私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

ひょうご 官兵衛を訪ねて

2014-12-25 20:32:55 | 歴史探索
 12月25日(木)  天気:晴れ   室温:15.6℃

 今年の予定は なにもなく きょういく 所もありません。 年が明けるまで 家で コタツで
丸くなって テレビでも見るしかありません。
 きょうも テレビを見ていると 3:15 から NHKで ”兵庫特集” の再放送があり ”ひょうご
官兵衛を訪ねて 総集編 ゆかりの地を歩く” が 放送され 廣峯神社、御着城、志方城、青
山古戦場、英賀城、上月城、三木城、有岡城、篠の丸城、ドラマ館、姫路城、国府山城、志
知城(南あわじ市) が 紹介されました。 いっぺんに 13もの箇所を 紹介されても・・・・。
 大部分は これまでに 訪れ このページで 紹介済みですが・・。


1.廣峯神社
 備中の福岡に住んでいた黒田家は 官兵衛の祖父の時 姫路に来て 廣峯神社の近くに住みました。
 ここには 御師といわれる人が住んでいて 神社の神符(おふだ)を 売り歩いていました。
 黒田家秘伝の目薬を一緒に売ることで 財をなし 小寺家の家臣に迎えられ 姫路城を任されます。
 官兵衛は 姫路城で生まれたといわれています。 また 御師から いろいろと情報を収集していた・・。


2.御着城
 御着城は 官兵衛の主君・小寺氏の本城です。 御着城が 本店なら 姫路城は 支店です。
 なぜか ここに 官兵衛のおじいさんと お母さんの墓(五輪塔)があります。
 お父さんの墓だけ 離れた妻鹿にあるのは?  ここには 官兵衛の顕彰碑もあります。

3.志方城
 官兵衛の妻・照姫は 志方城の城主・櫛橋家の娘です。 本丸跡は 今は 観音寺になっていますが
 ここに 櫛橋家の家系図があり 照(光)姫の名も 位牌もあります。


4.青山古戦場
 青山古戦場は 官兵衛が初陣を飾った場所で 姫路城を攻めようと 龍野城の赤松氏が攻めてきたとき
 夢前川を挟んで 東の土器山に 官兵衛が 陣を置きます。 ここからは 今でも 西が見通せます。
 多勢の赤松軍に 一旦退却し 敵が油断している夜に 夜襲をかけ 赤松軍を撃退します。
 今は 青山ゴルフクラブになっていますが 千石池には 今でも骨が埋まっているので 戦国池とも。


5.英賀城
 英賀城は 伊予・河野氏一族が 応永のころ 讃岐から播磨に来て 嘉吉の乱後 英賀に築城。
 天正八年 秀吉の攻撃により 落城。 落城時の城主は 三木通秋。
 天正四年 毛利の大軍が 田井ヶ浜に押し寄せた際 官兵衛は 少数の兵で これを 撃退した。
 今は 中浜町に 本丸跡碑、英賀神社と 英賀薬師に 土塁が 残るのみ。 昔は 明蓮寺、英賀神社、
 中浜町周辺の英賀三ヶ村の 「寺内町」 を 守るように 連なっていたそうです。



6.上月城
 織田・毛利の二大勢力に挟まれて 半年間に二度も 落城した悲劇の城。 まず 天正5年には
 毛利方の城主・赤松政範が 秀吉の軍勢に敗れて 自害。 城は 尼子勝久と家臣の山中鹿之介に
 預けられたが 翌年 今度は 毛利の軍勢に包囲され 落城。 信長は 援軍を送らず・・。
 本丸跡には 赤松政範の供養塔が立つ。 麓には 尼子勝久に仕えた 山中鹿之介の碑があります。


7.三木城
 信長に反旗を翻した別所長治が 播磨の諸将とともに戦った城。 「三木の干殺し」 と呼ばれる
 兵糧攻めで 落城。 長治は 一族の命と引き換えに 自害。 本丸跡に 辞世の句の碑がある。
   ”今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身と思へば”
 三木城の北東の平井山に 秀吉の陣があり 近くに 竹中半兵衛の墓があります。 半兵衛は
 武将なので 戦地で死にたいと 病を押して 三木攻めに参加し 病死・・。


8.有岡城
 三木合戦のさなか 有岡城主・荒木村重が 信長に背いて 籠城。 村重の説得に向かった官兵衛は
 捕えられ 土牢に幽閉され 1年後 有岡城が落城し 救出されます。 城下町の周囲を堀と土塁で
 囲む 惣構えの城だったが 明治時代に 城郭の大部分が 削られた。 当時の石垣が 史跡公園の
 奥に わずかに残っている。


9.篠の丸城
 三木城を攻め落とした秀吉が 続いて攻め落とした城。 官兵衛も参加し その功績により
 揖東郡など 1万石を与えられ 大名となり 篠の丸城を 居城とした。 二の郭、三の郭、
 空堀や 土塁などの遺構が残っている。


10.ドラマ館
 姫路城の南の家老屋敷跡公園にあり 大河ドラマ・軍師官兵衛をテーマに 姫路城のジオラマや
 撮影に使われた衣装・小道具などが 展示されています。

11.姫路城
 今の姫路城は 関ヶ原の合戦後 池田輝政が 姫路に来て 6年の歳月をかけて 完成しました。
 秀吉の時代は 3層の天守でしたが 5層6階の白亜の大天守に改造。 内濠、中濠、外濠や
 城の北にあった西国街道を南に移し 城門なども整備されました。



12.国府山城
 標高102mの甲山にあり 妻鹿城・功山城とも言われる。
 天正8年 官兵衛が 秀吉に譲って 国府山城に 移り住んだといわれる。
 頂上から 瀬戸内海、姫路城、広峰、書写の山々が見え 姫路城の防禦には 絶好の位置にある。


13.志知城(南あわじ市)
 天正11年(1583)羽柴秀吉による淡路攻めで、岩屋城・由良城に続き志知城も落城した。
 その後 官兵衛が 志知城に在城し 阿波の長宗我部氏に備えた。 天正13年 秀吉は
 洲本城に脇坂安治、志知城に加藤嘉明を配して治めた。 その後 嘉明が 伊予正木に移封と
 なると 志知城は秀吉の直轄地となったが 代官の三好・石川氏が 河口の叶堂に 新しい城を
 築いたため そ れに伴い 志知城は 廃城となった。
 中堀が 本丸跡を取り囲むように残っている。 中堀の外には 外堀の遺構が一部残っている。
 城跡の南に 野口氏の菩提寺の声明寺があり 本堂内に 当時の城の絵図(復元)が掲げられている。



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