現時点で76名の死者、負傷者450名の犠牲者を出したJR福知山線の脱線事故の報道があった25日の新聞にたったひとりの老婆の訃報が掲載されていた。訃報欄としては小さくもなく、写真入りだったから別格だったが、大きな事故報道の中では見逃しそうな記事である。
「最後の越後ゴゼ」と言われていた小林ハルさんが、25日午前2時10分に入所していた特別養護老人ホーム「胎内やすらぎの家」(新潟県黒川村)で老衰のため亡くなったと言う記事であった。享年105歳!
すばらしく長生きをなさったものだ。
晩年は、その芸によって重要無形文化財(人間国宝)という栄誉を得たが、ハルさんの一生はその少女時代から、それはみじめで苛酷なものだった。
ゴゼ(瞽女と書く)さんとは、三味線を片手に数人で数珠つなぎになって農村の家々を門付けしてまわった盲目の旅芸人の事を言う。ハルさんは、1900年(明治33年生まれ)に三条市で生まれ、わずか100日余で白内障のため失明した。そして、いまから100年前の5歳くらいの時にゴゼの道に入る。20年の年季奉公であった。かっては、失明や障害を持ったことは前世の「業」と考えられいたく差別された。障害を持つことは、世間体が悪いことのみか本人の「宿業」だと考えられていたのである。年季奉公は、幼いハルさんを不憫に思っての祖父の処置であった。
それ以来、それこそ血のにじむ稽古をして三味線とゴゼ唄をハルさんは覚えていく。
26歳になって、やっと年季奉公の明けたハルさんは、ゴゼとして独立する。もう、これからは誰の指図も受けることはない。子どもの産めない身体になっていたハルさんは、養女をもらい受ける。その子はわずか4歳で亡くなってしまうが、その2年あまりのはじめての子育ての間に、ハルさんは幼い自分に実母かと思うほど厳しかった母の仕打ちが、障害をかかえてたハルさんをひとりできちんと生きていけるようにと、心を鬼にしての親心だったんだとはじめて気付く。ハルさんは、そこではじめて母の気持ちを理解して、さめざめと泣いた。
「本当に涙がこぼれるようなことがあっても、涙隠してきた。泣いて唄うたえる訳じゃないから」
以来、ゴゼの親方となったハルさんは、どのような者でも拒まずに弟子入りしたいものがあれば、引き受けてきた。
「いいひとと歩けばそれは祭り、悪いひとと一緒は修行」
苦労は買ってでもしろという母や祖父の教えのままに、ハルさんは実直なまでにそれを実行してきた。
以来、ゴゼの道を70年近く歩んできたハルさんは、昭和48年にゴゼを廃業することを決める。そして自ら、老人ホームに入居しに行った。
その後、時代はやっとこの忘れられたゴゼ文化の最後の伝承者であるハルさんの存在の重要さに気付く。ゴゼそれ自体の存在も、おおくの人が知るのもその頃、作られた映画や、小説や、TV番組によってであった。
昭和53年、小林ハルはゴゼ唄の文化伝承者として重要無形文化財(人間国宝)に選ばれ、はじめて国立劇場という晴れがましい場所でゴゼ唄をうたった。孫のような弟子もその後、取ったりもした。
ハルさんは、言う。
「生きている限り、すべて修行だと思ってきました。だけんど、こんど生まれてくるときは、たとえ虫でもいい、目だけは、明るい良く見える目をもらいたいもんだな」
長寿を全うした小林ハルさんは、ひとの心を見通すような心の目をもっていたと思う。そして、いま人間の本質を見ることができる光も闇もない清浄な世界にゆきついたのだと思う。御冥福をお祈りします。合掌。
(ハルさんの言葉は、若干脚色。)
参考文献:『鋼の女(はがねのひと)』下重暁子 (講談社)
『最後の瞽女 小林ハルの人生』桐生清次(文芸社)
『小林ハル~盲目の旅人』本間章子(求龍堂)
「最後の越後ゴゼ」と言われていた小林ハルさんが、25日午前2時10分に入所していた特別養護老人ホーム「胎内やすらぎの家」(新潟県黒川村)で老衰のため亡くなったと言う記事であった。享年105歳!
すばらしく長生きをなさったものだ。
晩年は、その芸によって重要無形文化財(人間国宝)という栄誉を得たが、ハルさんの一生はその少女時代から、それはみじめで苛酷なものだった。
ゴゼ(瞽女と書く)さんとは、三味線を片手に数人で数珠つなぎになって農村の家々を門付けしてまわった盲目の旅芸人の事を言う。ハルさんは、1900年(明治33年生まれ)に三条市で生まれ、わずか100日余で白内障のため失明した。そして、いまから100年前の5歳くらいの時にゴゼの道に入る。20年の年季奉公であった。かっては、失明や障害を持ったことは前世の「業」と考えられいたく差別された。障害を持つことは、世間体が悪いことのみか本人の「宿業」だと考えられていたのである。年季奉公は、幼いハルさんを不憫に思っての祖父の処置であった。
それ以来、それこそ血のにじむ稽古をして三味線とゴゼ唄をハルさんは覚えていく。
26歳になって、やっと年季奉公の明けたハルさんは、ゴゼとして独立する。もう、これからは誰の指図も受けることはない。子どもの産めない身体になっていたハルさんは、養女をもらい受ける。その子はわずか4歳で亡くなってしまうが、その2年あまりのはじめての子育ての間に、ハルさんは幼い自分に実母かと思うほど厳しかった母の仕打ちが、障害をかかえてたハルさんをひとりできちんと生きていけるようにと、心を鬼にしての親心だったんだとはじめて気付く。ハルさんは、そこではじめて母の気持ちを理解して、さめざめと泣いた。
「本当に涙がこぼれるようなことがあっても、涙隠してきた。泣いて唄うたえる訳じゃないから」
以来、ゴゼの親方となったハルさんは、どのような者でも拒まずに弟子入りしたいものがあれば、引き受けてきた。
「いいひとと歩けばそれは祭り、悪いひとと一緒は修行」
苦労は買ってでもしろという母や祖父の教えのままに、ハルさんは実直なまでにそれを実行してきた。
以来、ゴゼの道を70年近く歩んできたハルさんは、昭和48年にゴゼを廃業することを決める。そして自ら、老人ホームに入居しに行った。
その後、時代はやっとこの忘れられたゴゼ文化の最後の伝承者であるハルさんの存在の重要さに気付く。ゴゼそれ自体の存在も、おおくの人が知るのもその頃、作られた映画や、小説や、TV番組によってであった。
昭和53年、小林ハルはゴゼ唄の文化伝承者として重要無形文化財(人間国宝)に選ばれ、はじめて国立劇場という晴れがましい場所でゴゼ唄をうたった。孫のような弟子もその後、取ったりもした。
ハルさんは、言う。
「生きている限り、すべて修行だと思ってきました。だけんど、こんど生まれてくるときは、たとえ虫でもいい、目だけは、明るい良く見える目をもらいたいもんだな」
長寿を全うした小林ハルさんは、ひとの心を見通すような心の目をもっていたと思う。そして、いま人間の本質を見ることができる光も闇もない清浄な世界にゆきついたのだと思う。御冥福をお祈りします。合掌。
(ハルさんの言葉は、若干脚色。)
参考文献:『鋼の女(はがねのひと)』下重暁子 (講談社)
『最後の瞽女 小林ハルの人生』桐生清次(文芸社)
『小林ハル~盲目の旅人』本間章子(求龍堂)
心に留めておきたい言葉の一つです。
ハルさんの言葉だから重みがあります。
天寿をまっとうされたように思います。
TBありがとうございました。
ハルさんの言葉は、また堪え性のないボクをも救ってくれたことがあります。
それは、まるで仏教の高僧のことばにも匹敵します。ハルさんは、それを自分の底辺のような暮らしの中で、見い出します。素晴らしい、尊敬すべき旅芸人のかたです。
以前『鋼の女』を読んで、最近思い立ってブログに記事を書いたのですが、
亡くなっていたこと、今知りました。。。
辛苦を辛苦と受け止めないどこか飄々としたハルさんの
言葉一つ一つが、心にずっしりきました。
>辛苦を辛苦と受け止めないどこか飄々としたハルさんの言葉
そうです、励まされたのはボクたち私たちのほうだったのです!