ねーさんとバンビーナの毎日

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今日突かれたお言葉・その801

2012年05月03日 15時04分44秒 | 突言葉ねーさん
外国へ行く者が、よく事情を知らぬから、知らぬからと言うが、知って往こうというのが、善くない。
何も、用意をしないで、フイと往って、不用意に見て来なければならぬ。



勝海舟『新訂 海舟座談』より。


何も、用意をしないで、フイと往って、不用意に見て来なければならぬ。


そのほうが“素”で見られるしね。
いろいろ事情を知ってから関わるものってのは、最初から決めつけが入るしね。
その分、見落としてる部分も多いって話し。


人間洞察も一緒だなぁ・・・。

オバチャマ自身、会社の仕事上で、作業標準化とか作業手順書とか、そういうのを考えたり、まとめたり、教えたりする経験をしたのが1990~1994年頃。

バブル期の多忙の名残がまだまだ残る中、日常業務が流れてる裏側でこういうまとめをして、平行してそのような体勢にシフトしていく・・・みたいな、そんなことを実行していくチームの一員で、思い返しても「一体なんだったんだんだろうなぁ・・・」っていまだに・・・。

当時、こういうものへのオバチャマの解釈としては、「個々人が作業に迷った時に戻る基準点」っていう解釈だった。
「この通りにさえやれば誰でも同じに出来る。」なんて解釈はしておらず、「基本はこんなものを○暗記(×記憶)してないで、身体に叩き込まなきゃ(=記憶)○無茶(×無理)だわ。」って解釈。

まぁ、コンピューターの操作方法であるとか、その中でルール化されているものは、そのままやればいいのだけども、人間の動作までこの標準書や手順書にまとめることはできなかろうも?

昨日の誰かの話じゃないけども、

「自分の中の“記憶”を“ルール”(←「決められた」というより「整理された」って感じ)と照合しながら行っていくのが大事。」

ってことで、“記憶”がベースでなけりゃ、おかしいんですよ、そもそも。

でも、あれから世間は(当時でも一部の人間、いや、大半の人間は・・・)、

「それさえ覚えれば誰でもが間違いなく作業がこなせる。」

という解釈に傾きすぎたように思う。

「なんでそういう解釈する人がいるかね?」と不思議でならない。


で、こういう用意が事前にされすぎていると、はたまた「守れ!」とやってしまうと、その人は「その通り」に動くことに一生懸命になりすぎて、元もとの人間性を発揮しずらくなってしまう。
と同時に、「それありき」で人物判定しだす人もいるから、その場ではいくら正しかろうが間違った判断を導きやすい。


知ってから未知のものに関わるのと、知らぬまま未知のものに関わるのでは、感性が犠牲にならないのは後者なんだよね。