海に吹く風

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忘勿石(わすれないし)

2015-12-18 14:35:57 | 日記


旅行に全く行けないのでその代わり旅番組をよく見る。
海外はあまりに現実離れしていて国内の旅番組を見る。
いつか行けるかもと思えるから
その中でも楽しみにしているのがHNK BSの「こころ旅」
火野正平が自転車で視聴者の心に残る場所を尋ねる。

少し前西表島の西表島南風見田の忘勿石の話だった。
朝の縮小版では目的地に着くまでは放送しない。
私のその名前から忘勿石はロマンティックな悲恋の伝説かと思ったら全く違っていた。

以下HP AoXoMoXoAより引用させていただきました

「西表島南風見田(はえみた)浜の東端の岩場、通称「ヌギリヌパ」(鋸の歯)の一角に「忘勿石」はある。現在では立派な「忘勿石之碑」が建てられているが、その右脇の岩盤にひっそりと、「忘勿石 ハテルマ シキナ」の文字が刻まれている。これが「忘勿石」(わすれないし)である。

文字が刻まれた岩盤は、疎開中のほんの一時期、波照間国民学校の校長であった識名信升氏によって国民学校の青空教室として入学式と授業が行われた場所だ。疎開地でも教育を続けようとした試みに対し、強制疎開の命令者山下軍曹はそれを中止させた。間もなくマラリアの伝染が始まり、子供達も多くがその命を落とした。

わすれな石の碑この10文字は、識名校長が、自らの直訴により疎開を解除し、島に帰る際にひっそりと刻んだもので、ほとんどの者はその存在すら知らなかったという。1954年、波照間島出身の保久盛長正氏により偶然発見されたが、その後も多くが語られることはなく、1982年の沖縄国際大学・石原ゼミによる調査と、その成果をまとめ翌年刊行された「もうひとつの沖縄戦」によってようやく、世間に知られることとなった。

識名校長は、軍命とはいえ教え子を多数犠牲にしてしまったことを悔やみ、「忘勿石」に関して生涯殆ど口にすることはなく、家族ですらほとんどこのことは知らなかったという。

識名校長は石原ゼミの調査の際、この場所で勉強した生徒から死者が出たことに対する追悼と、強制疎開により死者が出たという事実を決して忘れてはならないという思いから、「波照間住民よ、この石を忘れるなかれ」という意味を込め帰島前に刻んたものだと答えている。 」     引用終わり


戦争中八重山諸島の島民がマラリアが満延している地へ強制疎開させられた話は漠然と知っていた。
しかし波照間島が一番悲惨で島民の4分の1が命を落としたこと、「忘勿石」の存在は全く知らなかった。
2000年にはNHKで戦争特集として取り上げられたそうだ。
私は西表島に旅行で行ったのにパック旅行で川の上流を観光しただけだった。
「忘勿石」のある浜から沖に波照間島が見える。
どんな思いで毎日子供たち・島民はそれを眺めていたのか。
沖縄のひめゆりのことは知っていてももっと多くの沖縄の悲劇、特に本島ではなく離島で何が起きたのかを私は知らないと思った。
もっともっと沖縄のことを知らなければいけない。

2015秋の旅は沖縄県が最終の県でそれも今日で終わった。
最後の場所はくしくも波照間島である。
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