森鴎外「寒山拾得(かんざんじっとく)」
全体世の中の人の、道とか宗教とかいうものに対する態度に三通りある。
自分の職業に気を取られて、ただ営々役々えきえきと年月を送っている人は、道というものを顧みない。これは読書人でも同じことである。
もちろん書を読んで深く考えたら、道に到達せずにはいられまい。しかしそうまで考えないでも、日々の務めだけは弁じて行かれよう。
これは全く無頓着人である。
つぎに着意して道を求める人がある。
専念に道を求めて、万事をなげうつこともあれば、日々の務めは怠らずに、たえず道に志していることもある。
儒学に入っても、道教に入っても、仏法に入っても基督クリスト教に入っても同じことである。
こういう人が深くはいり込むと日々の務めがすなわち道そのものになってしまう。
つづめて言えばこれは皆道を求める人である。
この無頓着な人と、道を求める人との中間に、道というものの存在を客観的に認めていて、それに対して全く無頓着だというわけでもなく、さればと言ってみずから進んで道を求めるでもなく、自分をば道に疎遠な人だと諦念あきらめ、別に道に親密な人がいるように思って、それを尊敬する人がある。
尊敬はどの種類の人にもあるが、単に同じ対象を尊敬する場合を顧慮して言ってみると、道を求める人なら遅れているものが進んでいるものを尊敬することになり、ここに言う中間人物なら、自分のわからぬもの、会得することの出来ぬものを尊敬することになる。
そこに盲目の尊敬が生ずる。
盲目の尊敬では、たまたまそれをさし向ける対象が正鵠を得ていても、なんにもならぬのである。
正鵠を得るとは?
物事の要点を正しくおさえる。
つまりは尊敬ってわかりやすい類(肩書きやら成績やら名誉)ではないし、
「あの人には尊敬に値しなくても私には尊敬に値する」
っていう何かを先ずは自ら得てる上で尊敬の心があるんであって、
意味のないただの尊敬(肩書きやら成績やら名誉があるもの🟰尊敬)っていうよくあるやつは、
「皆と同じところにいたい(同じ感覚でいなきゃ)」
というような同調と変わらないから、考えてないし、根底には自ら体験はないのが多いよねー。
尊敬って簡単にはできるものじゃないのだし、尊敬なんて簡単にしなくてもいいものかと。
自らが何かしらの思いを得てなければなんもならぬのだから。
感謝の方が大事だわ。
私は盲目的に尊敬する人はいませんねぇ。
道を求めてもいないしなぁ。
道理は大事だと思うけど、求めてるものではなく、
「道理を外したら最後の最後に人生間違えるよ?
(おそらくこんな人ばかりが増えたら継承していけなくなるっていう危機的意味(子はいませんが、世の中がっていう意味かなぁ。)」
と天からの戒めが常にあるので(何ででしょうね?わからん。)、意識はしているといいましょうか。