風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

悪態の精神/庄幸司郎さんのこと(2)

2008-02-24 18:17:40 | コラムなこむら返し
Sho_akutai そうそう、思わず、向こうからやってきた書名も書かずに思い出話モードに突入するところだった。
『悪態の精神』というのがその書名だ。影書房から1990年1月に刊行されている。その本には庄さんが『告知板』の巻頭に書いた巻頭言「寸言」154篇が収録されている。1975年8月から、最後は1988年12月までのものだ。その「寸言」をパラパラと拾い読みしていると、鮮やかにあの時期の市民運動がどのようなものだったのかが甦ってくる。この本は先日ナナオの詩集を古書店で見つけた時、同じ本棚に並んでいたものだ。

 当時、庄建設の事務所も中野区にあり、中野区をメインとした市民運動、住民運動に多く関わりながら、満州からの引き揚げ体験を持つ庄さんは(1931年大連生まれ)、反戦の意志や平和憲法や九条に関してははやくから発言を繰り返している。しかし、やはりなんと言っても床さんの姿が忘れられないのは、「中野野外(くさのね)コンサート」や、中野区教育委員会の準公選の運動の渦中の姿である。

 とりわけこのふたつが印象深いのは、中野駅北口広場で行われた「中野野外(くさのね)コンサート」が、中央線沿線にとどまらない市民運動の手作りの「まつり」となり、ボク自身も楽しませてもらったという意味でよく覚えているし(現在「上々颱風」という名前のバンドは、リーダーの紅竜とひまわりシスターズという名前で出演した。他に白竜バンドや、光玄などなど)、全国的に注視された教育委員の準公選要求は、教育を市民の手にというアピールももっともだが、実は中野教育委員会の委員に知り合いが立候補したという理由もある。彼は黒田洋一と言い、反農薬東京グループでは同じメンバーだった。その頃、中野の生協職員を辞めたばかりだったと思う。黒田クンは中野区の教育委員にはなれなかったが、のちに「熱帯林行動ネットワーク(JATAN)」の専従事務局長として入り、その活動で91年にゴールドマン環境賞を受賞したから世の中は分からないものである。

 その市民運動や記録映画制作で大きな足跡を残した庄さんだが、2000年に惜しまれながら亡くなってしまった。訃報はどこかで目にしていたと思うが、それがもう8年も前の事だったことは、ネットで「追悼集」(AMAZON扱い)の存在を知って分かった。
 庄さんの手帖を見せてもらったことがある。分厚い手帖には1,000名を越える住所が細かい文字で、びっしりと書かれていて吃驚したものだ。「お別れの会」では、500名を越える知人が参集したのもむべないかなである。

 庄さんからは、この国の経営者にもこのような民衆サイドに立った人物がいたのだということを学ばせてもらった。庄さんは、良く「たかが土建屋」と自分の事を自嘲していたが、ボクにとっては80年代の市民運動を語る上でも忘れることの出来ない巨星だったと思う。

 きっと、庄さんは「進歩的平和運動家」とか言ったレッテルが嫌いだったと思う。だから、たかが土建屋が権力や権威におもねることなく自由に「悪態」をつくためだけに、経済的成功者として自分の金を使った。民衆とその力を腹の底から信じた大プロデューサーだったのだ。

(写真2)庄さんの著作としては4冊目になるのかな? いわば、『告知板』の巻頭寸言の集大成にして、14年間の「悪態」の本領発揮の本。『悪態の精神』(影書房1990年)。