もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

150215 衆参両院の「テロ非難決議」を非難する!「テロの本質」を真面目に語る政治家はいないのか!

 真面目に「テロの本質」を考えれば、その原因が、決して宗教の違いにあるのではなく、世界的に広がる富の偏在、極端な格差拡大、差別構造の継承、及びパレスチナ問題、それらによる<若者たちの絶望>にあることは、実は誰もがわかっていることだろう! それを「世界には凶悪なテロリストが大勢いて、こいつらを叩き潰せばテロが無くなる」なんて話に無理やりすり替えている。誰も、「テロの本質が、日本・世界の社会構造が抱える富の偏在・格差の拡大及びパレスチナ問題の<野放し状態>にこそある」という本質を語らないし、見させようとしない。そして、凶悪なテロリストへの恐怖ばかりを煽りたてている。これはまさにオーウェルの「一九八四年」の世界と同じだ。今回の国会の「テロ非難決議」に社民党・共産党まで加わっていたのには、あきれ果てた。「誰も本質を見ようとしない。」「武力で世界中の<絶望した若者たち>を封じ込めるべきではないし、不可能だ!」

秋原葉月さん「Afternoon Cafe」ブログから

※(1)「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」byヘルマン・ゲーリング ※(2)いつの時代も大衆をファシズムに煽動する手口は同じ。なのに同じ手口に何度も騙されるのは過去に学んでいないから。格差を広げ、セイフティネットを破壊し、冷徹な自己責任論が横行する社会を継続させるのは簡単だ。今よりもっと格差を広げ、セイフティネットを破壊する政策をとればよい。そうすれば人々に自己責任論がもっと浸透し、草の根から勝手に右傾化してくれる。

辺見庸さんのブログから

・権力をあまりに人格的にとらえるのはどうかとおもう。口にするのもおぞましいドブの目をしたあの男を、ヒステリックに名指しでののしれば、反権力的そぶりになるとかんがえるのは、ドブの目をしたあの男とあまり変わらない、低い知性のあらわれである。権力の空間は、じつのところ、非人格的なのだ。だからてごわい。中心はドブの目をしたあの男=安倍晋三であるかにみえて、そうではない。ドブの目をしたあの男はひとつの(倒錯的な)社会心理学的な表象ではありえても、それを斃せば事態が革命的に変化するようなシロモノではない。権力には固定的な中心はなく、かくじつに「われわれ」をふくむ周縁があるだけだ。ドブの目をしたあの男は、陋劣な知性とふるまいで「われわれ」をいらだたせ、怒らせるとともに、「われわれ」をして社会心理学的に(かれを)蔑視せしめ、またそのことにより、「われわれ」が「われわれ」であることに無意識に満足もさせているのかもしれない。ところで、「われわれ」の内面には、濃淡の差こそあれ、ドブの目をしたあの男の貧寒とした影が棲んでいるのだ。戦争は、むろん、そう遠くない。そう切実にかんじられるかどうか。いざ戦争がはじまったら、反戦運動が愛国運動化する公算が大である。そう切実に予感できるかどうか。研ぎすまされた感性がいる。せむしの侏儒との「ふるいつきあい」がベンヤミンのなにかを決定した。そう直観できたアレントほどするどくはなくても、研ぎすまされた感性がいる。けふコビトがきた。ミスドにいった。(2015/11/11)

150201 後藤さん殺害では終わらない! 米国と安倍政権が踏み込む泥沼の対イスラム国戦争(リテラ)

2015年02月01日 18時15分38秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
2月1日(日):

 テレビでは、もう亡くなった後藤さんの神聖視・神聖化が始まっている。一方で、イスラム国の凶悪さ、理屈の通じない、どうしょうもない奴らだという見方が繰り返し強調されて、安倍晋三の不始末はもみ消され、政府も良くやったのだが、「今の時代日本もうかうかしてられんようになってきた」とすり替えが進められている。後藤さんの親族が、世間をお騒がせしたことをわびる声明を出されたのは、なんとも気の毒で、息苦しい社会・時代を象徴するシーンである。今後、政府は後藤さんの死を利用して、テロとの戦争に乗り出していくのだろうか。集団的自衛権の関連法案にも利用されるのだろうか。テレビのニュース・報道を見れば見るほど、話は拡散・攪乱されて、大切なことが見えなくなる。相対化されて、何も考えられなくさせられていく。

※いつもブログの左に掲載してますが、改めて秋原葉月「Afternoon Cafe」様から引用させて頂きます。

(1)「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」 byヘルマン・ゲーリング

(2)いつの時代も大衆をファシズムに煽動する手口は同じ。 なのに同じ手口に何度も騙されるのは過去に学んでいないから。 格差を広げ、セイフティネットを破壊し、冷徹な自己責任論が横行する社会を継続させるのは簡単だ。今よりもっと格差を広げ、セイフティネットを破壊する政策をとればよい。そうすれば人々に自己責任論がもっと浸透し、草の根から勝手に右傾化してくれる



後藤さん殺害では終わらない! 米国と安倍政権が踏み込む泥沼の対イスラム国戦争  2015.02.01. リテラ

 とうとう後藤健二氏が殺害されたと見られる映像が公開された。言語道断の残忍な所業であり、イスラム国への非難の声を上げることは当然の事だ。しかし、本サイトで何度も指摘してきたように、事態は同時に、安倍晋三首相が進める「積極的平和主義」とそのための「集団的自衛権行使解禁」による対米軍事追従路線の拡大が招いた結果でもある。

「テロリストが悪い」のは当たり前で、その無法者からどうやって国と国民を守るかに腐心するのがリーダーの役目だが、世界を単純構造でしか把握できない安倍首相は真逆のことをやってしまった。

 しかも、安倍首相は「テロリストに罪をつぐなわせる」と話し、この事件を機にさらに強硬路線を進めようとしている。いったいその結果、何が起きるのか。そのことがよくわかるのが、現代イスラム研究センター理事長・宮田律氏が書いた『アメリカはイスラム国に勝てない』(PHP新書)だ。


〈米軍の軍事行動は、さらなる暴力の“増殖”をもたらす〉(同書帯より)、〈米国の「対テロ戦争」はイスラム世界の「パンドラの箱」を開けてしまった感があるが、米国にはその蓋を閉じるための有効な方策がまったくない状態だ〉(同書「はじめに」より)。このことを理解せず、アメリカの尻尾に乗って、(今回の安倍ように)ノコノコ中東に出ていくことがいかに危険なことかを、我々日本人は知る必要がある。

 まず、最初に認識しておかなければならないのが「イスラム国」の“製造物責任”はアメリカにあるということだ。「イスラム国」の前身にあたるISISの創始者はヨルダン出身のアブ・ムサブ・ザルカウィという人物で、1989年当時、ソ連のアフガニスタン侵攻に抵抗するイスラム義勇兵としてオサマ・ビン・ラディン指揮下のゲリラ訓練所だった「アル・カイーダ」(アルカイダ)に入り、テロリスト人生をスタートさせた。アルカイダはいまでは世界的な反米テロ組織としてその名が知れ渡っているが、もとは米CIAがアメリカの対ソ戦略上の必要からパキスタンの諜報機関ISIを使ってつくらせたものだ。

 1980年代を通じてアメリカが武器、弾薬、資金、軍事訓練などの支援を受け続けたことで、アルカイダは9.11テロを起こすほどの“化け物”に育ってしまった。前出のザルカウィはアルカイダでの活動を通じてテロリストとしての経験を積み、先鋭化していった。いま問題とされるイスラム過激派組織の“生みの親”“育ての親”は、実はアメリカだったというわけだ。

 やがてザルカウィはイラク入りして、ISISの前身に当たる「イラクの聖戦アルカイダ」を結成する。このきっかけをつくったのもアメリカだった。2003年のイラク侵攻とサダム・フセイン殺害だ。当時の米ブッシュ政権は「サダム・フセインが大量破壊兵器を所持していて、それが明日にもアルカイダ系テロリスト(ザルカウィのこと)に渡ろうとしている」などと主張し、開戦に踏み切った。ところが、「大量破壊兵器を持っている」という情報も、「フセインがザルカウィとつながっている」という情報も完全な捏造だったことが、後に米上院情報特別委員会の調査によって明らかになる。とくに、後者はイスラエルの諜報機関モサドから米CIAにもたらされた“偽情報”だったことはよく覚えておいてほしい。

いずれにせよ、開戦前のイラクにはアルカイダもしくはアルカイダの影響を受けた組織が活動していた事実はなかった。話はむしろ逆で、アメリカの軍事介入とサダム・フセイン体制の崩壊によって生じた権力の空白に、ザルカウィらテロリストが入り込んでしまったというのが真相なのだ。そして、その後の米軍による占領政策とポストフセインとして登場したアメリカの傀儡マリキ政権の腐敗が、さらなる過激派武装組織の増長を生んでしまう。

 アメリカはイラク占領後、脱フセイン政策を徹底的に推し進めた。サダム・フセインがイスラム教スンニ派だったことから、シーア派をひいきにして革命に近い状態をもたらした。フセイン時代の支配政党だったバアス党は米軍統治によってことごとく排除され、政府機関の職員や学校の教員など数十万人のスンニ派市民が解雇された。200あった国営企業も解体されて外国資本に売り飛ばされた。ここでも大量の失業と不満を生んだ。

 この傾向はアメリカの指名で誕生したシーア派・マリキ政権になってさらに拍車がかかる。バアス党の高官たちは裁判にかけられ、罪を自白されられ、処刑されたり、自宅軟禁に置かれたりした。バアス党出身者がいるというだけで部族全体が公職から追放され、失業や貧困に陥った。旧政権幹部を放逐したマリキ政権の行政能力は驚くほど低かった。その上、露骨なシーア派優遇を行ったため、スンニ派地域では失業率が高まり、とくに若者たちが強い不満を募らせた。治安維持にあたった軍や警察も主にシーア派によって構成されていたため、スンニ派住民を不当に扱い、恣意的な逮捕、拷問、投獄が行われた。

 こうしたなか、前出のザルカウィ率いる「イラクの聖戦アルカイダ」はフセイン政権時代の行政テクノクラートや軍の解体で職を失った人たちを吸収していった。フセイン時代の諜報機関「イラク共和国防衛隊」の将兵やフセインの民兵組織「フェダイーン」も加わった。ザルカウィらはシーア派を“異端”と考える傾向があり、シーア派に対するテロを拡大させた。スンニ派部族の一部がザルカウィの支持に回り、過激派武装組織はしだいに「国家」としての体裁を整えていった。これが「イスラム国」の始まりだ。確実に言えるのは、アメリカのイラク侵攻がなかったら「イスラム国」の誕生もなかったということだ。

〈「イスラム国」がイラク北部を席巻したとき、スンニ派住民の多くは、彼らはマリキ前政権の圧政からの“解放者”だと考えた。(中略)「イスラム国」とスンニ派住民たちには、イラク中央政府は“共通の敵”であった〉(前掲書より)

 06年にザルカウィが米軍の空爆で殺された後も組織は着実に「領土」を広げていった。殺害されたザルカウィの後を継いだのが、バグダッドの大学でイスラムの博士号をとったインテリ知識人のアブー・バクル・バグダディだ。11年のアラブの春を経て隣国シリアの内戦が泥沼化すると、バグダディはすかさず部下をシリアに派遣し、アサド政権に対する超過激テロに参戦した。やがて、アルカイダ系と袂を分かってISIS(イラクとシリアのイスラム国)と名乗り始めた。14年になると支配地域を急拡大させ、ついには「国家樹立」を宣言するまでになる。このきっかけは、またもやアメリカの大きな“判断ミス”だった。

米オバマ政権は14年6月に「イスラム国」と戦う“穏健な武装勢力”を支援するため5億ドルの資金提供を決めた。“穏健な武装勢力”とは、具体的にはシリアの反政府勢力「自由シリア軍」のことだ。アメリカはこれまでもシリアのアサド政権打倒のため、反政府勢力に武器、弾薬、資金を与えて支援してきた。ところが、その豊富な資金と武器の一部がなんと「イスラム国」にも流れていたのだ。ルートはいろいろあって、武器の供与を受けていた組織が丸ごと「イスラム国」に吸収されてしまったり、戦利品として奪われたり、あるいはイラクのシーア派主体の政府軍から米国製武器がブラックマーケットに流れることもあったという。アメリカがアテにしていた「自由シリア軍」の兵士たちも腐敗していて、貰った兵器を「イスラム国」に売却して現金を手にする者も続出した。

 要は、内戦下のイラク、シリアはぐちゃぐちゃで、“穏健な武装勢力”といっても、いつどっちに寝返るかわからない連中ばかりなのだ。「イスラム国」の手先もいれば、アルカイダにつながるテロリストも紛れ込んでいる。そんなところへアメリカは大量の武器・弾薬を投入し、結果として「イスラム国」の軍事力強化に手を貸してしまったわけだ。

 実は、アメリカはこれと同じ過ちを何度も何度も繰り返していた。

 なぜ、こんなことが続くのか。米オバマ政権はもともとアフガニスタン、イラクへと米軍の海外展開を進めたブッシュ前政権を徹底批判し、「イラク戦争にけじめをつける」と宣言してホワイトハウス入りしたはずだ。就任から3年かけてようやくイラクからの撤兵にこぎつけ、アフガニスタンからの引き上げも数年中には完了する予定となった。これが計画通り実行されると当然、米政府の国防予算が削られ、軍産複合体の利権が毀損される。困ったことにアメリカには、これを全力をあげて阻止しようとする勢力が存在しているのである。

 米議会は15年度の軍事予算とし586億ドルを承認する予定だったが、これは14年度予算から200億ドル余りの減額になる。しかし「イスラム国」の台頭で国防費の増額が検討され、米軍需産業に再び“好況”が訪れつつあるという。米政府がシリア空爆を開始した3日後にはレイセオン社が47基の巡航ミサイル(2億5000億ドル相当)を受注した。ボーイング社が製造するアパッチヘリがバグダッド郊外に新たに配備されることになり、このヘリにはロッキード・マーティン社製のヘルファイア・ミサイルが搭載されているといった具合だ。こうして軍需産業の生産ラインが動き出せばブルーワーカーたちの新たな雇用も創出される。アメリカの経済はいまや戦争なしでは成り立たないようになっている。

 03年のアメリカのイラク侵攻で最大の利益をあげたのは、チェイニー元副大統領がCEO(経営最高責任者)を務めていたハリバートン社だったといわれている。同社はおよそ400億ドルの巨利をイラク戦争でむさぼったという。米軍需産業はいまや世界の武器市場の75%を占めていて、中東はその最大マーケットになっている。これこそがアメリカが外国での軍事介入をやめられない実は本当の理由なのだと、前掲書の著者、宮田氏は指摘している。

 安倍政権は、そんなアメリカの戦争に集団的自衛権を使って加担しようとしているのだ。

もうひとつ、知っておかなければならないのがアメリカとイスラエルの特殊な関係だ。米上院は14年7月8日、イスラエルがガザ攻撃を始めた10日後に全会一致でイスラエル支持決議を成立させた。決議には「ハマスのイスラエル攻撃はいわれのないもの」であり、「アメリカはイスラエルとその国民を守り、イスラエル国家の生存を保障する」とあった。イスラエルのガザ攻撃は国際法を踏みにじる行為であり、イスラム諸国はいうまでもなく、ヨーロッパ各地で大規模な抗議デモが起きている。パレスチナ人2000人以上が犠牲となり、500人余りの子どもも殺された。そんな虐殺行為が満場一致で支持されたのだ。

 この“虐殺支持”の背景には、イスラエル・ロビー(圧力団体)の活動があった。アメリカの議員の多くはイスラエル・ロビーから多額の政治献金を受け取っている。イスラエル・ロビーはアメリカ社会のあらゆる分野の重要なポジションを押さえているため、彼らの活動を批判すると政治家としての地位を脅かされたり、選挙に当選することができなくなったりする。それがアメリカの中東政策を著しく偏ったものにしている、と前出の宮田氏は言う。

 イランの核開発を問題にするアメリカは、同じ中東に位置するイスラエルの核兵器についてはまったく問題にしていない。アラブ諸国に対してはNPT(核不拡散条約)に加盟することをしきりに促しているが、イスラエルにはそうした姿勢は微塵もみせない。パレスチナ人が何人殺されようと、おかまいなしだ。それどころか、全会一致で殺害行為を支持してしまう。「イスラム国」に参加する若者たちには、そんなアメリカの“不正義”に対する憤懣があるにちがいない、と宮田氏は分析する。イスラエル・ロビーの圧力を受けた米政府の“不公正”な中東政策が、結果として「イスラム国」やアルカイダなどの過激派組織の台頭をもたらし、彼らの主張や活動に正当性を与えてしまっているというのである。

 それだけではない。アメリカはイスラエルの意向を受け、イスラエルにとって不倶戴天の敵であるイランに執拗な圧力をかけ続けてきた。その延長でイランとつながりの深いシリアのアサド政権も敵視し、一時は空爆による軍事介入さえしそうになった。このときも、アサド政権が化学兵器を使っているという、これまた真偽不明の情報に踊らされた。

 アメリカにとってのジレンマは、アサド政権が弱体化すると「イスラム国」の勢力が拡大してしまうことだ。そこで、やむなく「イスラム国」と敵対しながら、アサド政権打倒も掲げる“穏健な武装勢力”である「自由シリア軍」を支援するという作戦をとらざるを得ない。だが、これは支離滅裂な話である。なぜなら、作戦がうまくいってシリア国内で「イスラム国」が弱体化すると、今度はアサド政権が息を吹き返すことになるからだ。しかし、打倒アサド政権のためにアメリカが「イスラム国」を支援するわけにはいかない。本来なら、イランと和解・協力して、対「イスラム国」作戦を進めるべきだが、イスラエルやアメリカ国内の右派、ネオコンの反対もあってそれもなかなか容易でない。

こうした複雑怪奇な中東世界へその地理も歴史もろくに勉強せず、世界を東西冷戦時代と同じ構図でしか認識できない安倍首相がノコノコ出かけて行って、何の想像力も覚悟もないまま、有志連合の端くれに名を連ねたいばかりに「イスラム国」と敵対する国々への援助を約束しただけでなく、こともあろうにイスラエルにまで急接近し、イスラエル国旗の前で「テロには屈しない」とやってしまったわけである。

 しかも、安倍政権はイスラエルとの軍事協力まで約束してしまっている。14年5月にイスラエルのネタニヤフ首相が来日した際、「新たな包括的パートナーシップの構築に関する共同声明」という文書が交わされ、日本の国家安全保障局とイスラエルの国家安全保障会議、防衛当局同士の交流、企業や研究機関による共同の研究・開発が進められることになった。その中には兵器開発についての技術交流も含まれていた。こうして安倍政権は国民の知らないところで日本の伝統的な「アラブ寄り」という中東政策の基調を捨てて「イスラエル寄り」に転換し、あろうことか武器のやりとりを協力し合うところまで踏み込んでしまったのだ。

 安倍首相の言う「積極的平和主義」とは、要するに「対米軍事追従」なのだ。アメリカと同じようにイスラエルとも仲良くして、アメリカの敵とは一緒に戦う。それが日本と日本人にどういう影響を与えるかにつてはまるで想像力が働いていない。この状況で集団的自衛権行使が解禁されるとどうなるか。安倍政権はしきりに「東アジアにおける緊張の高まり」を口にするが、『日本人は人を殺しに行くのか 戦場からの集団的自衛権入門』(朝日新書)の伊勢崎賢治氏も、『国家の暴走 安倍政権の世論操作術』(角川oneテーマ21)の古賀茂明氏も、現実的に考えて東アジアでの有事はまずあり得ないと分析している。では、何のための集団的自衛権かというと、それは中東での米軍の仕事の一部肩代わりをさせられるのが可能性としてはもっとも高いと口をそろえる。

 そうなると、日本はいよいよアメリカ・イスラエルの傀儡でイスラム世界の“敵”と位置付けられることになり、今回のような人質事件や過激派による国内テロはもちろん、あらゆる危険を覚悟しなければならなくなる。しかもそれは出口の見えない泥沼だ。アメリカのブッシュ政権が「対テロ戦争」を宣言して今年で14年目になるが、テロ組織はなくなるどころか数も規模も拡大し、アメリカ市民は日常的にテロに怯える生活を強いられている。

 安倍政権が続く限り、日本も同じ道をたどることになる。今回の人質事件は、その入口に過ぎないのだ。
(野尻民夫)

150201 後藤さん処刑見殺しの確信犯は安倍晋三だ!内堀(憲法)の前に外堀(国際的信用)が破壊された!

2015年02月01日 17時27分03秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
2月1日(日):

 安倍の望み通り、日本は準国家的規模のテロ組織と戦後初めて戦争状態に入った。これは、日本国民の判断では全くない。安倍晋三たった一人だけの軽率な言動・判断で始まった事態だ。国際社会での日本人の安全は大きく毀損・喪失された。計り知れない国益が失われたのだ。安倍晋三は、即刻責任を取って辞任すべきだ。これ以上、こんな大馬鹿者を野放しにしておけない。

  映像の冒頭には、「日本政府宛てのメッセージ」との文字が表示され、黒い服の男が英語で、安倍首相宛てに、「お前がこの戦争に参加するという愚かな決心をした。これから日本の悪夢が始まる」などと話している。(FNNニュース)

“日本政府へのメッセージ” :
 日本政府は邪悪な有志連合に参加した/愚かな同盟国と同じように「イスラム国」の力と権威を /理解できなかった /我々の軍はお前たちの血に飢えている /安倍総理大臣よ 勝てない戦争に参加した /向こう見ずな決断によって このナイフは /後藤健二を殺すだけでなく /今後もあなたの国民はどこにいても殺されることになる /日本の悪夢が始まる
(pm4:30追加掲載)

「安倍晋三首相は1日午前6時40分ごろ、イスラム過激派組織「イスラム国」(IS)とみられる犯行グループが後藤健二さん(47)を殺害したとする動画が配信されたことについて「政府として全力で対応してきたが、誠に痛恨の極みだ。非道、卑劣きわまりないテロに強い怒りを覚える」と述べ、犯行グループに強い非難を表明した。さらに「テロリストたちを決して許さない。罪を償わせるために国際社会と連携する。日本がテロに屈することは決してない」と訴えた。(毎日新聞)」

 後藤健二氏がイスラム国によって殺された。しかし、何度でも確認するが、「最大の原因を作ったのは、安倍晋三自身だ。」「二人の死の引き金を引いたのは安倍晋三だ。」安倍が軽率にも(確信犯か)イスラエルの旗の前で、イスラム国を敵視し、日本がイスラエルに2億ドル(約240億円)を供与することを国際社会に発表して、イスラム国を挑発したことが直接の原因である。しかも、当時政府は湯川氏、後藤氏がイスラム国によって拉致・誘拐され、人質となっている事実を知っていた。知りながら行われたイスラム国敵視、イスラエル2億ドル支援発表だった。原油を依存する中東諸国との関係に留意して、歴代の自民党政権がイスラエルとの外交関係に一定の距離を置いてきた事実も全く踏まえることなく行われた行為でもあった。二人の死は安倍晋三が招いた必然的な帰結である。

 起こるべくして起こった事件の発生後、安倍晋三は「緊張感をもって対処する」というお題目を繰り返していたが、傍から見ていても国民の人命を救うことに対する熱意と工夫が感じられなかった。官邸の演技的な頑張ってるシーンは見せられたが、首相・閣僚に思い切った手段を取ってでも助け出すんだという熱意も工夫も感じられなかった。さらに、後藤健二さんに対して一部で起こった不当な「自己責任論」を抑えようとする様子も無く、後藤さんの母親との面会も拒絶した。「御心配でしょうが、政府として精一杯の努力をしてますから」とどうしてひと声かけてあげられなかったのか。

 この一事に、安倍晋三政権の本質が象徴的に表れている。
ちょうど民主党野田汚物首相が、国会周辺に集まった原発再稼働に反対する賢明な国民・市民の声に「大きな音だね」と言ったことで正体を現したように。面会を求める後藤さんの母を拒絶した安倍の姿勢は、ちょうど声なき形で現れた野田の「大きな音だね」と一緒だ。この男には、国民の命を守るという政治の原点が決定的に欠けているのだ。

←テロ事件を引き起こした張本人! 「積極的平和主義」をはき違え、自分のやったことが何も理解できていない大馬鹿者! 「自己責任」をとれ!湯川さんと後藤さんと全国民に謝罪しろ!

 
 イスラム国に対して「罪を償わせる」という一見強いマッチョな言葉からは、今回の悲劇が安倍自身の国際社会での軽率な言動からもたらされたことへの反省は全く見られない。ということは、この男は、日本国総理大臣という立場で、日本国民の税金を使って、これからも大名行列を繰り返して、同様の過ちをやり続けるのだ。原因に対する反省が無いのだから、また同じような犠牲者が出続けることになる。日本人が、日本人であることを理由に敵と目され、安心して海外旅行をできない時代がはじめて到来するのだ。その大きな大きな喪失の意味を多くの日本人は自覚できていない。メディア・マスコミはファシズムに同調して責任を放棄している。安倍晋三はこれからも、今回のように国民の命を軽視しながら、日本国総理大臣として無責任で軽率な言動をを国際社会で繰り返していく。

 一方、戦後70年、営々と日本人が築き上げてきた平和国家という信用・ブランドは、現在の平和憲法だけではなく、その憲法を歴代の自民党政府&野党と国民・市民が一緒になってみんなで精一杯活かす努力を積み重ね続けてきた結果として築かれてきた国際的信用だったのだ。憲法を<戦後70年の平和国家日本>の「内堀」とするならば、その憲法を活かす努力の積み重ねによって営々と築かれてきた国際的信用は「外堀」である。今回の悲劇に対して、自己の責任を自覚するつもりがない確信犯の安倍は、今後急速にシロアリのように日本の国際的信用という「外堀」を食い潰していくことだろう。

憲法が直接攻撃を受けていない時も、この男はどんどん日本国民・市民を<行き戻り不能な場所>へと追い込んでいるのだ。そうだ!我々は今まさにファシズム体制へと絡め取られ、追い詰められているのだ。

150201 日本のマスメディアの死:安倍晋三の「積極的平和主義」は「従米軍国主義」である。(森田実)

2015年02月01日 17時18分29秒 | <憲法の危機>は「戦後最大の危機」
2月1日(日):

 何故、日本のマスメディアはこれ程までに機能停止状態に陥ったのだろう。安倍晋三自民党・公明党政権の政治が間違っていることは、誰の目にも明らかだ。国民・市民の間に不信と憎悪の感情を植え込み、弱いものをいじめ、1%とも言われるごくごく一部の人間たちを肥え太らせる政治が正しいわけがない。戦争することの愚かさを教えるのでなく、忘れさせるのに躍起となり、国民の偏狭なナショナリズムを政府・国家を挙げて煽りたてている。日本国民である沖縄の人々が全島民一丸となって反対している普天間米軍基地の辺野古移設を日本国家の権力で暴力的に強行している。国民の多くが国土・故郷の喪失の恐怖に怯え震えて反対している原発の再稼働を強行しようとしている。一体何のために、誰のために政治と政治家は存在するのか。わからない。こんなことは、小学生でも指摘して批判できるだろう。


 特に読売新聞、産経新聞、NHK、文藝春秋、新潮社、小学館、創価学会に尋ねたい。そこの記者や編集者、職員、学会員一人一人に尋ねたい。「何のために、誰のために存在してるのですか?」「何のために、誰のために働いてるのですか?」ほんとうにわからないのですよ。

 安倍晋三を見ていると、国民・市民を全く信用していない。むしろ敵視・支配しようという意志(思考回路)だけが強く感じられる。この男が、国民の幸せの実現を願い、行動しているとは到底思えない。政治家として根本的な欠落を抱えている。結局、「141211 内田樹:対米従属を自己目的化した歴史修正主義者たちが私的利益にはしる恥ずかしい国、日本(2014年12月11日 23時53分40秒 | 考える資料)」の通りなのかと思う。

 自民党の議員たちは独裁政治を支え、第二自民・第三自民の民主党と維新の党、そして党利優先で国民を見捨てる共産党が対決を避けて、間接的に安倍のファシズム政治を支え続けているのだ。期せずして、大政翼賛会ができあがっている。国内的にも、国際的にも、この大切な祖国“日本”が壊されていくのを手を拱いて見ているのは耐え難い苦痛だ。

※当り前な内容の老政治評論家の発言を見かけたので転載しておく。

「安倍首相は国を滅ぼす方へ動いているように見えます:森田実氏」http://sun.ap.teacup.com/souun/16513.html2015/1/31 晴耕雨読 https://twitter.com/minorumorita
安倍首相は、どうしてそんなに急いで強引に国民のためにならない無理なことをしようとするのか?
農協改革、郵政株式上場、沖縄辺野古工事、自衛隊海外派兵、安保法制整備…衆院選で公約した景気回復のメドも立たないのに二兎を追うどころか四兎も五兎も追いかけています。
どうかしていると思いませんか
「迷う者は道を問わず」(荀子)
安倍首相を観察していると、何かに急かされて急ぎに急いでいるように見えます。
しかも、ひとりよがりです。
上記の荀子の言葉は、「亡国の君主はひとりよがりで、賢者に道を問わないから国を滅ぼす、道理のわからない者こそ賢者に教えを請うべきだ」これが荀子の教えです
安倍首相は国を滅ぼす方へ動いているように見えます。
農協改革は明らかに急ぎすぎです。
慌ててやるべきことではありません。
安倍首相が無理をしているように見えます。
米国政府に何か言われているのでしょうか?
安倍首相は反省すべきです。
安倍首相はあまりにも急ぎすぎためでしょうか、安倍首相にはいろいろよくないことが起きています。
政治は国民のものです。
内閣総理大臣が慌てて政治を行ってはならないのです。
慌てれば、必ず悪いことが起きます。
反省すべきです。
安倍首相よ、もう少し落ち着いてください。
安倍首相の「積極的平和主義」は真の平和主義ではありません。
従米軍国主義の本質を隠すために「積極的」という言葉を使っているのです。
安倍首相は詭弁が得意です。
マスコミは安倍首相の二枚舌を批判しません。
いまのマスコミには厳しい批判精神が欠けています。
いま日本国民がなすべきは反平和・軍国主義、格差拡大の新自由主義、従米主義・強権政治の安倍極右政治の暴走を止めることです。
日本国民は安倍首相の「積極的平和主義」というごまかしの言葉に騙されてはなりません
「平和は人類最高の理想である」(ゲーテ)
「誠実に勝れる知恵なし」(ディズレーリ)
安倍首相は世界に向かって真実の平和を語るべきです。
日本が平和主義を貫くことを真面目にアピールすべきです。
世界のジャーナリズムは、安倍首相の不誠実な言動に疑問を感じ始めています
安倍首相が毎日のように語っている「積極的平和主義」は日本国憲法第9条の平和主義とは違います。
日本国憲法第9条の平和主義は非武装平和主義です。
平和外交によって平和を守り、維持し、そのことによって国民の平和な生活を守る、ということです。
しかし、安倍首相の「積極的平和主義」は、武力で自国の安全を守ろうという主張です。
これは、日本国憲法とは異質のねじ曲がった考え方です。
安倍首相は憲法改正をしようとしていますが、これは第9条を否定するためです。
安倍首相の武力によって自国の安全を守るという考え方の根にあるのは従米軍国主義です。
アメリカと一緒になって日本の自衛隊が戦争を行えるようにするという計画です。
私たちは目を覚まさなければならないと思います。
安倍首相の言動はくるくる変わっています。
日本のマスコミは安倍首相に甘すぎます。
「甘すぎる」というより、恐れているように見えます。
政治家もマスコミも官僚も経済界も、皆、安倍首相を恐れ、批判しなくなっています。
安倍首相と側近の報復を恐れているようです。
みんなが弱い人間になってしまったのでしょうか。
指導者らしい指導者はいなくなったのでしょうか。
批判する者がいない社会は危険です。
安倍首相の言う「積極的平和主義」は真の平和主義ではありません。
「従米軍国主義」を「積極的平和主義」と名づけているのです。
これは詭弁です。
マスコミは安倍首相の詭弁を批判すべきです。
政治家は誠実でなければなりません。
平和の理想を失ってはなりません。

150201 内田樹師匠の謦咳に接する:神奈川新聞「時代の正体〈57〉わたしたちの国はいま(1)~(3)」

2015年02月01日 17時09分08秒 | 考える資料
2月1日(日):

時代の正体〈57〉わたしたちの国はいま(1) 思想家・内田樹さんに聞く 「よみがえる死者たち」2015.01.30 11:30:00

内田樹さん

 私たちの国はいま「滅びる」方向に向かっている-。2015年が明けた1月1日、思想家の内田樹さんはブログにそうつづった。先の大戦の終結から70年、戦後民主主義が揺らぎ、経済成長の先行きに限界が見える中、日本はいま破局へ向かう途上のどの地点にいるのだろうか。


 いま、世界的な現象として同時多発的に排外主義が跋扈(ばっこ)している。興味深いのは、ドイツ、フランス、日本という「敗戦の総括をうまくできていない国」において、それが顕著だということです。死者が死に切っていないせいで、「生煮えの死者」がよみがえっている現象のように私には見えます。

 例えばフランスは、イスラム過激派によるテロは自分たちの「自由、平等、博愛」という民主主義の原理への攻撃だとしていますが、その言い分にはいささか無理があると思います。

 フランスは戦勝国のような顔をして戦後世界に登場しましたが、事実上は敗戦国です。対独講和後成立したヴィシー政府は「自由、平等、博愛」の原理を一度捨て、「労働、家族、祖国」を掲げて、ナチスの後方支援をし、国内ではユダヤ人狩りをし、共産主義者やレジスタンス運動を弾圧しました。

 でも、フランスはそうした過去を戦後きちんと総括していません。シャルル・ドゴール率いる自由フランスとレジスタンスが最終的にドイツ軍を敗走させたことをもって「フランスが勝利した」という物語を作り出した。そして、ヴィシー政府の官僚たちの多くは訴追されることもなく戦後フランス社会のエリート層を形成しました。

 この「敗戦の否認」ゆえに、フランス人は自分たちが民主的な手続きを経て、自らの選択でファシスト政権を成立させたという歴史的事実に向き合うことをしていません。自分たちの国の政治文化のうちにそのような排外的・暴力的な要素が内在していることを認めない。

 しかし、そうやって抑圧された政治的幻想は幽霊のように繰り返しよみがえってくる。それが「生煮えの死者」です。昨年6月の欧州議会選挙で、極右の国民戦線が第1党に躍進しましたが、別に前代未聞のことが起きたわけではありません。抑圧されていた過去がよみがえってきたのです。

 ■語らぬ戦犯

 ドイツも事情は似ています。ドイツは戦争責任のすべてをナチスに押しつけて、ドイツ国民を免罪しようとした。

 事実、ナチスに反対したドイツ人はたくさんいましたし、ヒトラー暗殺計画も繰り返し企てられました。だから、ドイツ国民とナチスは「別物」であり、戦争責任・敗戦責任はあげてナチスという一政党にあるという物語は戦後のドイツ人たちにとっては説得力を持つものでした。そうやって国民は部分的に戦争責任を解除された。

 ドイツの歴代大統領は欧州各地を訪れるたびにナチスの犯罪を謝罪していますが、それはかつてドイツを強権的に支配していた独裁者の罪についての謝罪なのか、そのような独裁者を歓呼の声で迎えたドイツ国民の罪についての謝罪なのか、必ずしもはっきりとはしていません。

 しかし、自己欺瞞(ぎまん)はいずれ破綻をきたします。フランスではアルジェリア戦争以来、反イスラムの政治的潮流は絶えたことがありません。ドイツもネオナチには厳罰で臨みますが、その一方でトルコ系移民は構造的に排斥されている。イタリアでもネオファシストの運動は戦後一貫して社会的影響力を失ったことがありません。

 では、日本における敗戦の総括はどうだったか。戦争責任を追及した東京裁判は日本人自身によるものではありません。戦犯の指名も、罪状も、量刑も連合国軍総司令部(GHQ)の占領政策に沿う形で行われました。最終的に何人かがみせしめ的に処刑され、占領政策に利用できそうな人間は釈放されて政治家として戦後の「対米従属」戦略を担いました。「本当は何があったのか」についての調査は早々と打ち切られました。

 戦犯たちの誰一人「戦争目的は何で、どのように戦争計画を立案し、どのように戦い、どのように敗れたのか」を戦争主体の立場から語ることができなかったからです。だから、私たちはいまだにあの戦争がなぜ始まったのか、本当はそのとき何があったのかを知らないままなのです。知らないまま一応つじつまのあった「敗戦についての物語」を採用して、それを信じているふりをしている。

 ■物語の破綻

 日本を含めた敗戦国は、戦争と敗戦について、それぞれに物語を作りました。その作話に際して、恥ずべき事実や、受け入れがたい事実は隠蔽(いんぺい)されました。仕方がないといえば仕方がない。そのような事実に向き合うだけの精神力も体力も敗戦国民には望むべくもないからです。

 戦後しばらくはどの国でもそういう物語は一定期間有効でした。でも、短期間に無理やり作った話ですから、いずれボロが出る。それが戦後70年たって噴出してきた。私はそう見立てています。

 1980年代からの歴史修正主義や移民排斥や極右政党の進出や反イスラムは、この敗戦のときに作った物語の破綻として理解できます。敗戦の「物語」にうまく収まり切らないものが物語の隙間からしみ出している。「ガス室はなかった」とか「南京虐殺はなかった」といった主張をなす歴史修正主義者を駆り立てているのは、実は「忘れたことにしている話」がもたらす破壊への恐怖です。物語に収まりきらない歴史的事実が明かされることがどれほどの破壊力を持つかを彼らは実は知っているのです。

 日本の戦争責任については東京裁判とサンフランシスコ講和条約でもう話は済んでいると言う人たちがいます。日韓条約を結び、日中共同声明も発表した。いまさら古い話を蒸し返すなと。しかし、戦争については「本当のところはどうだったのか」という問いがある程度時間がたつと、再び提出されてくることは避けがたいのです。国際法上戦後処理は済んだと言い張っても、そのときに不都合なことを隠蔽するために使った「物語」の賞味期限が切れてしまうと、塗り固めたはずの傷口からまた血膿(ちうみ)が噴き出してくる。

 加害の事実は忘れやすいが、被害の事実は忘れられない。「僕らは忘れたから、君らも忘れてくれ」というロジックは通らない。「君たちは忘れてもいいけれど、僕らは忘れないよ」と加害の事実を記憶し続けるという構えでなければ隣国との和解は成立しないでしょう。

 これから私たちはどうすればいいのか。日本人が敗戦のときに作った「物語」を一度「かっこに入れて」、あらためて「本当は何があったのか」という問いを冷静に中立的に主題化すべきだと私は思います。私たちはいわば弔われなかった死者たちの上に家を建てて住んでいます。だから、死者たちは繰り返し化けて出る。気の重い仕事ですけれど、私たちは家の床下から腐乱死体を掘り出して、彼らの死の経緯をもう一度語り直し、そして再び荼毘(だび)に付して魂の安らぎを願うしかないのです。


内田樹(うちだ・たつる) 神戸女学院大名誉教授、武道家、多田塾甲南合気会師範。神戸市で武道と哲学研究のための学塾「凱風館」を主宰。専門はフランス現代思想、武道論、教育論など。主著に「ためらいの倫理学」「街場の戦争論」「日本辺境論」など。

【神奈川新聞】

時代の正体〈58〉わたしたちの国はいま(2) 思想家・内田樹さんに聞く 「民主主義とカネの相性」2015.01.31 09:26:00

 いま、「わが国は滅びる方へ向かっている」と口にしても、むきになって反論する人はそういません。ビジネスマンだって、もう経済成長がないことは分かっています。

 一時だけ投資家たちがあぶく銭を求めて集まるカジノ資本主義的な事態はどこかの国でまだ何度か起こるでしょうけれど、しょせんはバブルです。歴史過程としての資本主義はもう末期段階を迎えている。そのことは口では経済成長を唱えている人だって分かっているはずです。

 にもかかわらず、惰性に任せて「右肩上がり」の成長モデルに合わせて社会制度は改変され続けています。

 教育、医療、地方自治、どれも経済成長モデルに最適化したかたちへの改変が強力に進められている。資本主義の仕組み自体、賞味期限が切れて終わりかけているのに、事態がさっぱり好転しないのは「いまのシステムが成長に特化したかたちになっていないからだ」「市場原理の導入が足りないからだ」と解釈する人たちが、終わりつつあるシステムに最適化するという自殺的な制度改革を進めている。

 教育がそうです。学校教育法の改正で、大学は一気に株式会社化されました。教授会民主主義が事実上廃絶され、権限が学長に集中する仕組みになった。

 株式会社のようにトップダウンで組織が運営され、経営の適否は単年度ごとに数値的に開示される。志願者数、偏差値、就職率、科研採択数、論文提出数、英語による授業時数、外国人教員数といった数値で大学が格付けされ、教育資源が傾斜配分される。営利企業と同じロジックです。

 しかし、その結果、いま国公立大学全体の空洞化が急速に進行しています。すでに東大からも高名な教授たちが逃げ出している。当然だと思います。予算は削られ、労働負荷は増え、権限は縮小されたあげくに「さらなる改革努力を」と言われても、もう「笛吹けど」足が動きません。四半世紀休みなく続いた制度改革に教員たちはほとほと疲れ切っている。この後、日本の国公立大学の研究教育機関としての質は低下するばかりでしょう。

 国内の大学の質の低下が進めば、国内での学歴では「使いものにならない」ということになる。当然、エリートを目指す人々は海外での学歴を求めるようになる。すでに富裕層は中等教育段階から子どもを海外の寄宿制インターナショナルスクールに送り出しています。その経済的負担に耐えられる富裕層にしかキャリアパスが開かれないのです。

 医療も同じです。医療は商品であり、患者は消費者だという市場原理を導入したせいで医療崩壊が起きました。

 どこでも超富裕層が最後に求めるのはアンチエイジング、不老不死です。そのためには天文学的な金額を投じることを惜しまない。それなら医療者は医療資源を超富裕層の若返りと延命のためだけに集中させた方が、きつくて安い保険医療に従事するより合理的です。経済格差がそのまま受けられる医療の格差に反映してしまう。米国では金持ちは最高級の医療を受けられ、保険医療や無保険者はレベルの低い医療に甘んじなければならなくなっている。


■株式会社精神


 米国のように所得上位1%に国民所得の20%が集中するという格差拡大の流れは市場に委ねている限り、日本でも止まることはないでしょう。

 そもそも株式会社は民主主義とは無縁のものです。

 経営者が判断したことに従業員はあらがうことができない。当然にも、従業員の過半の同意を得なければ経営方針が決まらないというような企業はありません。すぐつぶれてしまう。従業員も経営判断の適否を判断する責任があるとは思っていない。経営判断の適否はすべてマーケットが判断してくれるからです。マーケットはビジネスにとっての最終審級です。だから、経営判断が民主的であろうと非民主的であろうと、そんなことはマーケットの決定には何も関与しません。

 株式会社は右肩上がりを前提にしていますが、しかし、江戸時代までの日本では現状維持、定常再生産が社会の基本でした。

 近代化を遂げた後も、久しく農村人口の5割を超えていた。農林水産業は自然が本来持つ生産力を維持するものです。自然は右肩上がりに無限にその生産力を上げるということがありません。何よりも生産力の持続可能性が重要だった。100年後の孫の世代のために木を植えるといった植物的な時間の流れに沿って、社会制度も設計されていた。そのような風儀は1950年代まで残っていました。

 しかし60、70年代の高度成長期に農村人口が都市に移動し、サラリーマンが支配的な労働形態になりました。今の日本では株式会社のサラリーマンが標準的な人間ですから、「株式会社従業員マインド」で国家の問題も眺めるようになった。それはつまり植物的なゆったりとした時間の流れの中にはいないということです。四半期ごとの売り上げや収益に一喜一憂し、右肩上がり以外の生き方はありえないという思い込みが国民的に共有されている。

 だから、もう成長はないという事実を突きつけられても、それを信じることができない。別のプランが立てられない。とりあえず昨日まで続けてきたことをさらに強化したかたちで明日も続ける。原発を再稼働し、リニア新幹線を造り、カジノを造りといったことをまた繰り返そうとしています。

 もちろんそんなことをしても成長はない。それは学校が悪い、自治体が悪い、ついには民主主義が悪いというふうに責任転嫁される。それが現状です。


■歴史的転換点


 振り返れば、関西電力大飯原発の再稼働は歴史的な瞬間でした。あのとき経済の論理に国民国家が屈服した。国土の保全と国民の健康かグローバル企業の収益増大かという二者択一で後者を選んだのです。

 再稼働を要求した財界の言い分はこうでした。原発を止めたせいで電力価格が上がり、製造コストが上がり、国際競争力が落ちた。再稼働を認めないのなら生産拠点を海外に移す。そうなれば国内の雇用は失われ、地域経済は崩壊し、法人税収も減る。それでいいのか、と。この脅しに野田佳彦政権は屈した。

 しかし、グローバル企業はもはや厳密には日本の企業とはいえません。株主の多くは海外の機関投資家、CEO(最高経営責任者)も従業員も外国人、生産拠点も海外という企業がどうして「日本の企業」を名乗って、国民国家からの支援を要求できるのか。

 もう一度原発事故が起きたら、どうなるでしょう。彼らは自分たちの要請で再稼働させたのだから、除染のコストは負担しますと言うでしょうか。雇用確保と地域振興のため、日本に踏みとどまると言うでしょうか。そんなことは絶対ありえない。あっという間に日本を見捨てて海外へ移転してしまうでしょう。

 利益だけは取るけれど、責任は取らない。コストはできる限り外部化するというのが「有限責任」体である株式会社のロジックです。

 民主主義とグローバル資本主義は相性が悪い。民主主義と金もうけは残念ながら両立しません。そして昨年の総選挙の争点は、実は「民主主義とカネのどちらがいい?」という問いだったのです。その問いに日本の有権者がどう答えたのかはご存じの通りです。

【神奈川新聞】

時代の正体〈59〉わたしたちの国はいま(3) 思想家・内田樹さんに聞く 「国家の運営は無限責任」2015.02.01 12:30:00

 3・11をきっかけにこの国は変わると思っていました。市場原理に任せて経済成長を目指すのは無理だと気づき、相互扶助の精神に基づいた、もう少し手触りが温かく、暮らしやすい世の中になっていくだろうと思っていました。メディアでもそういう論調が多かったように思います。

 「絆」というのも決して薄っぺらな修辞ではなく、同胞は困っているときには助け合わなければいけないという「常識」がよみがえったように思いました。でも、震災半年後くらいから、そういう気分が拭い去るように消えて、「やっぱり金がなければ話にならない。経済成長しかない」という話にまた舞い戻ってしまった。

 国土が汚染され、半永久的に居住不能になるかもしれないという国民的危機に遭遇したにもかかわらず、またぞろ懲りずに原発再稼働の話が持ち出されてきました。理由は「電力コストの削減」、それだけです。国民は「命の話」をしているときに、政府は「金の話」をしている。この危機感の希薄さに私は愕然(がくぜん)とします。

 株式会社というのは18世紀の英国に発祥したまだ歴史の浅い制度です。その特徴は「有限責任」ということです。株式会社はどんな経営の失敗をしても、それが引き受ける最大の責任は「倒産」です。株券が紙くずになって出資者は丸損をしますが、それ以上の責任を社員(株主)は問われることがありません。

 もう一つの特徴は「コストの外部化」ということです。金もうけに特化した仕組みですから、できるだけコストは「誰か」に押し付ける。原発を稼働させて製造コストをカットし、新幹線や高速道路を造って流通コストをカットし、公害規制を緩和させて環境保護コストをカットし、賃金を抑制して人件費コストをカットし、「即戦力」を大学に要請して人材育成コストをカットする。コストを最小化し、利益を最大化するのが株式会社の仕組みです。

 東京電力がまさにそうです。福島第1原発で国土に深い傷を与え、10万人を超える人々が故郷に帰れない状態をつくり出しながら、誰一人刑事訴追されていない。日本国民は国土を汚染され、汚染された国土を除染するコストを税によって負担するというかたちで二重に東電の「尻拭い」を強いられています。

 しかし、有限責任の組織体というのは、実際にはほとんど存在しません。米大統領だったジョージ・W・ブッシュがそうだったように、国家を株式会社のように経営したいと公言する政治家がいますが、彼らは国家は無限責任だということを忘れている。国家の犯す失政は「じゃあ、倒産します」では済まない。侵略戦争で他国民の恨みを買い、揚げ句に敗戦で国土を失うというような失政をした場合、その「ツケ」を国民は半永久的に払い続けなければならない。

 沖縄が米軍基地で埋め尽くされているのも、北方領土が返還されないのも、中国や韓国から謝罪要求が終わらないのも、70年前の失政の負債が「完済されていない」と他国の人々が思っているからです。彼らが「敗戦の負債は完済された。もう日本には何も要求しない」と言ってくれるまで何十年、何世紀かかるかわからない。人間の世界は普通そうなのです。株式会社の方が例外的なのです。

  ■株式会社化

 株式会社の仕組みを国家運営に適用できると主張している人たちが依拠しているのは「トリクルダウン理論」です。新自由主義者の言う「選択と集中」です。経済活動をしている中で一番「勝てそうなセクター(分野)」にある限りの国民資源を集中させる。そこが国際競争を勝ち抜いて、シェアを取って、大きな収益を上げたら、そこからの余沢が周りに「滴り落ちる(トリクルダウン)」という考え方です。韓国は「勝つ」ためにヒュンダイ、サムスン、LGといった国際競争力のある企業に資源を集中させて、農林水産業や教育や福祉のための資源を削りました。競争力のないセクターは「欲しがりません勝つまでは」という忍耐を要求された。

 中国のトウ小平の先富論も同じものです。沿海部に資本と技術と労働者を集中させ、経済拠点を造りました。稼げるところがまず稼ぐ。その余沢が内陸部の貧しい地域にやがて及んでゆく。だから、今豊かな人間にさらに国富を集中することが、最終的に全員が豊かになるための最短の道なのだ、と。その結果が現在の中国の格差社会です。

 安倍政権の政治もその流れに沿ったものです。安倍晋三自身は凡庸な政治家であり、特に際立った政治的見識があるわけではない。けれども、「すでに権力を持っている人間に権力を集中させる。すでに金を持っている人間に金を集中させる」という新自由主義的な経済理論と資質的に大変「なじみのいい」人物だった。合意形成も対話もしない。トップダウンで物事を決める。政策の適否は「次の選挙の当落」で決まるので、選挙に勝てば完全な信認を得たと見なしてよい。これはすべて株式会社のCEO(最高経営責任者)の考え方です。それがビジネスマンたちに選好されたのです。

  ■消えた議論

 組織は一枚岩であるべきで、トップの指示に組織は整然と従うべきだというのは、いつのまにか日本の常識になってしまったようです。岡田克也氏が新代表に選ばれた民主党代表選の翌日のある新聞の社説ではこう書かれています。代表が決まった以上は党全体で岡田氏を盛り上げろと。党内でさまざまな議論があった以上、「議論をより深めて合意形成の道を探るべきだ」とは書かれていません。代表が決まった以上、そこに権限を集中させて、トップダウンに従うべきであり、そもそも民主党の支持率低下は党内の意見がまとまらなかったせいだ、と。

 そんなことがいつから常識になったのか。自民党はかつて田中角栄と福田赳夫が「角福戦争」と呼ばれる15年に及ぶ党内闘争を展開してきました。日本政党史上「戦争」という名がついた党内闘争はこれだけしかありません。けれども、そのとき党内に意思一致がないことを否として、「自民党は一丸となれ」と説いたメディアがあることを私は記憶していません。むしろ党内派閥抗争が疑似的政権交代であったがゆえに自民党は長期政権を維持できたのだという話になっている。

 党内の「戦争」はよいことで、党内不一致は悪いことだというメディアのダブルスタンダードを私はとがめたい。それはいつのまにか「政党もまた株式会社のような組織であるべきだ」という信憑(しんぴょう)を社説の書き手であるジャーナリスト自身が内面化してしまったということを意味しているからです。

 市民レベルから対話と議論を積み上げて手作りした民主主義は日本にはありません。残念ながら、民主主義は連合国軍総司令部(GHQ)に与えられたものです。だからもろいのだと私は思います。身銭を切って守らなければ民主主義は簡単に崩壊する。

 今、日本の諸制度から民主主義的なものが次第に放逐されつつあります。株式会社的な政治は一見すると効率的で、経済活動には有利なもののように見えます。けれども、繰り返し言いますが、株式会社は有限責任体であり、国民国家は無限責任体です。失政のツケは国民が何世代にもわたって払い続けなければならない。だから、すべての国民が、まだ生まれていない国民も含めて、国政の決定事項について「それは私の意思だ」という気持ちになれなくてはならない。

 独裁政治の最大の欠陥は、独裁者が劇的な失政をした場合に、国民たちの誰一人その責任を取る気になれないということです。国として行った政策選択について「それは一独裁者のしたことであり、われわれ国民は関与していない」という言い訳が国内的には通じてしまう。これは国際的には通りません。そして、国民国家の失政は無限責任であるにもかかわらず、それを受け入れる国民主体が存在しないということになる。

 国民主体というのは、先行世代の失敗をわがこととして引き受ける、あるいは同時代において自らは反対票を投じていても、合法的に選ばれた総理大臣がなしたことについては有責感を覚えるもののことです。しかし、独裁制では国民主体が立ち上がらない。

 民主主義というのは効率的に物事を進めるための仕組みではありません。失敗したときに全員が自分の責任と受け止め、自分の責任の割り当てについては何とかしよう、と気持ちが向かうようになる仕組みのことなのです。

【神奈川新聞】


ついでに「内田樹の研究室」より:
2015.01.01
2015年の年頭予言
あけましておめでとうございます。
年末には「十大ニュース」、年頭には「今年の予測」をすることにしている(ような気がする)。ときどき忘れているかもしれないが、今年はやります。
今年の日本はどうなるのか。
「いいこと」はたぶん何も起こらない。
「悪いこと」はたくさん起こる。
だから、私たちが願うべきは、「悪いこと」がもたらす災禍を最少化することである。
平田オリザさんから大晦日に届いたメールにこう書いてあった。
「私は大学の卒業生たちには、『日本は滅びつつあるが、今回の滅びに関しては、できる限り他国に迷惑をかけずに滅んで欲しい』と毎年伝えています。来年一年が、少しでも豊かな後退戦になるように祈るばかりです。」
これから私たちが長期にわたる後退戦を戦うことになるという見通しを私は平田さんはじめ多くの友人たちと共有している。
私たちの国はいま「滅びる」方向に向かっている。
国が滅びることまでは望んでいないが、国民資源を個人資産に付け替えることに夢中な人たちが国政の決定機構に蟠踞している以上、彼らがこのまま国を支配し続ける以上、この先わが国が「栄える」可能性はない。
多くの国民がそれを拱手傍観しているのは、彼らもまた無意識のうちに「こんな国、一度滅びてしまえばいい」と思っているからである。
私はどちらに対しても同意しない。
国破れて山河あり。
統治システムが瓦解しようと、経済恐慌が来ようと、通貨が暴落しようと、天変地異やパンデミックに襲われようと、「国破れて」も、山河さえ残っていれば、私たちは国を再興することができる。
私たちたちがいますべき最優先の仕事は「日本の山河」を守ることである。
私が「山河」というときには指しているのは海洋や土壌や大気や森林や河川のような自然環境のことだけではない。
日本の言語、学術、宗教、技芸、文学、芸能、商習慣、生活文化、さらに具体的には治安のよさや上下水道や交通や通信の安定的な運転やクラフトマンシップや接客サービスや・・・そういったものも含まれる。
日本語の語彙や音韻から、「当たり前のように定時に電車が来る」ことまで含めて、私たち日本人の身体のうちに内面化した文化資源と制度資本の全体を含めて私は「山河」と呼んでいる。
外形的なものが崩れ去っても、「山河」さえ残っていれば、国は生き延びることができる。
山河が失われれば、統治システムや経済システムだけが瓦礫の中に存続しても、そんなものには何の意味もない。
今私たちの国は滅びのプロセスをしだいに加速しながら転がり落ちている。
滅びを加速しようとしている人たちがこの国の「エリート」であり、その人たちの導きによってとにかく「何かが大きく変わるかもしれない」と期待して、あまり気のない喝采を送っている人たちがこの国の「大衆」である。
上から下までが、あるものは意識的に、あるものは無意識的に、あるものは積極的に、あるものは勢いに負けて、「滅びる」ことを願っている。
そうである以上、蟷螂の斧を以てはこの趨勢は止められない。
自分の手元にあって「守れる限りの山河」を守る。
それがこれからの「後退戦」で私たちがまずしなければならないことである。
それが「できることのすべて」だとは思わない。
統治機構や経済界の要路にも「目先の権力や威信や財貨よりも百年先の『民の安寧』」を優先的に配慮しなければならないと考えている人が少しはいるだろう。
彼らがつよい危機感をもって動いてくれれば、この「後退戦」を別の流れに転轍を切り替えることはあるいは可能かも知れない。
けれども、今の日本のプロモーションシステムは「イエスマンしか出世できない」仕組みになっているから、現在の統治機構やビジネスのトップに「長期にわたる後退戦を戦う覚悟」のある人間が残っている可能性は限りなくゼロに近い。
だから、期待しない方がいい。
とりあえず私は期待しない。
この後退戦に「起死回生」や「捲土重来」の秘策はない。
私たちにできるとりあえず最良のことは、「滅びる速度」を緩和させることだけである。
多くの人たちは「加速」を望んでいる。
それが「いいこと」なのか「悪いこと」なのかはどうでもいいのだ。早く今のプロセスの最終結果を見たいのである。
その結果を見て、「ダメ」だとわかったら、「リセット」してまた「リプレイ」できると思っているのである。
でも、今のような調子ではリセットも、リプレイもできないだろう。
リプレイのためには、その上に立つべき「足場」が要る。
その足場のことを私は「山河」と呼んでいるのである。
せめて、「ゲームオーバー」の後にも、「リプレイ」できるだけのものを残しておきたい。
それが今年の願いである。

150329 タガ外せば歯止め失う 長谷部恭男・早稲田大学教授/「未来志向」は現実逃避 杉田敦・法政大学教授

 杉田 先日ドイツのメルケル首相が来日しました。戦後ドイツも様々な問題を抱えていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。「建前」がソフトパワーにつながることを安倍さんたちは理解しているのでしょうか。  / /長谷部 そもそも談話が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念が絡まる記憶の問題です。記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくら詰めても、決着はつかない。厳密な歴史のレベルで、仮に日本側が中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと政治的な判断をした。それが河野談話です。  / /杉田 談話の方向性や近隣との外交について「未来志向」という言い方がよくされますが、意図はどうあれ、それが過去の軽視という「見かけ」をもってしまえば、負の効果は計り知れない。安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれません。しかし政治の存在意義は様々な制約を踏まえつつ、何とか解を見いだしていくところにあります。政治的な閉塞(へいそく)感が強まる中で、自らに課せられているタガを外そうという動きが出てくる。しかし、それで万事うまくいくというのは、一種の現実逃避では。  / /長谷部 合理的な自己拘束という概念が吹っ飛んでしまっている印象です。縛られることによってより力を発揮できることがある。俳句は5・7・5と型が決まっているからこそ発想力が鍛えられる。しかし安倍さんたちは選挙に勝った自分たちは何にも縛られない、「建前」も法律も憲法解釈もすべて操作できると考えているようです。  / /杉田 俳句は好きな字数でよめばいいのだと。  / /長谷部 あらゆるタガをはずせば、短期的には楽になるかもしれません。しかし、次に政権が交代したとき、自分たちが時の政府を踏みとどまらせる歯止めもなくなる。外国の要求を、憲法の拘束があるからと断ることもできない。最後の最後、ここぞという時のよりどころが失われてしまう。その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。 =敬称略(構成・高橋純子)朝日新聞『考論』

0015 オルテガ「大衆の反逆 (桑名一博訳;久野収解説)」(白水社イデー選書;1930)評価5

以下は、オルテガ所論の久野収による抜粋の抜粋である:///  オルテガによれば、政治のなかで「共存」への意志を最強力に表明し、実行していく政治スタイルこそ、自由主義的デモクラシーである。共存は、強い多数者が弱い少数者に喜んで提供する自己主張、他者説得の権利である。敵、それも最も弱い敵とさえ、積極的に共存するという、ゆるがない決意である。/その意味で、人類の自然的傾向に逆行する深いパラドックス(逆説)であるから、共存を決意した人類が、困難に面してこの決意を投げ出すほうへ後退したとしても、それは大きな悲劇ではあっても、大きな不思議とするには当たらない。/「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代、オルテガは、「均質」化された「大衆」人間の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になるのだという。なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからである。略。///  「大衆」人間は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ,無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。そして彼と彼の同類しかいないかのように振舞ってしまう。/彼らは、配慮も、内省も、手続きも、遠慮もなしに、「直接行動」の方式に従って、自分たちの低俗な画一的意見をだれかれの区別なく、押しつけて、しかも押しつけの自覚さえもっていない。/彼らは、未開人―未開人は宗教、タブー、伝統、習慣といった社会的法廷の従順な信者である―ではなく、まさに文明の洗礼を受けた野蛮人である。文明の生み出した余裕、すなわち、贅沢、快適、安全、便益の側面だけの継承者であり、正常な生存の様式から見れば、奇形としかいいようのないライフスタイルを営んでいる新人類である。略。///  「自分がしたいことをするためにこの世に生まれあわせて来た」とする傾向、だから「したいことは何でもできる」とする信仰は、自由主義の自由の裏面、義務と責任を免除してもらう自由にほかならない。/われわれは自由主義の生みだした、この「大衆」人間的自由、自己中心的自由に対し、他者と共存する義務と責任をもった自由を保全しなければならないが、一筋縄でいかないのは、この仕事である。(160626:イギリスEU離脱について思うところ=もみ=)