風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

タカダワタル的生き方

2005-04-19 00:54:35 | 歌え! 叫べ! 世界を切り裂いて……
wataru_5fuusenミクシィ仲間にもなった仙さんからの私信によれば、ボクはあの日(16日)、高田渡さんの訃報を聞いた時、泣いていたのだそうだ。自分では、自覚はなかったがわずかなりとの時間を共にした思い出が、甦ってきたのかもしれない。

渡さんと一番近い距離にいたのは、70年代の中頃だ。東伏見にあった都市型コンミューンが終ってしばらくたった頃、同じそのアパートに引っ越してきたシバと仲が良かった。シバもまた、永島慎二氏のアシスタント経験を持ち、マンガを描いていたから親しくなりボクはしばしば(シャレ?)シバの部屋に遊びに行っていた。練習するシバのブルースハープと歌を独占して聞いていた。そのシバが出入りしていたのが、吉祥寺の「ぐわらんどう」だった。小さなビルの2階にあった小さなフォークのライブカフェで、そのオーナーというのも自ら主夫宣言をして本も書くというたしか村瀬さんと言うのだった。ママもフェミニストで二人は、名物夫婦だったが、その店を拠点として「武蔵野たんぽぽ団」というバンドが生まれた。そして、シバはそのメンバーで、リーダー格が高田渡さんだった(「武蔵野たんぽぽ団」という名前では中津川フォークジャンボリーでデビュー)。
小さな店の片隅で、シバや渡さんや「たんぽぽ団」の演奏を見ていた。
その実、ボクはその頃もまだジャズファンを自認していたから、足しげく通っていたのは「Meg」の方であった。だから、「ぐわらんどう」はそんなにも通った口ではない。それでも、このような思い出をもてただけでも良かった。「ぐわらんどう」は、その店名をタイトルにしたマンガも描いたことがある。「ぐわらんどう」とは「がらんどう」、中味のない虚ろな空間のことを言う。それは、当時のボクなどにもとてつもない皮肉に聞こえた。

武蔵野市に住み続けた渡さんは、60年代の末「自衛隊に入ろう」で、一世を風靡して登場したが、もうその頃には反戦フォーク歌手と言う政治的で、過激なマスクはかなぐり捨てて、淡々と飄々とマイペースで、それこそ渡さんが、憧れ続けてきた年金生活者もしくは浮浪者予備軍のように生きていた。
仙人のように霞を食って生きてるんですか?というのは、ボクも散々言われたが、渡さんは若くして、余生を楽しむ老人のように生きていた。急がず騒がず、まるでスローでかたくなな知恵者である亀のように……。

その生き方というのが、どこかウチナー口を失い、どこまでも沖縄に憧れて都会で生きた詩人・山之口貘の生き方を連想させてしまう。渡さんが、そこまでもこの詩人を愛したのは、共感以上にディアスポラ(故郷喪失者)の、その根が揺り動かす「うた」(ことば、詩といってもよい)の力だったのだろう。

「生活の柄」
歩き疲れては
夜空と陸との隙間にもぐり込んで
草に埋もれては寝たのです
ところかまわず寝たのです
歩き疲れては
草に埋もれて寝たのです
歩き疲れ
寝たのですが
眠れないのです
このごろは眠れない
陸を敷いては眠れない
夜空の下では眠れない
揺り起こされては眠れない
歩き疲れては
草に埋もれて寝たのです
歩き疲れ
寝たのですが
眠れないのです
そんな僕の生活の柄が夏向きなのでしょうか?
寝たかと思うと寝たかと思うと
またも冷気にからかわれて
秋は秋からは
浮浪者のままでは眠れない
秋は秋からは
浮浪者のままでは眠れない
(原詩:山之口貘/詞:高田渡)

(今日の朝日新聞の夕刊に早川義夫さんの追悼文が載っていた。その末尾のことばを最後に引用させてもらっていいだろうか。
「耳を澄ませばいつだって声が聞こえてくる。僕は悲しくなんかない。」
ボクにとっては、「新宿風月堂」を知る人物が、またひとり去ったのと同じである)



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