私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

姫路の旧街道を歩く 室津道篇①

2017-12-26 13:53:59 | 歴史探索
 12月26日(火)  天気:晴れ 時々 曇り   室温:14.4℃

 きょうは 室津道の一部を歩いて来ました。 入手した ”気まぐれ途中下車 姫路の旧街道を歩く”
を参考に スタート地点の備前門跡から 冑山まで歩きました。 一回で 全ルートを歩くのは 大変な
ので 何回かに分けて歩き その都度 このページに追加します。 ルートの全体は <こちら> を。
 きょうは 電車で 姫路へ行き 駅の観光案内所で 姫路市教育委員会 文化財課 昭和58年 発行
の ”『室津道』をたずねて (広畑区小坂ー福沢町)” をいただき これも参考にします。
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 28日 残っていた 町坪構居跡などを歩き 備前門から 夢前川の才崎橋まで 今回ルートは 完了し
ました。 英賀城跡の周辺は 2014.7.27の官兵衛ゆかりの地めぐりのページから 流用しました。

 10:20 姫路駅を出発し 西二階町商店街を歩いて 備前門跡へ行きます。 ”『室津道』をたず
ねて” では 福沢町は 江戸時代は 福中村で 姫路の郊外だった。 そこに 室津道と書いた古地図
があるので 室津道の発着点を 福沢町としておく とあります。 
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1.備前門(福中門)
 備前門は 姫路城の西の玄関口。 外門と内門で構成される枡形構造のこの門は 西国街道を
介して 備前方面に通じることから この名で 呼ばれました。 (のちに 福中門に改称) 姫路藩にと
って 西国への起点となるこの門は 同時に 室津道への起点でもありました。
 平成29年の発掘調査によって 地下に眠る備前門の石垣が 発掘され 姫路城大天守や 西の丸
が築城された頃の工法が用いられていたことが 判っています。


2.千代田町の常夜灯
 1868年 室津道の出入り口に設けられた常夜灯。 現在は 千代田公園に移されています。
台石に 「あぼし むろつみち」、「慶応四戌辰年夏」 とあります。
 「文化財見学シリーズ 「室津道」 をたずねて」 では 「元は 公園の北の水路のそばにあった」
と紹介されています。


3.千代田町の道標
 室津道脇にある道標ですが 「あぼ志美ち」 とあります。 明治以降 参勤交代の終了や 陸上
交通の発展に伴い 室津が 歴史上の役割を終えた一方で 網干は 依然として 揖保川水運との
中継地として栄え 後には 工業地域として発展しました。 網干を目指した人々にとって この道
は 「網干道」 なのです。


4.冑山神社
 冑山は 播磨国風土記14丘の一つ 「冑丘」 に比定。 姫路城主・本多政武が 姫路城の裏鬼
門を守るため 社領8石を寄進し 創建し 総社の社家が 祭祀していた。 1843年 大火により
焼失・再建、さらに 昭和20年の空爆により 全焼。 現在の社殿は 昭和41年に 再建されたもの。


 JR姫新線の踏切を渡り 西延末公民館の前を南西方向に 室津道を少し歩いてみました。
この辺りから南は 道は ほぼ まっすぐですが 西延末から北は 屈曲が多い。 用水路沿いに
道があったのだろう・・。

5.手柄山
 手柄山の名の由来は 諸説あるようですが 姫路に 移り住んだ渡来人が、 稲を刈るのに鎌を使う
のを知らず、直接手で 稲を刈ったから 「手刈りの村」 といった という説です。 「播磨国風土記」には
「手苅丘」 として 記載されています。  山頂には 三等三角点:手柄山 49.19mがあります。
 旧石器時代から 古墳時代にかけての遺物が 数多く採集され かって 多くの遺跡が存在したことが
うかがえます。
 室町時代には 三輪外記次郎なる人物が 構居(防御施設を備えた館) を構え 江戸時代には 刀
鍛冶が居住し 作刀したそうです。 特に 著名な刀匠は 「手柄山氏繁とのこと。 幕末・維新の戦い
で 奮闘した永倉新八が 愛用した佩刀は この手柄山氏繁の作と 言われている。


6.JR山陽本線
 私鉄 山陽鉄道として 明治21年に 兵庫駅ー明石駅間が 開業。 翌年 竜野駅まで延伸しまし
た。 姫路市とJR西日本との間では 姫路駅ー英賀保駅間(約4.6km) に 新駅を設置する方
向で 合意しており 今後 この地域の姿が 大きく変わる可能性があります。

 
7.高(尊)清水地蔵
 荒川地区は 夢前川の河道付け替え後も 伏流水の豊かな地域で 各所に清水が 湧き出して
いたそうです。 この高(尊)清水も かっては 豊かな湧水でしたが 河川改修による水位の低下
で 今は 枯れてしまっています。



8.町坪構居
 英賀城の支城で 秀吉の英賀城攻め当時の領主は 三木支配下の町坪弾四郎と言われてい
ます。 英賀攻めの緒戦で 落城しましたが 町坪勢が いったん これを 奪還。 しかし 黒田官兵
衛によって 再び攻め落とされ その後は 官兵衛の弟・利高が 守ったとされています。
 27日夜 テレビを見ていると ピエール滝が 姫路城を訪れていました。 番組のなかで 播州
皿屋敷ののことが 話題になり お菊に惚れていたのは 町坪弾四郎と 言っていましたが・・。
 本丸跡の周囲に 堀だったと言われる用水路(公民館の傍)が 残っているほか 150m南西の
堀跡と伝わる場所に 町坪氏を弔ったもの とされる五輪塔塚が 残されています。
 公民館前には お地蔵さんあり その前に 水を湛えた水槽がありますが 水は 湧水ではなく
ポンプで 汲み上げた水だそうです。




9.町坪の常夜灯
 町坪西川(今は暗渠)の川筋を通った室津道に 建てられていた常夜灯。 今は 棚田交差点南の道路脇の
歩道にあります。 「金毘羅大権現 慶応二年(1866)丙虎 願主為右衛門」 とあります。 室津道は
金毘羅参りの庶民が よく利用したそうです。 室津道は 広い県道になっている南から ここで 方向を変えて
町坪の集落の細い道を 東へと進みます。 町坪公民館は 一つ南の道にあります。

10.法輪寺
 臨済宗のお寺。 開創は 平安時代で 天台寺院であったと言われています。 南北朝の頃 播
磨守護・赤松則祐が 妙心寺派の禅寺とし 寺号も 宝林寺と改めます。 嘉吉の乱で 赤松氏が
討たれた後は 英賀・三木氏の崇敬をうけますが 秀吉により 英賀城は 落城。
 その英賀城攻めの折 秀吉の来訪を予期した寺側が 茶釜に茶を たぎらせて待っていたところに
秀吉が立ち寄り 茶を所望。 ところが 平侍のなりであったため 誰も秀吉と判らず 白湯しか出さ
なかったため ”湯沢山 茶くれん寺” の寺号を与えられたという 有名なエピソードがあります。
 境内に 秀吉が 座って お茶を飲んだと言われる 腰掛石があります。  今の腰掛石は 平成
25年に 竜山石で 再現されたものです。  榧(カヤ)の保存樹もあります。


11.荒川神社
 元は 手柄山西麓にあり 1328年に 町坪に遷座するも 1432年の洪水で 流出。 1533年
現在地に遷座しますが 戦乱で荒廃し 前出の法輪寺の寺地内に 再建。 1711年に 再び 現在
地に 遷座されました。 水の神である水波能女神を 奉ずるのは 暴れ川であった夢前川旧流路
の洪水被害を たびたび受けてきたからと 推測されます。



12.付城
 付城とは ①本城とは別に 要所に築いた城。 出城のほか ②攻撃の拠点として 敵城の近くに
築いた城という 二つの意味があります。 JR英賀保 東方地区にあった付城も 英賀城の出城であ
ったという説と 秀吉が 英賀攻めの際に 築いたという二説があるようです。
 付城の堀があったと推測されている場所に お地蔵様が祀られており そばに建つ 「関門西堀之
跡」 という石碑には 付城が 英賀城の一部と 歌う英賀保村歌の一節が 刻まれています。
 付城村は 英賀城の城下の一部と 立ちつとい 関門西堀などいいて 村のほとりに おくゆかし
このお地蔵さんは まけず地蔵というのでしょうか。


13.山崎山
 山上に 英賀三木氏配下の山崎惣右衛門の構居がありましたが 秀吉の弟・秀長の攻められ 落城。
その後は 英賀城攻めの拠点となったそうです。 山上の削平地には 麓にある亀山本徳寺廟所から
登ることができます。 山崎山86mの登ると 城之台の碑があり 英賀保の町が 一望できます。




14.山崎の石灯籠
 1846年 建立。 「(金)常夜灯」 とあります。 山崎は 夢前川の渡しがあり 金毘羅参りの旅人が
よく利用していました。 当時 参詣客を乗せて 大阪と丸亀を往復した金毘羅船があり 人々は 寄
港地の室津を目指していました。 一方で 四国路に 旅のできない人たちは 山崎に 「金毘羅大権現」
の分霊を祀り この灯籠に 火を入れ 祈願したそうです。 元は 12m北西の旧才崎橋東詰にあった。

15.英賀城跡
 戦国期 9代140年にわたり 英賀を治めた三木氏の城。 港湾を備えた海上交通の都市として
さらに 英賀本徳寺を柱とする 一向宗の寺内町として栄えました。
 中浜2丁目辺りに 「城内」 という字があり この辺りに 本丸があったと考えられています。 秀吉
により 解体され 城郭内の形跡は 残されていませんが 中浜1丁目と 2丁目の境の水路が 堀跡と
推定されているほか 英賀神社本殿裏に 土塁が残っています。
 2014.7.27に 官兵衛ゆかりの地めぐり・英賀で 英賀城、英賀神社周辺を歩いたときの
ページ ”英賀本徳寺跡の碑” <こちら> を見てください。

 英賀城は 「岩繋城」 ともいわれ 南は 海、西は 夢前川、東は 水尾川に面し 北は 湿地帯
で 守るのに 大変都合のよい城であった。 鎌倉時代には 砦が 造られていたが 室町時代
になると 播磨の守護大名であった 赤松氏の一族が 守った・・・。
 本丸跡碑の裏に 「中浜地蔵」 があります。 少し探し回って 英賀薬師堂(旧法寿寺跡) へ
行きました。 ここは 英賀城 井ノ上口之跡 といわれ 今でも 土塁の一部が 残っています。
井ノ上口之跡は 英賀城の十城門の一つです。

 奥には 三木家一族の墓所があります。 山崎山に 亀山本徳寺の西山御廟建立のため
同所にあった 初代城主 三木通近らの墓所を ここに 移した。
 右隅には 英賀城の土塁が 一部 残っており 長さ約10m、底幅約10m。 薬師の
北側に 幅約18mの外堀が あったそうで 今ある溝は その名残でしょうか?

 英賀神社は 社記によると 「播磨国風土記」 にある英賀彦神・英賀姫神を祀る 古い神社で 町名
の由来も ここにある。 天満宮は 嘉吉年間に完成したとみられ 境内には 寛文7年(1794) 銘の
手洗鉢や 寛政6年(1794) の狛犬があり 拝殿には 江戸期の絵馬が 多く残っています。 また
明治時代の扁額もあるそうです。 拝殿脇に 「播磨灘物語」 の文学碑があります。 司馬遼太郎は 祖父
の代まで 播州門徒だったそうで 自ら その末裔と名乗っていたそうです。  本殿の北に 土塁が残って
いて 英賀城公園には 野中口之跡の碑があり この辺りが 英賀城の城郭の北端だったようです。 




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