京都で、着物暮らし 

京の街には着物姿が増えています。実に奥が深く、教えられることがいっぱい。着物とその周辺について綴ります。

KIMURAの読書ノート 『世界の国境を歩いてみたら…』

2023年12月15日 | KIMURAの読書ノート


『世界の国境を歩いてみたら…』

「世界の国境を歩いてみたら…」番組取材班 著 河出書房新社 2018年

 今年も残すところ半月となりました。まず最初に年明けに掲げました『猫の本棚』(高野一江・編著 郵研社 2021年)に掲載されている293作品を全て読むという目標について。きっぱりと申し上げます、1冊も読んでおりません。すでに読了の作品を除いてということと、掲載されていない猫本は読みましたが、上記リストは全く意識できませんでした。というもの、一昨年末より関心をもった「山岳信仰」や「修験道」などに関する本を最優先に読んでしまいまして、11月末現在でそれらの読了冊数だけで100冊を超えております。お陰で上記の内容や古代日本についてはそこそこの知識を得ることができました。そして、これらについてはフィールドワークも週1で行い、これまでの人生インドア派だったために筋肉というものと無関係でしたが、とても素敵な筋肉も得ることをできました。これらについてはまだまだ沼から抜け出しそうにありません。そのような訳で目標は何処へという1年になってしまいました。

 さて今回取り上げる本は上記のことと少しだけ被るところがあります。それは「フィールドワーク」という部分。こちらはかつてBS11で放送されていた「世界の国境を歩いてみたら…」の中から、厳選した国境を取り上げたものです。それではそもそもなぜこのような作品が生まれたかということですが、まえがきによると新しい番組を企画するために議論を繰り返した時に出てきた合言葉が「他局にはない新しい視点」。その時に知り合いの制作会社から提案されたのが「国境線って報道されるのはほんの一面で、実際に行ってみるとしたたかな人たちの色々な顔が出るんです。そんな旅の企画はいかがでしょう」というものだったようです。

 私が知っている国境線というのはやはり危険地帯というものがいちばんに脳裏に浮かんできます。本書ではそのようなところも取り上げられていますが、なかなかユニークな国境線も多くそれは全く想像のできない世界でした。まず、大前提としてお伝えしておくことは、国境線は長いということ。当然のことと言えば当然なのですが、陸続きの国境を持つことのない日本では案外抜け落ちる前提だと思います。本書で取り上げられている国境でいちばん短いものが80㎞(シンガポールとマレーシア)。長いものはアメリカとカナダ。9000㎞あります。ちなみにこの国境の長さは世界一でもあります。取材もこの長さが活かせるように、何カ所かでかつ両国側から行われています。しかもこの長い国境に沿ってずっと検閲所があるわけではありません。その検閲所のないところでの両国の人たちはどのような生活を送っているのか、本書の肝はまさにそこにあります。

 陸続きの国境線と先程書きましたが、ベトナムとカンボジアの場合、東南アジア最大のメコン川が国境になっている部分があります。この部分ではベトナム側には川沿いまで家々が立ち並んでいるのに、カンボジア側は見渡す限り原野なのだそうです。また別の場所では国境を境にアスファルトと土煙の舞う地道。両国の状況が物語られています。このような感じで、南アフリカとモザンビーク、ノルウェーとスウェーデン、パナマとコスタリカ、タイとラオスなど全部で12国境線が掲載されています。

 本書を読むだけでも目から鱗のようなことばかりでワクワクします。それが目の前で繰り広げられたらより高揚し、本の中からはみ出した部分を発見した時には舞い上がってしまう事間違いなし。だから、私もフィールドワークがやめられないのよねーと自分の今の状況とうっかり重ね合わせてしまいました。ただ、残念なのはこの番組を見逃しているということ。文字でこれだけ面白いのですから、映像はもっと面白かったのではないかと思います。BS番組はこれだから侮れません。これまで以上にもっとBS番組に目を向けなければとこの年末に猛省するのでありました。それでは皆様、よいお年を!
         =====文責 木村綾子


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KIMURA の読書ノート『あなたの日本語だいじょうぶ?』

2023年12月02日 | KIMURAの読書ノート

『あなたの日本語だいじょうぶ?』
金田一秀穂 著 暮らしの手帖社 2023年7月10日

祖父が金田一京助、父親が金田一春彦で著者も言語学者というのは、誰もが知っていることである。その著者のエッセイが本書。但し、エッセイと言っても書かれている内容はすべて「日本語」についてである。

第1章から第3章まではコロナ禍においての「日本語」及びAIについて書かれてある。不要不急の日常となり、大学の講義や仕事はリモートとなり、日常が大きく変わった時、言葉はどのようにリモートの中で変化していったのか、そして改めて日本語の持っている本質というのが浮き彫りになっていることが綴られている。更にはAIが発展する中で外国語教育は必要なのかというところまで言及している。そして第4章は巷で見聞きする日本語について綴られている。

その中で印象的だったが幾つかあるが、その1つが若い人が創り出していく言葉についてである。まず、どの言葉に関しても著者はそれを肯定しているという点で驚き、更にそれらの幾つかを分析し、結論に至っている。その方法というのは、とても筋道のたったもので、特例があるものの現在構築されている文法に基づいて言葉は変化しているということを改めて知ることとなった。またコロナ禍において頻繁に耳にした「不要不急」という言葉。この言葉に対して、テレビのコメンテーターたちが『「不要不急」の定義を示せ』と言っていたが、このような発言は「愚か」だと著者は一蹴している。日本語は日本の文化の上に成り立っていて、その曖昧さが秩序として保たれてきた伝統があると語る。更には自分の行為がどうなのか、自分で判断できなくてどうする、自分で考え、自分で判断し、自分で表現できるような人になることが教育の目的と言及している。

本書を読んで日本語に限らず言語は流動的だということを改めて感じた。「今の若い者は」と今も昔も流行りの言葉を使うと大人はついそのようなことを言いがちであるが、それを言う事自体がナンセンスでその流行り言葉がその時代を作り、新たな言葉の形成の役割を担っていることを知った。著者の軽快な文章に躍らせられるように読みがちになってしまうが、どの項目も一旦立ち止まってその言葉と今の社会の状況を照らし合わせざるを得ない内容となっている。

そして、最後の項目は「卒業」についてである。テレビを観ているとアイドルグループの1人がそのグループから「卒業」するというのをしばし目にする。これに関して著者は「終わることを卒業と言い換えている」とし、卒業は何らかの学業を終えてこれから先は一人前になるという節目だとしている。それだったら、これまでのアイドルグループの活動は練習か、もしくは半人前の修業期間だったのか、そのような状態に自分たちは付き合わされていたのかと疑問を呈している。そう思われないためにも政治家は「卒業」とは言わないと言う。なるほど、政治活動中、うっかりと暴言や差別的な発言をした人でも確かに辞める時だけは「引退」と言う。そこを間違えたら、もっと叩かれることを無意識に知っているのだ。このことは、「終わりよければ全て良し」ということが身に付いてしまっているとも考えられないだろうか。この考えが政治家の中に植え付けられているとしたら、「引退」という言葉さえきちんと言えれば、活動中は何を発言しても構わないということであろう。そんなことをつい思ってしまった。そして、気持ちは暗澹となるのである。

             文責 木村綾子


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KIMURA の読書ノート『地図バカ』

2023年11月15日 | 大原の里だより

『地図バカ』
今尾恵介 著 中央公論新社 2023年9月

恐らく我が家は一般家庭より「地図」を多く持っていると勝手に思っている。そもそも私も夫もバイクや車で遠出することを苦としないため、目的地が決まったらそこに至るまでの道路地図を購入する。今ではカーナビで道案内をしてもらうが、行き先によっては電波が届かないところもしばしあるため「地図帳」は必ず持参である。そうこうしているうちにいわゆる「道路地図」というのが本棚にてんこ盛りになったわけだが、学校の副教材として用いられていたような「地図帳」も手放せない。基本、地図を眺めるのが好きなのである。無人島に1冊のみ何か持参してもいいと言われたら本好き・活字好きの私であるが、迷いなく「地図帳」か「道路地図」を持っていく自信がある。それ位地図は眺めていて飽きない「本」なのである。

世の中に読書とは別に「地図」が好きという人がどのくらいいるのか分からないが本書のサブタイトルになっている「地図好きの地図好きによる地図好きのための本」が刊行され、現在重版が繰り返されているということを知ると、かなりの人数似た者がいるのだろうと想像する。そしてそのサブタイトルにまんまと引っ掛かって私も手にした。本書の著者はもちろん地図好きであるが、好きが高じて、誰にも頼まれていないのに軽井沢のイラストマップを作成し、それを自ら売り込みに行ったことが転機となり地図研究家としての第1歩を踏み出した経緯がある。

第1章では幼い頃からどのくらい地図が好きであったかということが延々と書き連られ、第2章では地図好きの先人の紹介。第3章ではお宝的地図を取り上げ、第4章では机上旅行へ誘ってくれる。第5章では地図上に記載された地名や駅名を掘り下げ、第6章では地図から歴史を紐解く。そして、最後第7章は地図から災害をどう捉えていくかという論考で構成されている。

この中で興味惹かれたのは明治30年に北海道庁地理課が発行した北海道地図。この地図は地名がアイヌ語の発音表記で記している。もともと北海道はアイヌ民族の拠点だった地。地名はもちろんアイヌ語由来がほとんどである。例えば、現在の「札幌」。これをローマ字表記すると「SAPPORO」となるが、この地図では「SATPORO」と記されている。これは「サッ【乾いた】」と「ポロ(ペッ)【大きな(川)】」を意味する。この地図を眺めているだけで、もともとの地名がどのように発音されていたのかということが分かるだけでなく、日本語からアイヌ語に取り入れられた単語、またその逆でアイヌ語から日本語に取り入れれたものが分かり、地図で有りながら言語学が学べてしまうのである。そして、何よりも北海道がアイヌ民族の土地であったという史実がはっきりとここからも浮き彫りになるのである。

日本大百科全書によると「地図」は「地球表面の全部または一部の状態を、記号や文字を用い、縮小して、一般には平面上に描き表したもの。地図は、複雑に分布する土地の情報を伝える優れた手段であり、各種の調査、計画、行政、教育、レクリエーションなど、われわれの活動や日常生活に不可欠のものとなっている」と記されているが、土地情報だけでない多くの情報を間違いなく私たちに与えてくれるものである。是非この1冊を手にして地図の世界を堪能して欲しい。  

   文責 木村綾子


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KIMURAの読書ノート『今夜世界が終わったとしても、ここにはお知らせが来そうにない。』

2023年11月02日 | KIMURAの読書ノート

『今夜世界が終わったとしても、ここにはお知らせが来そうにない。』
石澤義裕 著 WAVE出版 2023年1月

本書は紀行文である。しかし、これが刊行された年明けの時点ではその旅は終わっていない。しかもこの旅、2005年から始まっている。かれこれ18年。そのうちの2015年から綴られているのが本書。そもそもこの旅を始めた理由が、夫婦で一生に一度くらいは海外暮らしをしたいという意見が一致。仕事を辞めて海外に出たそうである。ここで、いの一番に資金はどうしたのだろうという疑問が浮かぶと思うのだが、著者の職業はデザイナー。引退宣言をしたが、クライアントから「どこ旅しているの。暇でしょ」とメールが送られてきて、そこからリモートワークが始まったということである。文明の利器万歳というところであろうか。「海外」はもしかしたら、かつての時代よりもかなり近くなったばかりでなく、とても「軽い」ものになったのかもしれないと、「はじめに」を読むだけでそう思わせてくれた。しかし、18年も海外をうろついているのに、まだ定住先が見つからないということは、軽くなった分、地に足のつかないものになったのかもしれないとすら思ってしまう。

最初の旅立ちではスクーターを購入してアラスカからアルゼンチン、ヨーロッパ、オーストラリア、ニュージーランド、そして東南アジアを廻っている。そして、本書スタートとなる2015年は軽自動車を購入してロシアを突っ切り、南アフリカを目指しながら、定住地を探すという旅。読者としては面白くないわけがないと期待してページをめくる。

どの国をピックアップしようか悩むほど、第三者的にはとても楽しく読めるものばかりであるが、当事者は命がけであることが最初に上陸したサハリンからそれが分かる。町を少しでも抜けると廃墟が覆う雑草のみが生えている道をひたすら走る。そして、そこで夜になる。当然のようにそこには街灯の1つでもあるわけでもなく、闇夜の中を走る訳には行かない。キャンプ場かもしくは安ホテルを探すしかないが、そんなに簡単にこれらの場所が見つかる訳でもない。そのような中で灯のともる民家をみつけ、事情を伝えると「近くのキャンプ場があるから、ついて来い」とそこの主人先導で車を走らせること2時間半。距離にして140㎞。北海道でも「すぐ近く」は10㎞先ということはしばしあるが、これだけで世界はワイルドワイドであることが分かる。しかし、著者は誘拐されているのではないかと気が気ではなく、一時は先導車を見送ってそこにとどまってみるものの、先導車はUターンして著者に「ついて来い」と声をかける。正直逃げるにも逃げられない状況である。そして、無事にたどり着いたキャンプ場が「すぐ」という140㎞先。それでも、この件については「おじさんの親切はギネス級です。絶対に道案内の世界記録です。(p27)」と綴っているから笑い話で済むのであるが、幸運以外の何ものでもない。

笑い話にもならない国もあった。それはモーリタニア。西サハラからモーリタニアに入国して、諸手続きを終わらせ、車にエンジンをかけ、走り出したところ、後ろから何人も人たちが血相を変えて走って追いかけてくる。そして一言「案内するって言っているだろう」と壮絶に怒られる。誰でも利用している国境は地雷地帯だったのである。ここを抜けるには案内人がいないと間違いなく「地雷を踏む」という場所。著者は重くならないようにこの時のことを綴っているが、ただの「イミグレーション」が地雷地帯なんて、少なからず多くの日本人が想像することはないだろう。実は本書、このように想像をまずすることが出来ない、しかし知ってしまったらそこで立ち止まって世界の状況を考えるしかない出来事ばかりが満載なのである。約450ページにもなる本書を読み終わった頃にはただただ脳みそが右往左往してしまっている状態というのが、本当のところかもしれない。

タイトルの『今夜世界が終わったとしても、ここにはお知らせが来そうにない。』だが、恐らく「お知らせは来る」と私は思っている。なぜなら、著者はパソコンを持って世界を巡りつつ仕事をしているからである。きっとメールでお知らせは来るだろう。それを教えてくれたのは、何よりもこの本書ではないか。世界は広くて近い。

=======文責 木村綾子


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KIMURAの読書ノート 図解でスッと頭に入る 紫式部と源氏物語

2023年10月18日 | KIMURAの読書ノート

『図解でスッと頭に入る 紫式部と源氏物語』
竹内正彦 監修 昭文社  2023年8月

来月1日は「古典の日」ということで、前回に続き、古典に関する本を取り上げます。本書は「図解でスッと頭に入る」シリーズの中の1冊ですが、いや、これを読んで頭にスッと入るかと笑いながらページをめくってしまいました。

オールカラーでイラストもふんだんに入り、源氏物語に入る前にまずは紫式部の背景についてドンと記されているのですが、相関図だらけでこれが異様に複雑で、幾ら可愛いイラストでも無理という感じでした。

まず最初に表れる相関図が平安後期の紫式部と藤原道長周辺の状況。紫式部が一条天皇の中宮彰子に仕え、清少納言が同じく一条天皇の中宮定子に仕えているというのは分かります。が、平安後期の出来事ですから、ここだけでなく、それ以前の花山天皇、円融天皇、冷泉天皇について誰が入内したのかとその入内した娘は誰の子なのか、一条天皇の後の天皇についても同様。もう、これは図解してあってもそこまではいきなり脳みそに入らないと思う訳ですが、そこに藤原家がずっと関与していたということだけは十分すぎる程分かりました。

そして、お次は藤原家の相関図。藤原不比等(中臣鎌足、つまり藤原鎌足の息子)からスタートしています。後宮サロンの相関図もあります。

もうこの時点でお腹いっぱいになる訳ですが、その後、今度は宮殿内の建物のイラストが表されています。誰がどこに住まわっていたかということが描かれている訳です。更には平安京の碁盤の目が記されていて、ここでは、紫式部の都内での動きが表されます。これに関しては現在の京都市内の地理が脳内に入っていれば、イメージしやすく、これまでの相関図や敷地内の見取り図による苦行からは解き放たれるかもしれません。

ここまでで、だいたい半分。その後ようやく源氏物語に入ってくるわけですが、光源氏の生涯を幾つかにわけて、相関図がその度に出てきます。もう光源氏は若き日から多くの人と関係を持ちすぎているため、相関図の複雑さにげんなりしてきます。そして、宮殿内の見取り図。更には都内での登場人物の動き。こちらも紫式部の時同様に現在の京都市内の地理がイメージできれば楽しいばかりですけどね。でも、一歩引き、俯瞰しておかなければならないのは、紫式部に関するこれらのことは一応現実世界。しかし、源氏物語はあくまでもフィクション。1冊に両者をまとめているため、どちらも現実世界のように思えてきます。いや、すでに現在の京都市内を散策すると五条上ル路地のところに「夕顔の居宅址」とか、高瀬川沿いには「六条御息所の住まい址」などという碑が建っているので、現在の京都市内がそもそも論として虚構の世界かも知れないなんてうっかりと思ったりします。それだけ、紫式部は1000年以上経っても一つの都市に莫大な影響を及ぼしている作品を残したという現実は圧巻としか言いようがありません。

年明けから始まるNHKの大河ドラマは紫式部がモチーフとなっていますし、まずは予習がてら本書を手にいてみるのはいかがでしょうか。

         文責 木村綾子


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KIMURAの読書ノート『超訳古今和歌集』

2023年10月02日 | KIMURAの読書ノート


『超訳古今和歌集』
noritamamai 著 ハーパーコリンズ・ジャパン 2023年7月

夏前頃から書店では「超訳」となる古文の本があちこち平積みで配架されているのを目にする。以前から読書ノートでも取り上げ書いていることであるが、簡単に古文が読めるならそれに越したことはない。これまでは、古文の物語を読んできたが、今回は数ある超訳の本の中から和歌に手を出してみた。

そもそも「超訳」というのはどういうことなのか。本書にはこのように書かれている。

「超訳とは……原歌を現代語訳したものを、さらに意訳。2段階の訳を経て、読みやすくかみ砕いたものです。そのため、必ずしも原歌どおりに正しく訳すのではなく、意味合いを重視した訳になっています。
【原歌】⇒【忠実な訳】⇒【意訳】」(p6)

とりあえず、古今和歌集の中から誰でも耳にしたことのある和歌を取り上げてみる。まずは百人一首にも選ばれている小野小町の和歌。
「花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」
超訳になると、
「昔はかわいいかわいい言われて結構モテたんだけどな~」
確かこれを直訳すると「桜の花の色がすっかり色あせてしまったように、私の容姿もすっかり衰えてしまった。春の長雨が降り続き、私がもの思いにふけっている間に」のような感じだったはずである。しかし、超訳になるとこの歌を詠んだと思われる季節はあっさり削除。小野小町の想いだけを表に出したものになっているが、結局はこれがいちばん言いたいことだろうということがとてもよく分かる。それと同時に超訳だと、小野小町の時代も今の時代も考えていることが一緒であるということまで明確に分かってくる。

これを踏まえた上で、私が納得したり笑わせてもらったりしたものを幾つかピックアップする。

物部吉名
原歌:「世の憂き目 見えぬ山路へ 入らむには 思ふ人こそ ほだしなりけれ」
超訳:「転職してー てか、仕事したくねー でも辞めたら、嫁に殺されるー」

凡河内躬恒
原歌:「世を捨てて 山に入る人 山にても なほ憂き時は いづち行くらむ」
超訳:「あいつ、また仕事辞めたってよ もう行くとこないんじゃね?」

大江千里
原歌:「月見れば ちぢに物こそ 悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど」
超訳:「月見たら 泣けてきちゃうんだ ボクってほんと繊細」

壬生忠岑
原歌:「有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし」
超訳:「徹夜明けの月を見ると 振られたときのこと 思い出すんだよね ……(T_T)」

本書の超訳を読んでいて気付いたことは和歌を詠んでいる男性陣がかなり女々しいということ。でも、それを心にしまうのではなく、歌として気持ちを表に出しているのは何とも微笑ましくも感じるが、ふとこれって今のX(旧Twitter)と同じ手法。そう考えると「超訳」は突拍子な訳ではないということではないだろうか。

そして最後に、国歌「君が代」の元となった歌を紹介する。
原歌:「我が君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」
超訳:「たいせつなあなた 長生きして元気に暮らしてください あの小さな石が いつか大きな岩になる、その日まで」
素直に「国歌万歳」と思ってしまった。そして、この国歌の単純明快な想いに沿った政治を宜しくとも思う

=====文責 木村綾子


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KIMURAの読書ノート『ぼくはうそをついた』

2023年09月17日 | KIMURAの読書ノート

『ぼくはうそをついた』
西村すぐり 作 中島花野 絵 ポプラ社 2023年6月

8月末に広島に帰省した時のことである。時間が出来たので幾つかの書店をぷらぷらと巡ったところ、本書が平積みや、面出しで置いてあったりと、かなり目立つ配架となっていた。広島から自宅に戻って自分が住んでいる周辺の書店を廻ってみたが本書を目にすることはほぼなかった。それが逆に気になり、読むこととなった。

新学期から小学6年生になるリョウタは河川敷で『ヘロゥばぁ』と呼ばれるおばあさんに遭遇する。『ヘロゥばぁ』に手をつかまれた子は不幸になると子ども達の間でささやかれていた。河川敷で遊んでいた子は一斉にその場から逃げたが、リョウタはそこでツクシを取り続けた。そうしていると、土手の階段を駆け下りる一人の少女を目にした。その少女はリョウタより1学年上でリョウタと同じバレーボールクラブに所属しており、女子チームのキャプテンを担っていたレイであった。彼女はプレイヤーとして期待されており、強豪校からの誘いもあるという。リョウタはレイが『ヘロゥばぁ』に近づき手をとろうとするところを見てしまう。自宅に戻ったリョウタは同居する母方の祖父が手にした小さな箱を持っていることに気付く。その箱には祖父の父親、リョウタにとっては曾祖父からの遺言がこの箱には入っているということを教えてもらう。そして、祖父は自身の父親のことをリョウタに話し始める。次の日、リョウタはレイから『ヘロゥばぁ』が自分の曾祖母であり、夏が近づくとおかしくなると打ち明けられる。

原爆にまつわる物語である。8月の読書ノート『かげふみ』で私は主人公が被爆3世になっていることが衝撃的だったと書いたが、この作品の人物設定にはもっと驚かされることとなった。これまでの物語は祖父母が原爆にあったこととして物語が進んでいたが、この作品の物語のキーとなるのが、曾祖父母たちなのである。つまり、主人公であるリョウタやレイが被爆3世であることには変わりないが、キーとなる曾祖父母は被爆当時すでに大人なのである。しかも高齢化社会のため、曾祖父母が健在という家庭は少なくない。このような中で物語は展開する訳である。

作中でリョウタの祖父が、自身が体験した原爆当時の話をリョウタに語る場面がある。その時祖父は小学4年生であったが、担任は新任でしかも17歳だったという。このことについて「あとがき」で作者がこのモデルになったのは自分自身の母親であると記している。17歳で教壇に立つだけでなく、学校で子ども達と一緒にいるところを原爆にあい、子どもたちの運命を背負わなければならなくなった17歳の少女はどのような思いだったのだろうかと考えると胸が痛くなる。そして、同様にリョウタやレイの曾祖父母が原爆で我が子を亡くしたことで心に重たいものを抱えてしまう描写には切なくなってしまう。それを今の時代のリョウタやレイは小学生でありながら受け止めなければならない現実。それを見事に描き切ったこの作品、広島だけでなく全国の書店で平積み、もしくは面出しで配架してもらいたいと切に願う。


========== 文責 木村綾子


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KIMURAの読書ノート『反戦平和の詩画人 四國五郎』他

2023年09月04日 | KIMURAの読書ノート


『反戦平和の詩画人 四國五郎』
四國光 著 藤原書店 2023年5月


『絵本 おこりじぞう』
山口勇子 原作 沼田曜一 語り文 四国五郎 絵 金の星社 1979年  

『おこりじぞう』
山口勇子 作 四国五郎 絵 新日本出版社 1982年

私の中で「四國五郎」という画家は『おこりじぞう』を描いた人であり、広島出身というだけの知識しか持ち合わせていない。本書はその四國五郎の息子が四國五郎が残した日記や作品、更には自身の目から見た父親「四國五郎」を多角的に捉えた評伝である。

本書は440ページと言う厚さに四國五郎という人物が凝縮して綴られている。そこからは想像を超える人物像が浮かび上がってくる。その中でも冒頭で記されている彼の「シベリア抑留」についての体験は目を奪われるものであった。この言葉を耳にするとまずイメージするのが、ロシアの人に囚われて強制労働をするというものであるが、彼が記録したメモにはそれ以外のことが綴られていた。日本人の日本人へのリンチである。それは帰国が決まり、日本に向かう船の中でも続いており、日本を目の前にして、それにより命を奪われてしまう現実がそこにあったのである。彼が戦後反戦に対して絵で訴えていく手法を取っていくわけであるが、本書ではその原動力となったのが、このシベリア抑留と実の弟を奪った原爆であると記されている。しかし、個人的にはこのシベリア抑留の方が彼にとっては過酷は体験ではなかったのではないかとすら感じてしまう。

戦後の広島で行ってきた表現活動において、峠三吉や読書ノートに8月の最初に取り上げた丸木俊ともつながっていたことを本書で私は知ることになる。また活動の1つに「原爆が投下された直後の惨状を、被爆者自身が書き残す」というものがあった。現在広島市内の高校生が被爆体験者に話を聞き、それを絵にするという活動が行われているが、原点がここにあるのではないかと私はおもった。四國五郎の平和に対する思いというものは想像をはるかに超えたもので、それは「戦争」というものがどれだけ人生に大きく影響を与えるのか改めて考える必要があると思い知らされた。

そして『おこりじぞう』。この作品が世に送り出されるまでの詳細がここには綴られている。絵本の表紙は平和の象徴である鳩を手にし、微笑んでいる少女の姿が描かれている。そして、児童書の方は逆に防空頭巾を被り、お地蔵さんの前で何かを訴えかけるような目をした少女が描かれている。実は絵本の方は物語が途中で終わっている。そして、児童書は物語を短縮することなく本来の長さで掲載されている。私は改めて二つを読んでみて、大きな違いがあることに気が付いた。原作の主人公はお地蔵さんであるが、絵本の方は物語を短くしたことにより、主人公が自然と少女に変わっていた。こうすることで、一つの現象に対して二人の視点を得ることが出来ているのである。絵本を出版する際、作者(山口勇子)は原作を短縮することを快くは思っていなかったと本書で述べられているが、その後、絵本の内容で語りをしていた沼田から実際の語りをテープで聴き、了承したという。そして、この2冊の画を担当した四國五郎。著者の息子はこう記している。「原爆や戦争の、想像を絶する悲惨さを、次の世代、特に子供にどのように伝えるか。どのようにして『継承』するか。それは父が最も悩ませていた課題のひとつだった(p279)」。物語の視点が二つになったということで読み手は気持ちが重ね合わせやすい方で読むことができ、まさに「継承」する幅が広がったように感じている。もちろん、それには四國五郎の画がどちらにしろ、後押しをしている。

ここでは「シベリア抑留」と「おこりじぞう」しか触れることが出来なかったが、四国五郎が亡くなるまで語り続けた「絶対戦争の道を再び歩んではならない。そのために記憶せよ、伝えよ(p400)」というメッセージを本書を手に取り、受け取って欲しい。

=======文責 木村綾子 


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KIMURA の読書ノート『かげふみ』

2023年08月18日 | KIMURAの読書ノート

『かげふみ』
朽木祥 作 光村図書 2023年5月29日

今回も原爆に関する本を紹介する。作者は「読書ノート」に過去2回別の作品を紹介している朽木祥である。以前の読書ノートに記載したが、彼女は広島出身で被爆2世である。そのため多くの原爆に関する作品を生み出しているが、過去の2回については戦争をテーマにしているものの直接的に原爆を扱うものではなかった。今回の作品は舞台が広島でありまさにそれである。

関東地方に住んでいる小学5年の拓海は夏休みを利用して、母親の実家である祖母の家に遊びに来ていた(実際は妹のセツが水疱瘡に罹ったので、「強制隔離」というのが拓海の弁)。しかし連日の雨のため外に出ることが出来ず、少しうっぷんがたまっていた拓海に、祖母が家の近くにある児童館を紹介してくれる。この児童館は、戦前は学校で、昨年までは行政センターだったのだが、移転のため児童館になったという。この児童館には図書室があり、拓海はその奥のテーブルで本を読んでいる一人の三つ編みをした女の子を見かけるようになる。勇気を出してこの女の子に声をかけたところ、彼女は「もりわけすみえ」と言い、「影の話」が内容となっている本を探しているという。拓海は自分が知っているだけの「影の話」が書かれたものをすみえに紹介するのであるが、どれもすみえの思っているような本ではなかった。

この作品を読んで私の中で衝撃的だったのが、拓海の母親が被爆2世であるという設定。つまり、私と同世代か少しだけ上の世代であるということである。と言うことは、主役の拓海は被爆3世ということになる。いつの間にか原爆に関する物語において被爆3世が登場人物の設定として可能になったのである。そして、原爆のあの日から随分と歳月が流れてしまっていることに改めて感じ取り、何とも言えない焦燥感に襲われてしまった。しかし、この作品の中ではその3世となる世代の子ども達が原爆に関する様々な事象やメッセージを前の世代から、いや広島という都市からきちんと受け取り、それを身近なものとして至る所で描写されている。すみえの「影の話」はもとより、子ども達の遊び場、そして平和資料館。まだまだ風化するには早すぎる原爆をどのようにしてつないでいけばいいのか、作者のその思いが物語全体から表されていた。

本書には巻末に『たずねびと』という物語が付随されている。これは2020年から使用開始となった小学5年生の国語の教科書(光村図書)に書き下ろされたものである。それが今回本書に掲載されたのである。教科書用のため物語はとても短いものであるが、本編以上にインパクトの残る作品であった。

この作品は「さがしています」という駅に張り出されたポスターに自分と同姓同名の名前をみつけた少女の話である。このポスターは「原爆供養塔納骨名簿」であった。このことをきっかけに少女は当時の同姓同名の女の子に思いを馳せ、追悼平和祈念館に足を向けることになる。

普段でも自分と同姓同名の人に会ったり、何某かに記されているのを目にすると驚くと共に親近感が湧きだしてくる。しかし、それが「原爆供養塔納骨名簿」だったらどうなのだろうか。親近感が湧くかは分からないが、とても気になる存在となるのではないだろうか。気になることで少しでも当時の様子に思いを重ねることができるのなら、この名簿で自分と同じ名前を見つけ出すという行為は決して悪い行いではないと思った。ただ残念なことに「原爆供養塔納骨名簿」を広島以外で目にすることはあまりない。この時期だけでもいいので、全国各地の目につくところに大規模に張り出して欲しいとこの作品を読んで気付かされた。

=======文責 木村綾子


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読書ノート『丸木俊』

2023年08月02日 | KIMURAの読書ノート

『丸木俊』
岡村幸宣 著 あかね書房 2023年3月

私の本棚には何十年もの間鎮座している作品『ひろしまのピカ』(小峰書店 1980年6月25日)がある。そして、時折ふと思っては手に取ってそれを読む。この作品はご存じの方も多いとは思うが広島の原爆を扱った作品である。画は激しく荒々しく作者の感情をそのままストレートに表わしており、それがより強烈に読み手にインパクトを与える。そして、今なおこの作品は世代を超えて読み継がれている。

本書はこの作品の作者である丸木俊の伝記である。「丸木俊」という名前はパートナーの丸木位里と共に私の中では聞きなれた名前であった。先にあげた作品が何よりも自分の本棚にあること。そして、私の出身である広島では頻繁に耳にする名前であったからである。しかし、本書を書店の本棚で見た時、名前と作品は知っているもののその生い立ちについては丸っきり知らないということに気が付いた。遅ればせながらであったが、本書を手にして彼女の人となりを知ることとなった。

当たり前のように耳にしていた名前なのと、強烈なインパクトを残す原爆を題材とした作品を発表しているため、てっきり広島出身なのだと思い込んでいた。が、それはパートナーの位里の方で、彼女自身は北海道出身であった。また、二人の出会いは戦前の話であり、その時にはまだ原爆とはほど遠いところに二人はいた。それどころか、位里と出会う前は単身でモスクワに行ったり、パラオに行ったりと当時の女性としてはかなり先進的な考えを持ち、かつ行動派であった。そして位里と結婚した4年後、広島に原爆が落とされる。

俊が原爆を題材とした作品を発表するようになったのは、戦後民主主義になったと言われながらも雑誌や新聞に原爆に関する記事が掲載されていないことを不思議に思ったことからである。これは「自由」ではないのではないか。「広島や長崎で起こったことをなかったことにしてはいけない。それに、何があったかをくりかえし思いだすことは、これからはじまろうとしている戦争を防ぐ力になる。芸術は、そんな役割をはたせるのではないか(p72)」。これが原動力となっている。こうして位里と共に次々と作品を発表。そして、我が家に鎮座している『ひろしまのピカ』もその1つなのである。

二人の作品の中でも「原爆の図」は世界各国で展示され大きな反響を呼んだという。そしてこの巡回展で広島・長崎で何が起こったのかを知った海外の人も多くいたようである。今でこそ、多くの外国の人たちが平和祈念資料館に足を運び、原爆のことを能動的に学んでくれている姿を目にするようになったが、当時は二人の作品が広島や長崎での出来事を伝える先駆けであったことが分かる。もし、この作品が世界を駆け巡っていなければ、現在のように多くの海外の人が足を運んでくれたのであろうか。考えすぎなのかもしれないが、それでも今に至る大きな布石になったことは間違いないと思っている。また彼女が若かりし頃から海外とつながっていたということも、作品が海外を巡ることとなる一助になっていたとも考えている。位里と出会うまでの彼女の歩みがこうして今も読み継がれる「原爆」の作品となることに不思議な縁を感じる。本書の読みどころはまさにそこではないかと思っている。……そして、78回目の夏を迎える。

     文責 木村綾子

 

  


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KIMURAの読書ノート『1秒先の彼』

2023年07月17日 | KIMURAの読書ノート


『1秒先の彼』
山下敦弘 監督
チェン・ユーシュン『1秒先の彼女』 原作 宮藤官九郎 脚本
岡田将生 清原香耶 出演 2023年7月7日 公開
 
予備知識なしの「清原香耶ちゃん推し」という理由だけで鑑賞した本作品。正直、タイトルだけを見ているとただの「ラブスト―リ-」というイメージしか出てこない。それでも、脚本が「クドカン」こと「宮藤官九郎」なだけに、そこそこ面白いかもというほのかな期待は無きにしも非ず。しかし、遥かにそれを超える圧巻の作品だった。

鑑賞後にこの作品のことをリサーチして分かったことは、もともと台湾のユー・チェン監督が20年温めていた脚本で満を持して作品として作り上げ、第57回台湾アカデミー賞で、最多5冠(作品賞、監督賞、脚本賞、編集賞、視覚効果賞)を受賞している。その作品を今回山下監督は男女反転させたリメーク版として手掛けたものであった。

高校卒業後郵便局に勤務し、30歳になるハジメ。彼は何をするのもせっかちで運動会では必ずフライング、卒業アルバムは目をつぶって写っているだけでなく、郵便配達では幾度となくスピード違反で捕まり、そのため現在は窓口業務となっている。またレイカは何をするのにもスローテンポで運動会ではみんながスタートした後で走り出し、現在はそのために留年を繰り返し現在大学7年生の25歳。物語はハジメが交番に紛失届の紛失物を「昨日」と書いたところから始まる。失われた「1日」がどのようなものであったのか、二人の視点から描かれている。

「二人の視点」というのがかなり明確な作品で前半はほぼハジメしか出てこない。逆に後半はレイカを中心として物語が進行していくという、ある意味とても分かりやすい作品である。しかし、これを俯瞰的に見てみると、いや、そのように見ようとしなくても知らずに俯瞰的に見せられる映像であり、それだけで作品の力を見せつけられるのである。そして、それだけでなく何と言っても俳優陣全てが試されている作品である。しかもそれは「表現する」ということにとどまらず、「技術的」に試されている。更にそれはスタッフ陣も同様で、明らかにはっきりと「技術力」を試されているのである。それを「ラブストーリー」で行われているのであるから、かなり挑戦的な作品である。だからこそ鑑賞後は、その作品の圧に仰け反るだけである。ただただブラボーとしか言いようがない。

また、これはある意味「ファンタジー」要素が大きいのであるが、舞台(ロケ地)を「京都」にすることで違和感を持たせないようにしている。京都なら「ありだよね」と見ているものを納得させる説得力をもってきている。それはかつて上映された『鴨川ホルモー』に通じるところでもある(2009年読書ノート)。些細な発言や動き、人間関係を京都(しかも、京都市内だけでなく、北部も含めて丸ごと京都)という鍋に入れて料理している辺り、かなり心得ている印象である。

「ラブストーリー」でありながら、全く「ラブストーリー」を感じさせないこの攻めた作品を是非鑑賞してもらいたい。因みに私が鑑賞した回は8割の客席が埋まっており、そのうち4割が私よりも年配の方であったことに驚いた(あくまでも私の個人的計測)。これは清原香耶ちゃんの「朝ドラ」浸透の影響なのか、それとも「クドカン」人気なのか、それは分からない……。

     文責 木村綾子


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KIMURAの読書ノート『コロナ漂流録』

2023年07月02日 | KIMURAの読書ノート

『コロナ漂流録』

海堂 尊 作 宝島社 2023年5月

2020年11月、2021年9月の読書ノートで紹介した「コロナ」シリーズ。いよいよ今回で完結である。作者はこのコロナについて国が何を行ったかということを記録しなければならない使命感のためにこれを書いたと、第1作目にインタビューで応えていることから、私もそれを受けてこれを最後まで取り上げることにした。

これまでの1、2作に関してはコロナに対して医療現場がどのような動きをしていたか、それに付随して政府はどのように対応してきたかということが物語の中で展開されていたが、今回は明らかに様子が変わっていた。

物語のスタートは2022年6月3日から始まり、2023年㋀15日で終わっている。その間に『コロナ漂流録』は元安倍首相(本書では元安保首相)が亡くなったことにも当然のように描かれている。亡くなった人に対しては鞭を打たないというのが一般的な感覚であるが、作者は容赦ない。それどころか彼の生前の行いについて傾倒した新任の医師を登場させることで、逆に彼の行いがどのように可笑しいことであったかということを医療現場側から論理的に激しく言及している。市井の人間にとっては「可笑しい」と思っていても、それを上手く言葉で表現することがなかなかできなかったが、現場で翻弄させられた医療従事者がある程度の専門用語を用いながら語ることによって、それがはっきりと露わになっていた。

それと並行して物語の中心となっていったのが、大阪(本書では浪速)で行われている府政ついてである。その中には国産のワクチン開発をなぜ大阪が乗り出したのか、そして頓挫したのか、あくまでも物語なのでそれを全て鵜呑みにする訳には行かないが、それでも国民の1人として知りたかった情報の一部をこの作品を通して得ることができてしまったことにより、暗澹たる思いを持ってしまう。またそれに付随して2025年に開催される大阪万博に関しても触れている。そこでは「浪速万博は東京五輪の相似形」と記されており、更に深い闇をみてしまった感じである。

つまり、今回の完結編では、コロナ罹患患者に対する医療現場の物語というよりは、政府に対する批判やこの間の時事問題を表に出して物語を進行しているのである。これを良しとするのかどうかは読者の手に委ねられるのであろうが、国民がコロナで右往左往し、命を脅かされている時に、裏でこのようなことが密かに行われていたのかと思うと「国民の命」よりも「自分たちの利権」を最優先に考えてたであろう一部(と思いたい)の政治家に関して改めて嫌悪感を持ってしまう。その人たちが今なお、テレビを付ければ破顔で政治を語っているという現実。心の中はもやもや感でいっぱいとなる。作者はエンディングでこのようにも主人公に語らせている。「社会全体がコロナに慣れ、冷静に対処していることです。市民は、安全ではなく、安心もできない不安定な世界で、淡々と生き抜いていくしかないと、覚悟をきめたのでしょう(p299)」。そして、このことを「奇妙に明るい絶望感」としている。

現在、表立って大きくアナウンスされていないが、コロナ患者が増加。「第9波」に入ってきているようである。今後はこの状況下を物語として記されることはないので少し残念である。作者が記したように私たちは「淡々と生き抜いていくしかない」のであろうか。

======文責 木村綾子
 


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KIMURAの読書ノート『絶対に行けない世界の非公開区域99』

2023年06月16日 | KIMURAの読書ノート


『絶対に行けない世界の非公開区域99』
ダニエル・スミス 著 小野智子 片山美佳子 訳 
日経ナショナルジオグラフィック 2022年

まさにタイトル通りの本である。国内外の非公開区域を紹介している。私の場合タイトル通りの場所でイメージできるのは「北朝鮮」位なのであるが、日本はもとより海外にこのようにたくさんの場所があるのかということに驚いた。

本書ではなぜそこが「非公開区域」になっているのか、その理由を幾つかのカテゴリーに分類している。例えば、「高度なセキュリティ」や「機密事項」。これはその国の中枢を担う場所のため、厳重な警備の下で管理されており「非公開」はもとより、一般には存在場所すら知らされていないと理解できる。また、「立ち入り制限」というのもすぐに理解できるだろう。危険な場所のために、一般の人は立ち入れないということである。しかし、全く理解できない項目もある。その1つが「存在未確認」。未確認だから入れないというのは分かるが、なぜそれがどこかにあるということが分かるのであろうか。例えば、イギリスの「ホワイトホールの地下トンネル」。本書によると、この場所は「ロンドンの国会議事堂とトラファルガー広場とを結び、英国政府の中枢であるホワイトホールで働く人々がりようしたというトンネル網の存在は、いまだ不確かな噂のままである(p118)」。つまり世界的な規模で噂になっている場所や建築物についても本書では取り上げられているのである。この項目が案外好奇心をそそられる。うっかりすれば、自分で探してみようかという気にさえさせてくれる、説明文なのである。この項目が思った以上に多いというのも特筆しておきたい。世界にはまだまだ未確認の場所があるということでる。

本書で紹介されている場所の中で、私にとってインパクトが強かったのが、アメリカのペンシルベニア州にあるセントラリアという町。こちらは「立ち入り制限」となっているが、その理由がなんと50年間町が燃え続けているのだという。1962年に炭鉱の坑内で火災が発生。火災は町にも広がったらしい。消火活動に失敗したため、自然鎮火を待つことにしたのだそうだ。鎮火までにまだ250年かかるらしい。当時人口は2000人を超えていたが、現在は10人前後ということである。火災の規模も凄いが、自然鎮火を待つというその判断というのが、何とも言えずアメリカ的である。国土が広いアメリカならではの事かもしれないが、これが国土の70%が山林となる日本なら、自然鎮火を待っていたらあっという間に国土全てが焼き尽くされそうな予感しかない。

日本の非公開区域も紹介されている。それは「伊勢神宮」。紹介文にはこのように記述されている。「日本に1億2千万人の信徒がいるとされる神道は、唯一神信仰ではなく自然の中に神を見出す伝統宗教だ。伊勢の神宮は神道であるため、内院という奥の聖域への立ち入りは厳しく制限されており、皇族出身の高位の神職しか入ることができない(p236)」。
この紹介文を目にした時、確かに「伊勢神宮」の内院は一般には入れない。しかし、国内にある多くの神社は内院ではないが、本殿まで立ち入って参拝はできない。入ることが可能なのは、拝殿までである。また、本殿だけでなく境内には「神域」を持つところも多く、注連縄で結界が張られている場所は入ることができないだけでなく非公開のところも多い。そう考えるとそれだけでも日本にはかなり多くの「非公開区域」というのはあるのではないだろうか。これは日本人にとって「当たり前」の感覚なのであるが、著者はアメリカ人である。この日本の文化、伝統が他国の「非公開区域」と同列に並べてしまうほど、特殊な場所なのだと感じてしまうのであろう。実は本書を読んでいちばんの発見はこのことであった。
      文責  木村綾子


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KIMURAの読書ノート『(萌えすぎて)絶対忘れない!妄想古文』

2023年06月03日 | KIMURAの読書ノート

『(萌えすぎて)絶対忘れない!妄想古文』

三宅香帆 著 河出書房新社 202210

 

いわゆる日本の「古典(古文)」について、ちょくちょくこの読書ノートでは取り上げている。それもこれも自分自身が大の苦手だからなのであるが、ちょっとしたきっかけで大人になり読んでみようという気になった作品がある。それが、「源氏物語」。当時出版されていた現代語訳の訳者違いを何冊も読んだ程である。「きっかけ」は人によって異なるのが当たり前であるが、それでも一般論として、その作品の「裏話」だったり、それらの物語が現代の何のエピソードに該当するのかということを知ると案外すんなりと古文の世界に入れるということが分かった。そのような訳で、古文に関するよもやま話が書かれた本を見かけるとつい手にしてしまうのである。本書もまさにそれである。

著者は大学院で古文(万葉集)を研究。研究でお腹いっぱいになり卒業後は古文とは全く関係のない仕事に就いたが、諸般の事情で退職。その頃に再び古文の本を手にして、古文の良さを再認識して現在に至っている。その著者がまず古文の美味しい部分として挙げたのが「人間関係」。しかも「推しカップリングを見つけること」が面白さを知る最重要項目と記している。例えば、第1章で取り上げている『枕草子』。誰もが1度は学校の授業で学ぶし、冒頭の「春はあけぼの」は多くの人が知っているフレーズである。しかし、そもそもこの「春はあけぼの」に読者は惑わされていると著者は指摘する。このように四季の情景を綴っているところもあるが、それはこの作品の中ではごく少数であり、本来は作者・清少納言と彼女が使えた中宮定子の親密な関係を記しているのだという。「親密」にも様々な意味が込められているが、著者の言葉を借りれば「女性同士の(友愛を含めた)親密な関係性」なのだという。更に著者はなぜ清少納言はこの『枕草子』を書くことになったのか知っているかと読者に問う。実は、その理由がこの作品の中できちんと記述されているのである。その箇所が「跋文」、つまり「あとがき」である。学校では冒頭の「春はあけぼの」は教えてもらっても、跋文なんてまず触れることはない。もし、枕草子の執筆理由を学校で学ぶこととなったら、恐らく教科書に掲載される「春はあけぼの」は逆に触れることはなかったのではないかと私は思ってしまった。この流れるようなリズムを持つフレーズは現代人にとってお蔵入りとなってたことであろう。仮に私が教科書会社に勤務していたとしたら、かなり悩ましい問題のような気がする。もちろん、清少納言は遠い将来、自分の作品が教科書に掲載されるなんて思ってはいない。

枕草子とくれば、紫式部の『源氏物語』も気になるところであるが、もちろん、こちらも述べられている。但し枕草子のように清少納言と中宮定子だけの関係性ではこちらは終わらない。著者は「現代の少女漫画の様々な『型』が出尽くしたのでは」と指摘している。そのくらい多様な関係性がここでは描かれているのである。そのため、カップリングも多様である。その中の幾つかを本書では紹介しているのであるが、かなり笑えて納得したのが、主人公・光源氏と幼馴染の頭中将の関係性。著者は「元祖BL」と言ってのける。

本書では著者が専門の「万葉集」からも幾つか取り上げている。額田王と大海人皇子との関係性、額田王と鏡大君、石川郎女と久米禅師の関係性など。そして、何よりも意外なものだったのが、『竹取物語』の竹取の翁とかぐや姫の関係性。竹取物語に関しては物語も分かりやすいので、「古文」と意識しなくても物語の内容を知っている人は多いと思うのだが、著者の説明を目にするとまた違う世界が見えてくる。

このような関係の著書を手にすると、毎度のことながら「学校でも教えてくれればよかったのに」と思ってしまう。これを知ってから古文を読むと単語や文法について多少知らなくても案外すんなりと読めてしまうのではないかと思ってしまう。著者はあとがきで「学校の授業ではないところで、もっと古典の面白さをわかってほしい(p249)」とあるが、授業でこの面白さを伝えて欲しいと切に思った。

====文責 木村綾子

 


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KIMURA の読書ノート『仏像ぐるりのひとびと』

2023年05月14日 | KIMURAの読書ノート


仏像ぐるりのひとびと』
麻宮ゆり子 作 光文社 2018年

浪人1年目の12月に交通事故を起こし入退院を繰り返したため、結果として2年間の浪人の末、京都の冥王大学に入学した雪嶋直久。彼は幼い頃から仏像に興味を持っていた。大学のアルバイト募集の掲示板に「仏像修復のアルバイト募集」があるのを見つける。その3日後、彼は「門真古仏修復所」へ向かう。そこで与えられた仕事はひたすら修繕を必要とする仏像に合成樹脂を入れ込む作業をすることとなる。そしてある日、修復所に長く置かれてある仏像に目が留まる。破損個所が多く、もともとどのような種類の仏像であるか特定できず、修理に至っていないと門真は直久に説明する。直久はその仏像の種類を特定すべく調査をしていくことになる。その過程でこれまで以上に仏像に魅了され、更に自分自身がどれだけ仏像が好きなのか気付いていく。

今年最初の読書ノートでは、『東京藝大仏さま研究室』という仏像を修復するための大学の研究室がモチーフとなった本を紹介した。今回は大学での学びではなく、実際に修復することを生業とした修復所が主軸となった作品である。そのため、そこに青春の群像劇のような和気あいあいとした雰囲気はほぼない。しかし、じっくりと仏像に取り組む直久と修復師の門真と周辺の人々が仏像を通して自分の足元を見据えていく人間模様が丁寧に描かれている。

それでも、興味が引かれるのは何よりも修復の過程であろう。そもそも文化財修復とはどういうことなのか。壊れたところを直すとか、汚れを取るというイメージはあるがそれは必ずしも正解ではないようである。修復師門真の言葉を借りれば、「古いところを残しながら、『ここだけは手を入れないと全体が崩壊してしまう、後世に残らない』というぎりぎりのところを見極め、可逆性のある……つまり、いつでもあと戻りできる材料を使って、いっけんわからないような手を入れる。そんな修復法です(p106)」というもので、私たちが日常的に使うものを修理する『新品修理』とは全く逆の発想のようである。これを前提に描かれている修復の過程はひとつひとつが新鮮であり、かつ登場人物たちがそれらの仏像に対してどれだけ敬意を払っているのかということがひしひしと伝わる。

現在大阪市にある「中之島香雪美術館」で「修理のあとにエトセトラ」という企画展を行っている(5月21日まで)。この企画展を知ったことと、この作品を手にしたのがほぼ同時期だったというまさに神っているタイミングであった。もちろん慌てるようにGW中に美術館に赴いた。これから修復を行う作品についてはどのような箇所に修復を入れるのか、また修復が行われた作品に関しては修復前の画像を説明書きと共に展示してあった。仏像に関してはこの作品に描かれている過程とまさに同じであり、作品では描かれている文章で自分なりにイメージするしかなかったが、美術館では実物を目の前にしてはっきりとどのように修復をしていくのかが手に取るように知ることができた。また翌日、「春季京都非公開文化財特別公開」にて、とあるお寺を拝観した。そこには、お寺が所蔵する重要文化財指定の涅槃図が公開されているだけではなく、この涅槃図を修復した行程が写真、動画で紹介され、かつ住職によって直接お話も聞くことができた。このお寺がこのような展示をしているとは拝観するまで知らなかったため、ここでも神っているタイミング……というより、もはや「呼ばれている」という言葉を信じるしかなかった。

この1冊の作品から芋ずる式にリアルな世界での体験にどっぷりと浸かったGWになったという訳である。本書を読む時間のない方には是非、21日までであるが中之島香雪美術館でリアルな修復の展示を目にして頂きたい。

=======  文責  木村綾子


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