撮って置きの日々

北海道 旭川写真 @ 旭川3sen6gouの まりあ

2143. 旭川・開拓礎を築いた2人の像

2009-05-27 13:29:14 | Weblog

① ↓の2142記事の、国見をし碑を立てた主要2人のうちの1人、岩村通俊の像。 常磐公園千鳥が池の畔に立つ。


② すぐ傍らに自作自筆の歌碑。 「世の中に 涼しきものは 上川の 雪の上に照る 夏の夜の月」


③ 初代北海道長官になった・・。


④ もう1人、永山武四郎の像。 常磐公園正門前に見上げる高い位置に立っている。


⑤ 屯田兵司令官、第二代北海道長官、第七師団初代師団長になった・・。


⑥ 屯田兵、永山武四郎将軍の像。 永山神社境内に立つ。


⑦ 特に当時の永山村(今は旭川市内)の開拓に貢献し、村名は彼の名に由来する。 永山神社の守護神になっている。



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4 コメント

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北海道開拓の祖 (西恋おじん)
2009-05-27 21:45:41
岩村通俊さんも永山武四郎さんも北海道開拓
の祖として多大な功績を残された方々なのですね。私も以前、吉永小百合さんの「北の百年」
という映画を見ましたが、アイヌとの折り合い
など折衝が大変だったことでしょう。最後は
神にまでなられたのですね。今では誰がやっても難しいでしょうが、当時としては大変なこと
だったのでしょう。
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将功成りて万骨枯る (ブラック・ジュッキ)
2009-05-28 07:00:09
岩村は高知のどん詰まりの宿毛の出身の土佐藩士で、奥州を転戦したとあるが、長州は残酷な会津藩懲罰で悪名を残し、薩摩は西郷の寛大な処置で薩摩藩邸に放火した庄内藩を厳しく罰しなかった。この土佐の藩士はどちらについて戦いどこをどんな風に転戦して旭川に辿り着いたのだろうか。奥羽の戦闘の勝利者として北海道に辿り着き、北海道開拓の監督になったというが、所詮は新政府の殖民行政の執行者の域から出なかったのではないか。永山は薩摩藩の出身と言うのは今はじめてわかったが、最後は神に祭り上げられていたのも今はじめて知った。藩士の四男がたかだか開拓の功績のゆえに神に祭り上げられるものだろうか。異様な出世に聞こえるが、それは永山が救世主のような有難い働きをしたからだろうか。たとえそうだったしても、それが人を神格化する理由になるのだろうか。地域の偉人ではなく、なぜ神としなければ成らなかったのか、なぜ永山が神になって岩村がそうでないのか。他にも薩摩長州土佐から北海道になだれ込んだ藩士たちは沢山いたのに彼らは何をしていたのか。北海道を舞台とした権力闘争の実態はあまりよく知られていない。郷土史にはよくわからない事が一杯である。必ず何か裏があるに違いないといつも勘繰っている私である。
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★ 西恋おじん さんへ (まりあ)
2009-05-28 12:25:06
海岸から開けてますから、北海道は明治初期は函館、札幌、根室の3県で、上川は未開拓で札幌県上川郡だったそうです。
M19年に北海道庁が置かれ、上川郡に初めて旭川、神居、永山の3村が開かれたのがM23年だそうです。

その映画は「北の零年」ではないでしょうか。

とにかく北海道は、他の都府県に比して特異で、「外地」というのもサモアリナンですね。(笑)
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★ ブラック・ジュッキ さんへ (まりあ)
2009-05-28 12:58:06
あはは・・
BJさんらしく勘繰り論展開ですね~。
私は詳細情報、裏情報、持ち合わせていなく、万人に公開されている情報と、手持ちの開基100年記念誌「目で見る旭川の歩み」だけで淡々とブログ記事構成です。(笑)
上川全域というのではなく、永山武四郎と永山村(永山神社)とは、そういう関係だったのではないでしょうか。
推量ですが、永山神社にしても日本の神社組織としてのご神体なるものは別にあるのでしょう。
ご神体と守護神、どう同じでどう違うのでしょう?!
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