風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

ヨネヤマママコの姿を久しぶりに

2008-01-19 23:59:30 | アート・文化
Pierrot_mamaco 偶然なのだが、TV欄の案内でピンときて、ビデオ録画したら、案の定、日本のパントマイムの草分け的存在ヨネヤマママコさんの姿をひさしぶりに見た。
 18日午前11時5分から、そのタイトルからして全国放映ではなさそうだが、NHK総合『いっと6けん』というスタジオ生放送で「72歳パントマイマー夢語る」と案内がでていたので、ビデオチェックをしておいた。
 納豆チャーハンの作り方のあとに(なんと好評で再放送だったようだ)、若き頃の美貌を決して失ってはいないヨネヤマママコが登場した。
 インタビュアーのアナウンサーがママコさんの芸歴と同じ年齢らしく、あまりママコさんのことを知ってはいなかったようだが、72歳のパントマイマーは、「見るべきものは、すべて見た」と言い、それでもパントマイムのソロ公演への意欲を語るのであった。

 ヨネヤマママコは、その父上からバレエの薫陶を受けたのであるらしい。ママコのお父さんは、戦前からこの国における舞踏の第1人者であった石井漠の弟子のひとりであったようだ。ダンサーとして生きたひとではないようだが(教師だったようだ)、多くの石井門下生や、モダンダンスのちには暗黒舞踏の培養土となる地盤をともに生きたようである。
 石井漠は、自由が丘に1928年(昭和3年)に舞踏研究所(現「石井漠記念バレエスタジオ」として存続し、今年創立80年を迎える)を開設、「自由が丘」の命名者としても知られる。
 クラシックバレエを基礎として、モダンダンスの祖ともなり、「BUTHO(舞踏)」として欧米にも知られるようになった日本独自のダンスの土壌をつくった人物だ。

 1950年代の後半、交流するダンサーや盟友を連れて(その中には大野一雄、土方巽なども含まれる)新宿「風月堂」に足しげく通い、「風月堂」のアイドル的存在だったヨネヤマママコは1955年のマルセル・マルソーの初来日公演を見て、どうやって帰ったのか覚えてないほどのぼう然自失の状態に陥る。それほどの衝撃をマルソーのマイム公演に受ける。昨年亡くなったマルソーとの交流も50年におよんだ。
 1960年から72年までアメリカに滞在し、若手アクターにパントマイムを教える。
 60年代は「風月堂」はもとより、日本でも公演以外は不在だった訳だ。道理で、ボクが「風月堂」で会えなかったはずである。

 インタビューでは、見えないものが見えてくるには「緊張と弛緩」が重要と言い、身延町でのひとり暮らしと稽古風景が紹介された。2月1日に谷川俊太郎さんの詩とコラボした公演があるようだ。
 パントマイムはいわば黙劇であり、観客の想像力を誘導するものだろう。ヨネヤマママコはそれは表現の宝島と言っていたが、ことばとのコラボレーションからあらたな境地が見えてくるのだろうか?

(この記事はmixi内「新宿風月堂」コミュにも掲載します)



そして神戸から(震災13年)

2008-01-18 23:59:21 | コラムなこむら返し
 昨日、1月17日あの未曾有の大震災(阪神・淡路大震災)から13年目をむかえた神戸のことをやはり書こう。もう、ボクの記憶の中からも大部薄れかけてしまったが、ボランティア体験や震災のメッセージを歌い伝え歩いていたおーまきちまきやマンドセロ弾きのオッチャンとの出会いを通じて、仮設住宅の訪問や、慰安コンサートやFMワイワイや鷹取教会や長田の崩壊した街々を歩き回ったことがある。
 それまで、ヒッチハイクの中で通過した一地方都市にしか(それも長崎や横浜ともよく似た面をもつ港町として)すぎなかった神戸をあれほどイキイキと感じた体験も今にしてみれば貴重だった。

 ボクは、国際ボランティアNGOとして有名な団体の現地事務所のプレハブに寝泊まりしたが、あの時ほど、大学生などの学生諸君を見直した時もなかった。現地で知り合い、ともに仮設訪問をした学生たちは関東だけで、学生ボランティアのネットワークを作っていた。さすがに、資格からしても(笑)ボクがその仲間に入ることはなかったが、かれらは横浜で開催した震災関連のイベントにボクなどをまねいてくれたりした(神奈川県横浜防災センター)。ボクは、その2~3年前から新大久保のタイレストランや、国立のカフェなどで年末にポエトリー・イベントなどをたったひとりで開催したりしていた。現地センターの解散式などで、神戸の震災のポエトリーをひとり詠んだのを覚えておいてくれたのだろう。

 ちなみにこの機会に紹介しておくと、ボクなどのボランティアの立場で関わったものの生半可な震災のポエトリーではなく、家屋が倒壊し、肉親を亡くした被災者自身がその悲しみと、鎮魂の思いをしたためた秀逸な詩が震災後にたくさん書かれている(冊子や書物の形でまとまっている)。
 ただ残念なことは、その多くの詩は活字になって、墓碑銘のように書物に刻まれてよしとしているのが、ひとつ残念なのだ。「うた」のように、声を取り戻してほしかったと思っている。
 とはいえ、それは「朗読」するという意味ではない。うたうのだ。うたうことが必要なのだ。声の取り戻しとは、うたなのだ!

 もう、ひとつ神戸という街は、アヴァンギャルドなアートの伝統をもつ街なのだ。ボクは、随分まえに新宿駅西口の高層ビルのひとつのエントランス・フロアで開催されていた大震災を鎮魂するアート展を見に行ったことがある。ただ、そのような動きが一般的に紹介されたり、展示されたりする機会が極端に少ないことをも残念に思っている。神戸と言う街は充分にトリエンナーレ、ビエンナーレなどの、国際的な美術展を主催できる素地をもっている街だと思っているからだ。国際的に開いた港町の利点を生かきれていないのは、「復興」という視点からもみても口惜しいことではないかと思うのだが……。


ミッションズの使命

2008-01-17 23:20:53 | アングラな場所/アングラなひと
Missions_live_4_2 ネイティブ・アメリカンのセージを燃やす儀式とボクのポエトリー・リィディングからはじまったこの日のライブ。場は浄化され、凄くいいカンジで盛り上がった!

 急遽手伝ってくれたさっちゃんのジャンベが腹に響く。そのリズムにのせて盛り上がる、BEMさんのサックスが吠え、ララリーヌさんが、素敵なコーラスをつけてくれる。即興パートで、リズムに載せほとんどヒップホップになったところで、会場のみなが足踏みで応えてくれた。観客と一体となって、ボクはポエトリーのメッセージを吠え続ける。これをひそかにコヨーテ・プロジェクトと名付けていた。みなが、都会と言う砂漠の中で孤独なたましいをかかえるコヨーテなのだ。みながその肉体の中に、野生をもっているはずなのだ。いや、原野と同じウィルダネスをもっている。
 孤独なたましいが、都会の中のライブハウスという空間で、仲間を呼び合っているのだ。荒野に叫ぶオオカミなのだ。だから、オオカミと遊べ!
 オオカミと遊ぶおとこ、あるいはカミナリを呼び寄せる勇者、あるいはワシの羽を身に付けたおんな??大いなる精霊の意志を生きる部族(トライブ)なのだ。

 ビートニクスってそういうことだったんじゃないか? 50年前、数人のヒップな詩人、小説家そして単なるジャンキーが寄り集まり、自然発生的にできたグループが「ビート・ジェネレーション」と呼ばれてゆく。マスコミに書き立てられ、いみじくも対アメリカに対する軍事的対抗として打ち上げられたソ連(当時)の「スプートニク」をもじって「ビートニク(ス)」と揶揄(やゆ)された。
 つまり、強大な世界(大戦)の勝者アメリカに唾し、反抗し、対抗する存在だと名指しされたのだ。

 いま、格差身分社会になりつつあるこの国で、職業からも権利からも遠くへだてられつつある若者たちが対抗文化のあらたなる担い手になるべきだ。
 ネオ・ビート・トライブ(ネオ・ビート・ジェネレーション)は、確実に生まれようとしているのだ!

 この日、外は冷蔵庫の中のように寒かったが、クラブ・ミッションズの中はどこよりも熱かった。
 ボクのあとに、さっちゃんの参加バンド「Kora Cora」、続いて「ウワサの二人組」、MONGOOSE HELL LAZERSときてトリは「ねたのよい」である。時間を忘れたくらいライブ・ハウスの中は、轟き、みな踊っていた。素晴らしいライブがたたみかけるひと夜だった。
 「ねたのよい」はみずから、そのライブを通じて新しいムーブメント(「ねたぞく」)まで作り出そうとしているのかもしれない。そのとりあえずの目標が8月12日の「ねた祭り」だ。さぁ、いよいよ目が離せなくなったぞ!

(写真4)きっとこの日のライブハウスの中では最年長。60年代からのメッセージを「いま」という時代の熱い鼓動につなげるため、オイラもライブハウスで熱く燃えるのだ(笑)!
<カメラ:ハリー(写真2~4)←ありがとう!>



ライブ「月裏の集い」へ集まるミッション

2008-01-11 01:16:33 | イベント告知/予告/INFO
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 ボクが応援している若きサイケデリック・バンド「ねたのよい」は、今年の8月12日代々木公園で「ねたぞくピースフェスティバル/ねた祭2008」なるフリーコンサートのまつりを開催する。そのまつりへ向かって連続ライブが企画されているらしい。
 で、その第1弾とも言うべきイベントに裏マネージャー(悪役辣腕ジャーマネです!)である、オイラも出演することになった。

 ライブのネーミングは「月裏の集い」というものらしいが、オイラはネットカフェ難民と勝手に呼ばれ、ロスト・ジェネレーションと大新聞社に勝手に名付けられた彼らをその正しいネーミングで、呼び直す!
 そして彼らに呼び掛ける!
 いまこそ群れよ! 連帯せよ! タコつぼから顔を出せ!
 お前たちこそが、ネオ・ビートニクスと呼ばれるものたちなのだ、と!
 覚醒せよ! ネオ・フーテンたましいを見せてやれ!
 集うのだ! バック・ストリートや、月の裏、「かぐや」の探査から逃げうせろ!
 おきな、おうなに運ばれて、月の裏でムーンソルト!
 密会、集会、宴会、そうかい?
 だから、ネオ・ビートのミッションは高円寺Mission'sに集うこと!

 新しい世代のネオ・ビートニクスの誕生だ!

 netazoku Presents 「月裏の集い」Vol.1
 2008年1月14日(月・成人の日/祝日)
 open19:00/start19:30 adv/door\1000(1D込)
 高円寺CLUB Mission's

[LIVE] ★MONGOOSE HELL LAZERS ★ウワサの二人組 ★Kora Cora ★ねたのよい
[ポエトリーリーディング] ★フーゲツのJUN<サポート>BEMさん(Sax)、ララリーヌ(ヴォイス)、柴田耕司(Drm)

[DJ] ★DJ keniti(緑の月)

高円寺MISSIONS
公式サイト→http://www.live-missions.com/
地図→http://www.live-missions.com/access/access.html

 「月裏の集い」 へは、ポエトリー・リィディングですが、BEMさん(Sax)、ララリーヌ(ヴォイス)、柴田耕司(Drm)の4人で対バンに負けぬ音でやります。



聖なる参賀日(さんがにち)/貳、参日

2008-01-10 20:23:50 | トリビアな日々
08newyear_3 ボクはけっして神道を信仰するものではないが、社務所で「神宮大麻(じんぐうたいま)」を求める。ずっとずっと気になっていたのである。なぜ、このアマテラスオオミノカミを祀る御幣をそう呼ぶのかと……。このことの結論は、こんなところですぐに出る訳もないので別稿で考えてみたい。
 ただそのせいかどうか、その夜、こんな夢を見たのだ(今年の「初夢」ということになるのだろう)。

 出雲大社のような(それとも伊勢神宮だったのか)立派な社(やしろ)のある、神社へゆくと、宮司(ぐうじ)が直接出迎えてくれた(ボクは神道の研究者でも、偉いひとでもないのにだ)。そして、その社殿にかかる見事な注連縄(しめなわ)を指して、「これも昔は麻でなえたものですよ。」と、とくとくと説明をはじめるという夢だった。
 きっと、ボクは夢の中で疑問を質(ただ)しに行ったのだろう。ちなみに、注連縄を昔は麻で作っていたのかどうかは知らない。ただ、この夢が伝えたかったメッセージだけは、なんとなく分かる。
 つまり、近代以降大事な植物(食物)となった藁(米、麦)と、古代の重要な植物だった麻との関係を考えろということなのだろうということくらいは……。

 続いて、北関東では昔から有名だと言う観音様を祀る寺へ。正月は御開帳していて、その多面のお顔をもつ観音像を拝観できるのだが今回は断念して、詣でたあと境内にたくさんの出店している屋台で昼食となるものを物色する。そして、結局ヤキソバになってしまったのだが、それはとても不味いものだった。
 しかし、ボクは境内でふるまっていたタル酒と甘酒を飲んでいい気持ちになっており、意に介さなかった。

 ボクだけ、先に帰った。ボクには4日の自分のイベントがあったから……。帰りしな、一年に一度だけ訪れている駅前の古書店に寄る。ここは正月だと言うのに店を開けていると言う奇特な店なのだ。
 そして、その店でボクは懐かしい本とまた巡り会うことになる。
 それは、まだ「地球の歩き方」などのガイドブックがなかった頃、初めの頃のインド・ネパールへの旅の手引書となった懐かしい本だった。

 『インド・ネパール旅の絵本』(1974年10月刊)というのが、その書名である。

 その懐かしい本を繙くとボクはいっきに、最初にインドを訪れた旅の記憶に引きずり込まれたものだった。

(おわり)

(写真7)観音堂。関東三大観音とか言われているらしい。ここは、そのひとつ。今回は拝観しなかったが、堂内にはスリムで素敵な多面の観音像が祀られている。



聖なる参賀日(さんがにち)/貳日

2008-01-08 23:58:07 | トリビアな日々
08newyear_1 数時間の仮眠で起こされ、初日の出を見る。が、アパートの屋根越しに昇る日の出のためしばらくボクらは、あらぬ方を見ていたことがわかる。陽も高くなってそのことに気付き、あらためて見上げた太陽は目を開けていられないくらい眩しかった。
 ともかく、眠い目をこすりつつ帰宅。さらに、2時間仮眠して、北関東の一地方都市へ家族で出かける。

 小さなさびれた街だが、ボクにも愛着のようなものがうまれつつある。第一、江戸時代くらいからその街に根をおろして住み続けてある偶然から親戚関係を結んだひとびとが住む街なのだ。

 二日目。自転車を借り受けて街をめぐることに。とは言っても、この街にある文学館や、美術館は正月休みなので、結局、初詣に行くしかない。
 きっとそこは長い歴史を持った村の鎮守様だったのではないか、と思わせる渡良瀬川沿いの神社へ。ここのすぐ裏手の土手に登って見る景色は雄大だ。正月休みで、風もあり晴れ渡っていたためか、日光の男体山までみえるではないか(なぜ、その山が男体山かとわかったかというと土手の上に景観標示のプレートがあるのだ)。その景観にも打たれたが、この風景も長い時間の中でひとびとが作り上げてきた治山治水がうみだしたものだという思いもボクを感動させる。村(コミュニティ)の結束と言うのも、本来は自然や天災の脅威に立ち向かうところから必然的に形作られ、けっして支配の道具としての権力からではなかったろうと考える。

 またこの土手には万葉集に東歌として掲載されている歌が2首、石碑に彫られている。万葉の時代にこの河の渡しをめぐって愛をかわす相聞歌だ。その歌は切なくて砕けそうなまでの思いを今日まで伝えている。

 まくらがの 許我の渡りの からかじの 音高しもな 寝なへ児ゆえに

 逢はずして 行かば惜しけむ まくらがの 許我こぐ船に 君も逢はぬかも

(大意)この地の渡し舟の柄のついたカジのきしむ音が高いように寝てもいない娘とうわさが立ってしまった
 (返歌大意)逢わないままにこのまま行ってしまえば残念なことだろう この地の渡し舟であなたと出逢えないものか

 この大意にはあまり自信はありませんが(碑文の解説の訳もちょっと妙でした)、出会い系サイトのない万葉の時代に、河の渡し舟がとりもつ縁なんて、ロマンですなぁ!

(つづく)

(写真5)風は強かったが、晴れ渡った正月の空。雄大な景観の彼方に日光の山々が見えた。



聖なる参賀日(さんがにち)/元旦奉納行為

2008-01-06 18:30:14 | トリビアな日々
Jun_oomisoka07_2 それは2007年と2008年をまたぐ経年プライベートなイベントだった。それでも、見届けたのはボクを含めて6人。ボクがそこに着いた時、この館(と言ってもマンションの一室)の主は踊っていた。
 主の名は成瀬信彦、そう、この頃色々からむことの多い舞踏家名、舞踏歌である。
 この日は、無音であった。緊張した時間が流れている。で、舞踏が終わり作務衣に着替えた舞踏歌と飲食が始まる。で、ボクがポエトリーをやることになった。
 2007年おおつごもり(大晦日)のその演目は、ぜひとも再演したかった(E.G.P.P.100での)12月のテーマ「少年ダダ/中原中也」だった。その前日だかに見たETVの「中原中也」が、あまりにも福島泰樹らの中也研究の書物を通り一遍になぞっただけで、それを町田康が、わがことの発見のように中也にまつわる場所を経巡って語るという番組で、見ながらボクは腹をたてていた。
 書物のそのままの再現で特別番組がつくれるものなら、ドラマにあるような原作料を払い、しかるべきクレジットを入れるべきではないだろうか?
 もっとも、番組にも見るべきシーンはあった。2007年に各地で行われた「中原中也生誕100年」の関連イベントが、短い時間にせよ紹介放映されたからだ。特筆すべき催しだったものとして、シャンソン歌手如月伶生の「シャンソン中原中也の世界」をあげておこう。これは、ライブをボクも見たかった。如月伶生は中性的な美しさを持つシャンソン歌手である。

 そして、年が明け、近所の「北野天神」に奉納および、初詣に出かけることになった。成瀬はふたたび、コノハナサクヤヒメのような扮装をまとい、境内で舞いはじめる。境内では年越しの焚き火がたかれ、舞台ではお囃子もやっている。そのお囃子にのせるかのように、ボクもポエトリーを即興で叫ぶ。

 かくして、2008年は奉納行為で明けたのであった。

 (写真4)「少年ダダ/中原中也」は生誕100年の07年の掉尾を飾るには、相応しかったかも……。周りの成瀬のオブジェも呪物玩具的な作品であった(2月2日から横浜ZAIM地下スペースで展覧会があり、ボクは仲間とともに9日に「ニクの日」と称してポエトリー・イベントを敢行します)。
 写真3、4もカメラ:さかた。提供を感謝します!。