私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

『ふるさと故事巡礼』第3回 山陽中学校区(西部)

2022-04-16 12:57:16 | 歴史探索
 4月16日(土)    天気:晴れ+薄雲   室温:20.9℃

 FMゲンキのフリーマガジン 2022 ”春号(4~6)” を入手しました。 今回の気まぐ
れ途中下車 地域再発見 『ふるさと故事巡礼』―第3回ーは、山陽中学校区(西部)です。
 地図に描かれているルートは、国道2号線の南、船場川に架かる備前門跡辺りから、南西
に進み、夢前川に架かる才崎橋まで 描かれています。 これは 「室津道」です。 見どこ
ろは、1~17までありますが、地図には、1、2、10は 描かれていません。
 このルートは 2017.12.26に ”姫路の旧街道をあるく 室津道篇①” で歩きました。
      
  
1.伊和里
  伊和族(出雲系)が、宍粟から 現在の手柄、荒川校区へ南進して、飾磨郡伊和里と
  呼ばれました。 この辺りは 古くから開けた地域で、現在でも 条里制の遺構(区画)や
  石ヶ坪、種坪、松ヶ坪、町坪といった条理の存在を示す地名が確認できます。

2.夢前川の流れ
  夢前川は、江戸時代初めまで 現在の横関で 御立のほうへ分岐していましたが、周辺の
  村々や城下の水害を懸念した 榊原忠次により 明暦2年に 一本化事業が行われ、現在の流路に。
     
3.冑山神社
  冑山は 「播磨国風土記」 14丘の一つ 「冑丘」 に比定。 姫路城主 本多政武が 姫路城の
  裏鬼門を守るため、社殿8石を寄進し 創建し、総社の社家が祭祀していた。

4.手柄山
  三和山とも。 「播磨国風土記」の 「手苅丘」 に比定。 手柄山周辺には 縄文・弥生遺跡が、
  山頂に10基程度の古墳が確認されています。 江戸時代には 山麓に 刀鍛冶が居住・作刀した。

5.生矢神社
  飯田、亀山、手柄、栗山 四町の氏神(伊和東郷の鎮守) 「三輪明神」の称もあり、「播磨鑑」には
  神功皇后の三韓出征の際、麻生山から放たれた三本の矢のうちの 一本が この地に落ちたことから
  「行箭社」と称されこともある。 神功皇后は 実在が明らかでないので、創立期の参考にはできない。

6.JR山陽本線
  私鉄 山陽鉄道として 明治21年に 兵庫駅~明石駅間が開業、翌年 竜野駅まで 延伸しました。
  しかし、条里田の区画をベースに形成された町並みや道路を斜めに横切るように軌道が敷かれ・・。

7.旧飾磨港線跡
  飾磨港(飾磨津)は、古来、瀬戸内海水運の拠点の一つでしたが、明治に入ると 生野銀山の鉱石の
  積出港としての役割も付加されました。鉱石の運搬手段としては、生野銀山寮馬車道が運用を開始し
  ますが・・・。 播但鉄道は 明治28年から 飾磨港~生野銀山の運転を開始、昭和61年まで 営業。

8.飯田(いだ)
  安倍晴明と競って敗れ、飾磨に流された陰陽師・芦屋道満の子孫 道善が 施薬のための草を栽培した
  医田(小字「医塚」)を経営し、医田が転じて 飯田になったとのこと。
   
9.高(尊)清水地蔵
  荒川地区は 夢前川の河道付替え後も 伏流水の豊かな地域で、各所に志水が湧き出していたそうです。
  この高(尊)清水も かっては 豊かな湧水で、室津道を行き交かう人々の憩いの場でしたが・・。

10.室津道(室海道)
  姫路城備前門(福中門)と室津をつなぐ道。 西土井から東では 「室津道」と呼ばれ、天満から西では
  「室海道」と呼ばれるとか。 古代からの重要港 室津は、江戸時代に 参勤交代の上陸地点となったほか、
  朝鮮通信使や琉球使節の寄港地にもなりました。

11.町坪構居
  英賀城の支城で、三木氏配下の町坪氏の構。 天正4年 宇和島の武将 西園寺公広が著した
  伊勢参宮記に、公広の弟・宜久が 瀬戸内海を英賀で上陸し、町坪を経て姫路に入った旨の記述あり。

12.室津道の常夜灯
  室津道の脇に建てられていた常夜灯。 元は 町坪西川のほとりにあった。 「金毘羅大権現
  慶応二年 願主為右衛門」とあります。 江戸後期になると 寄港地 室津を目指し 室津道を歩いた。

13.法輪寺
  臨済宗のお寺。 開創は 平安時代で 天台宗寺院であった言われています。 南北朝の頃、
  播磨守護・赤松則祐が 禅寺とし 寺号を宝林寺と改めます。 秀吉が 英賀城攻めの折、
  茶を所望。ところが 白湯しか出さなかったため、「湯沢山 茶くれん寺」の寺号を与えた。

14.荒川神社
  町坪、玉手、岡田、西脇(現西庄)、井ノ口、中地の氏神(伊和西郷の鎮守)。 元は
  手柄山西麓にあった伊和社が 伊和西の郷人によって 町坪に遷されたが、大洪水で流出。
  天文2年 現在地に遷座しますが、戦乱で荒廃し、前出の法輪寺寺地内に再建・・再び・・。

15.付城
  付城とは、①本城とは 別に築いた城(出城)のほか、②攻撃の拠点として 敵城の近くに
  築いた城とという2つの意味があります。 JR英賀保 東方地区にあった付城も、英賀城の
  出城であったという説と、秀吉が 英賀城攻めの際に築いたという二説があるようです。

16.山崎山
  山上に 英賀三木氏配下の山崎惣右衛門の構居がありましたが、秀吉の弟 秀長に攻められ
  落城。 その後は 英賀城攻めの拠点となったようです。

17.山崎の石燈籠
  弘化3年の建立。 「〇金常夜灯」とあります。 山崎は 夢前川の渡しがあり、金毘羅参りの
  旅人が よく利用していました。 四国路に旅のできない人たちは 山崎に 「金毘羅大権現」の
  分霊を祀り、この燈籠に火を入れ 祈願したそうです。

 。。。。。   。。。。。   。。。。。   。。。。。   。。。。。   。。。。。   。。。。。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« イーグレひめじで 第50回 書... | トップ | 林田旧三木家住宅で 河野鉄兜... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史探索」カテゴリの最新記事