長い話だ。これでも、かなりはしょって書いているのだからこの経緯だけでも一冊の本になりそうだ。もっとも、そんな本は誰も買わないだろうが……(笑)。
これでやっと本題に入れるというものだ。
ボクが言いたいことは、こう言うことだ。つまり、手塩をかけてそだてた家畜をこの手でほ(屠)ふることこそが、家畜と人間のかかわりだったし、そうしてこそ「肉」や「動物性タンパク質」は手に入るものだったのだ。それは、肉だけでなく太陽と土と水との絶妙な仕事の結果である有機野菜だって同じだ。かって、この国の農業人口が9割以上だったのも、自らの手で作らなければ食べ物は手にはいらなかったからだ。それも、そのほとんどはわずかの土地を耕す小作農で、貧農だった。
そもそもこの国では古代はともかくとして肉食していたのは、マタギやサンカや山の民でそれも野生のイノシシや、鹿、馬、ウサギ、クマが対象であり、野鳥が肉の主要なものだった。馬は馬具のため、牛等は革皮をとるためでそれらの屠畜仕事は被差別のひとたちへ与えられ、そのことによって出身のひとたちへの根も葉もない差別の根源になってゆく。
それというのも仏教が伝来して、殺生につながる肉食やがタブー視されたためだろうし、また有名な「生類憐れみの令」をはじめとする禁止令が時の将軍によって発布されていた。主に漢方薬として珍重された野生動物の肝以外の肉は、マタギたちの鍋料理としてかれらの重労働である山仕事の食卓を彩った。馬肉を「桜」、猪肉を「牡丹」、鹿肉を「紅葉」などと言い換えるのも肉の色からの連想による風雅と言うよりは、そもそもはマタギたちの隠語だったのだろう。
この国に肉食用として家畜動物が飼われ、そしてその動物たちを肉に加工する「と畜場」ができたのは、そんなに昔の話じゃない。それも、慶応3年に西洋人の要請によって横浜港につくられたのが最初の専門のと畜場だという記録がある。「と場」は専門化された分業だし、流れ作業の中で自動車がラインの上で組み立てられるのと、まったく逆の流れで一頭の牛や豚という生き物が、殺され(実は気絶。ノッキングと言う)、血抜きされ、手足を切られ、皮をはがれ、枝肉にされてゆくという解体の工程だ。そのための悪弊は、私たちが一頭の家畜と言う生き物をパック詰めされた肉片からまったく想像できないと言う事態を生んだ。と場で行われる屠畜は高度な専門化だし(職人的でさえある)、清潔であり、それだからこそのおいしい肉を作っているのだが、家畜の生命と言うリアリティが消費者である私たちから失われてしまうという事態を生んだのだった。
そう、ボクにも後悔がある。2年近くのママゴトのような有畜複合農業の試みのあと、撤退する際にボクはこの手で自分が飼っていたニワトリたちをしめることをしなかった。もったいなくて、生き延びさせたのだ。いま考えるとしめてボクの血肉にしておくべきだった。
「ニクの日」(2月9日横浜ZAIM地下でのポエトリーと音楽のイベント)の最後、ボクは自分のポエトリーに以下のフレーズを入れて、絶叫した!
まさしく『肉の阿呆船/処女航海』終わりのフレーズである。
チクショウ! 畜生ども!
ありがとう!
オレの 人生と言う 航海を
豊かなものにしてくれて
いのち いま いただきます!
(おわり)
(写真4)ニクの日。いわば、この日のポエトリーはボクにとっても、すべての家畜たち、ほふられた動物たちへの懺悔であり、哀悼だった。バックの「牢獄」、「檻」のインスタレーション(これは、ZAIM地下にいつもあるものではなく9日間仮設されたものでした)が意味深に思えたのはボクひとりくらいだったのか?(写真提供:坂田さん)
(参考文献)
『肉食の思想』鯖田豊之 中公新書/1966、文庫/2007
『アニマル・マシーン』ルース・ハリソン/橋本明子他訳 講談社/1979
『食べものの条件』高松修 積文堂/1981
『動物の権利』ピーター・シンガー編/戸田清訳 技術と人間/1986
『ベジタリアンの文化誌』鶴田静 晶文社/1988
『ドキュメント屠場』鎌田慧 岩波新書/1998
『いのちの食べかた』森達也 理論社/2004
『世界屠畜紀行』内澤旬子 解放出版社/2007
(小説)
『ビヂテリアン大祭』宮沢賢治/1918?
『動物農場』ジョージ・オーウェル/1945
(映画)
『不安な質問』松川八州雄・監督/1979
『人間の街??大阪・被差別』小池征人・監督/1986
『いのちの食べかた』our daily bread ニコラウス・ゲイハルター監督/2005
☆この一文はボクの70年後半からの保留して来た問題の総括、もしくはシックスティーズを目前として過ぎ越したこの30年の歳月を振り返る意味で書かねばならなかったものでした。あまりにも、私的な悔恨と歩みを背負った一文です。読んでくれて、ありがとう!
これでやっと本題に入れるというものだ。
ボクが言いたいことは、こう言うことだ。つまり、手塩をかけてそだてた家畜をこの手でほ(屠)ふることこそが、家畜と人間のかかわりだったし、そうしてこそ「肉」や「動物性タンパク質」は手に入るものだったのだ。それは、肉だけでなく太陽と土と水との絶妙な仕事の結果である有機野菜だって同じだ。かって、この国の農業人口が9割以上だったのも、自らの手で作らなければ食べ物は手にはいらなかったからだ。それも、そのほとんどはわずかの土地を耕す小作農で、貧農だった。
そもそもこの国では古代はともかくとして肉食していたのは、マタギやサンカや山の民でそれも野生のイノシシや、鹿、馬、ウサギ、クマが対象であり、野鳥が肉の主要なものだった。馬は馬具のため、牛等は革皮をとるためでそれらの屠畜仕事は被差別のひとたちへ与えられ、そのことによって出身のひとたちへの根も葉もない差別の根源になってゆく。
それというのも仏教が伝来して、殺生につながる肉食やがタブー視されたためだろうし、また有名な「生類憐れみの令」をはじめとする禁止令が時の将軍によって発布されていた。主に漢方薬として珍重された野生動物の肝以外の肉は、マタギたちの鍋料理としてかれらの重労働である山仕事の食卓を彩った。馬肉を「桜」、猪肉を「牡丹」、鹿肉を「紅葉」などと言い換えるのも肉の色からの連想による風雅と言うよりは、そもそもはマタギたちの隠語だったのだろう。
この国に肉食用として家畜動物が飼われ、そしてその動物たちを肉に加工する「と畜場」ができたのは、そんなに昔の話じゃない。それも、慶応3年に西洋人の要請によって横浜港につくられたのが最初の専門のと畜場だという記録がある。「と場」は専門化された分業だし、流れ作業の中で自動車がラインの上で組み立てられるのと、まったく逆の流れで一頭の牛や豚という生き物が、殺され(実は気絶。ノッキングと言う)、血抜きされ、手足を切られ、皮をはがれ、枝肉にされてゆくという解体の工程だ。そのための悪弊は、私たちが一頭の家畜と言う生き物をパック詰めされた肉片からまったく想像できないと言う事態を生んだ。と場で行われる屠畜は高度な専門化だし(職人的でさえある)、清潔であり、それだからこそのおいしい肉を作っているのだが、家畜の生命と言うリアリティが消費者である私たちから失われてしまうという事態を生んだのだった。
そう、ボクにも後悔がある。2年近くのママゴトのような有畜複合農業の試みのあと、撤退する際にボクはこの手で自分が飼っていたニワトリたちをしめることをしなかった。もったいなくて、生き延びさせたのだ。いま考えるとしめてボクの血肉にしておくべきだった。
「ニクの日」(2月9日横浜ZAIM地下でのポエトリーと音楽のイベント)の最後、ボクは自分のポエトリーに以下のフレーズを入れて、絶叫した!
まさしく『肉の阿呆船/処女航海』終わりのフレーズである。
チクショウ! 畜生ども!
ありがとう!
オレの 人生と言う 航海を
豊かなものにしてくれて
いのち いま いただきます!
(おわり)
(写真4)ニクの日。いわば、この日のポエトリーはボクにとっても、すべての家畜たち、ほふられた動物たちへの懺悔であり、哀悼だった。バックの「牢獄」、「檻」のインスタレーション(これは、ZAIM地下にいつもあるものではなく9日間仮設されたものでした)が意味深に思えたのはボクひとりくらいだったのか?(写真提供:坂田さん)
(参考文献)
『肉食の思想』鯖田豊之 中公新書/1966、文庫/2007
『アニマル・マシーン』ルース・ハリソン/橋本明子他訳 講談社/1979
『食べものの条件』高松修 積文堂/1981
『動物の権利』ピーター・シンガー編/戸田清訳 技術と人間/1986
『ベジタリアンの文化誌』鶴田静 晶文社/1988
『ドキュメント屠場』鎌田慧 岩波新書/1998
『いのちの食べかた』森達也 理論社/2004
『世界屠畜紀行』内澤旬子 解放出版社/2007
(小説)
『ビヂテリアン大祭』宮沢賢治/1918?
『動物農場』ジョージ・オーウェル/1945
(映画)
『不安な質問』松川八州雄・監督/1979
『人間の街??大阪・被差別』小池征人・監督/1986
『いのちの食べかた』our daily bread ニコラウス・ゲイハルター監督/2005
☆この一文はボクの70年後半からの保留して来た問題の総括、もしくはシックスティーズを目前として過ぎ越したこの30年の歳月を振り返る意味で書かねばならなかったものでした。あまりにも、私的な悔恨と歩みを背負った一文です。読んでくれて、ありがとう!