風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

「ニクの日」後遺症/いのちのいただき方(3)

2008-02-21 12:03:57 | コラムなこむら返し
Niku_1 いや、時間的な流れから言えば農業に目覚めた方が先だった。ミニコミを通じてA.T.(オルタナティブ・テクノロジー「もうひとつの技術」とか「人間大の技術」とか当時は訳されたが、今日的には「スローな技術」とか、「地産地消のテクノロジー」とか訳した方が分かりやすいかも知れない。ともかく「対抗技術」である)を知り、室田武さんをはじめ学者の方にインタビューしたりした。「スモール・イズ・ビューティフル」(もともとはシュマッハーの著作名)が、いわば合言葉だったのだ(辻信一「スロー・イズ・ビューティフル」は、このもじり)。

 そうした関心や活動の中で知ったのが、「たまごの会」だったのである。循環型農業という意味でもボクが理想とした有畜複合農業を消費者自身が、自らの手で安全で納得のゆく「食べ物(酪農産品)」を生み出してゆくという実践的で先進的な試みをしていたグループで、いまだ全くもってこれを超える実践があるだろうかとボクには思われるのだが、「たまごの会」については稿を改めたい。

 この試みもまたミニコミを同志的結合で共に出していた彼女との別れの一因ともなったらしいのだが、ボクだけ八王子堀之内に1反ほどの畑付きで一軒家を借りた(その場所は将来的には多摩ニュータウンに組み込まれる予定地だったらしい)。破格の安さだったが、マンガは売れず(そもそも売れるようなマンガを志向していなかったためもある)イラスト仕事もカツカツで定期的になく、その理想的な有畜複合農業の試みははじめからつれあいの収入に依存していた面は否めない。
 だから長くは続かなかったが(出資者や仲間も求めたが、のってくれるのは少しの友人だけだった)、ともかくも顔見知りだった「たまごの会」の中心メンバーのひとりを通じて、「たまごの会」で育雛した赤色ロード種のオスとメス数羽をゆずってもらう。
 ボクがたったひとりで住み始めたそのは、都内に残る数少ない牛飼いの里で、牛舎が立ち並ぶ場所の真向かいの所だった。その中のおひとりは多摩ニュータウンに反対する気骨ある酪農家で、現在も同じその場所でパーマカルチャーの先鋭的なグループを組織してらっしゃる。

 さて、細かく書くことはできないが、ともかくこのような経緯でボクは鶏を平飼いし、そのたまごを食べ鶏舎のフンを畑にかえすというママゴトのような農業をはじめ、肉食もこの頃から復帰した。

(つづく)

(写真3)「東中野ポレポレ座」に『いのちの食べかた』を見に行った時、ロビーにあったパネル写真より。カメラマンはおそらく本橋成一さんか?