ねーさんとバンビーナの毎日

「静」→ 「淡」→ 「戻」→ 「無」→「休」→「解・涛」→「涛・停」→「抜」→24年「歩」 最終章序章スタート!

クドカンは停滞中なのか実験中なのか。

2011年10月30日 21時10分27秒 | 観察屋ねーさん
「11人もいる!」ってヤツ、

基本は大家族ものだけども、演出技として「俺たちシリーズ(昭和)」と、今日だか昨日公開の映画「素敵な金縛り」のお化け演出を使ってませんかね。

これは「停滞してるのか、実験してるのか・・・」って思っちゃったり。(ハハハハ)



何だろうなぁ、青春を送ってる若者の心は掴めるよねぇ、クドカンって。

ピンポンとか、IWGPとか、GOとか、あれらがウケたのは計算尽くしじゃないと思うわ。
「わかる、わかる!」っていう若者(×幼稚、○子ども)の心を掴んだのよ。


視聴率戦でいくと、なんだか、「家政婦のミタ」ってのが視聴率がいいみたいなんだけど、そういう時代なんですねぇ、今。
これを「○楽しい(×面白い)」って言える人はちょっと敬遠しちゃうなぁ。(スンマセン)
脚本はなかなか「面白い」けどもねぇ・・・。(発想がさ。)
連続ドラマじゃなくて映画(1回で終わり)とか単発ドラマでいいんじゃないのかなぁ、こういう内容モノって。


これでは(家政婦は見た!(by市原悦子)みたいな)長続きはしないとは思うんだけども。


やっぱり、現実生活に密着してる楽しいのがいい。
それか、現実離れした架空ものなんだけど、ちゃんと道徳というか哲学が入ってるヤツ。


現実に立てなくて(立ちたくなくて)仮想空間で妄想していたい人達の為のものは、ゴールデンタイムに持ってくるんじゃなくて、深夜枠でいいのかも。
(そのほうがそういう人達も満足しそうな・・・?)

NHK「世界ふれあい街歩き」

2011年10月30日 20時21分30秒 | 観たぞねーさん
この番組は好きですね。

毎回観てるわけじゃないんだけど、たまたまチャンネル回して、「あ。」と思ってそのままにすることがあるんだよ、この番組。

といいつつ、まだ2回くらいしか観てないんだけど。


で、21日のメキシコの回も見入っちゃったんだけども、数ヶ月前もたまたまチャンネル回してて見入っちゃって。(調べたら初回のイギリスの回だわ。)
どちらの回も語りがあの、北の国からの蛍をやった中嶋朋子。(この方が番組専属ナレターな訳じゃなくて、たまたま観た回がこの方だったって訳。)


うん、その語り口に「チャンネル回す手が止まった」っていうのはあるのよね~。
こないだ初めて「なんだぁ、中嶋朋子かぁ・・・」って気がついたんだけども。



余談

中嶋朋子って言えば、こないだ初めて、クボヅカ君の舞台(西巣鴨でやったやつ)で生・中嶋朋子を観ましたが。
「舞台もできてる~~~」って「なかなかだわ~~~」「あの子役だった子がこういう風に成長してるんだ~~~」って思いましたデス。




この方の語りがなんか妙に好きなんですよぉ。
上手に言葉で言えないんだけども、この番組のナレーターの語りが、その土地の人(番組に出てくる人)と対話しているような語り口になってるでしょ。

そこもいいんだよね。

その時「それをやっちゃうんだ?(←指摘とか呆れとか)」と突っ込まれること。

2011年10月30日 20時07分03秒 | 観察屋ねーさん
こっちのほうが結果的には間違いないよ。

うん、断言する。

つまり、表面的にはまだ問題点が浮き彫りになってないことを、すでに(しっかり)洞察していて(言葉には上手に並べられないんだけど)行動しちゃうことね。



それとは背中合わせで、その時に、

「それをやったのね、すご~い」

って言われる方が、結果的に(数十年後に)ボコボコにされるで。

つまり、表面的に問題が誰でもわかる事態になってる場面で、そうなってから観察して上手に言葉並べて行動しちゃうことね。



だから、まだ、表面的には問題点が浮き彫りにもなってないような時点で、

「それをやっちゃうんだ?(←指摘とか呆れとか)」

と突っ込まれるようなことをしている時に、それを観察して批評家してる人を判断する判断基準としては、

「それをやっちゃうんだ?(←指摘とか呆れとか)」と突っ込む批評家と、

「それをやれるのは、スゴイね。(←感心とか関心とか)」と突っ込む批評家と、

どちらか?

ってこった。


前者だと「わかってない確率99%」。
後者だと「わかってる確率99%」。


断言しちゃおう。



抱きつきお化け論

2011年10月30日 19時44分49秒 | 考えるねーさん
そんな「行っちゃいけないかな・・・」なんて考えなくていいからさ、
「フラっ」と来てくれさえすればいいから。
それだけでもこちらにしてみればうれしいものなのよ。


こういう誘い文句ってありますね。


オバチャマ、こういう言葉って嬉しい反面、その場(その状況)によっては、

「ちと、こっちに何か(勝手に)求めてません?」

って

「ちょっとな・・・おいおい。」

って思うこともあります。



例えばですが、東北の復興問題。

東北の方が、

そんな「行っちゃいけないかな・・・」なんて考えなくていいからさ、
「フラっ」と来てくれさえすればいいから。
それだけでもこちらにしてみればうれしいものなのよ。

こう言ってきたとします。


これ、身内の親戚のオジサンやオバサンが自分に言ってくる言葉であれば、

「そうね、それだけでも、元気づけになるよね。」

って思います。


だけども、もしも仕事絡み(復興を手伝う仕事)の相手からの言葉だったら・・・。
オバチャマは、この言葉にはおいそれとは反応できません。

「抱きつきお化けの可能性あり・・・だ・・・、やば~い。」って(かなり)警戒します。

オバチャマは基本的に「抱きついてくるお化けも相手してあげよう。」って気は(さらさら)ありません。

(自民党の誰だっけ、あの人。石破さんか。
「民主党は抱きつきお化けみたいだ。」って発言してましたっけね。(ナイス!)と思ったけど。)

それは、「自分の力を自覚している」のもあるし、「自分のプライド(信念)をそういう場面で(人との間で)活用したらお互いに必ずいいことがある」という理念も持ってないからです。





今日突かれたお言葉・その705

2011年10月30日 19時25分01秒 | 突言葉ねーさん
日本とは違う教育の仕方をします。
日本のように「○暗記(×記憶)すればいい」のと違って、○考えさせる(×計算させる)教育をしてます。



日テレの番組で、スウェーデン人の人が言ってた言葉。


日本も「暗記すればいい」ってのも今じゃ行き過ぎだよね。
考えさせる部分が何も残ってないような感じになりすぎじゃないかね。


かえって考えてる人間に対して、「考えるな、考えるな。」って言ったり、
考えた言葉を発すると、「(困ったな、この子は。)」的な表情を向けたり。

「考えるより動け!」っていう意味で言ってたとしても、
「いや、でも、この場面は違うんじゃないの?」って突っ込みたくなる時もあり、

「(困ったな、この子は。)」的な表情が「空気を読みなさいよ。」っていう含みだとしたら、「別にいいじゃないの、空気を読むなんて。かえってこの子のほうが「場は読めてる」わよ?」って突っ込みたくなったり。


AKBの参考書が売れてるっていう現実。
「これでも子どもが興味を持ってくれればいいのかな・・・」って言ってる親がいたけど(テレビ)、興味だけで釣りっぱなしでそれをずっと(大人になっても)引っ張ろうとするから、考えなくなっちゃうんだよなぁ。

どこかでそういうのを排除してやらないと。