京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

『この国はどこで間違えたのか~沖縄と福島から見えた日本』

2013年05月02日 | KIMURAの読書ノート
2013年5月その1
『この国はどこで間違えたのか~沖縄と福島から見えた日本』(一般書)
徳間書店出版局 編 徳間書店 2012年11月

「アベノミクス」効果で現在株価が高騰。そして円安が進んでいる。
この現象を「景気回復」と日本の明るい話題と位置づけ、連日メディアでは報道がなされている。
しかし、その陰で未だに、東日本大震災の被災地では復興もままならず人々が立ちすくんでいる現実がある。
このことについて、「アベノミクス」を傘に日本の痛手となっている東日本大震災のことを人々の記憶からなくそうとしているのではないかという記事を半月前だっただろうか、目にした(どの記事だったか明記し忘れたので、出典はここに書けないが)。

確かに、ここ最近ぐっと東日本大震災の話題を目にしなくなった。
私が思い出せるのは、4月上旬福島第一原発3号機の冷却装置が停止したというものである。
しかし、その後どうなったのかという報道は少なからず私の耳には届いていない。
その半月前にネズミが配電盤でショートを起こして動揺に冷却装置が停止したという時はそれなりの報道であったが、この前後で東日本大震災の話題は震災が起こった3月11日以外はかなり縮小されているように感じる。

この時期にたまたま手にしたのが、本書である。
本書は、沖縄タイムスの記者渡辺豪が識者8名にインタビューを行い、2011年から「国策を問う」として連載されたものである。そして、このインタビュー内容は沖縄の米軍基地を巡る問題と今回の福島での原発事故を同じ土俵から斬り込まれている。
識者8名は内田樹、小熊永治、開沼博、佐藤栄佐久、佐野眞一、清水修二、広井良典、辺見庸である。

その中で、私が一番興味深かったのは、開沼博の話である。彼は1984年生まれ。
まだぎりぎりではあるが、20代である。彼が生まれる前に沖縄が日本に返還され、原発が稼動している。
しかし、その流れを生で見ていないはずなのに、その周囲の背景を他の識者よりもより明確に把握しているように感じた。
いや、見ていないからこその素朴な疑問とその矛盾点についての感度が高まっているのかもしれない。
沖縄にしろ、福島にしろ、現在「脱米軍基地」「脱原発」が声高に叫ばれている。
しかし、彼はそこで生活している何万単位の人たちの実情に目を向けていないのではないかと指摘している。
つまり、周囲の人たちがそのように簡単にこの言葉を口にできるのは、所詮「他人事」だからではないだろうかということである。
そして、このような状況になったのは、地方と言う産業がなく、原発や基地がなければ、生活していく術のない地方、とりわけ高度成長期に置き去りになりかけていたところに、このような基地や原発を取り込むことで雇用を生み、現在まで何とか一地方が破綻せずにやりくりしてきたという現実。
その雇用がなくなると一気に行政の負担は増大し、第2、第3の夕張市を生み出してしまうことになると。
だからと言って、「脱」方向に向かわなくていいと彼は言っているのではない。
このことはすでにこの震災以前何十年も課題としてとりあげられ、しかし論議しても一切解決の糸口が捕まらないまま現在に至っている。
とすると、そもそも「問い」の立て方が間違っているのではないかという指摘。
同じところで堂々巡りしている場合、問いの立て方を変えるということは簡単なようでなかなか難しい。
どのように問いの立て方を変えるのか、その術さえ見失っている場合が多く、だから誰もその問いについて考えないようにしてきている節もある。
そこにあえて触れることができたのは、彼の年齢だからこそかもしれない。
彼の語る言葉は読者に新たな光を当てるのではないかと感じた。

また、識者8名の共通事項としては、メディアに対する批判的な視点である。
これは今回のことに限ったことでなく、沖縄、福島40年の歴史全般において、すべて国とメディアが一体化していたことに対してである。
もちろん、ここでいうメディアとは「新聞」「テレビ」ということになるが、すでにこの頃から、国とメディアが日本国民を誘導していたのかと思うと寒気がする。
本書のタイトル「この国はどこで間違えたのか」という回答は、「最初から」と応えるしかないとすら感じる。

ただし、本書を含む「本」もメディアである。本書が伝えていることが全て正しいのかというとまたそれも一考である。
開沼が指摘する「問いの立て方、」そして識者が伝える「メディアのあり方」。
読者一人一人が、それを認識しつつ多くのメディアから見聞きした知識を自分でどのように咀嚼していくかという問いを改めて突きつけられるのである。
そして、少なからず「本」は繰り返し読める。
世間の大手メディアが風化させようとする意図があったとしても、「読む」ことで一人一人が記憶するという作業はいつでもできる。少なからず、そこから復興への糸口は他人事にならず、見えてくると信じたい。



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