風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

オフィーリア異聞(2)/ランボー訳者としての中也

2008-01-22 23:45:42 | アート・文化
Delacroix_ophelie 富永太郎ついで小林秀雄によってフランス象徴主義の薫陶をうけた中原中也は、進学を断念してアテネ・フランセに通いはじめる。その死の直前には、太郎自身から遠ざけられ疎まれてしまう中也だったが、太郎そして小林秀雄に教示されたフランス象徴主義の詩人たちの存在とりわけランボーとの出会いは、一種の天啓だった。
 ほとんど自力でフランス語を学び、ひとに教えるまでになった中也は(吉田秀和も中也から習ったひとり。もっとも、そのフランス語は古い言い回しの多い言葉だったらしい)、朔太郎が言った「フランスへ行きたしと思へどもフランスはあまりに遠し……」の思いは誰よりも切実だっただろう。

 30年の短い生涯の中で、1冊の詩集『山羊の歌』(『在りし日の歌』は、死後出版)しか持たなかった中也はそれでも、『ランボー詩集』などの翻訳詩集を出版し、『ランボー全集』の翻訳家にノミネートされるなど、このことを指摘した中也論にはあまりお目にかかれないが生前、ランボーの翻訳家としての方がよく知られていた。
 『地獄の季節』などのランボーの散文詩を愛していたらしい小林秀雄を(そしてそれは日本語として訳されたランボー翻訳の頂点でもあったが)、たくみに避けるようにして中也は、ランボーの韻文詩を好んで訳している。それは、見事なくらいの分業である。詩神ミューズの気まぐれな賜物としてのポエジーを、散文詩でとらえるか、韻文詩としてとらえるか? 中也と小林の資質の違いを良く現わしているではないか!
 そして、言うまでもなく原語の音とリズムを忠実に再現できない韻文詩をいかに日本語に移すかに、こころ砕き、腐心し尽くしただろう中也の独特のリズムをボクは愛する(中也自身、その翻訳作業によって自らの詩作のことばを鍛えたとボクは思っている)。

   オフェリア
           ランボオ詩集/中原中也・訳

     1
 星眠る暗く静かな浪の上、
 蒼白のオフェリア漂ふ、大百合か、
 漂ふ、いともゆるやかに長き面帙(かつぎ)に横たはり。
 遐くの森では鳴つてます鹿逐詰めし合図の笛。

 以来千年以上です真白の真白の妖怪の
 哀しい哀しいオフェリアが、其処な流れを過ぎてから。
 以来千年以上ですその恋ゆゑの狂ひ女(め)が
 そのロマンスを夕風に、呟いてから。

 風は彼女の胸を撫で、水にしづかにゆらめける
 彼女の大きい面帙(かほぎぬ)を花冠(くわくわん)のやうにひろげます。
 柳は慄へてその肩に熱い涙を落とします。
 夢みる大きな額の上に蘆(あし)が傾きかかります。

 傷つけられた睡蓮たちは彼女を囲僥(とりま)き溜息します。
 彼女は時々覚まします、睡つてゐる榛(はんのき)の
 中の何かの塒(ねぐら)をば、すると小さな羽ばたきがそこから逃れてゆきます。
 不思議な一つの歌声が金の星から堕ちてきます。

 (2、3 略)

 「世界に詩人は三人しかをらぬ」とその日記に書き付け、ランボーを数え上げた中也は、またランボーを読むことは「聖い放縦といふものが可能である!」とも書いた。最高にあがめながらアンビヴァレントな好悪をあからさまにしたランボー(中也はランボオと記した)への思いは一生をつらぬいている。

※1のパートに2回登場する面帙(「かつぎ」次いで「かほぎぬ」と読ませている)の2字めは「巾」を遍とし、「白」を旁(つくり)とするものだが、文字があったとしても外字のようです。ここでは、便宜的に「面帙」を使いました。
(つづく)

(図版2)ウジェーヌ・ドラクロワ作『オフィーリアの死』1844年。油彩。「オフィーリア」というテーマを絵画に最初に見い出したのはドラクロワだった。しかし、そこではオフィーリアは死に必死にあがらう姿として描かれている。まさに、水面に落ちた瞬間である。



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