goo

■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-6

■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-5からのつづきです。

※札所および記事リストは→ こちら

『荒川辺八十八ヵ所と隅田川二十一ヵ所霊場案内』(新田昭江氏著/1991年)を『ガイド』と略記し、適宜引用させていただきます。


■ 第15番 金剛山(常在山) 寶蔵寺
(ほうぞうじ)
墨田区八広6-9-17
真言宗智山派
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:
司元別当:(木下村)山王社
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第68番、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第75番、新葛西三十三観音霊場第12番(旧・法花寺)、墨田区お寺めぐり第10番

第15番は墨田区八広の寶蔵寺です。

下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

寶蔵寺は慶長十九年(1614年)に朝応和尚が創建した真言宗寺院で寺島蓮花寺の末寺でした。(『ガイド』では安永年間(1772-1780年)創立)
御本尊は阿弥陀如来。客殿に不動明王を安していたようです。
境内に祀る稲荷社は、おそらく鎮守とみられ、『葛西志』にも境内社として記載されています。
山号を「常在山」としている資料もありますが、『新編武蔵風土記稿』『葛西志』などでは「金剛山」としています。

もとは南葛西郡大木村字木下にありましたが明治43年の出水に遭い、さらに荒川放水路開設のために大正8年、西方に約550mほどの現在地に移転しています。

江戸時代は木下村の山王社(慶長十九年(1614年)御鎮座)の別当を務めていました。

情報があまりない寺院ですが、荒川辺霊場、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)などの札所となっているので、真言密寺として相応のポジションを担っていたことがわかります。

-------------------------
【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻三』(国立国会図書館)
(木下村)寶蔵寺
新義真言宗 寺嶋村蓮華寺末 金剛山ト号ス 本尊ハ不動ナリ

(木下村)山王社
慶長十九年(1614年)ノ鎮座ナリ 寶蔵寺持下同シ 
稲荷社

『葛西志 : 東京地誌史料 第2巻』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
(木之下村)寶蔵寺
山王社と同じ邊にあり。当寺も慶長十九年(1614年)の起立なりと云、新義真言宗、寺島村蓮華寺末、金剛山と号す。
本尊不動尊 客殿に安す。
稲荷社 境内にあり。

(木之下村)山王社
村の南へよりてあり、慶長十九年(1614年)の鎮座と云、寶蔵寺持。

『墨田区史 本編』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
宝蔵寺(金剛山 吾嬬町西九丁目10番地)
慶長十九年(1614年)に朝応和尚が創建した寺院で新義真言宗に属し、寺島蓮花寺の末寺である。
もと南葛飾郡大木村字木下に所在し、その後明治四十三年の出水にあい、さらに荒川放水路開設のために西方約五五0mほどの現在地に大正八年に移転した。
本尊は阿弥陀如来である。


-------------------------


最寄りは京成押上線「八広」駅で徒歩約3分。
荒川の流れに近いこのあたりは、住宅と町工場が密集する下町らしい街並みです。
曳舟川通り(新四ツ木橋)とゆりのき橋通りが交差する「更正橋」五叉路のすぐそばのゆりのき通り沿いにあります。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 寺号標

大通りの沿道なので門前はやや雑然としていますが、意外に広い山内に入ると札所寺院らしい落ち着きをみせています。
門柱に寺号標。


【写真 上(左)】 隅田川二十一ヶ所霊場の札所標
【写真 下(右)】 新葛西三十三観音霊場の札所標

参道右手には石佛群と札所標があります。
札所標は隅田川二十一ヶ所霊場第15番と新葛西三十三観音霊場第12番(旧・法花寺)のもので、いずれも稀少な遺構です。


【写真 上(左)】 覆屋
【写真 下(右)】 地蔵尊と弘法大師像

本堂向かって右手の覆屋には、石佛の地蔵尊立像と弘法大師坐像。
弘法大師坐像の台座には「第七十五番」とあるので、おそらく南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第75番の札所本尊とみられます。


【写真 上(左)】 ”いろは大師”の札所本尊
【写真 下(右)】 天水鉢

本堂前の桔梗紋(真言宗智山派の宗紋)入の天水鉢は、錆を帯びて風合いがあります。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂

階段上の本堂は近代建築ながら、屋根頂部に露盤と宝珠を置いているのでおそらく宝形造かと思われます。
銅板葺きで流れ向拝。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額

水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に桔梗紋を配した蟇股を置いています。
向拝格子扉のうえに寺号扁額。


御朱印は本堂向かって左側の庫裏にて拝受しました。

〔 寶蔵寺の御朱印 〕



中央に「本尊阿彌陀如来」の印判。御寶印(蓮華座+火焔宝珠)のお種子は胎蔵大日如来の「アーンク」(荘厳体・五点具足の阿字)。
当山の御本尊は『新編武蔵風土記稿』『葛西志』では不動明王、『墨田区史』では阿弥陀如来とあり、胎蔵大日如来ではない模様なので、尊格を代表する通種子(本不生)の意で使われているのかもしれません。

霊場札所の札所印はとくに捺されていないとのことでした。



■ 墨田区お寺めぐり第10番のスタンプ


■ 第16番 恵日山(孤竹山) 正覚寺
(しょうがくじ)
墨田区八広3-5-2
真言宗智山派
御本尊:薬師如来
札所本尊:
司元別当:(大畑村)稲荷社(現・三輪里稻荷神社)(墨田区八広)
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第69番、南葛八十八ヶ所霊場(いろは大師)第49番、墨田区お寺めぐり第14番

第16番は墨田区八広の正覚寺です。

下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

正覚寺は、慶長十四年(1609年)に長養法印が開創、中興開山は快厳(宝暦五年(1755年)寂)と伝わり東葛西領上小松村正福寺末の真言宗寺院です。

御本尊は、『新編武蔵風土記稿』『墨田区史』には薬師如来、『葛西志』には阿弥陀如来とありますが、現在の御本尊は薬師如来のようです。

資料類には山号は「恵日山」とありますが、『新編武蔵風土記稿』には「狐竹山明王院」とあり、御朱印の揮毫も「狐竹山」でした。

江戸時代は大畑村の鎮守・稲荷社の別当でした。
『葛西志』によると稲荷社の御鎮座は慶長十九年(1614年)なので、正覚寺とほぼ同時期の創建とみられます。

(大畑村)稲荷社は、現在の三輪里稲荷神社とみられます。


【写真 上(左)】 三輪里稲荷神社
【写真 下(右)】 三輪里稲荷神社の御朱印

当社公式Webには「慶長十九年(1614年)出羽国(山形県)湯殿山の大日坊が、かつての大畑村の総鎮守として羽黒大神の御分霊を勧請し、三輪里稻荷大明神として御鎮座」とあります。
御祭神は倉稲魂命。

初午の日にのどの患いや風邪に神験あらたかな湯殿山秘法のこんにゃくの護符を授けることから、俗に「こんにゃく稲荷」と呼ばれ参詣客を集めていたようです。

正覚寺開山の長養法印と三輪里稻荷大明神を勧請の大日坊との関係はよくわかりませんが、稲荷社の本地は十一面観世音菩薩で、別当・正覚寺と神仏混淆状態にあったことがうかがわれます。


-------------------------
【史料・資料】

『新編武蔵風土記稿 葛飾郡巻三』(国立国会図書館)
(大畑村)正覚寺
新義真言宗 寺嶋村蓮花寺末 狐竹山明王院ト号ス 中興僧快巌宝暦五年(1755年)六月十七日寂
本尊薬師

(大畑村)稲荷社
村ノ鎮守ナリ 本地十一面観音 正覚寺持

『葛西志 : 東京地誌史料 第2巻』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
(大畑村)正覚寺
(稲荷社)社地の並にあり。新義真言宗、東葛西領上小松村、正福寺の末なり。
恵日山と号す。当寺も鎮守稲荷と同時の草創なりしと云、本尊阿弥陀如来を安置す。

(大畑村)稲荷社
村の中ほどにあり、慶長十九年(1614年)の鎮座にして、此村の鎮守なりと云、正覚寺持。

『墨田区史 本編』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
正覚寺(恵日山 吾嬬町西六丁目91番地)
新義真言宗で上小松正福寺の末、慶長十四年(1609年)に長養法印が開創し中興開山は快厳である。
本尊薬師如来を安置し八月六日を縁日と定めている。

『すみだの史跡文化財散歩 P.58』(墨田区資料/PDF)
慶長19年(1614)に出羽国(山形県)湯殿山の修験者大日坊が、羽黒大神の分霊を大畑村(現在地)の鎮守として勧請し、三輪里稲荷大明神と称したのが始まりと伝えられていま
す。
初午の日に、湯殿山秘法のこんにゃくの護符を授けることから、俗に「こんにゃく稲荷」と乎ばれていました。

三輪里稻荷神社公式Web
御祭神は倉稲魂命。当社は、慶長十九年(1614年)出羽国(山形県)湯殿山の大日坊が、かつての大畑村の総鎮守として羽黒大神の御分霊を勧請し、三輪里稻荷大明神として御鎮座いたしました。
現在は三輪里稻荷神社、通称“こんにゃくいなり”として八広の地をお守りしてます。



原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』隅田川向島絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊.国立国会図書館DC(保護期間満了)

-------------------------


最寄りは京成押上線「京成曳舟」駅で徒歩約9分。
八広のメイン通り・八広中央通りに面してあります。
すぐ北側はかつて別当を務めた三輪里稻荷神社ですが、参道は別にあるので隣り合った感じはありません。
あるいは明治の神仏分離時に一線を画したのかもしれません。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 寺号標

すっきりとまとまった近代的な山内で、入口門柱に寺号標。
参道をいくと左手に立派な大師堂があります。
おそらく切妻造銅板葺妻入で、水引虹梁、木鼻、斗栱、身蟇股を備えています。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 大師堂

堂碑の碑文によると、昭和59年の弘法大師1150年御遠忌事業として建立されたとのこと。
堂内には弘法大師坐像が御座されています。
台座に札番はないですが、おそらく荒川辺、南葛八十八ヶ所(いろは大師)、墨田川霊場の3つの弘法大師霊場の札所本尊とみられます。


【写真 上(左)】 弘法大師像
【写真 下(右)】 札所標

堂宇横には「二十一ヶ所大師」と刻まれた石碑があり、こちらはおそらく稀少な隅田川霊場の札所標です。

本堂向かって右手には石塔や石佛群(如意輪観世音菩薩・地蔵尊など)があります。
コンクリで固められた山内ですが、緑が多く落ち着きがあります。


【写真 上(左)】 石佛群
【写真 下(右)】 本堂

本堂は陸屋根の近代建築ですが、屋根上の相輪と向拝の扁額が効いて風格があります。
向拝鉄扉にうえに寺号扁額を掲げています。

驚いたことにこの鉄扉が開きました。
堂内は絢爛たる装いで、前面に護摩壇、背面に両界曼荼羅、御内陣正面お厨子前にはおそらく御前立の右手施無畏印、左手に薬壺をもたれる薬師如来坐像が御座されていました。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 庫裏


御朱印は本堂向かって左側の庫裏にて拝受しました。


〔 正覚寺の御朱印 〕



中央に「本尊薬師如来」の揮毫と薬師如来のお種子「バイ」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
左に山号・寺号の揮毫と寺院印が捺されています。

霊場札所印は捺されていない模様です。



■ 墨田区お寺めぐり第14番のスタンプ


■ 第17番 瑞松山 栄隆院 霊光寺
(れいこうじ)
墨田区吾妻橋1-9-11
浄土宗
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:
司元別当:
他札所:新葛西三十三観音霊場第24番、江戸東方四十八地蔵霊場第40番、墨田区お寺めぐり第22番

第17番は墨田区吾妻橋の霊光寺、隅田川霊場唯一の浄土宗寺院です。

下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

霊光寺は、木食重譽上人霊光和尚を開山として寛文七年(1667年)に創建、当初は霊光庵を号しましたが、寶永三年(1706年)増上寺の末寺となり現号を号したといいます。

御本尊の阿弥陀如来は、増上寺中興の観智国師の持念佛と伝わります。
増上寺の公式Webは、「増上寺第12世・観智国師(源誉存応上人)(元和六年(1620年)寂)は、徳川家康公と増上寺の寺檀関係を結ばれ、増上寺および近世浄土宗の発展に寄与された方」とあります。

『寺社書上』にも、観智国師と家康公の邂逅の逸話が記されています。

当山の御本尊・阿弥陀如来は、天照太神の御作という縁起が伝わります。
この縁起は『寺社書上』にも記されています。読解不能の箇所もありますが、縁起概略を辿ってみます。

慶長十五年(1610年)、源誉存応上人(観智国師)は後陽成天皇(1571- 1617年)に参内し講説をおこなったところ天皇は大いに敬まわれて普光観智國師の号を賜りました。
観智国師が関東帰国の前に伊勢太神宮に参詣された時、神宮の神主は阿弥陀如来の像を国師に奉じたといいます。
内宮の宝殿に御座し、代々安置してきた尊像との由。

国師は帰国の後、こちらの尊像を持念佛に奉じ、のちに家康公の使僧もつとめた弟子の林應にこの尊像を授けたといいます。

林應和尚より四代の住持・十譽和尚は、ある夜霊夢にて御本尊の阿弥陀如来が御声を発せられるのを聴き、観智国師が伊勢太神宮から相伝されたこの尊像が天照太神の御作と確信し、後世に御本尊縁起として伝えられたようです。

『寺社書上』には恵心僧都作の御前立本尊(阿弥陀如来座像)、弘法大師御作の十一面観世音菩薩・辨才天、興教大師御作の不動明王などの寺宝が記されています。
しかし、関東大震災、東京大空襲で伽藍はことごとく焼失したためか、上記の寺宝についてのその後の情報は不明のようです。

当山は葛西三十三観音霊場第24番の札所となっています。
この霊場は天保九年(1838年)刊とされる『東都歳事記』に載っているので、江戸時代からの観音霊場札所です。(→ 霊場札所リスト(「ニッポンの霊場」様)

文政十二年(1829年)頃の編纂とされる『寺社書上』には「観音堂本尊 十一面観世音 弘法大師之作」とあるので、こちらが札所本尊であった可能性があります。

また、当山は江戸東方四十八地蔵霊場第40番の札所でもあり、こちらの札所本尊は「元日地蔵菩薩」と伝わります。(→ 霊場札所リスト(「ニッポンの霊場」様)

こちらも『東都歳事記』に記載がある江戸時代からの地蔵尊霊場です。
『寺社書上』には「石匣塔上ニ金佛地蔵尊安置」とあり、こちらが札所本尊の「元日地蔵菩薩」と思われ、下記の「元日地蔵菩薩縁起」(山内掲示)にもその旨が記されています。
現在は立像石佛として再興され、山内に奉安されています。
『ガイド』によると、こちらの地蔵尊は昭和62年初春の奉安とのこと。

-------------------------
【史料・資料】

『寺社書上 [121] 中ノ郷寺社書上 一』(国立国会図書館)

江戸増上寺末
本所中之郷
浄土宗 瑞松山栄隆院霊光寺
右霊光寺ハ寛文七年(1667年)之起立

本尊 阿彌陀如来立像 下品之印木像
 天照大神宮之御作也 縁起有之
 右本尊ハ増上寺中興観智国師之持念佛也
観音勢至 二菩薩
前立本尊 阿彌陀如来座像 上品之印 恵心僧都作
法祖 善導大師 座像
宗祖 圓光大師 座像
当寺開山之像 号聲蓮社十譽願値本阿霊光上人
金佛善光寺如来 三尊厨子入
不動明王 興教大師之作 縁起有之
観音堂本尊 十一面観世音 弘法大師之作 縁起有之
釈迦涅槃木像
当寺鎮守 辨才天 弘法大師之作
焔魔王木像 
妙説観世音石像
石匣塔上ニ金佛地蔵尊安置 一基
 右ハ近年再興した門之内西ノ方ニ有
矢野稲荷大明神
小鍛冶稲荷大明神
 
本尊縁起
当寺の本尊阿弥陀如来者天照太神の御作也 先師某に語て曰く ●尊像ハ三縁山増上寺中興貞蓮社慈昌源譽普光観智國師存應大和尚より弟子代々伝持之像也 國師俗称ハ武州由木乃人平山左衛門尉李重之御也 十五歳の時増上寺十代感譽上人を師として顕密の教ヲ究メ 天正十二年(1584年)に増上寺に住シ賜フ(中略)大将軍家康公武州江府乃御城に入在ス時 増上寺ハ今の龍ノ口に有シ時 ●●は将軍御馬にて門前を通り在ス 源譽門●出て御城入を見給ふに 御馬ヲ不進 公左右ヲ御覧●さ●れハ 寺門に老僧立て有り 人を使うハして問給ふ 何●の事何と号スと尋在ス 源譽●寺ハ浄土宗三縁山増上寺 名ハ存應と応り 家康公聞召則テ 寺に御入在て 師ハ感譽の弟子●参河にて聞及ひぬ 明日ハ寺に来て●を食りせん● 御契物在て御城に入 翌日此所増上寺ニ御入在りて 御●食在ス 則十念を受師檀乃物在て大イに崇信在ス

後陽成天皇慶長十五年(1610年)七月十九日入宮封御説法盛に浄●乃奥義安心乃秘要を講説在ス 天皇大に敬悦在して賜普光観智國師之号ヲ洛陽に在ス事三旬 京都の道俗化を受候事 甚多シ 國師帰国節 伊勢太神宮江参詣の時 神主敬●して●阿弥陀如来乃像を國師に捧ぬ 神主の曰ク此尊像ハ 内宮乃宝殿に在し●兵乱の砌 出し●り 某代々安置し候へども今師に奉●
國師帰国の後弟子林應と云僧に授給ふ ●林應和尚 力ハ数十人力にて道の早き事ハ凡人の●● 駿河の國御用之節ハ 此僧を使僧となし給ふに(中略)林應和尚より代々相伝て汝●四代の末第●●故説授のため國師之名号相添(中略)
十譽或夜夢を感候事 ●意に伊勢太神宮江参り宝前●信敬し念佛して神前の御を● 自然●開き閉に此如来在ス 本尊御聲を出し告て曰ク 汝我●頼って能ク念佛を我能ク護て不捨と曰ふ● 夢覚候 其御相好と安置乃本尊と先師物語と符合せり 天照太神の御作成事無疑 惟は阿弥陀如来の利益事 尊像をして言●出し(以下読解できず)

『東京名所図会 [第14] (本所区之部)(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
霊光寺
霊光寺は同町(中之郷竹町)十三番地に在り。瑞松山と号す。浄土宗にして芝増上寺の末なり。開山は木食重譽上人霊光和尚にて。初め草庵なりしが。寶永三年(1706年)寺院に列せり。
本尊阿彌陀如来は。増上寺の観智國師京都よりの帰途。伊勢にて得たるものなりといふ。

『本所区史』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
霊光寺
霊光寺は同町(中之郷竹町)十三番地に有り瑞松山と号し、浄土宗にして芝増上寺の末である。開山は木食重譽上人霊光和尚で、初め草庵であったが寛永三年(1626年)寺院に列した。
本尊阿彌陀如来は増上寺の観智國師京都よりの帰途伊勢にて得たものなりと伝説されて居る。

■ 元日地蔵菩薩縁起(山内掲示)
当寺は今を去る寛文七未年(西暦1667年)の創建で霊光庵と称していたが、寶永参戌年(西暦1706年)増上寺末に列し、霊光寺と改め山号を瑞松山、院号を栄隆院と定めた。
境内に何時のころからか石の地蔵菩薩が安置されていた(年号不詳)が、「江戸府内中郷寺社書上」には文政拾壱子年(西暦1828年)ころ金佛の地蔵菩薩を再興と記されている。(中略)昭和四拾年本堂、書院、庫裏等を完成した(中略)説法印の元日地蔵菩薩を建立することとした。
元日地蔵菩薩は「東都歳事記」等によれば江戸東方四拾八所四拾番札所の地蔵菩薩であるが名称の由来は不明である。


原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』本所絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


-------------------------


最寄りは都営地下鉄浅草線「本所吾妻橋」駅で徒歩約6分。
メトロ鉄銀座線・東武スカイツリーライン「浅草」駅からも徒歩10分程度で歩けます。

「浅草」駅から隅田川を吾妻橋で渡ってのアプローチの方が風情があるかもしれません。
第6番遍照院から浅草通りを挟んだ対面にあります。

【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 門柱の寺号

浅草通りに面して寺号が刻まれた門柱。
すぐ前に駐車場と、その奥にこ洒落た住宅のような建物がありますが、その建物の一部に千鳥破風を配した向拝が設けられています。
都心のお寺然とした、たたずまいです。

門柱右手には石佛立像の「元日地蔵菩薩」が御座し、石碑の縁起書もおかれていました。


【写真 上(左)】 元日地蔵菩薩
【写真 下(右)】 元日地蔵菩薩縁起


【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 扁額

山内にも立派な寺号標があり、向拝上には山号扁額も掲げられていました。


御朱印は庫裏にて拝受しました。


〔 霊光寺の御朱印 〕



中央に六字御名号(南無阿彌陀佛)の揮毫と阿弥陀如来のお種子「キリーク」の印。
右には「元日地蔵菩薩」の印と「江戸東方四十八所四十番札所」の札所印。
左下には山号・寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
「江戸東方四十八地蔵霊場」の札所印は他寺ではみたことがなく、たいへん稀少な御朱印です。

■ 希少な札所印



■ 墨田区お寺めぐり第22番のスタンプ


■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-7へつづきます。

※札所および記事リストは→ こちら



【 BGM 】
■ 滴 - 今井美樹


■ Love is all/愛を聴かせて - 椎名恵


■ Musunde Hiraku - Kalafina
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )