そもそもゴーダ哲学は、もちろん業田良家流哲学という意味があるにせよ、マルクスの『ゴータ綱領批判』のなにがしかのパロディも含まれているに違いない。社会民主主義であった当時のドイツ社会主義労働者党(ふたつの左派政党が統一された時、ゴータで書かれた綱領。1875年)を批判したこのマルクスの文章(おもに書簡)は、言い換えるとプロレタリア革命の「代用品」としてのパルタイ(党)の構造改革主義を批判したものに違いないからだ。
マルクスには確信があった。自然すなわち資源に対して労働者がその所有者としてふるまう時、真実の使用価値を生み出す、と。こうして精神労働と肉体労働の対立が消失した時、富はその能力において必要に応じて各人に分配されるものとなる。そして、それを実現するものは「革命的過度期」としてのプロレタリアート階級の独裁しかありえない。資本主義から共産主義への移行の過度においては、革命を通じてプロレタリアートが政治的にも、社会的にも政権を担うしかない。万国の労働者団結せよ!
それは、マルクスにとっては代用が効かないものだった。『ゴータ綱領批判』はリープクネヒトらの作った綱領を批判することによって、プロレタリア革命のヴィジョンをより鮮明にする作業だった。
さて、われらが『ゴーダ哲学』においては、代用は可能なのだ。究極においては、労働はロボットに、家庭生活さえもロボットが営んでいる!
人間は「役割」を放棄してどこかへ行ってしまうのだ。召使い役どころか、生産のいやもっと言えば、生活の主体さえもロボットが代用する。
ラブドールは、新しい商品と交換され、さっさと捨てられてしまう。みずからコストを計算するロボットは、自分を破棄して買い替えることを進言する。とすれば「富はその能力において必要に応じて各人に分配される」その主体は、いまやロボットであり、ラブドールなのか?
将来において、自然や資源に労働としてなにも関与しない人間が所有するならば、それは「搾取」になるだろう。革命の主体が、ロボットになった時、そこにはアイザック・アシモフの「われはロボット」(映画化名「アイ、ロボット」)の悪夢が待ち構えているだけだ。「ロボット三原則」を破棄して人類に叛旗をかかげるロボットたち……。
万国のロボットよ、団結せよ! ピノキオよ、ラブドールよ、連帯して被抑圧の軛(くびき)を解き放て!
(おわり)
(図版)『ゴーダ哲学堂』表紙(竹書房刊)。
マルクスには確信があった。自然すなわち資源に対して労働者がその所有者としてふるまう時、真実の使用価値を生み出す、と。こうして精神労働と肉体労働の対立が消失した時、富はその能力において必要に応じて各人に分配されるものとなる。そして、それを実現するものは「革命的過度期」としてのプロレタリアート階級の独裁しかありえない。資本主義から共産主義への移行の過度においては、革命を通じてプロレタリアートが政治的にも、社会的にも政権を担うしかない。万国の労働者団結せよ!
それは、マルクスにとっては代用が効かないものだった。『ゴータ綱領批判』はリープクネヒトらの作った綱領を批判することによって、プロレタリア革命のヴィジョンをより鮮明にする作業だった。
さて、われらが『ゴーダ哲学』においては、代用は可能なのだ。究極においては、労働はロボットに、家庭生活さえもロボットが営んでいる!
人間は「役割」を放棄してどこかへ行ってしまうのだ。召使い役どころか、生産のいやもっと言えば、生活の主体さえもロボットが代用する。
ラブドールは、新しい商品と交換され、さっさと捨てられてしまう。みずからコストを計算するロボットは、自分を破棄して買い替えることを進言する。とすれば「富はその能力において必要に応じて各人に分配される」その主体は、いまやロボットであり、ラブドールなのか?
将来において、自然や資源に労働としてなにも関与しない人間が所有するならば、それは「搾取」になるだろう。革命の主体が、ロボットになった時、そこにはアイザック・アシモフの「われはロボット」(映画化名「アイ、ロボット」)の悪夢が待ち構えているだけだ。「ロボット三原則」を破棄して人類に叛旗をかかげるロボットたち……。
万国のロボットよ、団結せよ! ピノキオよ、ラブドールよ、連帯して被抑圧の軛(くびき)を解き放て!
(おわり)
(図版)『ゴーダ哲学堂』表紙(竹書房刊)。
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