ねーさんとバンビーナの毎日

「静」→ 「淡」→ 「戻」→ 「無」→「休」→「解・涛」→「涛・停」→「抜」→24年「歩」 最終章序章スタート!

雷すごかったね。

2008年08月31日 12時41分10秒 | 味わうねーさん
ね「今朝方、雷がすぐ近くに落ちたようで、飛び起きましたよ。」

おじさん1「近くに落雷があると、ものすごいからね。オレも自宅横に落ちたことがあって家が揺れたもん。」

おじさん2「○○さん(ね)の雷はそれ以上にすごいでしょうねぇ。」

ね「う~ん、30て~~~~ん。(ホンっトに分ってないからつまらんのだよなぁ。)」

おじさん1「いや、今の例えは3点だな。(笑)(こっちの人のほうが分ってらっしゃる??)」

ね「も~分ってませんねぇ、私のはカミナリじゃないですから。
  こう、なんて言うんでしょうねぇ、
  それまで晴れてた快晴の空が一気に真っ黒に曇って大雨降らせてみんな驚く、みたいな、
  ゲリラ豪雨みたいな、そういうヤツですからね。」

おじさん1「(笑)」

ね「カミナリっていうのは、地震雷火事親父で表現されるのが、カミナリですよ?
  名古屋のあの社長のが「カミナリ」です。」

おじさん2「そうだったね。」

ね「私もカミナリ落とせたらどんなに楽だろうって思うんですよ、あの社長様を見てると。
  だけどカミナリ落とすのが出来ないんですよねぇ、なんででしょうねぇ。」

おじさん2「(カミナリも豪雨もどっちもオレには関係ないや~的な。区別もつかないや~的な。)」

ね「(も~だから絡みづらい。絡む必要も無いけど、話の意図がクロスしていかない。
  区別つかない子供の方がまだ無邪気でよっぽど絡みやすいや。)」


カミナリが落ちる状況にもってくのはあるかもなぁ。
そこにカミナリ落とすのが上手な人がいると。
分らせる為に。

うわ、言い当ててる。

2008年08月31日 01時25分47秒 | 掘り出ねーさん
子供の頃から、オトナの中にいるのは案外好きで、エグイ話題や生々しい話題には特に嫌悪感はなくて、逆におもしろがってしまうところがある。

同世代同士だと、どうしてもエグイのも生々しいのも経験不足から他人の話を聞いて話すくらいで実は伴ってなく、毒にいたっても自分の腹が括られてないから表現が面白みに欠ける。
つくりものの毒(ありものの本とか映画とか「知」の中からチョイスしたものとか)をあてがえられても、よっぽど実を伴うセンスがないと何故かかえってオトナだろうが子供っぽい感じがして、いたたまれなくなる。
エグイも生々しいも中途半端だから、こちらが恥ずかしくなってくる感じがして、とにかくいたたまれなくなるのだ。


こなれたオトナはエグイも生々しいもあけっぴろげに自分話でするので、まおなんとも面白くて(面白がってはいけないと真面目な母は言うが。(笑))、毒も分かっていて吐いているのでかえって安心して聞いてられる。
「毒」という名の「自分への手厳しさ」だったり「愛情」だったりするから。
こういう中にいると、わざとツッコミ入れてもムッとされずに、面白おかしく切り返してくるので楽しいのだ。
逆に真面目に忠告したり、気の毒がったり、揚げ足を取ったりするのは野暮ったがられる。
場がシラケるからだ。

分かっててやってる人達は道徳的真面目とか評論的真面目とか理論的真面目はあまり真に受けてない。聞くには聞くがどこかで受け流している。

あの人達は自分の目的を道理的(言葉が正しいか分からない。義理とか仁義を絡めている。)真面目で突き進んで果たそうとしている。
一見不真面目に見える行動もかなり腹の中では真剣なので、変に素人が食い下がっても実は相手にされてないし、うっとうしがられるのだ。

この感覚的なものは、サラリーマンを親に持ったり、長い間サラリーマンをしていると、薄らいだ末に分からなくなってしまう感覚なのだろうと思う。


(ね)はどうも昔っから同年代より3~10以上も離れた上の年代の人達と関わることが多い。
要するに中学や高校の3学年がかぶらないような年代以上。
結婚したダンナさまも11歳も年上だったが、ほとんどなにもかもが対等で、ぶら下がるような甘えっ子ぶりもなく(その気がない)、年上だからとたてまつってかいがいしく世話しなくちゃダメな人でもなく、まさに楽チンな関係。
まぁこれがなぜ離婚に至ったのかは勝手に想像していただいて構わない。
一言いえば、精神的に自立しちゃってる同士は精神的に非常に強いので、「別れ」も最高の愛情と納得できちゃうんだなぁ。
少しくらい「誰かがいないと精神的に困るな、私一人では立っていられない。」的な弱い部分があって調度いいんだよな、と思う。

が、(ね)は「教科書通りの正しい言葉とか、教科書通りの正しい気遣いと気を使いすぎなくていい(自分で自分を確立してる人は必要以上にあんまり気にしてない。常に誰かを当てにしてる人は異常なまでに気にするよね。)お楽しみが出来る誰か。」を求めてしまう。



話がズレたが、同世代と関わるのが苦手のことを「年同一性障害」と、ある脚本家がそう言い換えてたんだけど、まさにそんな感じで目から鱗。(笑)


この脚本家も同世代と関わるのが苦手の様子。
「あぁやっぱりこういう人いるんだなぁ。」と思うと同時に、「何が起因してるんだろ?」と不思議に思う。


この手は江原さんに相談してみると謎が説き明かされるのかしらん。

サラリーマンが増えたからしかたないだよ。

2008年08月29日 23時43分20秒 | 考えるねーさん
そうやって諭してきた人がいた。



産業が発達して、
(ね)らの父らくらいの世代から、
田舎の人も都会に出てきては、
学をつけたり、
大企業に勤めることが、
主流になっていったかと思う。


そして、それはやっぱり、
時代が流れて行くほどに、
世間の一般的な生き方として、
はたまたステータスとして君臨しつづけている。


それが豊かさを産み、
ひとまず不自由のない生活を産み、
贅沢まで出来る世の中になり。

しかしその逆に、
オトナの他人が何かの用事で家に訪ねてくるような風景を無くし、
子供がそういう場で行儀であるとか、
気遣いや挨拶などを、
学べなくなり。

サラリーマンは、
人付き合いの上でのオトナの事情を家庭に持ち込む必要もなければ、
お膳立てされた場に子供を連れ出して、
安全で間違いのないお楽しみをするのがやっと。


オトナの事情は、
夫婦間の不仲の問題や、
ぐうたらな贅沢の問題に成り下がり、
人付き合い上の事情などといった実のある事情は、
変に厄介扱いされるまでになってしまった。


その中でも、
続く自営は自営で奮闘し、
人付き合いの難しさや大切さを肌に叩き込みながら、
毎日オトナの他人が生活に入り込んでくるような毎日を送る。
そこで子供らは教科書で学べない行儀を学ぶ。
ことばや理論を叩き込むのではなく、
見て触れて動いて肌に叩き込む。


この真っ二つに違う両方の環境下で育った子供らが、
世の中で集うことになる。


正しい数字をはかったことはないが、
今の世の中はサラリーマン家庭が圧倒的に多いはずだ。


ということはつまり、
阿吽で伝い合う人達が激減してるはずで、
とにもかくにも説明が無いと伝わらなかったり、
行儀ひとつにもルールが明確に定義されていなければ、
「なんで気分を悪くするのか。」とか、
「いちいち気分を害することではない冗談。」すら、
伝わらない事態を生んだ。


こんな鈍感な神経、
いや、麻痺した神経、

いや、外から操られないと働かない神経に成り下がってしまった。



少なからず救いは、
そういう変貌ぶりに、
「肌触りがなんか違うんだよな、なんか違う。どうしてだか分からないけど。」と、
違和感を感じてる人が確かにいること。

「なんでこんなことまで説明しないと分からないの?」と感じてる人が確かにいること。


そういう気分になった時、
なんとなくその人の家庭環境を垣間見れるような振りをしてみるといい。
「うちはこうだからね。」と自白して、聞き出すもいい。


そうか、本当に分からないんだ。
経験する場がなかったんだ。


そうか、自分が知らなかった行儀があるんだ。
うちはその経験をする場はなかったなぁ。


と思い直すことができるから。


これじゃ仕方ない。
経験してなきゃ仕方ない。
嫉妬しても仕方ない。


その人が親から与えられた環境をとやかく言っても仕方ない。


そうしたら、

不毛なつっつきあいも、
不毛なからかいあいも、
不毛ないじわるも、

バカバカしくなるはず。


どうせやるなら、

オモシロイつっつきあいや、
オモシロイからかいあいや、
オモシロイいじわるが、

楽しい気分になる。


どうせやるなら、

厳しいつっつきあいや、
厳しいからかいあいや、
厳しいいじわるが、

なにかを解決する。



面白さと厳しさには「愛」がないと面白くないし厳しくない。

「知」や「技」の面白さや厳しさもあるが、
「考えさせる愛」がないと面白さも厳しさも、
単なる「薄っぺらな痛い芝居」を見せられてる気分になる。
「考えさせる愛」ができれば分かりずらく面倒臭く組み込まれてないと芝居はツマラナイ。


サラリーマンの数が増大したから仕方ないだよ。
伝わらなくなったのは、
サラリーマンの数が増大したから仕方ないだよ。


そういって諭された、こないだ。


だけどこの人は頑ななまでに分かりやすい説明ありきで人に関わらない。
相手が考えなくてはならないような状態を作ったり、言葉を発しては、人試しをしている。
多分それが「一番伝わる」とふんでるんだろう。

打算的な職人

2008年08月29日 08時36分24秒 | 吠えるねーさん
なんか「職人」って呼びたくないんだよね。
オェーって吐きたくなるような気持ちにさせられるから。

仕事をよく知っててコツコツやるわりに、打算的な人は、「職人気質なんで。」と言わないで欲しい。

職人は損得よりも、「それをやってやろう。」という気持ちで突き動かされる。


「ただのサラリーマンなので。ただの使い走りなので。これでもサラリーマンのプロですんで。」

と、雇われ者の謙虚さと潔ぎよさが欲しい。
そこが潔くないと、オェーっと吐きたくなる気分になる。

打算は打算でも、効率的な打算は人の気持ちを逆なでないが、物欲とか金の欲からくる打算は人の気持ちを必ず逆なでる。

雇われ者のチャッカリ者ほど、オェーって気分にさせられてたまらない。


「よし、やってやろう、やりとげますとも。」と突き動かされてやった先に打算に走る人がいるが、これは当然かと思う。
なぜ打算的な態度を向けられてるか?って、「やって貰ってラッキー」とばかりに「のほほ~ん」と何も返さずにいたら、打算的態度を向けられても仕方ない。


(ね)はこの態度を突き付けるのが下手というか、わざわざやりたくないので、鈍感な人には距離を置くようにしちゃうんだわ。

渡る世間はすっとこどっこいばかり(第42話)

2008年08月28日 22時44分33秒 | 味わうねーさん
今日は、脚本家が(ね)に出番を与えてくれました。


「今の君のこなれ具合を表現」とだけ書かれていて、具体的なセリフはなく、空白なんです。

要求しているだろうセリフや間の取り方を考えて、そのようにやってみました。


得にNGは出されませんでしたが、別パターンも要求されました。


あ、わざと「NGか!?」みたいなアドリブもかましてみました。


いつもは、「それ余計なんだよっ。カット、カーット!」と、そこで終わりにされてしまうんですが、今日はツッコミ返しが用意されてました。


「しめた!」と思って、こなれ具合を自虐であらわすパターンで切り返しました。


得にNGは出ませんでした。


まぁまぁな芝居だったようですが、「(ね)の役所の面白みの引き出し方をさらに考え直さないといけないな。」と思ったかもしれません。


次の芝居の場を楽しみにしてますが、いつも「リハーサル無し!即本番!!」というのはなんとかなりませんでしょうか。

それも「ヨーイ、スっタートっ!」もなしに、しらないうちに始まってるようなやり方。


まぁスリルがあって楽しくもありますが。