ダンさんが死んだ! 敬愛するマンガ家、ボクにとってはマンガの師匠と思わせていただいていたダンさんこと永島慎二さんが亡くなっていた。いつか、このような訃報は書くとは思っていた。しかし、それを2005年の七夕の日に書くことになろうとは考えてもみなかった。
今朝(6日)の朝日新聞に報道されていたもので、WEBニュースでもいまのところasahi.com位にしか掲載されていない。
すでに先月6月10日に心不全で自宅で倒れているのが発見され、そのままお亡くなりになってしまった。享年67歳だった。葬儀はすでに家族のみで12日に執り行われた。喪主は奥様の小百合さんだった。
貸し本漫画が全盛だった昭和30年代から斜陽になる40年代近くまでリアルタイムで、ファンであり続けたボクにとっては哀しみの思いは強い。
永島慎二(以下ダンさん)は、甘っちょろいほど涙もろいロマンあふれる作品を生み出して来た。時には、それを揶揄する人間もいた。だが、マンガの世界にこれほど私小説的内容、描くことの苦しみ、児童マンガとは何かと言う問いを掲げた作品は当時、皆無だった。もちろん、それはどこか徹底してモダニストであったダンさん特有の韜晦や、ポーズであったとしてもその作品はマンガ家志望の少年たちの心をつかんで離さなかった。売れないマンガ家である自分が長暇貧治として登場したり、その新宿でのフーテン仲間のことが描かれ、のちのCOMに連載される『フーテン』につながる。
東京トップ社から刊行されていた貸し本月刊誌『刑事』に連載されていた黄色い涙シリーズ『漫画家残酷物語』は、虚実がまじりあった作品である。手塚治虫への傾倒からわずか15歳でデビューしたダンさんは、天才的なモダーンな画風で多くのファンを獲得したが、大手月刊誌から貸し本漫画に移行するにつれて画風もだんだん劇画風になってくる。児童漫画家として苦悩したその時期が主な『漫画家残酷物語』の内容に反映しているのだが、劇画家との交流(さいとうたかをなどの「劇画工房」)などもその作品なかでふれられている。奥様の小百合さんとの交流も、いきつけの喫茶店通いからはじまる。むしろダンさんは、その劇画家がたむろった国分寺の純喫茶に小百合さんを目当てで通ったものだった。
作風のメインはサスペンスものが多く、当時の日活アクション映画や、フィルム・ノアールに影響されたものだが、その中にダンさん特有の「純愛もの」そして「兄妹もの」というのがからめられていく。それぞれ、ダンさんの人生にからんだ美しい思い出、悲しい記憶に基づいた作品だ。
そもそもそのタイトル自体大島渚の映画『青春残酷物語』からパクったものであろう。当時、のちにイタリアのモンド映画と言われる「世界残酷物語」などの「残酷物語」シリーズがヒットしていた。そして、ダンさんはそこにかってなら文学者が苦悩しただろう人生の命題を苦しむ漫画家を設定したのである。
まだ、漫画そのものが市民権を獲得していなかった時代。さらに、俗悪視されていた貸し本月刊誌の中でダンさんは漫画少年たちに人生の哀しみと苦しみとそして愛を教えてくれたのだった。まるで、人生の苦悩と愛は永島慎二の作品から学んだ、などと言ってみたくなるほどに……。
ましてや、ダンさんのゆきつけの場所はすぐあとにボクも後追いするように通いはじめるのだ。「きーよ」「汀」「びざーる」「タロー」……数々の深夜ジャズ喫茶である。
のちに、手塚治虫に乞われて「虫プロ」に入社し、『COM』に『フーテン』を連載する。その頃、まさしく同時代をボクは新宿の片隅で野良犬のようなフーテンとして過ごしていたのだった。
ありがとう! 先生! ダンさん! ボクは、ダンさんのおかげであのまま精神病院や、刑務所に行かなくてすんだのだと思う。あの頃、ボクにも漫画があったから、劇画があったから……希望もあったし、明日があった。ありがとうございます。ボクの人生を(たとえ今、漫画を捨てさったにせよ)豊かにしてくれた先生と、ダンさんが残した作品に乾杯!
2005年七夕の日に記す。フーゲツのJUN
(ジョン・コルトレーンとダンさんの作品「漫画家残酷物語」「フーテン」「四畳半物語」を持ち込んで勝手に追悼会を近所の飲み屋「MARU」でさせてもらって帰って来た。なにか誰かとこの哀しみを共有したかった。それから、すぐアップするつもりだったが、サーバーがメンテナンス中で今朝までできなかったという訳だった。)
「フーテン」子供の時に読みました。
そういえばJUNさんたちはまさにあのマンガの中にいた人たちなんですね。
ご冥福をお祈りします。
『若者たち』には当時のアシスタントだった現在歌手のシバや向後つぐおなどのマンガ青年たち、ダンさんの周辺にいた者が登場します。いわば、ひとつのモデル漫画とも言えそうな独自のマンガ世界でした。死去の報からひと夜たっても、ボーッとしてます。ダンさんのご冥福を祈ります!
今宵もいちど、追悼しましょう…。
あの、書き込み、普通に出来る様になってますよ?どうしたんだろう?よかった。
今晩、行けるかな? ちと分かりません。
ずいぶんと昔の話ですが、小学生だった僕は阿佐ヶ谷のポエムという喫茶店に行き、彼の現れるのをひたすら待っていた事があります。
当時、漫画家志望だった僕は彼に作品を見てもらいたかった。
結局、会えずに帰ってきましたが(笑)!
いまだにぼろぼろになった彼の作品集が家の本棚に鎮座しています。
ずいぶんと昔の話ですが、小学生だった僕は阿佐ヶ谷のポエムという喫茶店に行き、彼の現れるのをひたすら待っていた事があります。
当時、漫画家志望だった僕は彼に作品を見てもらいたかった。
結局、会えずに帰ってきましたが(笑)!
いまだにぼろぼろになった彼の作品集が家の本棚に鎮座しています。
御自宅はあそこから徒歩5分くらいの距離だった。
noriもマンガ家志望だった?! はじめて聞いた。知らなかった。noriのマンガ作品も見てみたい気がします。
このダンさんの写真はいつ頃のものなんでしょうか?
この写真を見るとJUNさんのサイトの60年代の人々の写真をすぐに思い出しました。単に資料として集められたものという気がしないんですよね。写真から勝手にいろんな当時の想像をかきたててしまうんですが、例えばJUNさんの眼から見た、彼らなんだろうなあと。皆、確かに同じ場所にいたんだろうなあと。
「フーテン」は、いわば「モデル漫画」で登場人物のことごとくにモデルがいます。それが、あの生き生きした人物の秘密かも知れません。
ボクが知っていた頃、つまり60年代なかばのダンさんのおもかげを一番伝える写真だと思います。
ご冥福をお祈りするばかり・・・