① 09.4.16 私も故事にならって国見をしたいものと、木々が芽吹かない、眺望のいい時をねらって、その地を目指した。
嵐山(253m)続きの近文(ちかぶみ)山(223m)。
石狩川岸から登る道は現在通行禁止のため、山を横断する道の国見峠から尾根伝いに残雪の道を行く。 国見の碑が見えてきた。
碑文は漢文で書かれているが訳文は
「明治18年8月 岩村通俊、永山武四郎、長谷部辰連、佐藤秀顕などおのおのその官事を以ってこの山に登る。 すなわち山河囲じょうし、原野広大、実に天府の富あり。 他年大道、砥の如く、都府すでに成らば相ともに再び登り、盃を挙げてかん飲、以って今日を談ぜん。 すなわち相謀って碑を建て、以ってこれを後に遺す。」
② 明治19年に建てたものだという。 この石の3面に刻まれている。 詳細はまた最終に・・。
③ 国見をした当時、木々は邪魔でなかったのであろう。 今はけっこう邪魔だ。 冬枯れの木々から垣間見てみよう、上川盆地を・・。
④ 石狩川下流遥か・・。 今は江神橋が架かっている。
⑤ 雪の十勝岳連峰まで見え、今は、この混み入った家並み・・。
⑥ 旭川中心街を垣間見る。 石狩川が曲がりくねって見えている。 やく130年前の国見による構想結果のこの風景なのだ・・・。
この国見の碑の傍に設置されている解説文
『明治18年8月、当時司法大輔であった岩村通俊は上川郡の視察を行い、永山武四郎、長谷部辰連、佐藤秀顕と共に近文山に登り、広大な上川原野を国見した。 岩村は豊かな原野を前に上川開発の重要性を認識し、帰途函館から「尊北京於上川議」(北京を上川に置く議)を内閣に送っている。
明治19年、岩村は北海道長官に就任し、その視察を元に上川原野の開発を推進し、二代目の北海道長官になった永山武四郎ともども、旭川の市街区画、道路開削など開発の基礎を造り上げた。
この国見の碑は、視察後、同行の人たちと近文山に碑を建てることが話し合われ、岩村自ら碑文を草し、翌19年に吏員の白野夏雲に命じて建立させた。
昭和41年、上川地方で最も古い石碑であり、上川開発の貴重なものとして旭川文化財の指定を受けている。』