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私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

網干まちなかあるき

2012-03-08 14:35:44 | 日記
 3月 8日(木)  天気:曇り   室温:16.5℃

 週末は 予報がよくないので 山へ行けるかどうか 分かりません。 きょうは 「網干まちなかあるき」
に 行きました。 3月4日の 新聞の折り込み板 「サンサンあさひ3」 Vol.96に ”旧網干町地区 マップ
片手に 歩いてみよう” という 記事があり
 姫路市の西部 揖保川の河口に位置する 網干区は 古くから漁業と海運業が盛んで 江戸時代には
 港町として栄えた。 昭和21年に 姫路市と合併するまで 「網干町」 として独立していた地域は
 国道250号の南側にあたり 古い街並みが残る。
 平成21年2月 旧網干町のほぼ中心に 「あぼしまち交流館」 が オープンした・・・ とあります。

 先日 「歴史教室」 で 北のJR網干駅周辺のことを 学んだばかりなので ちょうど いい機会です。
自転車で 網干の南地域を 散策してきました。 10時頃 家を出て 帰ってきたのは 2時過ぎです。
あちこち走りまわって ちょっと 疲れました。

あぼしまち交流館で もらった 「網干まちなかあるき」のパンフレットによると 
 網干(あぼし)の名の起こりは 「網干町史」に 魚吹八幡神社の由来により 養老四年(720)
 放生会の式日 殺生を禁じ 氏子の漁師は 網を干して 社参したので 網干祭といい
 近郷を 網干と称したことによる とあります。
 記録では 鎌倉時代の文治二年(1186) 源頼朝 書状に 「播磨国網干渡」とあるのが
 初めてといわれます。(角川地名辞典)
 また 縄文・弥生の遺跡や 条里遺構 「播磨国風土記」の「宇須伎津」などから 古く開発の進んだ
 地で 江戸時代には 姫路藩領から 龍野藩領 さらに 丸亀・龍野・幕府領に分かれるなど 複雑な
 様相を示し 古社・古寺も 多く 文化財に富み 網干メロン・トマトの栽培 海苔・牡蠣の養殖など
 農水産業も 盛んな地です。
 このマップ片手に 「網干まちなかあるき」 に いざ 出発!! とあります。

 10時過ぎ 出発。 自転車で 約15分 網干区余子浜にある 交流館に 着きました。 パンフレット
をもらって いざ スタート。 自転車で 走ったルートは 行ったり 来たり 戻ったりしたので 簡単には
説明できません・・。
 最初に お断りしておきますが このページも 写真が多く 文字数が 一万字を越えそうなので 詳しい
説明は できるだけ 省略したいと 思います。 右手の指が 腱鞘炎になりそう・・・。

 山電網干の前から 街中を抜けると 揖保川の土手に出る手前に 船渡八幡神社が あります。 船渡
八幡神社は 神功皇后、応神天皇、玉依姫命が 祭神で 宝暦年間の地史に 神社の名があり 『播磨
国風土記』 には 神功皇后伝説があるそうです。 神功皇后は 風波を静めんと 天神地祇を 祭祀し
この処を 神楽江と伝え 船渡社として 魚吹八幡神社の若宮と称す。
 この辺りには 堀川溝渠があった。 下の方にある丸亀藩の地図に 描かれている水路でしょうか?

 船渡八幡神社の隣が 加藤家住宅で 築150年の大型の町家で 国の重要文化財。 加藤家は
江戸時代には 蔵元で 廻船業を営み 成田屋と称した。 入口が 開いていたので 中を見せてい
ただきましたが 特に 見るものは・・・。
 住居は 加藤家、山本家、中圓尾家の 三軒しか 見ませんでしたが マップには 片岡家、水井家・・
など 多くの住居が 描かれています。 むかし 豪邸が 軒を並べていた街並みの雰囲気は あります。
 テレビ番組 『百年名家』も 好きで かかさず 見ていますが 住居には 現在も 生活されている家も
多く 建物内部を 見ることができないのが 残念です。

 船渡八幡神社の南が 「あぼしまち交流館」です。 ひっそりしているので お休みかと思いました。
交流館で 「網干まちなかあるき」のマップをもらい まず 丸亀藩陣屋跡へ行きます。 川の土手を
本町橋の袂へ行き 東へ降りると 陣屋跡。 龍野藩主・京極家が 丸亀に移封された後も 興浜、
浜田は 京極家に属し 興浜に 丸亀陣屋を設置。 郡奉行が在勤していた。 今は 興浜の資料館
になっています。


 鶴立山大覚寺へ行きました。 浄土宗 西山禅林寺派の大覚寺は 前身は 隆禅上人が 天福元
年(1233)に 創立した光接院で もとは真言宗として 余子浜にあったが 兵火で焼失し 弘治二
年(1556) 堯淳上人が この地に移して 再興した。 このとき 鶴立山大覚寺と称し 浄土宗に改
められた。 当寺の中興と称せられる 智淳上人は 時の後陽成天皇の帰依をうけ 豊臣秀吉が 訪
れるなど 寺運大いに栄えた。 江戸時代には 高い格式を誇り 盛時には 六つの塔頭があり・・・。
今でも 広い境内に 11の伽藍(建物)があります。 裏の墓地には 赤松五輪塔があるらしい。
≪追記≫
 『播州の花神』によると 誠塾を開設した河野東馬の兄・河野鉄兜は 江戸から帰り 嘉永三年 網
干の古刹・大覚寺の実津院に於いて 塾を開き 子弟の教育に当たった とあります。


 興浜商店街へ戻り 山本家住居を見ました。 主屋は 明治初期 洋館は 大正期の建物で 一部
3階建ての木造建築。 望楼風の塔が異彩を放つ とありますが 非公開で 内部を見ることはでき
ません。 山本家は 網干銀行の頭取や 網干町長を務めた?
 北側が 金刀比羅神社で 銅板葺の屋根の緑青が 周りの景色に溶け込み いい雰囲気です。
ここに 讃岐?金刀比羅神社が あるのは 丸亀藩・京極一族と縁がある? 大国主命=大黒天が
祭られているとか・・。

 あぼし一番街を通って 旧網干銀行本店へ。 北の橋本町商店街にありました。 大正10年に
設立された網干銀行は レンガ造り銅板葺の洋風建築で 今は 洋品店です。 北には 網干橋が
あり 網干川を眺めることができます。 商店街の南に 中圓尾家住居があったのですが・・。

 少し南の離れた所にある ダイセル異人館へ行きました。 ダイセルの前身 日本セルロイドの
工場が 明治42年 この地に建設されたとき イギリス人らを招き 翌年 一角に 居宅として 洋風
住宅が 建設された。 そのうち二棟が 現存しており 緑壁の建物が 資料館で 赤い屋根の建物
は 会社の迎賓館。 様式は 19世紀末の アメリカのコロニアルスタイル? 公開されている筈で
すが 扉が閉まっています。 窓から 中を撮りましたが 内部の照明は 点いています。

 地図を見ると さっき通った 一番街の角が 中圓尾家住居。 表札を見ると 中圓尾善左衛門
とありました。 南の「網干神社」の石標に 総代 中圓尾善左衛門 とあったのです。
 南にある網干神社に お参りしました。 せっかく 網干に来たら 網干神社に お参りしないと?
網干神社の縁起が 書かれていますが 明治のもので 風化して 読むことができません・・。 
それはそうと この辺りの神社に 土俵があるのは なぜでしょう? 網干六ヶ村では 夏祭りに
子どもの奉納相撲が行われる? そういえば 土俵は ちょっと 小さいような・・。

 西へ戻ると 善慶寺があったので 門から 中を覗くと 鐘楼と本堂が見えます。 ここも 大覚寺と
同じ 浄土宗西山禅林寺派のお寺でした。 善慶寺は 明応元年(1492) 勧空善慶上人の開基と
伝えられ 八世山空和尚を 中興開基とする。 本堂は 18世紀前半の様式で 入母屋造り 本瓦葺。
向拝一間で 簡素な造り。 江戸時代の浄土宗本堂の形を残しています。 表門は 切妻造り 本瓦
葺の四足門で 明治15年の建立。 残念ながら 表門の写真が ありません・・。
 網干地区には 神社仏閣が多く マップにあるだけでも 40寺34社 あります。

 あぼし一番街の角に 境橋がありました。 南から見ないと 分かり難い。 万治元年(1658)から
明治維新まで 興浜地区は 丸亀藩(京極家)の所領 新在家地区は 龍野藩(脇坂家)の所領に分割
されていました。 この石橋は 両藩の境界堀割に 架けらていたので 境橋と呼ばれていた。 昔は
ここに 通用門が設けられ 朝夕 時刻を定めて 門が 開閉されていた・・。

 本町橋を渡って 浜田の街を抜け 木材港道路の交差点の角に出ると カトリック教会・マリア幼
稚園があります。 以前 浜田に住んでいたことがあり 上の娘は マリア幼稚園に 行き ませんで
した。 前のゴルフ練習場へ行ったことがあり この辺りは 大変 懐かしい・・。

 龍門寺に着きました。 天徳山・龍門寺は 臨済宗妙心寺派のお寺で 開山の盤珪永琢は 地元
浜田の出身で 厳しい修行を重ねた後に 「不生禅」を 説いた 江戸時代初期の禅僧。 寛文11年
(1671) に 妙心寺の住持となる。 当寺は 盤珪国師の根本道場で 丸亀藩主・京極高豊と 地元
網干の豪商・灘屋(佐々木家)の三兄弟の援助により 寛文元年に 創建された。 主要伽藍は 江戸
時代初期から中期の建物で 創建当時の様子を 今に 伝えている。 
 門を入って 右にある 不動明王を祀る不動堂は 境内では 唯一の二層建築で 貞享三年の建立。
池に浮かぶ 辯天堂の 奥にあるのが 開山堂で 盤珪国師は 72歳で亡くなられ 霊骨が納められ
ている。

≪余談≫ 網干まちなかあるき とは 関係ないのですが 11日の新聞の 「声」 の 欄に 臨済宗
 妙心寺派は 教団として 「原子力発電に依存しない社会の実現」 という 宣言文を出すと 決めま
 した・・という記事が 載っていました。 「知足(足を知る)を実践し 持続可能な共生社会を 作る
 ために 努力することを ここに 決意」 と 述べられています。   檀家に 脱原発の署名を お願い
 した そうです。
門を入った 正面の奥にあるのは 庫裡。 屋根の上には かまどの煙?抜くための 小さい屋根があ
り まるで 京都の天竜寺の庫裡のような建物です。 庫裡の左は 食堂で 大方丈とつながっている。

 門の右には 鐘楼。 袴腰付き入母屋造りで 元禄五年(1691)の建立。 梵鐘は 寛政元年(17
89)の鋳造。 音色が 甚だ良く 「網干浜田の龍門寺の鐘は 一里聞こえて 二里ひびく」 の俗謡が
ある。 正面が 大方丈ですが 塀があり 入れません。 大方丈は 龍門寺の本堂に当たる建物で
現在の建物は 安永元年(1772) に 再建されたものです。 禅寺なので 簡素な建物ですが 中に
は 狩野派の優れた襖絵が 43面あるそうです。(姫路市指定重要文化財)

 下の案内図のように 龍門寺の境内には 多くの伽藍がありますが 以下は 割愛させていただきま
す。 網干地区に 大覚寺や 龍門寺のような 大きなお寺があるのは 京極家や 多くの豪商の援助
があったからでしょうか? 大覚寺で お会いした人は 大覚寺と 龍門寺は つながりがあると・・・。
門を出ると 道路脇の梅が 満開で 桜と 見間違えそうです。
 龍門寺の西には 中川橋があり 向こうには タキロンが見えます。 もう お昼過ぎで しみけんさん
が この前 行かれた ”カフェmarica” へ行こうかとも 思いましたが きょうは 網干散策なので 姫
路を越えて行くのは 止めました。 実は 走りまわって 疲れて 行く元気も なかったのす。


 国道の手前まで 引き返すと ラーメン屋があったので 寄りました。 味噌ラーメン(450円)が
できるのを 待ちながら マップを見ると 近くに 「誠塾」 があるので 行くことに。 稲香村舎・誠塾
は 網干の勤皇の志士・河野東馬が 長州軍に参加して 蛤御門の戦いに敗れ 出石藩に 囚われ
の身となり 免責後 慶応四年(1868) に開設。 門弟約500名を 育成し 優秀な人材が育った。
昭和23年には この地に 網干農学塾が 開設され・・。

 帰りは 少し北風もあり 重たい自転車を 必死に漕いで 帰りました。 南の網干地区には 意外
と 多くの見所があり いい勉強になりました。 見残したところもありますが 満足しています。
13日(火)は 本年度 最後の 「歴史教室」 ”郷土史フォーラム” へ 行ってきます。
  。。。。。。。。。。                             。。。。。。。。。。。。 

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4 コメント

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圓尾家のお墓 (ごさんべえ)
2014-11-13 09:09:15
はじめまして。
http://gos.but.jp/hogino.htm
のウェッブサイトを書いているのですが、上から3つめの系図に、
迪子 圓尾國武妻
となっています。書類に、
次女ノ行先  兵庫縣網干町               圓尾作
         実弟は前横浜正銀行頭取貴族院議員小野光景氏ノ許ニ入夫
とあるので、網干の圓尾家はどんな家かと興味を持ち検索エンジンを操作してこのページを見つけました。
網干まちあるきパンフレットの中圓尾家のお墓はどの辺りにあるのかご存知でしょうか?
返信する
中圓尾家のお墓 (YS11)
2014-11-13 10:28:20
こんにちは。 はじめまして。
コメント ありがとうございます。
申し訳ありません。
私は 中圓尾家のお墓がどこにあるのか知りません。
コメントにある 中圓尾家と 圓尾國武家は 同じ家なのでしょうか?
もし 中圓尾家のお墓の場所を 知りたいのなら
中圓尾家の場所は 分かりますので 調べることはできると思います。
中圓尾家は 一番上の地図のほぼ中央にあります。
網干地区の電話帳を見ると
中圓尾の電話は 2軒、 圓尾の名前は 5件あります。

これは 極秘事項で 誰にも言えないのですが
離婚した妻の実家は 圓尾でした・・・。
返信する
株家 (ごさんべえ)
2014-11-13 11:07:33
さっそくありがとうございました。
中圓尾家=圓尾作國武の家
かどうかも判らないのですが、まちあるきパンフレットに紹介される家屋なら、かつての富豪の館ではないかと思いました。
「中」というからには、他にも株家がいくつかあるのでしょう。
付近で聞けば教えてもらえるようですね。
返信する
中圓尾家 (YS11)
2014-11-13 15:52:52
網干の町は 古くから栄えたところで
漁師が 祭の日に 漁を休んで 網を干す ところから
網干という地名になったそうです。
このページの中圓尾家の古民家の横に 網干神社の
写真があり そこの石柱に 総代・中圓尾・・とあるので
江戸時代には 回船問屋の富豪だったのでは ないかと・・・。
ただし 圓尾家と 中圓尾家は 違うのではないかとおもいます。
返信する

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