(承々々々前)
京都時代、ダダイストを公言していた頃、中也は富永太郎と連れ立つてダンディなファッションで洛中を練り歩ひた。フランス製のパイプを銜(くわ)へ、お釜帽子をかぶり長いコートをひきずつて歩いていた中也は、まだフランス語を太郎のやうには学んでいなかつたが、おそらくその念頭にはランボーの詩句があつたに違いなゐ。たとへば、このやうな。
私はゆかう、夏の青き宵は、
麦穂臑(すね)刺す小径の上に、小草を踏みに、
夢想家・私は私の足に、爽々(すがすが)しさのつたふを覚え、
吹く風に思ふさま、私の頭をなぶらすだらう!
私は語りも、考へもしまい、だが
果てなき愛は心の裡に、浮びも来よう
私は往かう、遠く遠くボヘミヤンのやう
天地の間を、女と伴れだつやうに幸福に。
(「感動」アルチュール・ランボー/中原中也・訳)
フランス語を驚くべき早さでマスターして、ランボーの訳詩集も、のちに出版する中也は、この時、ボヘミアンもしくはバカボンド気取りで、ランボーとヴェルレーヌに自分たちを重ねて往来を闊歩していただらう。
私は出掛けた、手をポケットに突つ込んで。
半外套は申し分なし。
私は歩いた、夜天の下を、ミューズよ、私は忠僕でした。
さても私の夢みた愛の、なんと壮観だつたこと!
(「わが放浪」アルチュール・ランボー/中原中也・訳)
中也はランボーの散文詩をのぞゐて(といふより、ほとんど避けて)韻文詩を独特のリズミカルな中也節にのせて翻訳した。帽子とコート(あるゐはマント)は、歩行のための衣裳だ。それも、とびきり異相の衣裳がよい。これは韻を踏んでる訳ではない。街なかの路上で目立つほどのアルルカンとしてのお道化た異相の衣裳。そう、異形だ。反抗だ。戯れた反抗だ。
中也が銀座の有賀写真館で撮つた有名なお釜帽子姿の肖像写真??あの帽子は「ボーラーハット」だと思ふが、もともと競馬場などの社交の場で、ブルジョア、貴族のセレブな紳士たちが愛用したフェルト帽を異形の衣裳として取り入れたものだろふ。
もちろん、パリコミューンの騒擾たるパリの街からその彷徨を出立させたランボーのスタイルを意識したにせよ(ヴェルレーヌがスケッチしたランボーのスタイルだ)、のちにチャップリンによつてイメージとして典型化された「放浪者」(乞食紳士)スタイルといふこともあるだらう。
生涯において「労働」といふものと無縁だつた高等遊民としての中也は(それゆえブルジョア階級)、その詩から全く時代背景が失われてゐるやうに、社会からも、政治情況からも遠くへだたつた疎外感を感じてゐたものと思はれる(中也の生きた時代は、関東大震災の混乱の後、2・26事件、廬溝橋事件など日本が軍事国家としてアジアへ覇権をのばしてゆく時代に相当する)。
とはいえ、そのことを「負い目」とした訳ではなく、むしろ詩人としての「自恃」(「盲目の秋」など)とした。社会から疎外されているが、「見者」(ランボー)、「呪われた詩人」(ヴェルレーヌ)として甘んじてゐたと言へば良ひのか。
ただ、自らの実存そのものは民衆的な生活とは隔たつたものと言ふ自覚は持つていたやうだ。索漠とした悔悟をかかへ、それに耐へ生きた。
最晩年(1937年)、残された詩は中也自身がその詩人としての一生をどふ自覚してゐたのかを考えさせる詩である。
夏
僕は卓子(テーブル)の上に、
ペンとインキと原稿紙のほかなんにも載せないで、
毎日々々、いつまでもジッとしてゐた。
いや、そのほかにマッチと煙草と、
吸取紙くらゐは載つかつてゐた。
いや、時とするとビールを持つて来て、
飲んでゐることもあつた。
戸外(そと)では蝉がミンミン鳴いた
風は岩にあたつて、ひんやりしたのがよく吹込んだ。
思ひなく、日なく月なく時は過ぎ、
とある朝、僕は死んでゐた。
卓子(テーブル)に載つかつてゐたわづかの品は、
やがて女中によつて瞬く間に片附けられた。
??さつぱりとした。さつぱりとした。
帰郷を決意した中也が晩年を過ごし、そこで死んだ鎌倉の寿福寺(扇ケ谷181)境内の家は、実際真後ろの崖から冷たい風が吹き込む場所だつた。まるで、あの世から吹いてくる風のやうに……。
中也は1937年(昭和12年)10月22日、併発した脳膜炎にて急死した。享年30歳。
臨終に立ち会つた実弟の中原思郎はのちに書く。
中原家から「聖なる無頼」が消えた感じであつた。
(「兄中原中也と祖先たち」中原思郎)
そう、中原中也とは「聖なる無頼」??実用には全く役立たなゐ無垢なる道化師(アルルカン/ピエロ)だつたのだ。
(了)
※20日間に渡る『隣の中也/ダダの受容』の格闘に、おつき合ひいただきましてありがとうございました。(禁無断転載)
(写真)中也が愛用したコートにボクの姿が写る(前面にガラスがある)。70年前に亡くなつた詩人と21世紀の無名詩人が重なつた瞬間。神奈川近代文学館にて。カメラ:フーゲツのJUN
京都時代、ダダイストを公言していた頃、中也は富永太郎と連れ立つてダンディなファッションで洛中を練り歩ひた。フランス製のパイプを銜(くわ)へ、お釜帽子をかぶり長いコートをひきずつて歩いていた中也は、まだフランス語を太郎のやうには学んでいなかつたが、おそらくその念頭にはランボーの詩句があつたに違いなゐ。たとへば、このやうな。
私はゆかう、夏の青き宵は、
麦穂臑(すね)刺す小径の上に、小草を踏みに、
夢想家・私は私の足に、爽々(すがすが)しさのつたふを覚え、
吹く風に思ふさま、私の頭をなぶらすだらう!
私は語りも、考へもしまい、だが
果てなき愛は心の裡に、浮びも来よう
私は往かう、遠く遠くボヘミヤンのやう
天地の間を、女と伴れだつやうに幸福に。
(「感動」アルチュール・ランボー/中原中也・訳)
フランス語を驚くべき早さでマスターして、ランボーの訳詩集も、のちに出版する中也は、この時、ボヘミアンもしくはバカボンド気取りで、ランボーとヴェルレーヌに自分たちを重ねて往来を闊歩していただらう。
私は出掛けた、手をポケットに突つ込んで。
半外套は申し分なし。
私は歩いた、夜天の下を、ミューズよ、私は忠僕でした。
さても私の夢みた愛の、なんと壮観だつたこと!
(「わが放浪」アルチュール・ランボー/中原中也・訳)
中也はランボーの散文詩をのぞゐて(といふより、ほとんど避けて)韻文詩を独特のリズミカルな中也節にのせて翻訳した。帽子とコート(あるゐはマント)は、歩行のための衣裳だ。それも、とびきり異相の衣裳がよい。これは韻を踏んでる訳ではない。街なかの路上で目立つほどのアルルカンとしてのお道化た異相の衣裳。そう、異形だ。反抗だ。戯れた反抗だ。
中也が銀座の有賀写真館で撮つた有名なお釜帽子姿の肖像写真??あの帽子は「ボーラーハット」だと思ふが、もともと競馬場などの社交の場で、ブルジョア、貴族のセレブな紳士たちが愛用したフェルト帽を異形の衣裳として取り入れたものだろふ。
もちろん、パリコミューンの騒擾たるパリの街からその彷徨を出立させたランボーのスタイルを意識したにせよ(ヴェルレーヌがスケッチしたランボーのスタイルだ)、のちにチャップリンによつてイメージとして典型化された「放浪者」(乞食紳士)スタイルといふこともあるだらう。
生涯において「労働」といふものと無縁だつた高等遊民としての中也は(それゆえブルジョア階級)、その詩から全く時代背景が失われてゐるやうに、社会からも、政治情況からも遠くへだたつた疎外感を感じてゐたものと思はれる(中也の生きた時代は、関東大震災の混乱の後、2・26事件、廬溝橋事件など日本が軍事国家としてアジアへ覇権をのばしてゆく時代に相当する)。
とはいえ、そのことを「負い目」とした訳ではなく、むしろ詩人としての「自恃」(「盲目の秋」など)とした。社会から疎外されているが、「見者」(ランボー)、「呪われた詩人」(ヴェルレーヌ)として甘んじてゐたと言へば良ひのか。
ただ、自らの実存そのものは民衆的な生活とは隔たつたものと言ふ自覚は持つていたやうだ。索漠とした悔悟をかかへ、それに耐へ生きた。
最晩年(1937年)、残された詩は中也自身がその詩人としての一生をどふ自覚してゐたのかを考えさせる詩である。
夏
僕は卓子(テーブル)の上に、
ペンとインキと原稿紙のほかなんにも載せないで、
毎日々々、いつまでもジッとしてゐた。
いや、そのほかにマッチと煙草と、
吸取紙くらゐは載つかつてゐた。
いや、時とするとビールを持つて来て、
飲んでゐることもあつた。
戸外(そと)では蝉がミンミン鳴いた
風は岩にあたつて、ひんやりしたのがよく吹込んだ。
思ひなく、日なく月なく時は過ぎ、
とある朝、僕は死んでゐた。
卓子(テーブル)に載つかつてゐたわづかの品は、
やがて女中によつて瞬く間に片附けられた。
??さつぱりとした。さつぱりとした。
帰郷を決意した中也が晩年を過ごし、そこで死んだ鎌倉の寿福寺(扇ケ谷181)境内の家は、実際真後ろの崖から冷たい風が吹き込む場所だつた。まるで、あの世から吹いてくる風のやうに……。
中也は1937年(昭和12年)10月22日、併発した脳膜炎にて急死した。享年30歳。
臨終に立ち会つた実弟の中原思郎はのちに書く。
中原家から「聖なる無頼」が消えた感じであつた。
(「兄中原中也と祖先たち」中原思郎)
そう、中原中也とは「聖なる無頼」??実用には全く役立たなゐ無垢なる道化師(アルルカン/ピエロ)だつたのだ。
(了)
※20日間に渡る『隣の中也/ダダの受容』の格闘に、おつき合ひいただきましてありがとうございました。(禁無断転載)
(写真)中也が愛用したコートにボクの姿が写る(前面にガラスがある)。70年前に亡くなつた詩人と21世紀の無名詩人が重なつた瞬間。神奈川近代文学館にて。カメラ:フーゲツのJUN
家族の中には
「風をいれる役目」の人がいるんだって
「聖なる無頼」も同じ役目だよね
もちろんあたしは・・・・
そしてあなたも?
街はずれ南風吹く
二人だけの庭で会いましょう
(by:キヨシロー)
写真めっちゃええな!
あんただり?
>毎日々々、いつまでもジッとしてゐた
>思ひなく、日なく月なく時は過ぎ
>さつぱりとした
すごくよくわかりました
ボク、ダリ!
南風という飲み屋がかって西表島にあったよ。
ヤマトからの旅の途上のムスメがバイトしていて、島の反対がわからも島の青年たちが飲みに押し寄せていた。
そんな飲み屋で会いたいものですね(笑)。
中也のことがわかりましたか?
かく言うボクも書くことによって中也を発見しました。
ここに書いたことはオリジナルの中也論です。
「LADY」の「L」を落としちゃったみたいで、申し訳ございません。許してください。