●(その1)/豊穣のガロの時代●
ボクは「マザー・グースな店(2)」で、こう書いた。
「しかし、その白無垢の老犬につけられた「侘助」という名は、侘びしさをかこつ独身のオス??という風情を感じてわびしく、またつげ作品の『峠の犬』の悲哀さえ感じてしまったのでした。」
つげ義春の作品のなかで『峠の犬』は、さほど世間に知られた作品ではない。ボクはリアルタイムで『ガロ』で読んだが、昭和42年(1967年)初夏ごろに発表された12頁の短編だ。青林工芸社で復刻された『つげ義春作品集』にあたるしか読む術は現在はないかもしれない。
この時期、つげ自身は貸本マンガが売れなくなって行き場を失っていたようだ。マンガ家仲間からもその消息を消し、創刊されたばかりの『ガロ』のある号に「つげ義春の消息を知っている方は、お知らせ下さい」という尋ね人のような「お知らせ」が載ったことを、ボクは今でもありありと覚えている。その尋ね人はたしか、白土三平名義だったと思う。
生活に困窮していたつげは、青林堂の長井社長や白土三平と連絡がつくと、その世話で『テレビくん』での講談社児童漫画賞を受賞、『ゲゲゲの鬼太郎』のヒットによって超売れっ子になっていた水木しげるのもとでアシスタント生活をすることになった。そして、同時に1966年初頭から『ガロ』に3年間にわたり「豊穣のガロの時代」(ボクの命名です)の作品を産み出して行く。この間に、2冊の『ガロ』臨時増刊号が作られる。それが『つげ義春特集』1、2で『作品集』というのは、その箱入りハードカバー版のことを言う。
そして、その「特集号」1(1968年6月増刊)に描きおろしの形で発表されたのが、2色刷りの『ねじ式』だった。それまで、マンガ(まして劇画なぞ)を批評の対象としてこなかった文学者や、現代詩人たちが『ねじ式』に衝撃を受け、きそって「ねじ式」論を書くようになった。鈴木志郎康、天沢退次郎らである。「劇画」や月刊マンガ誌『ガロ』が引き継いできたような「貸本マンガ」に一定の分析的視点を注いでいた石子順造、梶井純、権藤晋らの『漫画主義』グループは別格として、漫画批評がもっとも先鋭で、実りの多かった季節であった(漫画批評が次の実りをむかえるまで、宮崎駿の「ナウシカ」の登場を待たねばならなかった)。
ボクは「マザー・グースな店(2)」で、こう書いた。
「しかし、その白無垢の老犬につけられた「侘助」という名は、侘びしさをかこつ独身のオス??という風情を感じてわびしく、またつげ作品の『峠の犬』の悲哀さえ感じてしまったのでした。」
つげ義春の作品のなかで『峠の犬』は、さほど世間に知られた作品ではない。ボクはリアルタイムで『ガロ』で読んだが、昭和42年(1967年)初夏ごろに発表された12頁の短編だ。青林工芸社で復刻された『つげ義春作品集』にあたるしか読む術は現在はないかもしれない。
この時期、つげ自身は貸本マンガが売れなくなって行き場を失っていたようだ。マンガ家仲間からもその消息を消し、創刊されたばかりの『ガロ』のある号に「つげ義春の消息を知っている方は、お知らせ下さい」という尋ね人のような「お知らせ」が載ったことを、ボクは今でもありありと覚えている。その尋ね人はたしか、白土三平名義だったと思う。
生活に困窮していたつげは、青林堂の長井社長や白土三平と連絡がつくと、その世話で『テレビくん』での講談社児童漫画賞を受賞、『ゲゲゲの鬼太郎』のヒットによって超売れっ子になっていた水木しげるのもとでアシスタント生活をすることになった。そして、同時に1966年初頭から『ガロ』に3年間にわたり「豊穣のガロの時代」(ボクの命名です)の作品を産み出して行く。この間に、2冊の『ガロ』臨時増刊号が作られる。それが『つげ義春特集』1、2で『作品集』というのは、その箱入りハードカバー版のことを言う。
そして、その「特集号」1(1968年6月増刊)に描きおろしの形で発表されたのが、2色刷りの『ねじ式』だった。それまで、マンガ(まして劇画なぞ)を批評の対象としてこなかった文学者や、現代詩人たちが『ねじ式』に衝撃を受け、きそって「ねじ式」論を書くようになった。鈴木志郎康、天沢退次郎らである。「劇画」や月刊マンガ誌『ガロ』が引き継いできたような「貸本マンガ」に一定の分析的視点を注いでいた石子順造、梶井純、権藤晋らの『漫画主義』グループは別格として、漫画批評がもっとも先鋭で、実りの多かった季節であった(漫画批評が次の実りをむかえるまで、宮崎駿の「ナウシカ」の登場を待たねばならなかった)。
いつか JUNに会うために 東京へ行く
パーティじゃ
がっははは
では、風の又三郎 by 状況
そろばんじゅくはどちらでしょうか
がっがっがっが