「ジャズが変わった。/いままでかかっていたマイルス・デビスの曲とはまるっきり違う「惑星空間」だった。ジェイコブはサックスを吹いているのが、そのレコーディングをしてからほどなく死んだジョン・コルトレーンだという事を知っていた。スウィングする事もいらない、一切合財、拒むというコルトレーンは、耳に痛いたしく聴こえた。それでもコルトレーンが何を言っているのか聴き取ろうとジェイコブは耳をそば立てる。音と音が幾つも打ち当り青白い光のようなものを身に残すのを知り、ジェイコブは、声を限りに泣いてみたいような気がした。」(中上健次『十九歳のジェイコブ』)
ここに出てくるコルトレーンの遺作のアルバムとは『エクスプレッション』のこと。コルトレーンは1967年7月17日に40歳の若さで死んでしまった。その早すぎた死は、数ケ月にわたって、いや数年にわたってボクらに衝撃を与えて続けて来た。中上健次もコルトレーンが死んだ67年頃から、上京してジャズの洗礼を受け、ジャズにのめりこんでゆく。ボクはなにがうれしいかと言って、コルトレーンの在命中からコルトレーンを聞いていたことだ。ボクのジャズ遍歴は1965年くらいからで、日暮里の「シャルマン」(近所だった)から有楽町の「ママ」、そして渋谷道玄坂百軒店、新宿へと流れてゆく。だからボクの最大の後悔のひとつは1966年7月(亡くなったのも7月であったことを思い出そう)来日当時、オケラ同然で来日コンサートに行ける金がなかったことだ。
新宿にたどりついた頃が、60年代のフリージャズ全盛の頃だった。いわば、それまでのジャズ喫茶通いがビバップや、メインストリームの勉強だったとすればタイミングも符合する。
今年は、コルトレーンのその死から39年め。来年2007年はちょうど死後40年(生誕80年)で、なにか追悼イベントが行われるかも知れない。少なくとも、ボク自身はコルトレーンを偲ぶなにかをやりたいと思っている(自宅レコードコンサートかもしれないが……)。
この記事は、そう17日にアップできればタイミング的にも良かったのだが、大原での樹木葬からの帰りで無理だった。それに、毎年コルトレーンの命日に一日中コルトレーンばかりをかけている店も知っていたが、ゆく事もかなわなかった。
さて、冒頭の中上の引用の文章に戻る。初期の中上文学はまさしくジャズ文学だ。そして、舞台になるジャズ喫茶は、そのほとんどが「ジャズ・ヴィレッジ」(通称ジャズヴィレ)を彷佛とさせる店である。そのことについては稿をあらためて書きたい。
ただ、冒頭のコルトレーンの曲が『インプレッションズ』(60年代初期)ではなくて、遺作となった『エクスプレッション』の方(そうとしか読めないのだが……)だとすれば、これは大いに印象が違う。まして、共演プレイヤーはファラオ・サンダースである。『至上の愛』(1964年)以降、急速に精神世界の方に傾斜をすすめていったコルトレーンは、この最晩年のアルバムの頃には、スピリチュアルで瞑想的な境地に達していた。ストイックなまでにおさえた音、寡黙に近い表現である(『インプレッションズ』ではエリック・ドルフィをフュチャー)。
(つづく)
(写真1)死の前年、1966年頃のジョン・コルトレーンと妻アリス・コルトレーン。
ここに出てくるコルトレーンの遺作のアルバムとは『エクスプレッション』のこと。コルトレーンは1967年7月17日に40歳の若さで死んでしまった。その早すぎた死は、数ケ月にわたって、いや数年にわたってボクらに衝撃を与えて続けて来た。中上健次もコルトレーンが死んだ67年頃から、上京してジャズの洗礼を受け、ジャズにのめりこんでゆく。ボクはなにがうれしいかと言って、コルトレーンの在命中からコルトレーンを聞いていたことだ。ボクのジャズ遍歴は1965年くらいからで、日暮里の「シャルマン」(近所だった)から有楽町の「ママ」、そして渋谷道玄坂百軒店、新宿へと流れてゆく。だからボクの最大の後悔のひとつは1966年7月(亡くなったのも7月であったことを思い出そう)来日当時、オケラ同然で来日コンサートに行ける金がなかったことだ。
新宿にたどりついた頃が、60年代のフリージャズ全盛の頃だった。いわば、それまでのジャズ喫茶通いがビバップや、メインストリームの勉強だったとすればタイミングも符合する。
今年は、コルトレーンのその死から39年め。来年2007年はちょうど死後40年(生誕80年)で、なにか追悼イベントが行われるかも知れない。少なくとも、ボク自身はコルトレーンを偲ぶなにかをやりたいと思っている(自宅レコードコンサートかもしれないが……)。
この記事は、そう17日にアップできればタイミング的にも良かったのだが、大原での樹木葬からの帰りで無理だった。それに、毎年コルトレーンの命日に一日中コルトレーンばかりをかけている店も知っていたが、ゆく事もかなわなかった。
さて、冒頭の中上の引用の文章に戻る。初期の中上文学はまさしくジャズ文学だ。そして、舞台になるジャズ喫茶は、そのほとんどが「ジャズ・ヴィレッジ」(通称ジャズヴィレ)を彷佛とさせる店である。そのことについては稿をあらためて書きたい。
ただ、冒頭のコルトレーンの曲が『インプレッションズ』(60年代初期)ではなくて、遺作となった『エクスプレッション』の方(そうとしか読めないのだが……)だとすれば、これは大いに印象が違う。まして、共演プレイヤーはファラオ・サンダースである。『至上の愛』(1964年)以降、急速に精神世界の方に傾斜をすすめていったコルトレーンは、この最晩年のアルバムの頃には、スピリチュアルで瞑想的な境地に達していた。ストイックなまでにおさえた音、寡黙に近い表現である(『インプレッションズ』ではエリック・ドルフィをフュチャー)。
(つづく)
(写真1)死の前年、1966年頃のジョン・コルトレーンと妻アリス・コルトレーン。
凄かったです。
「コルトレーンの寡黙とも言えるプレイはその調べに一切のトゲがなく。ストレートに全身に憑依してしまう」という表現は名文ですね。
いや、ボクらはうす暗いジャズ喫茶で目の前にコルトレーンがいるかのように、トリ肌をたてて聴き入っていましたからね……。