖(タイヘキ)の辺りまでで止まっている。


その中までで、入浴に関する話を目にしたものである。単純に言うと、体が柔軟な若い時は温度は低いが、歳を食って硬くなると熱めになってくる。

これはあくまで年齢についてのみで、後は疲れた時は熱く、エネルギーが余っているような疲れていない時はぬるめにすると言っていた。


さあ、ここから突っ込みを始めて、サッカーになってしまおう、という訳である。


とあるブログ、といってもスピリチュアルの話と陰謀論の話をやっているブログだが、「返って身体を冷やして壊しかねない半身浴を流行らせたのは、陰謀だ」ということを書いていたのを思い出した。

その方もぬるめの温度で半身浴をやってみたのだが、話に聞いていたような具合にならず、身体が冷えてしまってかなわないと言っていた。


さてさて。こういう美容と健康によいと言って話を流行らせるというのは、一体どこから出てくるのか。広告代理店が流行らせた、というのはいうまでもないが、そういうのを始めた人物がどういうものなのかは考えないのだろう。

森で果物と野菜を食べるのが至高!と言っていたのに、健康に良いから(身体が喜ぶからと言っていた)と、草食いの牛を食べるなどと宗旨替えしたというラクダの事を友人に話したら、こう返ってきたと以前書いた。

「丸の内のOLですか」と。

ロハスだとかなんだとか、環境やら美容と健康にもよいですぅ、といった流行は、大体女性発信で、友人の発言の如しである。

推測であるが、そういうことを実践するようなOLというのは、人にもよろうが、時間やら金が余っているような奴ではなかろうか。

つまり、熱い湯に浸かりたくなるようなほど疲れてなんぞいない、ということである。

そういうのがぬるめの湯に浸かれば、程よくなる。そういうものである。野口晴哉も、別に入浴は首まで浸かるべしとはいっておらず、その人の身体の裡(うち)からの要求に従えばよいだけだと述べている。言ってしまえば、その人の身体の状況次第では、半身浴がぴったりだということもありえるのである。

レプティリアンがーとか、イルミナティがーとか、散々頭の中を数多のネガティブで埋め尽くす、こり固まった生活をしているのだから、恐らく、丸の内のOLなんぞより憑かれて、ではなく疲れておるに違いない。

そのブログで、半身浴を否定する話として、ガンと宣告された人が治すのあきらめて死ぬ前に温泉巡りしようと思ってやってから帰ったら、ガンが消えたとか書いていた。

その理屈が、熱いお湯に浸かると、ヒートショックプロテインとかいうのが身体に出てきて、これがガンを抑えるだとかなんだとかという。

要するに、心地よいレベルで体温を上昇させればいいのだといえる。今の時期なら暑い日差しでも浴びて汗でも流すがよかろう。そして熱い風呂に入る。丸の内のOLの如きでも、冷房で身体が疲れるだろうから、どちらにしても熱い風呂に入ればよかろう。丁度よい空調でだらだら過ごしているのなら、熱い湯は毒になる。

そういうのを知らないで陰謀だのと言うのはお門違いである。陰謀が含まれていようとも、広告代理店の日常業務の一つでしかないのだから。

自分で陰謀を作ってその陰謀に嵌って、「嵌められた!」と喚いているだけなのだといえる。


自身の裡を見ないで、外からの物に唯々諾々と条件反射しているのでは、サッカーと呼ばれても仕方ないし、またその攻撃の具合もサッカーとなる。


サッカーはやはりサッカーである。そして、そのようなサッカーではない、ただのサッカーとなるのは、まことに難しいのだと思わざるを得ない。


では、よき終末を。


夢にて少女となる

2018-07-09 | 雑記
もう二ヶ月近く前だかに、とあるところで聞いたことがある。

目が覚めたらすぐに見た夢の内容を書きとめることを繰り返すと、記憶力があがるという。

毎日見ている、のかもしれないが見た覚えがなければ書かず、たまに疲れていて書くのをサボったりはしているが、何度か書いてきたものである。

実際やってみると、小学生向けの方眼ノートでは文字数が足りないのではないかと思えるくらい、書いていると足りない時もある。

記憶のコツというのは、覚えるのではなく思い出すことだとは、先日、そのとあるところの別の箇所で読んだものだが、その理屈にそった訓練と相成る。

教えていた人が「忙しい朝の五分をその時間にさけれるかどうかが分かれ目」という風なことを言っていたが、書いていたら三十分以上経っていたので、我ながら書きすぎだと思うこともしばしばである。

書きすぎる気がしたので、細かい描写はあきらめつつ書いているのだが、やはり色々と訳が判らない光景があったりする。


昨日は夜勤明けで、日勤の社員(以前シャイン氏と紹介した人物)が何かの流れかはわからないが、飯をおごってくれるとのことで、夜勤明けのもう一人と日勤全員でピザを食べていた。

挙句の果てに、自分は近くのコンビニでワインを買って来て、一人だけ飲むという有様。家に帰ったのは夕方だった。


そのせいか、日付が変わる前から寝ていたのに、今日はかなり疲労感が激しく、昨日、家路の途中で買っておいた米をようやく開封し、米を炊いて茶漬けを食べたりしていたが、やはり、どうにもならない。

今週は家でゆっくりしようと思っていたので、願ったり叶ったりではある。そう思ったのもあり、食べてしばらくしてから籐の枕で昼寝していたら、変な夢を見たものである。

詳細は上記の訓練に従ってノートに書きとめたのだが、アーミテージみたいな大男の足元に自分がいて、その大男を見上げながら何やら話しているというのがあった。

「何でかな」と言いながら不思議に思って首を傾げると、その大男が身体ごと同じ方向に傾く。向こうも「何ででしょうね」と言っていたかもしれない。

面白かったので反対にやると、大男もまた反対に動く。見た目以上の優しげな雰囲気の、謎の大男であった。

それから、大男を見上げていた視線から外れて、それをやっていた自分と思しき姿を別の視点から見ると、どうも小さな女の子だった気がする。

その後、何かを食べに行くとなり、喜んでパタパタ走っていくさまは正に少女。話を聞いていなかったのかは判らないが、乗る車を間違えるさまも正しく少女であった。

荘周夢にて胡蝶となる、とは漢籍にあるが、夢にて少女となるとは、実に不思議な気分である。



さて。またいつもの話になる。


文明とその生活に溺れた存在を憎んで、森での生活こそが地球とそこで生まれた人間のためのものである、と考え、実践し始めたラクダ達がいると、何度も書いてきた。

ラクダ云々も何度も説明してきたので割愛するが、単なるあだ名である。ゴリラみたいなごつい人にゴリラというのと同じだと思ってくれればよい。

いきなりだが、一つ問題をだす。すぐ下に答えを書くので、答える必要はないが、考えてもらいたい。

現代社会には、数多の宗教がある。古いのもあれば、新しいのもある。

先日、「宗教とは生活パターンである」と書いたので、混乱されるかもしれないが、そのことは措くとして、一般的な認識での宗教というもので考えてもらう。

では、本質的な宗教らしい宗教と、カルト宗教とを分けるものはなんであろうか?



それは、実に簡単な話である。「これこれを実践すれば幸せになれますよ」と言っているか言わないかである。

言わないのが本当の意味での宗教。言っているのは古今を問わずカルト宗教と相成る。

どちらにせよ、上記で断りをいれた「宗教は生活パターン」という意味では、どちらも宗教とはなる。

この区分は、カルト宗教とは言わなかったが、作家のひろさちやが書いていた区分である。ホンモノ宗教とニセモノ宗教という分け方で、ここでカルトと書いたのがニセモノ宗教に相当する。


釈迦は別に悟れば幸せになるとは言っていないし、何かに寄れば悟れるとも言っていないのである。

また、イスラムは神が創られたこの世での生活を正しく実践すれば、死後に神の元へいけるなどとは言っていない。

死後の話は死後のことで、生きている人間には判らない。それは神の決めたことだから。という訳である。

それはともかく、神のお創りになられたこの世でルールを守って皆仲良く暮らしましょう、というのが、イスラムである。

乞食にものを上げたりするのは、死後、神の元へ行けるからではなく、こうすることがお互い喜ばしくこの世を生きていくことだから、という訳であって、義務感だとか正義感でやっているわけではなく、喜んでやっているのである。

日本でも古来から言う。情けは人のためならず、である。回りまわって自分のためになるのだよと。


それなので、皆が森での生活を行えば地球はハッピー!なんぞというのは、大昔からあるカルト宗教である。

似たり酔ったりではなく寄ったりというより、パクリ元はニューエイジであって、彼らの志すものもまた、「古きよき生活」であって、森で原始人が暮らしていたころの生活を焼き直ししたというわけである。

その程度なので、理想に生きて理想に死ぬつもりもないのだろう。肉は一切食わないで生活している、某スポーツドクターのやり方を志していたはずなのに、「身体が喜んでいるから」と、自然に近いという理由で、草だけ食っている牛肉を食べたりしている。

肉を食う食わないはどうでもよい。理想を実現する気がないということだけは判ればよい。

それは現実の模倣に堕しているのである。理想はどこへやら。

文明生活と文明人を憎む彼らは、ただただ、その二つをひっくるめて現代人と言えばいいのだが、現代人となんら変わるところはなかったのである。

彼らのカルトっぷりは以前書いたが、改めて書いておく。

「馬鹿な人類はイルミナティに滅ぼされるがよい」である。

先日、死刑が執行されたオウム真理教の教祖と幹部何名かは、自身の組織で「馬鹿な人類」の粛清を実行したものである。

当時抱いていたであろうこの理想が他人任せという間抜け振りである。己の健康とやらもまた、森での生活という環境任せである。

自身で出来ることをしようとしない奴が、人に助けてもらえる道理はない。また、見える物からしか考えないのだから、見える森のことしか考えられないのである。

このような視野狭窄が地球などと語る。というより、自身の固定観念による地球どまりの考えしか披露していない。「地上天国」なんぞといっていたが、エベレストの天辺は天空にあるように見えるが、あれは地上ではないのか?蟻の視点からしたら、人間の目線の高さは天空であろう。


彼らの生活ぶりは実に楽しそうである。まあ、ネットのインスタもどきでそう書いてあるだけで、実際は知りようがない。


しかし、そうとしても、それは一時のものである。森や地球がなくならない限りという有限のものでしかない。明日どうなるかは、拙にも彼らにも実際は判らないのである。

こういう(明日死んでいるかもしれないということ)、本当はごく当然のことを言うと、愚兄に怒られたものであるが、その「当たり前」が本当は当たり前ではないと感じないのが現代社会なのは言うまでもない。


森は彼らにとっての財産である。それが破産した時、彼らはどう思うのか?森の悉くが消えうせてもなお、希望を持てるのだろうか?



砂漠を通り抜けられる人は、暑さや喉の渇きに人並み以上に耐えられる体を持っているからではない。

それは希望を持っているからである。その希望のイメージの中で生きているので、我慢しようと思わずに暑さも喉の渇きも気にならなかったりするという。


現代社会の生活を砂漠と感じるならば、この砂漠を抜けた先の楽しみを胸に抱くべし、である。



森もビル街も、砂漠に変わるときが来ないとは限るまい。既に例えて言ったが、物があっても砂漠に感じる人もいるのだから。


彼らをラクダとあだ名したものだが、彼らでは砂漠を越えられまいよ、というのが拙の思うところである。ラクダの名折れであろう。

あれらは、ビル街のみを現代文明として、また砂漠だと思いなしているのだから。



では、よき終末を。


矛を向ける先は

2018-07-05 | 雑記
先ほど、とあるアニメを視聴し終わった。馴染みのバーの店長に「面白いぞ」と言われていたので、夕方からずっと見ていたが、酒を飲んだら数時間寝てしまい、こんな時間になっていた。

タイトルやら何やらは別にどうでもいいので、特徴をいくつかだけ書いておく。その話を書きたいわけではないからである。

簡単に言うと、ゾンビと戦う話である。噛まれた人もそのゾンビになってしまい、そういう訳でそこら中に溢れかえっている世界で、主人公が住んでいる町にもとある切っ掛けで押し寄せてくる。

主人公は日頃から対策出来る武器を開発していて、丁度完成したその武器で相討ちしてしまう。

してしまうのだが、侵攻こそ早いがウイルス性の病気やらヘビ毒の如きものであったことも判明していたので、その場で応急処置をすると成功し、半分人間半分ゾンビと化して生き残る。

すると、超人的な能力を持つことになり、噛まれてもゾンビになることもない。

当初は疎まれたり、殺されそうになったりしたが、やがて仲間と協力して、陰謀を働いているが表向きは英雄と呼ばれている人物を打倒するというお話であった。


ゾンビに噛まれた人がそれにならない、というノリは、しばらく前に別のもので見た覚えがあったが、あっちはゾンビに仲間と思われて攻撃されない(後半は違った)が、こっちは襲われる。

超人的な能力を手に入れるというのも目新しい物ではないが、製作スタッフの言通り、王道を行く内容で、アニメの視聴自体が久々なのもあり、見入っていた。


さて、話の感想というにはちょっと違うが、続ける。


敵がいて、それに対処するのが共通事項なのに、パニックに陥るとお互いを疑いあうという、パニック映画なんかでよくある描写があるわけだが、それを意図的に引き起こし、その混乱に乗じて復讐を果たそうとしたのが、上記の内容で書いたが、その世界で英雄と称されている人物であり、なおかつ国のトップの息子だったりする。

国の英雄がそうやって歪んだのは、父親たる国のトップの疑心暗鬼によるもので、復讐の際には、幼少のころに聞いた父親の言い訳と同じ言葉をかけて殺害する。「やったのは恐怖だ」と言っていた。
殺しただけでは飽き足らず、何もかもを破壊していくつもりだったようで、崩壊していく街を眺めながら「次は何を壊そうか」と呟いていた。


物語の冒頭から、役人達の心根がおかしいと主人公は言っていたり、終盤では、主要人物の一人の女性領主が、恐慌状態に陥った住民が事実無根の言いがかりでよそ者を殺そうとするのを諌める。

「本当の敵はお互いを疑う心だ」と、突きつけられた銃口に飛び込みながら述べると、暴徒と化していた住民達は落ち着きを取り戻す、というのがあった。


本当の敵は、恐ろしいゾンビでもなく、また、それを操って人や街を破壊する悪党でもなく、恐怖に振り回されることだというメッセージが込められた内容だった。

メッセージが込められているというより、そういう台詞回しや筋書きなので、何も考えずに見ても誰もが思うところではあろう。



話は代わる。


拙はかつて、某陰謀論者と交流があって、その手の話を音声で流したり書いたりし続けていた時期があった、というのは何度も書いてきた。

陰謀論というのは何かと言えば、この世を牛耳っている何かが人類をほしいままにするために何やらやってきて今の世の中が出来ている、というものである。

どこかの国だったり、何かの理念で動く組織だったり、どこかの大富豪だったり、昨今は宇宙人(最近だけでもないと思うが)だったりと、バリエーションはあるが、内容は変わらない。

古くは悪霊だとか悪魔の仕業と言っていたりしたのだろうと思われる。


これも何度も書いてきたが、陰謀と呼ばれるようなものは一切ないと言っているわけではないことをご承知願う。

上記アニメのラスボスだって、表向きは英雄と呼ばれるほど働きまわっていながら、裏では恨みを晴らすために準備を重ねてきたので、これは「陰謀」を働いていたわけである。


ついでに言うが、その某陰謀論者も似たようなものであったというのも何度も書いた。

「馬鹿な一般人は何がしに滅ぼされて当然だ」という発言を裏ではよくしていたものである。

陰謀を語るものが陰謀と呼ばれているものを肯定するというのは、実に詰まらない話である。漫画にもならない。


彼奴が表でも言っていたことであり、かつまた、色々なところで見かける言い草がある。

「地球を大事にしないと滅ぶぞ」という趣旨の言葉である。

まるで「悪行を積めば地獄に落ちるぞ」と言っている。

そんな言い草は人類が始まって以来、何度となく繰り返された言葉であろう。

そして面白い、いや面白くはないのだが、かつてその著書を翻訳し、当初は絶賛していた人物への評が、天に唾する行為といわざるを得ない。

「彼は昔から言われてきたことを言っているに過ぎない」と。



さて。上記のアニメの話からこういう話に持っていくというのは、もう見え透いてきたかと思われる。


彼奴も、それと変わらない言葉を述べている数多の人々も、また、拙も含めた多くの一般人も、根本的には同じである。

「本当の敵」が見えていないという点である。

この本当の敵を克服しないことには、地球がもっと長生きしようが宇宙人やら悪霊の障りが物理?的になくなろうが、まったく意味がない。

また、地球が吹き飛んでも飛ばなくてもあなたや拙が生きようとも死のうとも関係がない。


それは己の命が損なわれるのが怖いから、地球がとか言い出しているのである。別に命を投げ捨てろとは言わないが。

だから、他者を馬鹿にし、挙句の果てには「滅んで当然」などといいだす。また、生き物はそういう風に動き易く出来ている。

馬鹿にする理由は、理解者が増えないと怖いからである。そうしないと地球が滅ぶから、である。本当にそうなるかどうかは誰にも判らないというのに。

これは、温暖化の話にも同様の流れがある。温暖化自体が科学的に疑問を呈されている状況で、一方的に「滅ぶぞ」と脅して世の中を動かしているのだから。

ついでに、寒冷化の可能性すら指摘されているわけで、そのような状況で温暖化対策だけを特化して進めていると、寒冷化した暁には、穀倉地帯を保護して対策している国なんぞぼろ儲けだろう。

そうなったらそうなったで、陰謀論者は飯の種が増える。五穀豊穣は土地だけではなかったか。

話が逸れたが、怖いから馬鹿にするという攻撃しているわけで、上記アニメの陰謀を働く英雄と変わらない。


某陰謀論者が間抜けとしかいえない言動をしてきたというのを、笑ってはいけない。

これは、人類が昔から続けてきて、なおかつこれからも続く習慣なのだから。


宗教は生活パターンだと、以前、引用して書いた。

恐慌状態に陥ると人々が同じ行動を取るのもまた、「生活パターン」といえる。

上記のアニメで、主人公が役人に正論をもって突っかかってボコボコにされるというのがあるが、役人は「生活パターン」を害されて腹を立てたというわけである。


その程度のものと変わらない動機に、大層な理屈をとりつけただけで、やっていることは言い掛かりでよそ者を殺そうとした恐慌状態の住民と変わらないのである。

恐怖に彩られた心根で、何が見えようというのか。

「本当の敵」は、宇宙人でも陰謀集団でも国家政府でも大富豪でもない。

恐怖に振り回されるその心根といえる。

矛を向けるべきは、己の心臓を皮膜のように覆っている恐怖なのである。
(上記アニメのゾンビは心臓のみが弱点だが、鉄の皮膜に覆われていて当初は一筋縄ではいかなかったというのに掛けただけで、深い意味はない)


毎度毎度説教臭いが、これは人類共通の話である。某陰謀論者が馬鹿なだけと思わないほうがよろしかろうと、老婆心ながら申し添えておく。


まったくもって、下手な話を聞くより面白いアニメを見て感動した方が、人生のためになる。



そうそう。ゾンビと言えば。

彼奴らもよく、一般人をゾンビに例えていた。

何をか言わんや、である。


では、よき終末を。