風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

「ニクの日」後遺症/いのちのいただき方(1)

2008-02-19 00:04:10 | コラムなこむら返し
Zaim29_10 ある意味では、ニクの日のイベント(08年2月9日昼夜横浜ZAIM地下「肉の阿呆船/処女航海」)はボクの中でも尾を引いてしまったようだ。まず、そのテーマ設定からして深刻なものだった。その1週間前が、「オフィーリア」をテーマとし樹木葬の集いをはさんで、水死したファム・ファタールたるオフィーリアの死のテーマのあとに本当に久しぶりに「肉食」や、「屠畜」などと言う問題をとことん考えた。「ひとの食」の問題であり、「いのちの更新」の問題であるそれらは、70年代の後半にボク自身が有畜複合農業をめざして試みた暮らしは何だったのかを、もう一度考える作業でもあった。

 口で言うのは優しいが、それは本当に孤独で苦しい、それでいて今から考えると楽しい暮らしだった。いや、生活としては成り立っていなかったのだが、ボクはゆめと言うのか理想に燃えていた。
 きっと、あの時の体験がなければ、ヤマギシ会の「特講」だって受けに行かなかっただろうし、もう少しでヤマギシの村びとになろうと決意するほど「洗脳」はされなかっただろう(結論として村びとにはならなかった)。

 もっと言えば、さらに遡ること5年ほど昔から、ボクは玄米食を実践していた。肉は一切断ち、マクロビオテックの料理法や、考え方を学び、共同購入会にかかわった。まわりにヤバイほど新興宗教の信者さんや、ガン患者の知り合いができたが、ボクは「農業」や「有機農業」にこころ引かれていたのだった。「有機農業」という言葉が今ほど認知されていなかった頃の話だ。「公害」問題が国中で噴き出し、「複合汚染」が云々されてきたにも関わらず、近代農業にとことん感化されていたプロの農民でさえ「農薬がなければ、そりゃ、作物なんか育つものかね」と、本気になってボクの素人の愚かさを非難した時代だった。

 その頃、ボクは同時に、市民運動、地域運動に惹かれていった。当時住んでいた小金井市で、「水俣その二十年」などの自主上映会などの運動からはじまった市民グループ「小金井いのちと暮らしを考える会」(略称「いのくら」)に加わり、いつのまにか世話人になっていた。この市民グループは市民サイドとしては、この国ではじめてダイオキシン問題に触れたグループで、除草剤のむやみな散布に警鐘を鳴らし、児童公園や空き地に市によって散布された除草剤の散布状況を明らかにした「小金井市除草剤散布地図」を作成し、市などへその危険性やいまで言う環境への配慮などを進言しに行ったり、市民学習会の一目瞭然の資料に使ったりした。

(つづく)

(写真1)「ニクの日」ラスト・ポエトリー『肉の阿呆船/処女航海』。フーゲツのJUNと舞踏歌・成瀬信彦(写真提供:坂田さん)。