私の日帰り散策

写真でつづる山歩き、ドライブなどの日誌です。
最近は ギャラリー巡りをしています。

宮本武蔵ゆかりの地めぐり 佐用町平福

2020-03-02 17:39:45 | 歴史探索
 3月 3日(火)   天気:晴れ・曇り のち 晴   室温:20.7℃

 きょうは 宮本武蔵ゆかりの地めぐり 第3弾として 佐用町平福を訪れました。
宮本武蔵は、8歳のころ 宿場町平福の田住家に出入りし、正連庵・道林坊の訓育を受けたと
され、13歳のとき、新当流・有馬喜兵衛と 金倉川原で 最初の決闘をしたと言われています。
 道の駅に置いてあった 観光案内マップを参考に 道の駅から 反時計回りに 町を一周して、
道の駅に戻り 昼食後、町の北東約2.5kmにある 吾勝速日神社(正蓮庵)へ 寄りました。
 
 まず 国道179号線・上町交差点(国道373号線分岐点)の北約1kmの佐用町本位田甲に
ある都比売神社へ行きます。 ここは 武蔵が 最初の決闘後、諸国修業の旅に出るとき、武運祈
願をしたといわれる神社です。  御祭神は 市杵島姫命 またの名を 狭依毘売命
※佐用都比売(つひめ)神社のページには ”宮本武蔵(1584年~1645年)が 諸国修行に出かける
時、当社に 木刀二振りを捧げ、17日間参籠して その武運を祈願して出立した。” とあります。
 「播磨国風土記」 によると 出雲の国から来た 大神と 妹姫が 作用の涼誘致を 争ったとき、妹玉
津日女命は、生きた鹿の腹をさいて、その血に稲をまいたところ、一夜で苗が生えたので それを植
え付けた。 大神は 「汝妹は 五月夜に 植え付けるかも」 と言い、去っていった。  讃容(さよ)
の地名は、これから付けられたと 説明しており、女神を 賛用都比売命と名付けたと伝えられる。




 道の駅宿場町ひらふくにある 「因幡街道 宿場町平福」 の説明板 ”武蔵最初の決闘地” には
 武蔵は、天正12年(1584)、父・田原無二斎、母・於政の間に 生まれたが、間もなく 生母
と死別、無二斎は 利神城主・別所林治(しげはる)の娘・率子(よしこ)を 後妻に迎える。
 この義母に育てられた武蔵は、7歳のとき 父と死別、母率子は、平福に帰り、田住政久の後妻とな
る。 幼少の武蔵は、母恋しさのあまり、しばしば義母の居る平福を訪ねる。
 7歳のころ、正蓮庵の僧・道林坊に あずけられ、その証育を受ける。 道林坊の弟・長九郎により
剣を習うや、その力は 著しく伸長する。 武蔵13歳のとき、運命的な初決闘が ここ平福の町外れ
金倉橋のたもとで行われる。 新生流の達人・有田喜兵衛なる兵法者の、決闘を誘う挑発的な高札に
応じ 木刀で対峙するや、一刀のもとに 喜兵衛を打ち倒し、いずこともなく 旅立っていくことになる。
 出奔の一説には、佐用郡一の古社・作用比賣神社に 参篭、武運を祈願の後、諸国修業に 旅立った
とされる。 爾来、生涯60数回に及ぶ決闘に、不敗の剣豪として 名を成していくことになる。

 利神城跡(雲突城)は、赤松一族から 最北端の防備の任をうけた別所敦範により 貞和5年(1349)
に築城。 その後、別所一族が 約200年間 この地を治めるが 天正6年81578) 秀吉の 中国
攻めにからみ 山中鹿之助に攻められ 落城。
 関ヶ原の戦いの後、播磨52万石の領主・池田輝政の甥・池田出羽守由之が 平福2万3千石の領主と
なり、五年の歳月をかけて、標高373mの利神山上に 三層の楼閣を備えた 広壮な城郭を築いた。・・・


 陣屋門・代官屋敷跡:江戸時代、小藩の城や代官所を 陣屋と呼びました。 平福は 利神城廃城後、
松平氏5千石の旗本領で 代官屋敷となりました。 今の陣屋門は 元治元年(1864)に 代官・
佐々木平八郎が 建築しました。

 天満神社は 平安前期に 学者・政治家として活躍し、今は 学問の神として有名な 菅原道真が 祀
られています。 毎年6月中旬に 夏祭り、10月中旬に 秋祭りが行われます。

 宮本武蔵初決闘の場:慶長元年(1596)、武蔵13歳のとき、新当流・有馬喜兵衛の 「何人
たりとも 望み次第 手合わせいたすべし、われこそ 日下無双兵法者なり」 という高札を見て 初めての
決闘を挑み、一刀のもと 倒したといわれています。    五輪書序文の一節の碑があり
   「吾若年のむかしより 兵法の道に心をかけ 十三才にして 初めて 勝負す、
         その相手 新当流の有馬喜兵衛と云う兵法者に 打ち勝ち・・・」

 六地蔵・刑場跡:金倉橋の西側は、江戸時代の平福藩刑場と伝えられます。 元禄9年(1696)
に 供養のため 建てられたという六地蔵と 「南無阿弥陀仏」 の念仏碑があります。
 金倉橋は、因幡街道にかかる橋で、大名行列や 行商人、伊勢参り、物資の運搬などでにぎわった。

 川端風景:平福は、慶長年間に 城下町として現在の街並が形成されました。 その後、経済的・
文化的な繁栄に伴い、因幡街道有数の宿場町として 生まれ変わりました。 佐用川沿いの石垣に
並ぶ 川座敷、土蔵群は 平福ならではの景観として とくに有名です。 天神橋のたもとに 「ひょ
うごの景観ビューポイント150選」のプレートがあります。

 瓜生原家は 享保年間に 津山から移り住み、代々 「吹屋」 という屋号で 昭和の初めころまで
鋳物業を営んでいました。 家屋は 切妻越しの屋根をはじめ、大屋根の煙出し軒下の日除け目隠し、
潜り戸、出棺口、格子など 町屋の特色をそなえています。

 鳥取・池田藩の本陣跡は、加古郡神吉城の落城により 神吉頼定の子、宗臣が 再興を願って
平福に来ました。 関ヶ原の戦いに 参加して、帰国後、ここを本陣として 大年寄になりました。 
 現在は 素戔嗚神社の御旅所になっています。

 金刀比羅神社のご祭神は 素戔嗚尊、崇徳天皇。 ”金刀比羅” は ガンジス川のワニが 神格化された
守護神で、十二神将のうちの宮毘羅(くびら)にあたります。 室町時代以降は 海上の安全を守る
神、雨乞いの神とされ、農業関係者にも信仰されました。

 京橋を渡って 智頭線の平福駅へ行き 電車を撮ろうと思いますが、時刻表を見ると しばらく
電車は来ない・・。 駅前にある庭石は この付近にあった御殿屋敷跡を 発掘したときでてきた
庭石だそうです。 元和元年 平福藩が成立し、このため居館は 御殿屋敷、また 平福城ともいい、
南北を石塁で塞いだ 城郭遺構が残っています。 H24年 一部が 発掘調査され、埋もれていた
石塁と堀が 検出されました。

 暁光山光勝寺は 真宗本派本願寺末のお寺で 田住村扇ヶ鼻の地にあった天台宗・紫雲山 福専寺
という寺院を この地に遷したものです。 後に 京都龍谷山本願寺の末寺として 光勝寺と改めました。
 この寺の門は、利神城にあったものと伝えられています。

 旧田住邸:田住家は、代々大庄屋を務め、18世紀には 旗本松平氏の代官として 陣屋での政務を
任されていました。 そのため 約1万5千点にも及ぶ膨大で貴重な試料が 「田住家文書」 として
残されており、現在は 県立博物館に 委託されています。 また この屋敷は、本陣神吉氏の別邸で、
元禄期に作られたと思われる池泉鑑賞式庭園が 今も残っています。
 また、田住政久の後妻よし子は 宮本武蔵の義母にあたります。 天正12年(1584) 父・無
二斎が 利神城主・別所林治の娘よし子を 後妻に迎え、武蔵は この義母に育てられましたが、7歳の
とき ちちが死去し、義母は 平福へ帰り 田住政久の後妻になりました。 義母を追って 平福に来た
武蔵は 正連庵の道林坊のもとで 武芸を学んだと いわれています。

 宝鏡山教岸寺は 真宗大谷派で、寛文5年(1665) 創建。 現在の堂宇は 正徳5年(1715)
完成。 阿弥陀堂形の様式美を保っています。

 因幡街道沿いに 飾られているお雛様を愛でながら 北へ進みます。

 平福郷土館・牢屋敷跡へ行きましたが ここは 扉が閉まっていて 中へ入ることはできません。
江戸時代の町屋の代表的な建築様式を再興したものです。 大屋根の煙出し、くぐり戸のついて吊り
上げ戸などの特徴があり、館内には 商屋の商い用具や 民具類、利神城ゆかりの品などを 展示?

 国道沿いにある栄妙山了清寺は、日蓮宗本圀寺末で、享保16年(1733)、福原城にあった
了清寺を 再興したものです。>ご本尊のほかに、鬼子母尊神、北辰妙見大菩薩、清正公大尊儀を
お祀りし、享保19年には 宝鏡寺宮の祈願所になりました。

 鷲栖山霊山院正覚寺(浄土宗)は、インドの帰化僧・法道仙人が 庵村の山に 鷲栖山戸名付け 住み
後に 行基菩薩が 巡行し 庵を結びました。 永禄10年(1567)、平福に遷し、寺号を 正覚寺と
改めました。それから 代々の領主の菩提寺となりました。 江戸時代後期から 地蔵菩薩を祀り、子
授け・子育てのお寺として 崇められています。


 道の駅へ戻って レストランで 昼食。 冬季限定メニューの鍋焼きうどん(1380円)
車に戻り 最後の訪問地・正連庵へ行きます。

 県道443号線を 約2.5km。 吾勝速日神社
もあります。 吾勝速日神社は 吾勝速日命が祀られています。 大正12年に 素戔嗚神社から分離
創立されました。 となりの正蓮庵は、浄土宗正覚寺の奥の院ともいえる 阿弥陀如来を本尊とした
由緒ある庵です。 文禄 慶長時代に 道林坊の僧名を持つ人物がいました。 幼くして父母と死別し
た宮本武蔵は、この道林坊のもとで 起居し、正蓮庵にぬかずいて経を読み、書を習い、近くの行者
山に登って修練したといわれています。 ここでの経験が 武蔵の人生に大きな影響を与えたのでしょう。



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