私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

龍野歴史文化資料館で 脇坂安董と朝鮮通信使

2018-03-15 14:50:19 | 歴史探索
 3月15日(木)   天気;晴れ+薄雲   室温;23.4℃

 きょうは 龍野歴史文化資料館へ 「世界の記憶」 登録記念企画展 ”脇坂安董(やす
ただ)と 朝鮮通信使 ~易地聘礼(へいれい) 最後の通信使~” を見に行きました。
 火曜日に 室津海駅館へ 特別展 「播磨の朝鮮通信使」 を見に行きましたが 共同展示
で 両方へ行き スタンプを押すと 記念品がもらえます。 もらわない方がいい? 
 25日まで 龍野では ”第12回 龍野ひなまつり” (主催:龍野文化伝承会) をして
いて 町中の何カ所かで ひな人形などを展示しています。 ここ歴史文化資料館でも ”ミ
ニひいな展” をしています。
 朝鮮通信使の展示を見た後 龍野城や きのうの新聞に載っていた ヒガシマル梅園へ 梅を
見に行きますが  これは 別のページにします。

    ごあいさつ
 今秋に 開館30年を迎える当館は 毎年 人形や玩具を紹介する展示会を開催してきま
した。 なかでも 3年に一度の 「ひいな展」 及び その間に 開催する 「ミニひいな展」
は 春の訪れを告げる恒例の展示会として 多くの方々に 親しまれています。
 「人形の国」 日本と称されるほど 多種多様な人形がある我が国において 上巳の節句
(桃の節句) で飾られる人形には 我が子の健やかな成長を願う 心が込められています。





 日本で 文禄・慶長の役と呼ばれる戦いは 日朝両国の外交断絶という 大きな影響を与え
ました。
 江戸時代になり 慶長12年1607)に 通信使が 訪日し 徳川政権下で 国交が回復
されました。 初期の段階では 「回礼兼刷還使」 でしたが その後は 徳川将軍襲職の
慶賀使として 来日しました。 結果的に 最後となった 12回目は 徳川11代将軍 家斉
襲職(天明7年・1787)に対する慶賀でしたが 経費節減を目的に 対馬での易地聘礼
とした 幕府の方針と 朝鮮側との交渉が 難航し 文化8年(1811)の実現となりました。

 幕府の副使を任じられたのが 龍野藩 脇坂家の 「中興の祖」 脇坂安董です。 安董は
寛政2年(1790) 幕府の要職・奏者番に就き 翌年には 寺社奉行を兼ね その後 二
度目の寺社奉行から 天保7年(1836)には 老中となった。 外様大名としては 異
例の藩主です。

 本展では 今年が 生誕250年にあたる安治の資料を中心に 脇坂家の始祖である安治が
秀吉の水軍として 従軍した資料など 脇坂家と朝鮮通信使の関連資料を紹介します。
 文禄・慶長の役の終息から 420年が経過した今 この度の 「世界の記憶」 登録を契機
に 善隣外交の象徴である朝鮮通信使の歴史の一端に触れていただければ 幸いです。」

 脇坂 安董(やすただ) は、江戸時代中期から後期にかけての大名・寺社奉行・老中。
 龍野藩8代藩主。 龍野藩・脇坂家10代。
 明和4年(1767) 7代藩主・脇坂安親の次男として 誕生。
 兄・安教が 早世したため 嫡子となる。
 天明4年(1784年) 父の隠居により 家督を相続した。

 龍野藩 脇坂家
 脇坂安政1672-1684 ー 脇坂安照1684-1709 ー 脇坂安清1709-1722 ー 脇坂安興1722-1747 ー
 脇坂安弘1747-1757 ー 脇坂安実1757-1759 ー 脇坂安親1759-1784 ー 脇坂安董1784-1841 ー
 脇坂安宅1841-1862 ー 脇坂安斐1862-1871 ー 廃藩置県




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